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3.綺麗

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病院の中庭に立って、色の変わりはじめた空を見上げた。
夕食のあと、散歩がてらにリハビリしてみようと担当医に誘われた。

「あれは、何?」と聞かれ、医師の指差した天を見上げたのだ。
そら、と頭の中で確認するように復唱してみる。
「そら」
今度は声に出して、言ってみた。

那智は視線を移して、目に映る物の名前を心の中で言ってみる。
木、土、鳥、花。
すべての物に名前があるということはわかった。
けれどそれがどんな意味をもつ物なのかはわからない。
誰もが自然にわかっていることが、自分だけ理解出来ないことを、那智は気づいていた。

「そう、よく覚えたね。けど、ただ物の名前を覚えるだけじゃダメなんだよ。君はそれがどんなものなのか、本当は知っている。だからこんなに簡単に物の名前を覚えられるし、僕の言うことも理解出来るんだ。君は知っている。知っていることを自分の中から引き出す方法を失っているだけなんだよ」

記憶、という言葉が那智には引っかかる。
みんなが自分にそれを期待している。
自分の中にあるという「記憶」。
それがどんなものなのか、那智にはわからない。

苦しくて医師を縋るように見つめる那智に、大丈夫と言うように微笑みながら医師は言葉を続ける。
「ほら、見てごらん。あの木、桜っていうんだよ。調度満開だね。毎年春が来るとこうして小さな花をたくさん咲かせるんだ。ごく短い間しか見ることが出来ないんだよ。君はこの桜を見て、どう思う?」
「…さくら、見て?」
「そう。綺麗だって、思わないか?」
「きれい?」
「綺麗だよ。綺麗っていうのは、物の名前じゃなくて、目で見て心に感じるものなんだ。あの赤く染まった夕焼けの空も、僕にはちょっと切なくなるくらい綺麗だなって感じるよ。那智くんは、綺麗って聞いてなにを思う?」
「きれい…?」

小さな薄桃色の花びらがひらひらと舞い落ちるのを目で追って、那智は心の中で「きれい」と繰り返した。
青と紺色と橙色が滲みあい、瞬間に色を変えていく空も「きれい」。
心はここにあるんだと、圭太に教えられた場所に手を当てる。
あの花は、この空は、ここが痛いような、けれど暖かくて心地よい感じがする。

那智に「懐かしい」という感慨は理解できなかったが、那智の心は確かに、懐かしいと感じていた。
あの空のように、あの桜のように、きれいなもの。
懐かしいもの。

「………拓人?」
「樫野くん?確かに彼は綺麗だけどね」
若い医師は少し驚いて、穏やかに笑った。

「大丈夫、那智くん。君は治るよ」
さあ、もう一度目に見えるものの名前を言ってごらん、と促されて那智はまた空を見上げる。

空、夕焼け、きれい。
拓人。
毎日会いに来てくれる優しくて「きれい」な人。
けれど、時々強い光を宿したような目で見つめられると落ち着かない気持になった。
自分が彼に酷いことをしているような。
失った記憶の中で、彼はどんな存在なのだろう。

思い出したい。
記憶を、取り戻したい。
拓人も自分にそれを望んでいるに違いない。

両腕で自分の身体を抱くようにして、春風の中、佇む那智は一人で静かに戦っていた。



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