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十五話
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料金を払い、コインパーキングに停めた車の前で、淳也に向き直り、不自然な微笑みを浮かべて言った。
「今日はありがと」
淳也は、真面目な顔で、私から視線を反らし、小さく頷いた。
その姿に、溜め息をついて、淳也の手から、服が入ったショップ袋を奪うようにして受け取った。
「それじゃね」
淳也に背を向け、運転席のドアを開けようと、腕を伸ばすと、後ろから淳也の腕が伸び、車の窓ガラスに手を着いた。
驚いた私が、咄嗟に、振り返ると、淳也の唇が押し付けられた。
目を見開き、目を閉じた淳也をただ見つめていた。
唇が離れ、視界から淳也の横顔が消え、今起きた出来事に、ボーッとして、車の窓ガラスを見つめた。
背中に、淳也のオデコが、触れる感覚に体を強張らせた。
「諦めないから」
絞り出すような淳也の呟きに、私は、ただ体を強張らせ、立ち尽くすしか出来なかった。
窓ガラスに着いていた淳也の手が、視界から消え、私は、ゆっくり、顔を横に向けた。
横目で見ると、淳也は、背中を向けて、歩き出していた。
その背中は、とても大きいのに、弱々しく見える。
「ごめんなさい」
そう呟き、車のドアを開け、運転席に乗り込むと、すぐに車を発進させた。
とにかく、逃げたかった。
その場に罪悪感や後悔、自分の無力さ、未熟さ、全て、置き去りにして、逃げてしまいたかった。
だが、その全ては、ずっと私を追ってきて支配する。
不意に、山崎さんに触れたいと思い、私は、逃げるように自宅に向かった。
自宅に着き、駐車場に車を停めると、すぐに玄関に向かい、鍵穴に鍵を差し込み回した。
ガチャンと、鍵が開く音と共に、中に入り、洗面所や浴室、和室や寝室まで、ドアを開けて回り、最後に、リビングのドアを開け放った。
山崎さんの姿は、どこにもなかった。
私は、泣きたい気持ちを抑え込んで、ソファーに座り、山崎さんが現れるのを待った。
会いたい、触れたい、話したい、甘えたい、その思いだけで、ただ、山崎さんを待っていた時、自宅の電話が鳴り響いた。
億劫な気持ちで、ソファーから立ち上がり、玄関先で鳴っている電話に近付き、受話器を持ち上げ、耳に、そっと押し当てた。
「…はい」
『弘瀬です』
顔を歪め、溜め息をつきそうになるのを押し戻し、唇に力を入れ、ギュッと一文字に結ぶと、弘瀬さんは、続けて言った。
『マコトさんですか?』
震えそうになる声を耐え、私は、固く閉ざしていた唇を動かした。
「はい」
『よかった』
安心したような声を漏らす弘瀬には、悪いが、私の中には、もう山崎さんのことしかなかった。
自宅電話の番号だけでも、教えておけばよかった。
違う。
山崎さんが、携帯を持ってるのを知った時、聞いておけばよかった。
『…それで…』
そのまま、仕事に行っちゃうのか。
『…なんですけど…』
少しでも、帰って来ないかな。
『…マコトさん?』
「え?」
ボーッと、山崎さんの事を考えていたら、弘瀬さんは、何かを話してたらしく、全く聞いていなかった。
「すみません…聞いてませんでした」
その小さな声が、心配をかけてしまったようで、弘瀬さんは、私を気遣うように言った。
『何かあったんですか?』
淳也とキスしたのを思い出し、山崎さんのことを考え、私は、弘瀬さんに小さな声で、呟くように言った。
「ごめんなさい…私…」
同棲してる人がいるんです。
そう言いたいのに、喉が貼り付いたように、声が出てこない。
次の言葉を待っているように、黙っていたが、何も言えない私に、弘瀬さんは、静かに言った。
『今日、会えませんか?』
弘瀬さんに切り出され、正直、驚きながら、迷っていた。
『大切な事は、ちゃんと会って聞きたいです。だから会えませんか?』
「…分かりました」
『ありがとう』
急に言葉遣いを崩し、さっきよりも低い弘瀬さんの声に、一瞬、私の心臓がドキンと跳ねた。
『それで、時間と場所なんですけど』
「え?…あ。はい」
クスクスと笑う弘瀬さんの声が、電話越しに聞こえ、私の頬が、赤くなるのが分かった。
『八時に日和台駅前でいいですか?』
「はい。分かりました」
『それでは』
電話を切り、時間を確認してから、リビングに行き、起きっぱなしのショップ袋を待った。
寝室に向かい、布団の上にショップ袋を投げて、リビングに戻り、キッチンに入った。
換気扇を回し、タバコを吸いながら、携帯を開き、山崎さんを撮った写真データを呼び出した。
驚きながらも、ちゃんと視線を向けてる山崎さんの写真に、私は、少しだけ、気持ちが楽になった。
時計を見て、もしかしたら、途中で会えるかなと思い、ゆっくり、歩いて行くことにした。
タバコを灰皿で揉み消し、そのままの服装で自宅を出た。
最初は、駅に向かって、顔を上げて歩いていたが、駅が近付くにつれ、視線が下がり、いつの間にか、下を向いて歩いていた。
券売機で切符を買い、そのまま、周りを見渡してみたが、山崎さんらしき姿はなかった。
視線を落として、改札を抜け、電車に乗り、隣の駅で下りて、駅の外に出て、壁に寄り掛かっていた。
「マコトさん」
うつ向いていた私の視界に高そうな革靴が入り、頭上から聞こえた声に、顔を上げると、優しく微笑んだ弘瀬さんが、立っていた。
「すみません。無理言って」
「いえ」
「立ち話もなんですから、どこかで食事でもしながら、話しましょうか」
「はい」
弘瀬さんについて行こうとした私の視界に、山崎さんらしき人の背中が、一瞬だけ入った。
立ち止まり、人混みの中を探した。
キョロキョロと、人混みを見る私を見つめる弘瀬さんは、哀しそうでありながら、どこか安心してるようだった。
結局、その一瞬だけで、山崎さんらしき人の影は、見えなかった。
肩を落とし、弘瀬さんに向き直り、頭を下げてから、少し後ろを歩いた。
弘瀬さんと駅前の古風な喫茶店に入り、席に座っても、ずっと、私の頭の中には、さっきの山崎さんらしき人の背中が離れなかった。
「何か食べますか?」
メニューを広げながら、弘瀬さんに聞かれ、黙ったまま、首を振った。
弘瀬さんは、カウンターの中で、コーヒーカップを拭いている白髪の男性を見て言った。
「コーヒー二つ。お願いします。」
「かしこまりました」
白髪の男性は、優しく微笑むと、拭いていたコーヒーカップを仕舞い、新しくコーヒーカップとソーサーを取り出した。
ミルでコーヒー豆を挽く音が、ゴリゴリと響き、コーヒーの香りが、喫茶店を満たした。
「どうぞ」
コーヒーの香りが、私を包み、今、私が一人であると錯覚を起こし、目を閉じた。
ゆっくり、香りを吸い込み、カップを持ち上げ、口に着け、淹れたてのコーヒーを胃に流し込んだ。
「美味しいですか?」
ホッと息を吐き出し、肩から力が抜けると、向かいに座る弘瀬さんの存在を思い出した。
頬を赤くしながら、私は、テーブルに、視線を落とした。
「すみません」
「いいんですよ。それより、何か言いたい事があるんじゃないですか?」
言いたい事は沢山ある。
だが、言葉として出てこない。
うつ向く私を見つめ、弘瀬さんは、頬杖を着いた。
「誰か探してるんですか?」
私は、上目遣いで弘瀬さんを見上げ、すぐにテーブルに視線を落とし、小さく頷いた。
「それは、大切な人ですか?」
テーブルを見つめたまま、また頷いた私に、弘瀬さんは、納得したように、微笑み、頬杖を着いていた手を崩した。
背もたれに寄り掛かり、カップを持ち上げ、コーヒーを飲む。
「その人は、見付かりそうですか?」
「一緒に…住んでるんです」
カップを持ち上げたまま、口を半開きにして、驚く弘瀬さんを無視して、静かに言った。
「住んでるはずなんですけど、昨日から、顔を合わせてないんです」
弘瀬さんは、カップをソーサーの上に戻し、背もたれから背中を離して、座り直すと、真剣な顔をした。
「それは、すれ違ってる状態ですよね?」
本当は、弘瀬さんと食事をした後、山崎さんが帰って来てからのことを話してしまいたかった。
だが、どう話せばいいのか分からず、私は、目を閉じて、うつ向いて、何も言わずにいた。
そんな私の様子で、弘瀬さんは、直感的に、何かあったのだと思ったらしく、優しく微笑んで、優しい声色で言った。
「無理に話さなくてもいいんですよ。ただ、マコトさんが避けられてるのか、すれ違ってるのか、知りたいだけですから」
「…すみません…分かりません」
本当は、分かってた。
山崎さんは、私を避けている。
だから、ほとんど家にいない。
分かってはいるけれど、言いたくない。
言えない。
暫く、黙っていたが、先に話を切り出したのは、弘瀬さんだった。
「明明後日の日曜日。何か、予定はありますか?」
「いえ」
首を振りながら答えると、弘瀬さんは、優しく微笑んだ。
「少し出掛けませんか?」
「え?」
「気分転換だと思って下さい」
「でも…」
「誰にでも息抜きは必要ですよ?ほんの二時間くらいです」
私が迷っていると、弘瀬さんは、名刺とボールペンを取り出した。
裏に、何かを書いて、テーブルの上を滑らせ、私に差し出した。
「僕の携帯番号とメールアドレスです。一応、約束はしときます。都合が悪くなったら、ここに連絡して下さい」
名刺を手に取り、裏に書かれた番号とアドレスをじっと見つめた。
弘瀬さんは、残りのコーヒーを飲み干して、椅子から立ち上がった。
「それじゃ。日曜日に」
そう言って、古いレジが置かれたカウンターに向かって行こうとした。
「あ!!待っ…」
「コーヒーくらいおごりますよ」
弘瀬さんが、お財布を取り出して、レジの前に立つと、マスターが、レジに近付いた。
「三百七十八円です」
弘瀬さんは、五百円玉を出して、おつりを貰うと、小さく手を振り、喫茶店から出て行った。
頭を下げて、弘瀬さんを見送り、ドアが締まるのを確認し、私は、カップの中で揺れるコーヒーを見つめた。
一人になり、私は、携帯を取り出して、山崎さんの写真を見つめた。
どうすればいいのか、分からない。
会いたいのに会えない。
触れたいのに触れられない。
考えれば考える程、空しく、想いは募っていく。
久々だった。
父や祖母が亡くなってから、一つずつ想いを削り、一つずつ感情を捨てた。
だから、体も快感を失った。
いくら、男性を受け入れても、いくら、渇いた体を癒やそうとしても、上手くいかなかった。
だが、山崎さんは、削った想いも、捨てた感情も、全てを汲み上げて、渇いた私の体に返して癒した。
教えてよ。
こんな風になった後、どうすればいいか教えてよ。
「…会いたいよ…」
短い間、沢山、体を重ねて、楽しくて、充実した日々を過ごして、一緒に笑ったんだから教えてよ。
届きそうで届かない。
どうしたら、その手に触れられるのか、教えて。
「…教えてよ…」
いつの間にか、山崎さんが、写し出された画面に触れて呟いていた。
想いだけが先走り、思考が追いつかない。
涙目になり、視界が歪む。
そんな時、カップの隣に、小さなタマゴサンドが二つ置かれた小さな皿が置かれた。
皿を持つ手を伝い、マスターを見上げた。
「残り物ですが、どうぞ」
そう言って、ただ見上げている私に背を向け、カウンターに戻った。
小さなタマゴサンドを見つめ、携帯をテーブルに置き、一つ掴み上げ、一口かじった。
口の中に、優しいタマゴの味が広がり、気付けば、募った想いで、凝り固まっていた心が、解れて、溜まっていた涙が、頬を濡らしてた。
静かに涙を流しながら、小さなタマゴサンドをかじり、ゆっくりと流れる時間を味わった。
いつか、山崎さんと一緒に来たいな。
そう思いながら、小さな皿を空にし、コーヒーを飲み干して、マスターに頭を下げてから、喫茶店を出て駅に向かった。
自宅に着いたのは、前と変わらず、夜十二時の少し前だった。
和室を開け、山崎さんがいないのを確認してから、障子を締めた。
ショルダーバックを持ったまま、洗面所に向かい、ショルダーバックを入って、すぐ脇に置き、服を脱ぎ捨て、浴室に入り、熱いシャワーを浴びた。
化粧を落とし、髪のワックスを洗い流す。
スッキリして、浴室を出て、ジャージに着替え、ショルダーバックを持って、仕事部屋に行き、パソコンの電源を入れた。
点滅してるメールマークをクリックし、文子さんからのメールを開いた。
Dear .マコトちゃん。
お疲れ~。
次のテーマが決まったわよ。
テーマは、近未来系ファンタジーでお願い。
〆切は、五月十日よ。
それじゃ、よろしくねぇ~。
読み切りと〆切が、重なっていたが、なんとかなるかと思った。
Dear.文子さん。
お疲れ様です。
了解です。
短い返信を文子さんに送信し、コピー用紙を取り出し、あらすじや登場人物の詳細を書いていると、睡魔に襲われた。
その日は、そこまで、終らせてから、寝室に向かい、布団に入り、ゆっくり目を閉じた。
瞼の裏に、山崎さんの優しい微笑みを思い描きながら、夢の世界に落ちた。
窓から注ぐ太陽の眩しい光に、目を覚まし、布団から起き上がり、寝室から出て、目を擦りながら、廊下を歩いた。
和室の前で立ち止まり、障子に手を掛けたが、開けずに、リビングに向かった。
ドアを開けると、カウンターに乗っているラップの掛かった食器を見つめた。
溜め息をついてから、食器を仕舞おうと、冷蔵庫の隣のゴミ箱に、昨日の朝食が捨ててあるのを見付けた。
それが、なんだか辛くて、私は、食器のラップを外し、立ったままで朝食を食べた。
いつもの山崎さんの味なのに、美味しいとは思わなかった。
無理矢理、胃に朝食を押し込んで、食器を洗って、お湯を沸かした。
マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注いだ。
換気扇の下で、タバコに火を点け、白い煙を吐き出したが、すぐに揉み消した。
マグカップを持って、仕事部屋に向かい、パソコンの電源を入れて、読み切りの続きを書き始め、切りのいい所でやめた。
新しいフォルダを立ち上げ、コピー用紙に書いた詳細を元に新たな小説を書き始めた。
コーヒーを飲みながら、小説を書いていると、携帯が鳴り響き、携帯画面を確認すると、知らない番号だった。
少し迷ってから受話ボタンを押して、耳に押し当てた。
「はい」
『あ。突然、すみません。樋口です』
「あ~ ケイコさん?どうしました?」
『久々の休みだったので、お食事でもどうかと思いまして』
そう言われ、一瞬、携帯を離し、時間を確認すると、もう十二時を過ぎていた。
「いいですね」
『よかった』
緊張していた声が、そう呟き、柔らかくなり、圭子は、嬉しそうに続けて言った。
『それで、どうしましょうか?』
「じゃ、迎えに行くので、最寄り駅、教えて下さい」
『日和台駅です』
「なら、日和台駅に、一時頃で、どうですか?」
『分かりました。では、一時に駅で待ってます』
「はい。それじゃ」
『はい。失礼します』
終話ボタンを押して、携帯を切り、フォルダに小説を保存して、完了画面を確認した。
パソコンの電源を切って、寝室に向かい、ジーパンにYシャツに着替えて、仕事部屋に戻った。
お財布と携帯をポケットに押し込んで、キーケースを手に取り、駅に向かって、車を走らせた。
駅前のコインパーキングに車を停め、圭子を探した。
「金山さ~ん」
改札の前辺りをキョロキョロと見渡していると、人混みの中で手を振る圭子の姿が見えた。
私も、小さく手を振り返した。
「すみません。待ちましたか?」
「いいえ。私も、今来たとこですよ」
「よかったぁ~」
安心して、胸を撫で下ろす圭子を見て、クスクスと笑った。
「何食べますか?」
歩きながら、そう聞くと、圭子は、悩むような仕草をしてから、私に聞き返した。
「食べたい物はありますか?」
「なんでもいいですよ。ケイコさんは?」
「私も。どうしましょう」
歩いていると、目の前にファミレスが見え、圭子に視線を向け、ファミレスを指差した。
「ファミレスでいいですか?」
「そうですね」
二人でファミレスに入り、もう二時近くだったからか、すぐに窓側の席に案内され、二人でメニューを開いた。
「どれにしますか?」
「そうですねぇ…ペペロンチーノにします」
テーブルに置いてある呼び出しボタンを押すと、すぐに店員が来た。
「お待たせしました。お伺いします」
「ペペロンチーノを二つとドリンクバーも二つ」
「ペペロンチーノ二つとドリンクバーを二つで、よろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
一礼して、店員が去っていき、圭子は、立ち上がりながら、私に言った。
「何飲みますか?」
「コーヒーで」
圭子は、優しく微笑んで、ドリンクバーを取りに行き、私は、外に視線を向けた。
道を往来する人々の流れは、私を置き去りにしているような、錯覚を起こさせ、孤独感と嫌悪感が芽吹く。
携帯を耳に押し当て、何かを話しながら歩く人。
誰かを待つように、ガードレールに寄り掛かる人。
頬を赤くしながら、手を差し出す人。
その手を繋いで、照れ笑いする人。
哀しそうに、うつ向いて歩く人。
どんな人も、足早で、余裕なんてない。
そう感じる私だって、余裕なんてないのを知っている。
人を好きになるとは、こんなにも余裕がなくなるのを初めて知った。
そうして、グチャグチャと色んな事を考えていると、私の前にコーヒーが入ったカップが乗ったソーサーが置かれた。
視線を前に向けると、アイスコーヒーが入ったグラスが置かれた向こう側に、圭子が座った。
「ありがとうございます」
「いえ…あの。何かありましたか?」
「え?」
カップを持ち上げ、コーヒーを飲もうと、カップに口を着け、圭子を見つめ、カップを持ち上げたまま、動きを止めた。
そんな私をチラッと一瞬だけ見て、圭子は、テーブルに視線を落とした。
「なんか…孤独と言うか…落ち込んでるの…かなって」
小さな声で、そう言った圭子から、視線を反らし、カップに口を着け、目を閉じた。
コーヒーを飲んで、ソーサーにカップを置いて、静かに言った。
「圭子さんは、山崎さんをどれくらい知ってますか?」
「どれくらいって…」
「例えば、山崎さんが知らない男性と食事をしたら、怒られたとか、強引な、えっえっちされたとか」
視線を泳がせながら、呟くように聞くと、圭子は、首を傾げた。
「なかったですよ?」
「…へ?」
「ススムが怒ったのを見たこともないですし。えっちも、こっちから仕掛けないと、してくれなかったですよ?他人に関心がないと言うか、興味ないみたいでした」
「興味ないって…付き合ってるのに?」
「はい。こう…事務的?みたいな感じで」
「…嘘でしょ?」
「嘘じゃないです。そんな事に嘘つくはずないじゃないですか」
キョトンとして話す圭子の様子に、私は、オデコに手を当て、目元を隠した。
聞いてしまった事を後悔した。
「もしかして…そうゆう事ありました?」
目元を隠したまま、小さく頷くと、圭子は、驚いたように、目を見開いた。
だが、すぐに、安心したように、嬉しそうに優しく微笑んだ。
「そうなんですね…ススムが言ってたのは、本当だった」
「言ってのって?」
オデコから手をはずし、首を傾げると、圭子は、クスクスと笑った。
「実は…」
「お待たせしました。ペペロンチーノです」
圭子さんが何か言おうとすると、店員がペペロンチーノを私と圭子さんの前に置いて、伝票を置いて、去って行った。
「食べましょうか」
「はい」
フォークにペペロンチーノを巻き付け、口に入れ、互いの顔を見て、クスクスと笑った。
仕事の話や最近の出来事など、お喋りをしながら、ゆっくり食べていて、いつの間にか、圭子の職場での愚痴や悩みを黙って聞いていた。
「そう言えば、さっきの続きなんですけど」
皿を空にして、ゆっくりコーヒーを飲んでいると、圭子が、そう言って、私は、首を傾げた。
「さっき?」
「ススムの話ですよ。実は、いつも無表情だったススムが、顔を真っ赤にして、言ったんです。本気なんですって」
私は、頬が熱くなった。
『本気なんです』
その言葉が本当なら、私と山崎さんは両想いになる。
嬉しい反面、気恥ずかしい。
「ススムが、あんな顔するなんて、初めて知りましたよ。そう思うと、金山さんと初めて会った時、楽しそうに微笑んでたススムも、初めてでした。ススムって、あんな風に笑うんだなって。それに…」
それ以上、圭子の話が全く、頭に入らなかった。
私は、圭子の知らなかった山崎さんを知ってる。
真っ赤になった顔も。
驚いた顔も。
哀しそうな顔も。
淋しそうな顔も。
笑った顔も。
他の誰も知らない山崎さんを私は、沢山、知っているんだ。
そう思うと、嬉しかった。
「それだけ、ススムにとって、金山さんは、特別なんですね」
「…そうですね」
特別の響きが、私の頬を緩め、自然と、圭子に、優しく微笑んだ。
それから暫く、くだらない世間話をしてから、ファミレスを出て、圭子さんと別れた。
車を走らせ、あの池に向かった。
車から降りて、蓮の葉が青々と浮かぶ、池を見つめた。
この景色を昼間に、一人で、見るのは、本当に久々だった。
この間は、隣に山崎さんがいた。
だから、淋しくなかった。
だが、今は、一人で隣に誰もいない。
正直淋しい。
私の中で、それだけ、山崎さんと一緒にいた時間が、大きくて今まで、一人でいれたのが、嘘みたいに感じる。
会いたい。
話したい。
触れたい。
泣きそうになりながらも、目を閉じ、背伸びをして、大きく息を吸い込み、一気に吐き出し、眼前に広がる景色を眺めた。
「よし」
気持ちを切り替えるように、そう呟き、車に乗り込み、自宅に向かって車を走らせた。
自宅の駐車場に車を止め、仕事部屋に向かい、パソコンの電源を入れた。
二つの作品を同時進行で始め、山崎さんが、帰って来るのを待った。
仕事に没頭していると、夕日が部屋を満たし、気付けば、携帯の時計は、夕方の五時を少し過ぎていた。
今日も帰って来なかった。
少し落ち込みながら、私は、リビングに向かい、キッチンに入って、コーヒーを淹れた。
マグカップを持って、仕事部屋に戻り、電気を点けて、仕事を再開する。
マグカップの中身が空になり、何気なく、携帯の時計を見ると、夜の十時になっていた。
区切りのいい所まで書いてから、洗面所に向かい、ジーパンとYシャツを洗濯カゴに投げ、下着類は、洗濯ネットに入れて、カゴに入れると、浴室のドアを開けた。
シャワーを浴びて、髪や顔を洗い、浴室を出て、簡単に、体や髪を拭くと、下着とブラを着け、チェストから長袖のTシャツとステテコを着た。
仕事部屋からマグカップを持って、キッチンに向かい、コーヒーを淹れて、仕事部屋に戻り、また、仕事を再開した。
山崎さんが帰って来るのを待っていたが、いつの間にか、私は、デスクに突っ伏して、寝てしまっていた。
私が目を覚ましたのは、次の日の朝十時半だった。
目を擦りながら、体を起こすと肩から、何かが滑り落ちた。
寝ぼけながらも、床に視線を向けると、床に毛布が落ちていた。
毛布を見下ろしてから、私は、急いで立ち上がり、毛布をそのままにリビングに向かい、廊下を走った。
リビングのドアを乱暴に開けて、見渡したが、山崎さんの姿はなく、いつもと同じように、カウンターにラップの掛かった皿が、置いてあった。
カウンターに近付き、全てを冷蔵庫に仕舞うと、仕事部屋に戻り、床の毛布を拾い上げ、鼻を着けて、目を閉じた。
毛布を抱き締めてみたが、すぐに目を開けて、毛布を見つめた。
「…違う」
山崎さんの匂いも、太陽の香りもしない。
押入れに仕舞いっぱなしで、埃の匂いしかしない。
毛布を持って、和室に向かい、障子を開け、綺麗に、たたまれた布団の前に膝を着いて、顔を近付けた。
「…やっぱり」
彼が使っているはずなのに、彼の香りがしない。
枕も布団も全部、埃の匂いしかしない。
暫く使われていない。
寝てもいないのに、なんで、この家に帰って来るのか。
シャワーを浴びる為なのか。
だが、シャンプーもボディーソープも、私が使った後に、使った形跡はない。
じゃ、着替える為なのか。
だが、いつも庭に干してあるのは、私の洋服や下着だけで、山崎さんの物はない。
私の朝食を作る為だけに、帰って来てるのな。
なんでだろう。
どうしてだろう。
私の頬を涙が、伝い落ちた。
山崎さんの香りも、痕跡もなのに、朝食や洗濯をされていて、山崎さんの存在を実感する。
会いたいのに会えなくて、知りたいのに知れなくて、触れたいのに触れられない。
どうしろと言いたいのか。
私にどうして欲しいのか。
もう分からない。
山崎さんが、分からない。
毛布を握り締め、座り込んでいる私の耳に、隣の仕事部屋から、携帯の着信が鳴り響いているのが、微かに聞こえた。
フラフラしながらも、立ち上がり、仕事部屋に行き、デスクの上で、振動しながら、大きな着信を響かせる携帯を手に取った。
画面も見ずに、受話ボタンを押して、ゆっくりと耳に押し当てた。
「はい」
『ヤッホー。バーベキューコンロとかある?』
携帯からは、祐介の声が聞こえた。
「うん」
『すぐ出せる?』
「分かんない」
『炭とかは?』
「分かんない」
正直に答えていたはずなのに、祐介は、急に黙ると、盛大な溜め息をついてから言った。
『なに?何か不満なの?』
「素直に答えてるだけだし」
『そら、いつもぶっきらぼうだけど?今日のマコトは違うよ。八つ当たりっていうか、なんか、こう…苛立ってるみたいな感じ』
「そんな事ないし」
祐介が、また、大きな溜め息をついた。
『結局は、彼に捨てらって!!』
祐介が文句を言おうとした時、電話口の向こうで、ガタガタと音がした。
祐介が、小さく声を上げると、その後ろで龍之介と淳也の声が聞こえた。
『てめぇ!!ナニ言おうとしてんだよ!!』
『マコトさんを追い詰めるようなことはやめるっすよ!!』
『ホントの事でしょ!?僕は傷が深くなる前に!!って淳也!!』
『てめぇ!!いつからマコトのこと名前で呼んでんだよ!!』
『んなことどうだっていいじゃないっすか!!』
『んな事じゃねぇ!!てめぇ年下だろ!!』
『いいじゃないっすか!!とにかく!!マコトさんを泣かすような事しないで欲しいっす!!』
『なんで淳也まで必死なんだよ!!』
『それは…』
淳也が、口ごもりながら黙ると、龍之介は、鼻で笑って、冗談を言うような口調で言った。
『なんだぁ?もしや、淳也もマコトの事、好きなんじゃね?』
祐介と龍之介が、ケタケタと笑う声が聞こえた。
『…好きっす』
『え…』
『好きっすよ!!好きじゃ悪いすか!!』
祐介が淳也に向かって、何か言っていたが、電話を切った。
それ以上、彼らの会話を聞いていたら、熱で蒸発してしまいそうだった。
手で目元を覆い、熱を治めようとしていると、携帯が短く音を鳴らし、龍之介からのメールを着信を知らせた。
今から行く。
「来んな。バカ」
短く書かれた文章に独り言のように、文句を呟き、私は、浴室に向かった。
頭の中を整理したいのと龍之介たちが来る前に、自分の中で処理しきれない熱を冷やしたかった。
シャワーを浴び、ジーパンにTシャツを着て、いつものように換気扇の下で、タバコを吸っていると、うるさいくらいに、チャイムが鳴らされた。
苛立った私は、タバコを口にくわえたまま、リビングの窓を開けて叫んだ。
「うっさい!!開いてるわ!!」
窓を開け放したまま、換気扇の下に戻り、タバコを揉み消すと、龍之介が先頭に立ち、祐介と淳也もリビングに入ってきた。
三人の間には、微妙に、気まずい空気が流れていて、そっと溜め息を零した。
「んで?何しに来たのさ」
「役割分担しようかなと」
私の問いに、呟くように答えたのは、祐介だった。
その答えに、三人を睨み付けるように、目を細めて無表情になると、淳也が慌てて、祐介の答えに付け加えた。
「マコトさんは、何もしなくていいっすから。ね?」
「当たり前でしょ」
タバコに火を点けながら、吐き捨てるように言うと、淳也は、安心したように微笑んだ。
「んじゃ、お約束のじゃんけんで」
そう言って、私を除いた三人は、それぞれに、おまじないのような、占いのような、儀式のようなことをしてから、視線を合わせると、一斉に声を上げた。
「じゃん!!」
「けん!!」
「ぽん!!」
結果は、祐介の一人勝ち。
ニコニコと笑いながら、手を振る祐介を尻目に、龍之介は、グダグダ文句を言い、淳也は、しょんぼりして、買い出しに向かった。
「さてと」
「じゃ」
「え!?ちょ!!」
私は、足早に仕事部屋に逃げ込んだ。
「ちょっとは手伝ってくれない?」
「無理!!」
「いいじゃ~ん?」
「締め切り重なってんのよ!!全部物置だから勝手にやって!!」
ドアの向こうで、騒いでいる祐介に、そう叫んでから、私は、黙々と作業を始めた。
暫くは、何かごちゃごちゃと言っていたが、諦めたらしく、静かになると、庭の方から、ガタガタと音が聞こえ始めた。
そっと立ち上がり、窓の外を見ると、物置の戸が全開になっていて、中で動く祐介の姿が見えた。
椅子に座り直して、パソコンに向かったが、一度、一人で必死になっている姿を見てしまうと、気になってしまう。
「そこじゃないし」
物置の戸に寄り掛かって、手前に積み上げられていた荷物を動かしている祐介に声を掛けた。
「もっと奥」
そう言うと、祐介は、少しだけ奥に進んだ。
「そっちじゃない。あっち」
「あっちって、どっち?」
「だから。こっちだって」
苛立ちながら、奥に進み、祐介に背を向けた。
「てか、見えてんじゃんか。ちゃんと見な…よ…」
バーベキューコンロに乗せていた段ボール箱を持つために、前屈みになった背中に重みが掛かり、顔の横には、祐介の横顔が出てきた。
「な…にしてんの?」
驚きと戸惑いで、震える声をそのままに聞いてみたが、祐介からは、何も返ってこなかった。
その代わり、回された腕に力が込められ、私を引き寄せた。
背中に感じる祐介の体温は、私の体温よりも高く、微かに震えていた。
恐怖なのか。
私に拒絶されることが、そんなに恐いことなのか。
そんな事を考えられたのは、ほんの一瞬だけで、今は、久々に人肌のを感じる背中が、熱くなっていた。
「あのさ、そろそろ…」
「もう少し」
そう呟いた祐介の言葉に、山崎さんも同じ事を言った時の事が、私の頭の中に浮かんだ。
脳裏に焼き付いた山崎さんの優しい微笑みが、目の前に蘇った。
「すれ違ってるんだって?」
黙っていた祐介の言葉は、私を現実に引き戻した。
「な…のこと?」
「とぼけないでよ。淳也に聞いたんだから」
分かってた。
電話を切ってから、すぐに龍之介からメールが来た時、簡単に予想できた。
だから揃って、三人で家に来たんだ。
「だから、なに?」
「もう、いいじゃん?」
「ナニが?」
「叶わない恋なら諦めなよ」
「叶わないって…そんなの分からないでしょ?」
「分かるよ」
「なんでよ」
「僕らが、そうだから」
「…意味わかんない」
「分かってるのに…また、はぐらかすの?僕らは、ずっと…」
「祐介!!」
大声で言葉を遮ると、体に抱き付く祐介の腕が震えた。
「言わないで」
瞳に涙が溜まり、視界がぼやけた。
「なんで?」
膝から力が抜け、今にも泣き崩れそうになりながら、震えてしまいそうな声を必死に耐えた。
「…お願いだから…言わないで」
「ずっと、言ってることなのに?」
小さく頷くと、体から祐介の腕が離れて、自由になると、同時に、私は、物置から仕事場に向かって、一気に駆け出した。
後ろを振り返らず、祐介の姿を見ることもしなかった。
ドアに寄り掛かり、崩れるように座り込むと、膝を抱え、顔を隠した。
流れ落ちる涙は、何を意味しているか分からない。
私自身が分からない。
それでも涙は、止まらない。
自分の事なのに、何も分からないまま、私を支配する言い様のない感情が、収まるまで、ただ声を殺し、静かに涙を流した。
その内、買い出しに行っていた龍之介たちが戻り、庭が騒がしくなった。
何かを言い合う声とガタガタとセッティングの音で、溢れ出していた涙は、いつの間にか止まっていた。
窓から覗くように、庭を見ると、龍之介と祐介が、必死になって、物置からバーベキューに使う物を出して、その傍らで、淳也がバーベキューコンロやキャンプ用のテーブルを組み立てていた。
三人の姿が、楽しそうで、少し羨ましい。
そう思いながらも、庭に行くのも、なんとなく気まずくて、椅子に座って、ボーッと天井を見上げていた。
パソコンのメール画面を呼び出して、可奈さん宛に読み切りの詳細を打ち込んだ。
その時、携帯が、大きな着信音を部屋に響かせた。
「はい」
『必要なもんはあるか』
電話口から聞こえた忍さんの声は、完全に不機嫌そうだった。
「そう言うのは、本人らに聞いて下さいよ」
『繋がらん』
「あー。如月君も一緒ですから、そっちに…」
『さっさとしろ』
「はい!!」
忍さんの声が、一段と低くなり、凄みを増したのに、背筋に冷たい物が走り抜け、窓を開けて大声を出した。
「龍!!祐!!」
久々の呼ばれ方で、二人が、驚きながらも、こちらを見たのを確認し、まだ通話中の携帯を投げた。
突然の行動に驚き、慌てながらも、携帯を落とさずに、受け取ったのは淳也だった。
「忍さんから」
唖然とする淳也を尻目に、短くそう言って、窓を締めて、メールを送信した。
それからは、気合いを入れ直し、雅美が呼びに来るまで、私は、仕事に集中していた。
和室に向かうと、淳也がコンロの前に立ち、必死に、祐介たちに焼けた肉を配っていた。
「アンタらがやんなよ」
窓辺に片膝を立てて座り、肉を頬張りながら、ビールを流し込む祐介たちに言ったが、祐介も龍之介は、全く聞いていない。
網の上で、焼けている肉を自分の紙皿に乗せていた。
溜め息をつくと、目の前に焼けた肉が乗せられた紙皿が、差し出された。
いつの間にか、近付いて来た淳也の手から紙皿を受け取った。
「ごめんね?」
「いいんすよ。俺が勝手にやってるだけっすから。何飲むすか?」
「缶チュー」
子供用プールの中に張られた氷水から、缶チューを取り出した。
淳也から、それを受け取り、紙皿を横に置いて、プルタブを開けた。
「マコトさん」
缶に口を着けて、中身を喉に流し込もうとした時、紙皿を挟んで、隣に座った淳也に呼ばれ、顔を向けた。
私に向かって、コップに注がれたビールを見せながら、淳也は、ニッコリ笑っていた。
「お疲れ」
「お疲れした」
コップに缶をぶつけ、中身を飲んだ。
半分まで飲んで、止めていた息を吐き出すと、風呂上がりの親父がするような、声が出て、ハッとした。
恐る恐る、隣を見ると、淳也も同じ声を出していたらしく、頬を赤くしていた。
この状況に、苦笑いを浮かべた。
缶チューを横に置き、紙皿の肉をつまんで、口の中に放り込む。
「にしても、懐かしいっすね」
「ナニが?」
「こうやって、よく遊んだじゃないすか」
「あ~。そうだよね」
祐介と龍之介にじゃれながら、バーベキューを楽しむ雅美と治斗、それを微笑みながら、それを見つめる佐々木夫妻を見ながら、淳也は、何かを思い出したのか、クスクスと笑った。
「なに?思い出し笑い?」
「そうっす。海に行った時の事を思い出したんす」
「あ~。あれ?龍之介が、満さんに追っ掛けられて、足つったやつ」
「そっす。その後の花火ん時の事、覚えてるっすか?」
「無表情の忍さんが、祐介に向かって、ロケット花火、ぶっ放したんだよね?」
「そっす。その後の忍さんの一言」
「お前がそこにいたんだ」
一緒に忍さんの声色を真似しながら、そう言って、淳也とクスクス笑った。
遅れて来た池谷夫妻の姿が見え、先頭を一人息子の一樹(イチキ)が、こちらに向かって、手を振って走ってきた。
「まこちゃん!!」
「いらっしゃい」
私の腰に抱き付くようにして、腕を回し、下腹部に頬擦りする一樹の頭を撫でた。
少し淋しそうな表情を浮かべた淳也は、ビールを持って、祐介たちの方に行ってしまった。
「久しぶりだね?元気してた?」
「うん。まこちゃんは?」
「元気だよ」
顔を上げて、じっと見上げていた一樹の表情が、徐々に眉が下がり、哀しみの色を見せた。
「ホント?」
私が首を傾げると、一樹の眉は、更に下がり、今にも泣いてしまいそうだ。
「まこちゃん…なんか、苦しそうだよ…なんか、哀しそうだよ」
一樹の瞳に薄らと、涙の膜が張り、和室の電気で、キラキラと輝いている。
曇りのない一樹の瞳に、私の中に罪悪感と嫌悪感が芽吹き、止まっていた涙が、溢れ出しそうだった。
「いっちゃん」
巴さんが、紙皿に焼けた肉を乗せ、一樹の肩を軽く叩いた。
涙目のまま、振り向いた一樹に驚きの顔を見せたが、すぐに、いつもの優しい微笑みを作った。
巴さんは、一樹と視線を合わせるように屈み、優しく頭を撫でた。
「どうしたの?」
「まこちゃんが…」
私を見た巴さんは、苦笑いして、一樹の肩に手を置いた。
「いっちゃん。マコトちゃんはね?今、大人になろうとしてるんだよ?」
「まこちゃんは、もう大人でしょう?」
「体はね。今のマコトちゃんは、心が大人になろうとしてるの」
「心?心が、大人になると哀しいの?」
「そう。心が、大人になるってことはね?泣きたくても、逃げ出したくても、どうしようもなくても、自分で、なんとかしなきゃいけないの。子供みたいに泣くことも、どこかに逃げることも、誰かに助けてもらうことも、出来ないのよ?」
「それじゃ、まこちゃんが、可哀想だよ」
「それでも、マコトちゃんは、大人にならなきゃいけないの。だから、いっちゃんは、いっぱい、いっっっぱい、応援してあげよう?」
「そしたら、まこちゃん、頑張れる?」
優しく微笑む巴さんが、静かに頷くと、向き直った一樹は、小さな手で、私の手を力いっぱい握りしめた。
「頑張れ。まこちゃん」
今にも、溢れ落ちてしまいそうな涙をそのままに、太陽のような笑顔に、私の暗く淀んだ気持ちが、徐々に小さく萎んだ。
「いっちゃん!!」
治斗が、走り寄って来ると、一樹は、握りしめた手を離した。
「いっちゃんも、一緒、あっち行こう?」
私を見上げた一樹に、巴さんと一緒になって、優しく微笑み、頷くと、一樹は、治斗に手を引かれて、祐介たちの方に、走って行った。
「子供の前で、そんな顔しちゃ、ダメよ?」
隣に座った巴さんに言われ、自分の弱さに、嫌気が沸き上がり、残りの缶チューを一気に飲み干した。
「マコトちゃんの事だから、大丈夫だろうけど」
その通りだと思った。
子供に心配させてしまう程、顔に出てたなんて恥ずかしい。
そう思うと、自分が情けない。
今だけでもいい。
少しだけでもいいから、忘れよう。
山崎さんの事も。
今の状況も。
そう思い、子供用プールから、新しい缶チューを取り出し、プルタブを開けた。
それを一気に飲み干し、また新しい缶チューを持って、コンロの方に向かった。
それからは、雅美たちと一緒になって、祐介や龍之介で遊び、淳也と他愛ない話をし、貴子さんや巴さんにオモチャにされ、忍さんと満さんに説教された。
「今日はありがと」
淳也は、真面目な顔で、私から視線を反らし、小さく頷いた。
その姿に、溜め息をついて、淳也の手から、服が入ったショップ袋を奪うようにして受け取った。
「それじゃね」
淳也に背を向け、運転席のドアを開けようと、腕を伸ばすと、後ろから淳也の腕が伸び、車の窓ガラスに手を着いた。
驚いた私が、咄嗟に、振り返ると、淳也の唇が押し付けられた。
目を見開き、目を閉じた淳也をただ見つめていた。
唇が離れ、視界から淳也の横顔が消え、今起きた出来事に、ボーッとして、車の窓ガラスを見つめた。
背中に、淳也のオデコが、触れる感覚に体を強張らせた。
「諦めないから」
絞り出すような淳也の呟きに、私は、ただ体を強張らせ、立ち尽くすしか出来なかった。
窓ガラスに着いていた淳也の手が、視界から消え、私は、ゆっくり、顔を横に向けた。
横目で見ると、淳也は、背中を向けて、歩き出していた。
その背中は、とても大きいのに、弱々しく見える。
「ごめんなさい」
そう呟き、車のドアを開け、運転席に乗り込むと、すぐに車を発進させた。
とにかく、逃げたかった。
その場に罪悪感や後悔、自分の無力さ、未熟さ、全て、置き去りにして、逃げてしまいたかった。
だが、その全ては、ずっと私を追ってきて支配する。
不意に、山崎さんに触れたいと思い、私は、逃げるように自宅に向かった。
自宅に着き、駐車場に車を停めると、すぐに玄関に向かい、鍵穴に鍵を差し込み回した。
ガチャンと、鍵が開く音と共に、中に入り、洗面所や浴室、和室や寝室まで、ドアを開けて回り、最後に、リビングのドアを開け放った。
山崎さんの姿は、どこにもなかった。
私は、泣きたい気持ちを抑え込んで、ソファーに座り、山崎さんが現れるのを待った。
会いたい、触れたい、話したい、甘えたい、その思いだけで、ただ、山崎さんを待っていた時、自宅の電話が鳴り響いた。
億劫な気持ちで、ソファーから立ち上がり、玄関先で鳴っている電話に近付き、受話器を持ち上げ、耳に、そっと押し当てた。
「…はい」
『弘瀬です』
顔を歪め、溜め息をつきそうになるのを押し戻し、唇に力を入れ、ギュッと一文字に結ぶと、弘瀬さんは、続けて言った。
『マコトさんですか?』
震えそうになる声を耐え、私は、固く閉ざしていた唇を動かした。
「はい」
『よかった』
安心したような声を漏らす弘瀬には、悪いが、私の中には、もう山崎さんのことしかなかった。
自宅電話の番号だけでも、教えておけばよかった。
違う。
山崎さんが、携帯を持ってるのを知った時、聞いておけばよかった。
『…それで…』
そのまま、仕事に行っちゃうのか。
『…なんですけど…』
少しでも、帰って来ないかな。
『…マコトさん?』
「え?」
ボーッと、山崎さんの事を考えていたら、弘瀬さんは、何かを話してたらしく、全く聞いていなかった。
「すみません…聞いてませんでした」
その小さな声が、心配をかけてしまったようで、弘瀬さんは、私を気遣うように言った。
『何かあったんですか?』
淳也とキスしたのを思い出し、山崎さんのことを考え、私は、弘瀬さんに小さな声で、呟くように言った。
「ごめんなさい…私…」
同棲してる人がいるんです。
そう言いたいのに、喉が貼り付いたように、声が出てこない。
次の言葉を待っているように、黙っていたが、何も言えない私に、弘瀬さんは、静かに言った。
『今日、会えませんか?』
弘瀬さんに切り出され、正直、驚きながら、迷っていた。
『大切な事は、ちゃんと会って聞きたいです。だから会えませんか?』
「…分かりました」
『ありがとう』
急に言葉遣いを崩し、さっきよりも低い弘瀬さんの声に、一瞬、私の心臓がドキンと跳ねた。
『それで、時間と場所なんですけど』
「え?…あ。はい」
クスクスと笑う弘瀬さんの声が、電話越しに聞こえ、私の頬が、赤くなるのが分かった。
『八時に日和台駅前でいいですか?』
「はい。分かりました」
『それでは』
電話を切り、時間を確認してから、リビングに行き、起きっぱなしのショップ袋を待った。
寝室に向かい、布団の上にショップ袋を投げて、リビングに戻り、キッチンに入った。
換気扇を回し、タバコを吸いながら、携帯を開き、山崎さんを撮った写真データを呼び出した。
驚きながらも、ちゃんと視線を向けてる山崎さんの写真に、私は、少しだけ、気持ちが楽になった。
時計を見て、もしかしたら、途中で会えるかなと思い、ゆっくり、歩いて行くことにした。
タバコを灰皿で揉み消し、そのままの服装で自宅を出た。
最初は、駅に向かって、顔を上げて歩いていたが、駅が近付くにつれ、視線が下がり、いつの間にか、下を向いて歩いていた。
券売機で切符を買い、そのまま、周りを見渡してみたが、山崎さんらしき姿はなかった。
視線を落として、改札を抜け、電車に乗り、隣の駅で下りて、駅の外に出て、壁に寄り掛かっていた。
「マコトさん」
うつ向いていた私の視界に高そうな革靴が入り、頭上から聞こえた声に、顔を上げると、優しく微笑んだ弘瀬さんが、立っていた。
「すみません。無理言って」
「いえ」
「立ち話もなんですから、どこかで食事でもしながら、話しましょうか」
「はい」
弘瀬さんについて行こうとした私の視界に、山崎さんらしき人の背中が、一瞬だけ入った。
立ち止まり、人混みの中を探した。
キョロキョロと、人混みを見る私を見つめる弘瀬さんは、哀しそうでありながら、どこか安心してるようだった。
結局、その一瞬だけで、山崎さんらしき人の影は、見えなかった。
肩を落とし、弘瀬さんに向き直り、頭を下げてから、少し後ろを歩いた。
弘瀬さんと駅前の古風な喫茶店に入り、席に座っても、ずっと、私の頭の中には、さっきの山崎さんらしき人の背中が離れなかった。
「何か食べますか?」
メニューを広げながら、弘瀬さんに聞かれ、黙ったまま、首を振った。
弘瀬さんは、カウンターの中で、コーヒーカップを拭いている白髪の男性を見て言った。
「コーヒー二つ。お願いします。」
「かしこまりました」
白髪の男性は、優しく微笑むと、拭いていたコーヒーカップを仕舞い、新しくコーヒーカップとソーサーを取り出した。
ミルでコーヒー豆を挽く音が、ゴリゴリと響き、コーヒーの香りが、喫茶店を満たした。
「どうぞ」
コーヒーの香りが、私を包み、今、私が一人であると錯覚を起こし、目を閉じた。
ゆっくり、香りを吸い込み、カップを持ち上げ、口に着け、淹れたてのコーヒーを胃に流し込んだ。
「美味しいですか?」
ホッと息を吐き出し、肩から力が抜けると、向かいに座る弘瀬さんの存在を思い出した。
頬を赤くしながら、私は、テーブルに、視線を落とした。
「すみません」
「いいんですよ。それより、何か言いたい事があるんじゃないですか?」
言いたい事は沢山ある。
だが、言葉として出てこない。
うつ向く私を見つめ、弘瀬さんは、頬杖を着いた。
「誰か探してるんですか?」
私は、上目遣いで弘瀬さんを見上げ、すぐにテーブルに視線を落とし、小さく頷いた。
「それは、大切な人ですか?」
テーブルを見つめたまま、また頷いた私に、弘瀬さんは、納得したように、微笑み、頬杖を着いていた手を崩した。
背もたれに寄り掛かり、カップを持ち上げ、コーヒーを飲む。
「その人は、見付かりそうですか?」
「一緒に…住んでるんです」
カップを持ち上げたまま、口を半開きにして、驚く弘瀬さんを無視して、静かに言った。
「住んでるはずなんですけど、昨日から、顔を合わせてないんです」
弘瀬さんは、カップをソーサーの上に戻し、背もたれから背中を離して、座り直すと、真剣な顔をした。
「それは、すれ違ってる状態ですよね?」
本当は、弘瀬さんと食事をした後、山崎さんが帰って来てからのことを話してしまいたかった。
だが、どう話せばいいのか分からず、私は、目を閉じて、うつ向いて、何も言わずにいた。
そんな私の様子で、弘瀬さんは、直感的に、何かあったのだと思ったらしく、優しく微笑んで、優しい声色で言った。
「無理に話さなくてもいいんですよ。ただ、マコトさんが避けられてるのか、すれ違ってるのか、知りたいだけですから」
「…すみません…分かりません」
本当は、分かってた。
山崎さんは、私を避けている。
だから、ほとんど家にいない。
分かってはいるけれど、言いたくない。
言えない。
暫く、黙っていたが、先に話を切り出したのは、弘瀬さんだった。
「明明後日の日曜日。何か、予定はありますか?」
「いえ」
首を振りながら答えると、弘瀬さんは、優しく微笑んだ。
「少し出掛けませんか?」
「え?」
「気分転換だと思って下さい」
「でも…」
「誰にでも息抜きは必要ですよ?ほんの二時間くらいです」
私が迷っていると、弘瀬さんは、名刺とボールペンを取り出した。
裏に、何かを書いて、テーブルの上を滑らせ、私に差し出した。
「僕の携帯番号とメールアドレスです。一応、約束はしときます。都合が悪くなったら、ここに連絡して下さい」
名刺を手に取り、裏に書かれた番号とアドレスをじっと見つめた。
弘瀬さんは、残りのコーヒーを飲み干して、椅子から立ち上がった。
「それじゃ。日曜日に」
そう言って、古いレジが置かれたカウンターに向かって行こうとした。
「あ!!待っ…」
「コーヒーくらいおごりますよ」
弘瀬さんが、お財布を取り出して、レジの前に立つと、マスターが、レジに近付いた。
「三百七十八円です」
弘瀬さんは、五百円玉を出して、おつりを貰うと、小さく手を振り、喫茶店から出て行った。
頭を下げて、弘瀬さんを見送り、ドアが締まるのを確認し、私は、カップの中で揺れるコーヒーを見つめた。
一人になり、私は、携帯を取り出して、山崎さんの写真を見つめた。
どうすればいいのか、分からない。
会いたいのに会えない。
触れたいのに触れられない。
考えれば考える程、空しく、想いは募っていく。
久々だった。
父や祖母が亡くなってから、一つずつ想いを削り、一つずつ感情を捨てた。
だから、体も快感を失った。
いくら、男性を受け入れても、いくら、渇いた体を癒やそうとしても、上手くいかなかった。
だが、山崎さんは、削った想いも、捨てた感情も、全てを汲み上げて、渇いた私の体に返して癒した。
教えてよ。
こんな風になった後、どうすればいいか教えてよ。
「…会いたいよ…」
短い間、沢山、体を重ねて、楽しくて、充実した日々を過ごして、一緒に笑ったんだから教えてよ。
届きそうで届かない。
どうしたら、その手に触れられるのか、教えて。
「…教えてよ…」
いつの間にか、山崎さんが、写し出された画面に触れて呟いていた。
想いだけが先走り、思考が追いつかない。
涙目になり、視界が歪む。
そんな時、カップの隣に、小さなタマゴサンドが二つ置かれた小さな皿が置かれた。
皿を持つ手を伝い、マスターを見上げた。
「残り物ですが、どうぞ」
そう言って、ただ見上げている私に背を向け、カウンターに戻った。
小さなタマゴサンドを見つめ、携帯をテーブルに置き、一つ掴み上げ、一口かじった。
口の中に、優しいタマゴの味が広がり、気付けば、募った想いで、凝り固まっていた心が、解れて、溜まっていた涙が、頬を濡らしてた。
静かに涙を流しながら、小さなタマゴサンドをかじり、ゆっくりと流れる時間を味わった。
いつか、山崎さんと一緒に来たいな。
そう思いながら、小さな皿を空にし、コーヒーを飲み干して、マスターに頭を下げてから、喫茶店を出て駅に向かった。
自宅に着いたのは、前と変わらず、夜十二時の少し前だった。
和室を開け、山崎さんがいないのを確認してから、障子を締めた。
ショルダーバックを持ったまま、洗面所に向かい、ショルダーバックを入って、すぐ脇に置き、服を脱ぎ捨て、浴室に入り、熱いシャワーを浴びた。
化粧を落とし、髪のワックスを洗い流す。
スッキリして、浴室を出て、ジャージに着替え、ショルダーバックを持って、仕事部屋に行き、パソコンの電源を入れた。
点滅してるメールマークをクリックし、文子さんからのメールを開いた。
Dear .マコトちゃん。
お疲れ~。
次のテーマが決まったわよ。
テーマは、近未来系ファンタジーでお願い。
〆切は、五月十日よ。
それじゃ、よろしくねぇ~。
読み切りと〆切が、重なっていたが、なんとかなるかと思った。
Dear.文子さん。
お疲れ様です。
了解です。
短い返信を文子さんに送信し、コピー用紙を取り出し、あらすじや登場人物の詳細を書いていると、睡魔に襲われた。
その日は、そこまで、終らせてから、寝室に向かい、布団に入り、ゆっくり目を閉じた。
瞼の裏に、山崎さんの優しい微笑みを思い描きながら、夢の世界に落ちた。
窓から注ぐ太陽の眩しい光に、目を覚まし、布団から起き上がり、寝室から出て、目を擦りながら、廊下を歩いた。
和室の前で立ち止まり、障子に手を掛けたが、開けずに、リビングに向かった。
ドアを開けると、カウンターに乗っているラップの掛かった食器を見つめた。
溜め息をついてから、食器を仕舞おうと、冷蔵庫の隣のゴミ箱に、昨日の朝食が捨ててあるのを見付けた。
それが、なんだか辛くて、私は、食器のラップを外し、立ったままで朝食を食べた。
いつもの山崎さんの味なのに、美味しいとは思わなかった。
無理矢理、胃に朝食を押し込んで、食器を洗って、お湯を沸かした。
マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注いだ。
換気扇の下で、タバコに火を点け、白い煙を吐き出したが、すぐに揉み消した。
マグカップを持って、仕事部屋に向かい、パソコンの電源を入れて、読み切りの続きを書き始め、切りのいい所でやめた。
新しいフォルダを立ち上げ、コピー用紙に書いた詳細を元に新たな小説を書き始めた。
コーヒーを飲みながら、小説を書いていると、携帯が鳴り響き、携帯画面を確認すると、知らない番号だった。
少し迷ってから受話ボタンを押して、耳に押し当てた。
「はい」
『あ。突然、すみません。樋口です』
「あ~ ケイコさん?どうしました?」
『久々の休みだったので、お食事でもどうかと思いまして』
そう言われ、一瞬、携帯を離し、時間を確認すると、もう十二時を過ぎていた。
「いいですね」
『よかった』
緊張していた声が、そう呟き、柔らかくなり、圭子は、嬉しそうに続けて言った。
『それで、どうしましょうか?』
「じゃ、迎えに行くので、最寄り駅、教えて下さい」
『日和台駅です』
「なら、日和台駅に、一時頃で、どうですか?」
『分かりました。では、一時に駅で待ってます』
「はい。それじゃ」
『はい。失礼します』
終話ボタンを押して、携帯を切り、フォルダに小説を保存して、完了画面を確認した。
パソコンの電源を切って、寝室に向かい、ジーパンにYシャツに着替えて、仕事部屋に戻った。
お財布と携帯をポケットに押し込んで、キーケースを手に取り、駅に向かって、車を走らせた。
駅前のコインパーキングに車を停め、圭子を探した。
「金山さ~ん」
改札の前辺りをキョロキョロと見渡していると、人混みの中で手を振る圭子の姿が見えた。
私も、小さく手を振り返した。
「すみません。待ちましたか?」
「いいえ。私も、今来たとこですよ」
「よかったぁ~」
安心して、胸を撫で下ろす圭子を見て、クスクスと笑った。
「何食べますか?」
歩きながら、そう聞くと、圭子は、悩むような仕草をしてから、私に聞き返した。
「食べたい物はありますか?」
「なんでもいいですよ。ケイコさんは?」
「私も。どうしましょう」
歩いていると、目の前にファミレスが見え、圭子に視線を向け、ファミレスを指差した。
「ファミレスでいいですか?」
「そうですね」
二人でファミレスに入り、もう二時近くだったからか、すぐに窓側の席に案内され、二人でメニューを開いた。
「どれにしますか?」
「そうですねぇ…ペペロンチーノにします」
テーブルに置いてある呼び出しボタンを押すと、すぐに店員が来た。
「お待たせしました。お伺いします」
「ペペロンチーノを二つとドリンクバーも二つ」
「ペペロンチーノ二つとドリンクバーを二つで、よろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
一礼して、店員が去っていき、圭子は、立ち上がりながら、私に言った。
「何飲みますか?」
「コーヒーで」
圭子は、優しく微笑んで、ドリンクバーを取りに行き、私は、外に視線を向けた。
道を往来する人々の流れは、私を置き去りにしているような、錯覚を起こさせ、孤独感と嫌悪感が芽吹く。
携帯を耳に押し当て、何かを話しながら歩く人。
誰かを待つように、ガードレールに寄り掛かる人。
頬を赤くしながら、手を差し出す人。
その手を繋いで、照れ笑いする人。
哀しそうに、うつ向いて歩く人。
どんな人も、足早で、余裕なんてない。
そう感じる私だって、余裕なんてないのを知っている。
人を好きになるとは、こんなにも余裕がなくなるのを初めて知った。
そうして、グチャグチャと色んな事を考えていると、私の前にコーヒーが入ったカップが乗ったソーサーが置かれた。
視線を前に向けると、アイスコーヒーが入ったグラスが置かれた向こう側に、圭子が座った。
「ありがとうございます」
「いえ…あの。何かありましたか?」
「え?」
カップを持ち上げ、コーヒーを飲もうと、カップに口を着け、圭子を見つめ、カップを持ち上げたまま、動きを止めた。
そんな私をチラッと一瞬だけ見て、圭子は、テーブルに視線を落とした。
「なんか…孤独と言うか…落ち込んでるの…かなって」
小さな声で、そう言った圭子から、視線を反らし、カップに口を着け、目を閉じた。
コーヒーを飲んで、ソーサーにカップを置いて、静かに言った。
「圭子さんは、山崎さんをどれくらい知ってますか?」
「どれくらいって…」
「例えば、山崎さんが知らない男性と食事をしたら、怒られたとか、強引な、えっえっちされたとか」
視線を泳がせながら、呟くように聞くと、圭子は、首を傾げた。
「なかったですよ?」
「…へ?」
「ススムが怒ったのを見たこともないですし。えっちも、こっちから仕掛けないと、してくれなかったですよ?他人に関心がないと言うか、興味ないみたいでした」
「興味ないって…付き合ってるのに?」
「はい。こう…事務的?みたいな感じで」
「…嘘でしょ?」
「嘘じゃないです。そんな事に嘘つくはずないじゃないですか」
キョトンとして話す圭子の様子に、私は、オデコに手を当て、目元を隠した。
聞いてしまった事を後悔した。
「もしかして…そうゆう事ありました?」
目元を隠したまま、小さく頷くと、圭子は、驚いたように、目を見開いた。
だが、すぐに、安心したように、嬉しそうに優しく微笑んだ。
「そうなんですね…ススムが言ってたのは、本当だった」
「言ってのって?」
オデコから手をはずし、首を傾げると、圭子は、クスクスと笑った。
「実は…」
「お待たせしました。ペペロンチーノです」
圭子さんが何か言おうとすると、店員がペペロンチーノを私と圭子さんの前に置いて、伝票を置いて、去って行った。
「食べましょうか」
「はい」
フォークにペペロンチーノを巻き付け、口に入れ、互いの顔を見て、クスクスと笑った。
仕事の話や最近の出来事など、お喋りをしながら、ゆっくり食べていて、いつの間にか、圭子の職場での愚痴や悩みを黙って聞いていた。
「そう言えば、さっきの続きなんですけど」
皿を空にして、ゆっくりコーヒーを飲んでいると、圭子が、そう言って、私は、首を傾げた。
「さっき?」
「ススムの話ですよ。実は、いつも無表情だったススムが、顔を真っ赤にして、言ったんです。本気なんですって」
私は、頬が熱くなった。
『本気なんです』
その言葉が本当なら、私と山崎さんは両想いになる。
嬉しい反面、気恥ずかしい。
「ススムが、あんな顔するなんて、初めて知りましたよ。そう思うと、金山さんと初めて会った時、楽しそうに微笑んでたススムも、初めてでした。ススムって、あんな風に笑うんだなって。それに…」
それ以上、圭子の話が全く、頭に入らなかった。
私は、圭子の知らなかった山崎さんを知ってる。
真っ赤になった顔も。
驚いた顔も。
哀しそうな顔も。
淋しそうな顔も。
笑った顔も。
他の誰も知らない山崎さんを私は、沢山、知っているんだ。
そう思うと、嬉しかった。
「それだけ、ススムにとって、金山さんは、特別なんですね」
「…そうですね」
特別の響きが、私の頬を緩め、自然と、圭子に、優しく微笑んだ。
それから暫く、くだらない世間話をしてから、ファミレスを出て、圭子さんと別れた。
車を走らせ、あの池に向かった。
車から降りて、蓮の葉が青々と浮かぶ、池を見つめた。
この景色を昼間に、一人で、見るのは、本当に久々だった。
この間は、隣に山崎さんがいた。
だから、淋しくなかった。
だが、今は、一人で隣に誰もいない。
正直淋しい。
私の中で、それだけ、山崎さんと一緒にいた時間が、大きくて今まで、一人でいれたのが、嘘みたいに感じる。
会いたい。
話したい。
触れたい。
泣きそうになりながらも、目を閉じ、背伸びをして、大きく息を吸い込み、一気に吐き出し、眼前に広がる景色を眺めた。
「よし」
気持ちを切り替えるように、そう呟き、車に乗り込み、自宅に向かって車を走らせた。
自宅の駐車場に車を止め、仕事部屋に向かい、パソコンの電源を入れた。
二つの作品を同時進行で始め、山崎さんが、帰って来るのを待った。
仕事に没頭していると、夕日が部屋を満たし、気付けば、携帯の時計は、夕方の五時を少し過ぎていた。
今日も帰って来なかった。
少し落ち込みながら、私は、リビングに向かい、キッチンに入って、コーヒーを淹れた。
マグカップを持って、仕事部屋に戻り、電気を点けて、仕事を再開する。
マグカップの中身が空になり、何気なく、携帯の時計を見ると、夜の十時になっていた。
区切りのいい所まで書いてから、洗面所に向かい、ジーパンとYシャツを洗濯カゴに投げ、下着類は、洗濯ネットに入れて、カゴに入れると、浴室のドアを開けた。
シャワーを浴びて、髪や顔を洗い、浴室を出て、簡単に、体や髪を拭くと、下着とブラを着け、チェストから長袖のTシャツとステテコを着た。
仕事部屋からマグカップを持って、キッチンに向かい、コーヒーを淹れて、仕事部屋に戻り、また、仕事を再開した。
山崎さんが帰って来るのを待っていたが、いつの間にか、私は、デスクに突っ伏して、寝てしまっていた。
私が目を覚ましたのは、次の日の朝十時半だった。
目を擦りながら、体を起こすと肩から、何かが滑り落ちた。
寝ぼけながらも、床に視線を向けると、床に毛布が落ちていた。
毛布を見下ろしてから、私は、急いで立ち上がり、毛布をそのままにリビングに向かい、廊下を走った。
リビングのドアを乱暴に開けて、見渡したが、山崎さんの姿はなく、いつもと同じように、カウンターにラップの掛かった皿が、置いてあった。
カウンターに近付き、全てを冷蔵庫に仕舞うと、仕事部屋に戻り、床の毛布を拾い上げ、鼻を着けて、目を閉じた。
毛布を抱き締めてみたが、すぐに目を開けて、毛布を見つめた。
「…違う」
山崎さんの匂いも、太陽の香りもしない。
押入れに仕舞いっぱなしで、埃の匂いしかしない。
毛布を持って、和室に向かい、障子を開け、綺麗に、たたまれた布団の前に膝を着いて、顔を近付けた。
「…やっぱり」
彼が使っているはずなのに、彼の香りがしない。
枕も布団も全部、埃の匂いしかしない。
暫く使われていない。
寝てもいないのに、なんで、この家に帰って来るのか。
シャワーを浴びる為なのか。
だが、シャンプーもボディーソープも、私が使った後に、使った形跡はない。
じゃ、着替える為なのか。
だが、いつも庭に干してあるのは、私の洋服や下着だけで、山崎さんの物はない。
私の朝食を作る為だけに、帰って来てるのな。
なんでだろう。
どうしてだろう。
私の頬を涙が、伝い落ちた。
山崎さんの香りも、痕跡もなのに、朝食や洗濯をされていて、山崎さんの存在を実感する。
会いたいのに会えなくて、知りたいのに知れなくて、触れたいのに触れられない。
どうしろと言いたいのか。
私にどうして欲しいのか。
もう分からない。
山崎さんが、分からない。
毛布を握り締め、座り込んでいる私の耳に、隣の仕事部屋から、携帯の着信が鳴り響いているのが、微かに聞こえた。
フラフラしながらも、立ち上がり、仕事部屋に行き、デスクの上で、振動しながら、大きな着信を響かせる携帯を手に取った。
画面も見ずに、受話ボタンを押して、ゆっくりと耳に押し当てた。
「はい」
『ヤッホー。バーベキューコンロとかある?』
携帯からは、祐介の声が聞こえた。
「うん」
『すぐ出せる?』
「分かんない」
『炭とかは?』
「分かんない」
正直に答えていたはずなのに、祐介は、急に黙ると、盛大な溜め息をついてから言った。
『なに?何か不満なの?』
「素直に答えてるだけだし」
『そら、いつもぶっきらぼうだけど?今日のマコトは違うよ。八つ当たりっていうか、なんか、こう…苛立ってるみたいな感じ』
「そんな事ないし」
祐介が、また、大きな溜め息をついた。
『結局は、彼に捨てらって!!』
祐介が文句を言おうとした時、電話口の向こうで、ガタガタと音がした。
祐介が、小さく声を上げると、その後ろで龍之介と淳也の声が聞こえた。
『てめぇ!!ナニ言おうとしてんだよ!!』
『マコトさんを追い詰めるようなことはやめるっすよ!!』
『ホントの事でしょ!?僕は傷が深くなる前に!!って淳也!!』
『てめぇ!!いつからマコトのこと名前で呼んでんだよ!!』
『んなことどうだっていいじゃないっすか!!』
『んな事じゃねぇ!!てめぇ年下だろ!!』
『いいじゃないっすか!!とにかく!!マコトさんを泣かすような事しないで欲しいっす!!』
『なんで淳也まで必死なんだよ!!』
『それは…』
淳也が、口ごもりながら黙ると、龍之介は、鼻で笑って、冗談を言うような口調で言った。
『なんだぁ?もしや、淳也もマコトの事、好きなんじゃね?』
祐介と龍之介が、ケタケタと笑う声が聞こえた。
『…好きっす』
『え…』
『好きっすよ!!好きじゃ悪いすか!!』
祐介が淳也に向かって、何か言っていたが、電話を切った。
それ以上、彼らの会話を聞いていたら、熱で蒸発してしまいそうだった。
手で目元を覆い、熱を治めようとしていると、携帯が短く音を鳴らし、龍之介からのメールを着信を知らせた。
今から行く。
「来んな。バカ」
短く書かれた文章に独り言のように、文句を呟き、私は、浴室に向かった。
頭の中を整理したいのと龍之介たちが来る前に、自分の中で処理しきれない熱を冷やしたかった。
シャワーを浴び、ジーパンにTシャツを着て、いつものように換気扇の下で、タバコを吸っていると、うるさいくらいに、チャイムが鳴らされた。
苛立った私は、タバコを口にくわえたまま、リビングの窓を開けて叫んだ。
「うっさい!!開いてるわ!!」
窓を開け放したまま、換気扇の下に戻り、タバコを揉み消すと、龍之介が先頭に立ち、祐介と淳也もリビングに入ってきた。
三人の間には、微妙に、気まずい空気が流れていて、そっと溜め息を零した。
「んで?何しに来たのさ」
「役割分担しようかなと」
私の問いに、呟くように答えたのは、祐介だった。
その答えに、三人を睨み付けるように、目を細めて無表情になると、淳也が慌てて、祐介の答えに付け加えた。
「マコトさんは、何もしなくていいっすから。ね?」
「当たり前でしょ」
タバコに火を点けながら、吐き捨てるように言うと、淳也は、安心したように微笑んだ。
「んじゃ、お約束のじゃんけんで」
そう言って、私を除いた三人は、それぞれに、おまじないのような、占いのような、儀式のようなことをしてから、視線を合わせると、一斉に声を上げた。
「じゃん!!」
「けん!!」
「ぽん!!」
結果は、祐介の一人勝ち。
ニコニコと笑いながら、手を振る祐介を尻目に、龍之介は、グダグダ文句を言い、淳也は、しょんぼりして、買い出しに向かった。
「さてと」
「じゃ」
「え!?ちょ!!」
私は、足早に仕事部屋に逃げ込んだ。
「ちょっとは手伝ってくれない?」
「無理!!」
「いいじゃ~ん?」
「締め切り重なってんのよ!!全部物置だから勝手にやって!!」
ドアの向こうで、騒いでいる祐介に、そう叫んでから、私は、黙々と作業を始めた。
暫くは、何かごちゃごちゃと言っていたが、諦めたらしく、静かになると、庭の方から、ガタガタと音が聞こえ始めた。
そっと立ち上がり、窓の外を見ると、物置の戸が全開になっていて、中で動く祐介の姿が見えた。
椅子に座り直して、パソコンに向かったが、一度、一人で必死になっている姿を見てしまうと、気になってしまう。
「そこじゃないし」
物置の戸に寄り掛かって、手前に積み上げられていた荷物を動かしている祐介に声を掛けた。
「もっと奥」
そう言うと、祐介は、少しだけ奥に進んだ。
「そっちじゃない。あっち」
「あっちって、どっち?」
「だから。こっちだって」
苛立ちながら、奥に進み、祐介に背を向けた。
「てか、見えてんじゃんか。ちゃんと見な…よ…」
バーベキューコンロに乗せていた段ボール箱を持つために、前屈みになった背中に重みが掛かり、顔の横には、祐介の横顔が出てきた。
「な…にしてんの?」
驚きと戸惑いで、震える声をそのままに聞いてみたが、祐介からは、何も返ってこなかった。
その代わり、回された腕に力が込められ、私を引き寄せた。
背中に感じる祐介の体温は、私の体温よりも高く、微かに震えていた。
恐怖なのか。
私に拒絶されることが、そんなに恐いことなのか。
そんな事を考えられたのは、ほんの一瞬だけで、今は、久々に人肌のを感じる背中が、熱くなっていた。
「あのさ、そろそろ…」
「もう少し」
そう呟いた祐介の言葉に、山崎さんも同じ事を言った時の事が、私の頭の中に浮かんだ。
脳裏に焼き付いた山崎さんの優しい微笑みが、目の前に蘇った。
「すれ違ってるんだって?」
黙っていた祐介の言葉は、私を現実に引き戻した。
「な…のこと?」
「とぼけないでよ。淳也に聞いたんだから」
分かってた。
電話を切ってから、すぐに龍之介からメールが来た時、簡単に予想できた。
だから揃って、三人で家に来たんだ。
「だから、なに?」
「もう、いいじゃん?」
「ナニが?」
「叶わない恋なら諦めなよ」
「叶わないって…そんなの分からないでしょ?」
「分かるよ」
「なんでよ」
「僕らが、そうだから」
「…意味わかんない」
「分かってるのに…また、はぐらかすの?僕らは、ずっと…」
「祐介!!」
大声で言葉を遮ると、体に抱き付く祐介の腕が震えた。
「言わないで」
瞳に涙が溜まり、視界がぼやけた。
「なんで?」
膝から力が抜け、今にも泣き崩れそうになりながら、震えてしまいそうな声を必死に耐えた。
「…お願いだから…言わないで」
「ずっと、言ってることなのに?」
小さく頷くと、体から祐介の腕が離れて、自由になると、同時に、私は、物置から仕事場に向かって、一気に駆け出した。
後ろを振り返らず、祐介の姿を見ることもしなかった。
ドアに寄り掛かり、崩れるように座り込むと、膝を抱え、顔を隠した。
流れ落ちる涙は、何を意味しているか分からない。
私自身が分からない。
それでも涙は、止まらない。
自分の事なのに、何も分からないまま、私を支配する言い様のない感情が、収まるまで、ただ声を殺し、静かに涙を流した。
その内、買い出しに行っていた龍之介たちが戻り、庭が騒がしくなった。
何かを言い合う声とガタガタとセッティングの音で、溢れ出していた涙は、いつの間にか止まっていた。
窓から覗くように、庭を見ると、龍之介と祐介が、必死になって、物置からバーベキューに使う物を出して、その傍らで、淳也がバーベキューコンロやキャンプ用のテーブルを組み立てていた。
三人の姿が、楽しそうで、少し羨ましい。
そう思いながらも、庭に行くのも、なんとなく気まずくて、椅子に座って、ボーッと天井を見上げていた。
パソコンのメール画面を呼び出して、可奈さん宛に読み切りの詳細を打ち込んだ。
その時、携帯が、大きな着信音を部屋に響かせた。
「はい」
『必要なもんはあるか』
電話口から聞こえた忍さんの声は、完全に不機嫌そうだった。
「そう言うのは、本人らに聞いて下さいよ」
『繋がらん』
「あー。如月君も一緒ですから、そっちに…」
『さっさとしろ』
「はい!!」
忍さんの声が、一段と低くなり、凄みを増したのに、背筋に冷たい物が走り抜け、窓を開けて大声を出した。
「龍!!祐!!」
久々の呼ばれ方で、二人が、驚きながらも、こちらを見たのを確認し、まだ通話中の携帯を投げた。
突然の行動に驚き、慌てながらも、携帯を落とさずに、受け取ったのは淳也だった。
「忍さんから」
唖然とする淳也を尻目に、短くそう言って、窓を締めて、メールを送信した。
それからは、気合いを入れ直し、雅美が呼びに来るまで、私は、仕事に集中していた。
和室に向かうと、淳也がコンロの前に立ち、必死に、祐介たちに焼けた肉を配っていた。
「アンタらがやんなよ」
窓辺に片膝を立てて座り、肉を頬張りながら、ビールを流し込む祐介たちに言ったが、祐介も龍之介は、全く聞いていない。
網の上で、焼けている肉を自分の紙皿に乗せていた。
溜め息をつくと、目の前に焼けた肉が乗せられた紙皿が、差し出された。
いつの間にか、近付いて来た淳也の手から紙皿を受け取った。
「ごめんね?」
「いいんすよ。俺が勝手にやってるだけっすから。何飲むすか?」
「缶チュー」
子供用プールの中に張られた氷水から、缶チューを取り出した。
淳也から、それを受け取り、紙皿を横に置いて、プルタブを開けた。
「マコトさん」
缶に口を着けて、中身を喉に流し込もうとした時、紙皿を挟んで、隣に座った淳也に呼ばれ、顔を向けた。
私に向かって、コップに注がれたビールを見せながら、淳也は、ニッコリ笑っていた。
「お疲れ」
「お疲れした」
コップに缶をぶつけ、中身を飲んだ。
半分まで飲んで、止めていた息を吐き出すと、風呂上がりの親父がするような、声が出て、ハッとした。
恐る恐る、隣を見ると、淳也も同じ声を出していたらしく、頬を赤くしていた。
この状況に、苦笑いを浮かべた。
缶チューを横に置き、紙皿の肉をつまんで、口の中に放り込む。
「にしても、懐かしいっすね」
「ナニが?」
「こうやって、よく遊んだじゃないすか」
「あ~。そうだよね」
祐介と龍之介にじゃれながら、バーベキューを楽しむ雅美と治斗、それを微笑みながら、それを見つめる佐々木夫妻を見ながら、淳也は、何かを思い出したのか、クスクスと笑った。
「なに?思い出し笑い?」
「そうっす。海に行った時の事を思い出したんす」
「あ~。あれ?龍之介が、満さんに追っ掛けられて、足つったやつ」
「そっす。その後の花火ん時の事、覚えてるっすか?」
「無表情の忍さんが、祐介に向かって、ロケット花火、ぶっ放したんだよね?」
「そっす。その後の忍さんの一言」
「お前がそこにいたんだ」
一緒に忍さんの声色を真似しながら、そう言って、淳也とクスクス笑った。
遅れて来た池谷夫妻の姿が見え、先頭を一人息子の一樹(イチキ)が、こちらに向かって、手を振って走ってきた。
「まこちゃん!!」
「いらっしゃい」
私の腰に抱き付くようにして、腕を回し、下腹部に頬擦りする一樹の頭を撫でた。
少し淋しそうな表情を浮かべた淳也は、ビールを持って、祐介たちの方に行ってしまった。
「久しぶりだね?元気してた?」
「うん。まこちゃんは?」
「元気だよ」
顔を上げて、じっと見上げていた一樹の表情が、徐々に眉が下がり、哀しみの色を見せた。
「ホント?」
私が首を傾げると、一樹の眉は、更に下がり、今にも泣いてしまいそうだ。
「まこちゃん…なんか、苦しそうだよ…なんか、哀しそうだよ」
一樹の瞳に薄らと、涙の膜が張り、和室の電気で、キラキラと輝いている。
曇りのない一樹の瞳に、私の中に罪悪感と嫌悪感が芽吹き、止まっていた涙が、溢れ出しそうだった。
「いっちゃん」
巴さんが、紙皿に焼けた肉を乗せ、一樹の肩を軽く叩いた。
涙目のまま、振り向いた一樹に驚きの顔を見せたが、すぐに、いつもの優しい微笑みを作った。
巴さんは、一樹と視線を合わせるように屈み、優しく頭を撫でた。
「どうしたの?」
「まこちゃんが…」
私を見た巴さんは、苦笑いして、一樹の肩に手を置いた。
「いっちゃん。マコトちゃんはね?今、大人になろうとしてるんだよ?」
「まこちゃんは、もう大人でしょう?」
「体はね。今のマコトちゃんは、心が大人になろうとしてるの」
「心?心が、大人になると哀しいの?」
「そう。心が、大人になるってことはね?泣きたくても、逃げ出したくても、どうしようもなくても、自分で、なんとかしなきゃいけないの。子供みたいに泣くことも、どこかに逃げることも、誰かに助けてもらうことも、出来ないのよ?」
「それじゃ、まこちゃんが、可哀想だよ」
「それでも、マコトちゃんは、大人にならなきゃいけないの。だから、いっちゃんは、いっぱい、いっっっぱい、応援してあげよう?」
「そしたら、まこちゃん、頑張れる?」
優しく微笑む巴さんが、静かに頷くと、向き直った一樹は、小さな手で、私の手を力いっぱい握りしめた。
「頑張れ。まこちゃん」
今にも、溢れ落ちてしまいそうな涙をそのままに、太陽のような笑顔に、私の暗く淀んだ気持ちが、徐々に小さく萎んだ。
「いっちゃん!!」
治斗が、走り寄って来ると、一樹は、握りしめた手を離した。
「いっちゃんも、一緒、あっち行こう?」
私を見上げた一樹に、巴さんと一緒になって、優しく微笑み、頷くと、一樹は、治斗に手を引かれて、祐介たちの方に、走って行った。
「子供の前で、そんな顔しちゃ、ダメよ?」
隣に座った巴さんに言われ、自分の弱さに、嫌気が沸き上がり、残りの缶チューを一気に飲み干した。
「マコトちゃんの事だから、大丈夫だろうけど」
その通りだと思った。
子供に心配させてしまう程、顔に出てたなんて恥ずかしい。
そう思うと、自分が情けない。
今だけでもいい。
少しだけでもいいから、忘れよう。
山崎さんの事も。
今の状況も。
そう思い、子供用プールから、新しい缶チューを取り出し、プルタブを開けた。
それを一気に飲み干し、また新しい缶チューを持って、コンロの方に向かった。
それからは、雅美たちと一緒になって、祐介や龍之介で遊び、淳也と他愛ない話をし、貴子さんや巴さんにオモチャにされ、忍さんと満さんに説教された。
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