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十四話
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山崎さんは、鼻から溜め息のように、大きく息を吐き、私の頭を優しく撫でた。
「あほ…」
「はいはい」
「ばか…」
「はいはい」
「いじわる…」
「すみませんね」
山崎さんが、私の体を持ち上げ、布団に寝せて、枕に頭を乗せると、首に回した腕を押し上げた。
「もうほどいてよ…」
山崎さんにネクタイで、縛られた手を突き付けると、山崎さんは、意地悪な微笑みで、縛られた手を押し返した。
「ちょっと、ほどいてってば」
「イヤですよ」
「なんで」
山崎さんは、体を起こして、布団に膝を外に向けて、お尻を着いて座り、ティッシュを取って、股間を拭き始めた。
「ねえ!!」
拭き終わったティッシュをゴミ箱に投げ入れ、新しく、ティッシュを取ると、私に向き直った。
山崎さんの微笑みが、悪魔のように見え、私は、お尻を擦りながら、後退りした。
「何するつもり?」
「拭かなきゃないでしょ?」
「いっいいよ。自分でやるから」
「その手で、どうやって拭くんですか?」
「だからほどいてって」
「イヤです」
「いやって…ちょっと!!いや!!いや!!」
窓の下の壁に貼り付くように、背中を着け、両膝を掴んで、広げようとするのを足に力を入れて阻止した。
必死に縛られた手で、山崎さんの手の甲を掴んで、押し返そうと腕にも力を入れた。
「それじゃ、拭けませんよ」
「自分で…拭くから」
必死になって、山崎さんは、広げようとして、私は、広げないようにする。
暫く、そうしていたが、山崎さんは、溜め息をついて、私の膝から手を離した。
黙って見つめていると、山崎さんは、私から離れて、布団に座った。
それを確認して、足から力を抜いた私の視線が、天井に向いたのは一瞬だった。
山崎さんの手が、足首を掴んで、一気に引き寄せられ、山崎さんの太ももの上に、太ももを乗せ、寝転がったまま、山崎さんに股がるような形になった。
「やめ…ひぃ!!ん…んん…」
変な声を出し、体を捩りながら、床を足裏で蹴って、股間を拭く山崎さんの手から逃げようとした。
「ダメですよ?ちゃんと、拭かなきゃ」
「じ…ぶんで…ふく…ぅ…」
「そんなんで、拭けないでしょ?」
「ほ…どい…てん…」
「そんな声出されたら、したくなっちゃいます」
「でも…ぅ…ん…」
「我慢して下さい」
ティッシュ越しに、落ち着いた蕾に山崎さんの指が触れ、体を震わせて、縛られた手を噛んで、声を殺した。
山崎さんが、股間を拭き終わるまで、体を震わせながら、必死に絶えた。
「はい。終わりましたよ」
山崎さんが手を離し、そう言って、上半身だけを後ろに向け、使い終わったティッシュをゴミ箱に投げた。
グッタリしながら、ティッシュがゴミ箱に入るのを見て、天井に顔を向けて、目を閉じた。
「あのさ」
「はい」
私に覆い被さるように、のし掛かって、私の肩に腕を回して抱えると、布団に寝かせた。
山崎さんは、隣にうつ伏せに寝転んだ。
「いい加減、これほどいてよ」
「イヤですよ」
「だからなんで」
山崎さんに視線を向け、横向きになると、掛け布団を引き上げ、私を抱き寄せようと、手を伸ばしてきた。
「待て」
私の肩を掴んだまま、止まった山崎さんのはだけたYシャツを指差して、睨むように言った。
「着替えな」
山崎さんは、納得したように上半身を起こすと、Yシャツを脱ぎ捨てて、そのまま、仰向けに寝転んだ。
「ちょっと。シワになるでしょ」
そう言って、上半身を起こして、寝転んだ山崎さんの腹の布団を軽く叩いた。
「別にいいですよ。安物ですから」
「なんで、そんな投げやりなのよ」
「あの人。いいスーツでしたね」
「あの人?」
「今日、一緒にいた人です」
「一緒いたって。どっちのこと言ってんのよ」
「両方ともです」
イライラしたように、ため息混じりに言った山崎さんの態度が、イラッとした。
「そらそうよ。私がプレゼントしたんだから」
そう言うと、山崎さんの目が見開かれ、驚いたような顔をした。
「両方ですか?」
「片方は知らん」
「えっと…知り合いですか?」
「清彦さん」
「どっどっちですかね?」
「白髪」
「…嘘ですよね?」
「ホントよ」
天井に顔を向けたまま、目元を片手で覆った。
「ほどいて」
縛られた手首を山崎さんに差し出すと、山崎さんは、少し悩むような仕草をしてから、やっとネクタイをほどいてくれた。
「痕残ったじゃん」
ネクタイが擦れ、はっきりと残った痕を擦りながら、布団から立ち上がり、脱ぎ捨てられたスーツとYシャツを拾った。
ネクタイを抜き取ろうと、山崎さんの手を滑るように離れた時、手首を掴まれた。
「痛かったですよね?」
山崎さんは、心配そうな、後悔してるような、複雑な顔をして、手首の痕に触れた。
私は、鼻で溜め息をついて、その場に屈み、手首に触れる山崎さんの手を見つめて言った。
「もういいよ。暫くすれば、消えるから」
手首を擦りながら見つめる山崎さんの視線を見つめ返す事が、私は、出来なかった。
互い様だと思いながらも、謝らなければ、ならないのだと分かってる。
急だったとは言え、何も言わずに出掛け、清彦さんに山崎さんのことを言わなかった。
付き合ってないのに、こんな事してるのが、後ろめたくて言えなかった。
それでも、山崎さんを裏切ったような形になったのは、私自身が悪いのも痛感してる。
なんて謝ればいいか分からず、視線を反らして、黙っていると、私の手首から山崎さん手が離れた。
私は、下を向いたまま、立ち上がり、クローゼットに向かうと、中から使ってないハンガーを取り出し、山崎さんのスーツを掛けて、クローゼットに仕舞った。
「Yシャツの替えってあるの?」
「一枚あります」
山崎さんのYシャツを持ったまま、床に脱ぎ捨てられた自分のスラックスと下着を拾い、洗面所に向かった。
持ってきたものとブラウスを洗濯カゴに入れ、ジャージに着替えてから、寝室に戻った。
布団には、山崎さんの姿はなくなっていた。
着替えに和室に行ったのだろうと思い、布団に座り、なんて言って謝ろうかと、膝を抱えて、山崎さんが戻るのを待っていた。
だが、いつまで待っても戻って来ない。
和室に向かい、そっと障子を開け、中を覗くと、山崎さんは、障子に背を向けて、布団にくるまっていた。
背中で拒絶されてるように感じで、私は、障子を締めて、寝室に戻り、布団を頭から被って目を閉じた。
瞼に山崎さんの作られた微笑みが浮かび、泣きたくなってきた。
悪気があったんじゃない。
下心なんてまるでなかった。
でも、私の軽率な行動が山崎さんを傷付けた。
そう思うと、清彦さんにちゃんと、言えばよかった。
完全に自己嫌悪に陥った私は、頭を抱えたまま寝てしまった。
後悔した。
拒絶されようが、嫌われようが、怒られようが、この時に謝ればよかった。
でも、後になってから、悔しいと思うのが後悔であって、何をどうしても、どう足掻いても、もう全てが遅かった。
お昼少し前に目が覚め、寝室から出て、和室の障子を少しだけ開けて、中を覗いた。
でも、そこには、私の期待していた山崎さんの姿はなかった。
布団は、綺麗にたたまれ、庭には、洗濯物がそよ風でなびいているだけだった。
障子を締め、リビングに向かい、ドアノブに手を掛けて、大きく深呼吸してから、そっとドアを開けた。
隙間から顔を出し、中を見渡したが、山崎さんはいなかった。
大きくドアを開け、見渡すと、カウンターに何か置かれているのが、視界に入り、それに近付いた。
出掛けます。
温めてからからどうぞ。
短い文章の書き置きと一緒にラップの掛かった食器には、だし巻き玉子やウィンナーが盛られていた。
私は、書き置きをカウンターに置いて、暖めずに、そのまま、朝食を一人で食べ始めた。
だが、食欲がないのに、淋しさで、更に、食欲を亡くし、ラップを掛け直して、冷蔵庫に仕舞った。
コーヒーを淹れ、換気扇の下で、タバコを吸い始めたがすぐに消した。
マグカップを持ち、仕事部屋に行き、パソコンの電源を入れ、点滅していたメールを開いた。
Dear.マコトさん。
お疲れ様です。
早速なのですが、テーマは、大人の恋で、五月十日までによろしくお願いします。
可奈さんからメールを読んで、たった、一言だけの返信を返した。
Dear .可奈さん
了解です。
メールの完了画面を確認せず、コピー用紙を取り出し、言われたテーマに合うように、設定や詳細を書いて、新しくフォルダを作り、読み切りを書き始めた。
どれくらい、読み切りを書いていたのか分からない。
私が気付いた時には、空が茜色に染まっていた。
私は、パソコンを点けっぱなしにして、仕事部屋を出て、和室に向かい、庭の洗濯を取り入れた。
たたんでから、洗面所や寝室に片付けて、リビングに行き、冷蔵庫を開け、食材を確認した。
サラダとナポリタンを作り、山崎さんが、帰ってくるのを椅子に座って待った。
だが、電気を点ける程に、外が暗くなっても山崎さんは、帰って来なかった。
時計を見ると、もう八時を回っている。
サラダとナポリタンにラップを掛け、和室に向かった。
窓から顔を出し、車があるのを確認して、窓を締めて、鍵を掛けると、カーテンを引いて、玄関先に向かい、電話機の横にあるメモ帳を一枚、破いて、リビングに戻った。
夜遅くまでお疲れ様。
夕飯作ったから、温めて食べてね。
メモ用紙にメッセージを書き、ラップの上に置いて、リビングの電気を消し、ドアを締めた。
洗面所に向かい、シャワーを頭から浴び、着替えて、仕事部屋に戻った。
冷たいコーヒーを一口、飲んでから、また、仕事を再開した。
暫くして、携帯が鳴り、時計を見ると十時半になるところだった。
表示画面を確認し、受話ボタンを押した。
「はい?」
『もしもし?今週の土曜、夜の七時に来れるよね?』
「あのさ。ちゃんと説明してよ」
『だから、今週の土曜、夜の七時』
「意味分からん」
『来れるよね?』
「祐介。何が言いたいの?その日に何があんの?」
『あ。そっか。今、龍之介と、前みたいに、忍さんや貴子さんたちを誘って、バーベキューでもしようかって、話になってね?それで、忍さんと満さんに相談したら、今週の土曜なら、大丈夫だろうってなったんだ』
「私には、何も聞かないで決定かい」
『だって、マコトは、いつでも平気でしょう?』
オデコに触りながら、溜め息をついて、電話の向こうで、威圧的な笑顔を作ってる祐介の姿が見えた気がした。
「分かった。土曜の七時ね?どこでやるの?」
『マコトん家の庭』
「あー。場所、用意できなかったのね」
私が溜め息をついて、苦笑いすると、祐介は、短く声を上げて言った。
『でも、山崎さんいるから無理か』
山崎さんの姿を思い浮かべ、昨日の事を思い出した私は、いつの間にか、無表情になってた。
「いいよ。別に」
『でもさ~』
「山崎さんなら、その時間帯、仕事でいないから。大丈夫」
『…本当にいいの?何か、投げやりになってない?』
「そんな事ないよ?それに、ここは、私の家だし。彼は、ただの居候だし」
居候の部分を強調するように、強く言うと、祐介が何か言おうとしたが、私は、無視して続けて言った。
「買い出しは、任せたからね?よろしく。じゃ」
『ちょっと!?マコト!!』
騒ぐ祐介を無視して、終話ボタンを押して、携帯の電源を切って、中断していた仕事をすぐに再開した。
読み切りを途中まで、書いていたのは、覚えているが、気付けば、椅子に座ったまま、デスクに突っ伏して、寝ていた。
起きた時には、空が明るく、太陽が真上に昇り、時計の針は、十二時を差していた。
飲みかけのコーヒーが、入ってるマグカップを持って、リビングに行き、カウンターに昨日と同じように、ラップの掛かった食器に朝食が盛られてあった。
昨日と違い、書き置きはない。
空しい気持ちと淋しさで、私は、そのまま、冷蔵庫に全部仕舞った。
マグカップを洗って、寝室に行き、パーカーとジーパンに着替えて、仕事部屋で、お財布と携帯をポケットに押し込んだ。
下駄箱の上から車の鍵とキーケースを掴んで、車を走らせ、コインパーキングに車を停めて、満さんのお店の扉を開けた。
「いらっしゃい。って先輩!!」
「如月君!!」
「久し振りっす」
「ホント久しぶり。元気だった?」
「うっす」
「また背伸びた?」
「そうすか?」
「伸びたよ。ほら」
横に立って、私は、自分の頭上に手を置いて、真っ直ぐ横に動かし、淳也の肩に手をぶつけた。
「ほら。やっぱり伸びてる」
「本当っすね。横に立つと、よく分かるっすよ?先輩がちっちゃいの」
「ちっちゃい言うな」
軽く肩をパンチして、二人で笑っていると、カウンターの奥から満さんが、顔を出した。
「お?マコトか。んな所で何してんだ?」
「如月君と久々のふれあいです」
「お前。淳也(ジュンヤ)の邪魔すんなよ」
「邪魔なんかしてないですよ。ねぇ?」
「ぶっちゃけ邪魔っす」
「ひどっ!!」
肩を軽く叩いてから、カウンター席に座った。
「いつものでいいか?」
顔だけを私に向け、そう聞いた満さんに頷くと、満さんが、カウンターの奥に姿を消した。
淳也も、カウンターに入って、コーヒー豆を挽き始めていた。
「ねぇ~。如月君」
「なんすか?」
「土曜って、如月君も来るの?」
「なんの話すか?」
「土曜に私ん家で、バーベキューするんだって」
「なんすか?それ。自分ん家なのに、他人事みたいっすよ?」
「だって、龍之介と祐介が、計画したんだもん」
「またすか。懲りないっすね」
「もう諦めたよ。それで?来るの?」
「いや。誘われてないすから、行かないっすよ」
「予定は?」
「ないっす」
「じゃおいで」
「いいんすか?」
「別に一人増えるくらい、どってことないし。大丈夫だよ」
「でも、先輩ん家って、同棲してる人いるんすよね?」
何故、淳也が山崎さんの事を知ってるのかは、なんとなく分かった。
また、龍之介や祐介が、ベラベラと喋ったのだと思い、私は溜め息をついた。
「あれは居候」
「祐介先輩たちは、同棲って言ってたっすよ?」
湯気の上がるコーヒーカップをソーサーに乗せ、前に置きながら、淳也にそう言われ、私は、山崎さんと一緒に笑っていた日々を思い出した。
気持ちが落ち込み、黙って、カップの中で、黒々と揺れるコーヒーを見つめた。
「先輩?」
顔を覗き込みながら、心配そうな顔をした淳也が、視界に入り、我に返った。
「な何?」
「大丈夫すか?怖い顔になってるっすよ?」
「大丈夫。でも、同棲するなら、私は如月君がいいな」
ニコニコと笑いながら、そう言うと、淳也は、顔を真っ赤にして、私を見つめた。
「ダメかな?」
「あえ?あ!その。あの。えっと。んと」
慌てふためく淳也が、面白くて、ケタケタと笑っていると、前にオムライスを盛ったお皿を置きながら、満さんに頭を軽く叩かれた。
「いじめんな」
「だって、可愛いんですもん」
叩かれた所を擦りながら、カウンターの中に屈んで、こっちに背中を向けて、真っ赤になった顔を両手で覆って、首を振る淳也の背中を満さんと一緒に見下ろした。
「お前。悪女だな」
「そうですか?よく、小悪魔っては言われるんですけど」
「んな、可愛いもんじゃねぇよ」
オムライスを食べながら、カップが空になり、私は、淳也の背中に向かって言った。
「カップチーノ飲みたいなぁ~」
「はい!!ただいま!!」
勢いよく立ち上がり、顔も見ずに、コーヒーカップとソーサーを受け取ると、カウンターの中に片付け、機械の前に立ち、カップチーノを淹れ始めた。
「にしても。マコト。なんかあったのか?」
「なんでですか?」
「顔見りゃ分かる。なんかあったんだろ?」
私は、優しくそう聞かれ、全てを話してしまおうかとも思ったが、視線を落とし、オムライスを口に入れた。
「何もないですよ?強いて言えば、仕事が忙しかったです」
「大丈夫なんすか?」
頭が冷えたのか、淳也は、いつもの調子に戻り、カップチーノを私の手元に置き、満さんと並んで立った。
「なにが?」
「忙しいんなら、土曜、断った方がいいんじゃないすか?」
「大丈夫よ。もう、大体は片付けたから」
「ホントすか?」
「あんま無理すんじゃねぇぞ?」
「大丈夫だって」
そんな時、ドアベルの音がして、横目で見ると、龍之介が入ってきた。
あれ以来、久々に顔を合わせる。
なんとなく、気まずくて、オムライスをかっ込んで、カップチーノを一気に飲み干して、椅子から立ち上がった。
「ご馳走様」
お財布を取り出し、カウンターに代金を置いて、さっさと、お店から出ようとした。
「おい」
扉に手を掛けた時、龍之介に呼び止められ、肩を掴まれた。
「なに」
本当は、声が震えそうだった。
それでも、震えないようにして、睨むようにして見つめると、龍之介は、鼻で溜め息をついて、私の頭に手を乗せた。
「もう何もしねぇよ」
龍之介の目元が、柔らかな弧を描き、呆れたように微笑むのを見つめ、いつの間にか、強張らせていた肩から力が抜けた。
「ま。諦めはしねぇからな」
「あっそ」
扉に視線を戻すと、頬に柔らかな感触がして、驚いて、龍之介に顔を向けた。
「なにす…」
「別に何も」
「今、何もしないって…」
「ほっぺにチューくらいはいいだろ」
顔を真っ赤にして、龍之介の膝に蹴りを入れ、ガクンと揺れた肩に、思いっきり、パンチをのめり込ませた。
龍之介は、右肩を掴みながら、カウンターに倒れるように、突っ伏して痛みに悶えた。
「ざけんな!!ばか!!」
そう叫び、拳を握って、龍之介を睨み付けてると、肩に重みが掛かり、私は、顔を赤くしたまま固まった。
「ダメだなぁ。龍之介は、守備が甘いよ」
耳元に聞こえた祐介の声の後に、また頬に柔らかな感触がして、微かにチュッと音が聞こえた。
「…んなろー!!何すんだ!!」
祐介の脇腹に思い切り、肘を食い込ませ、腕が緩んだ隙に、かかとで脛を蹴りつけた。
壁に背中を着け、滑るように屈んで
脛を掴む祐介を睨むと、満さんが、苦笑いしながら、痛みに悶える二人に言った。
「何やってんだ。バカ共」
パーカーの袖で、頬をゴシゴシ拭くと、苦笑いしてる淳也が、おしぼりを差し出した。
「ありがと」
おしぼりを受け取り、頬を拭くと、祐介が立ち上がり、淳也を指差して、叫ぶように言った。
「淳也!!お前何渡してんのさ!!」
淳也は、胸の前で手を振りながら、後退りした。
「いや。あの。なんとなく、気持ち悪いのかと思って」
カウンターを強く叩きながら、起き上がった龍之介が、拳を作りながら、淳也に向けて言った。
「決死の覚悟でしたんだぞ!!拭かせんなよ!!」
「へぇ~。そうだったんだ。なら、別にぶん殴ってもいいんだよね?」
おしぼりを持つ手に、拳を作ると、二人は、身構えて、少しずつ、私から離れて、お店の奥にある更衣室に向かった。
「あ!!早く着替えなきゃな?龍之介」
「そうだな。それじゃな」
背を向けて、一気に、更衣室のドアを開け、バタバタと、二人で入っていった。
その背中を見送り、私は、溜め息をついて、淳也に視線を向けた。
「ごめんね?」
「いっすよ。慣れたすから」
苦笑いする淳也におしぼりを返し、私は、更衣室のドアを見つめた。
「二人が来たってことは、もうあがりなの?」
「そっす」
「この後の予定は?」
仕事以外で、家にいたくなかった私が、それとなく聞くと、淳也は、首を傾げて答えた。
「何もないすけど?」
「じゃ、早く着替えてきてね」
「…はい?」
「あ~そびぼ?」
小学生のように言うと、更衣室のドアが勢いよく開いた。
スラックスの腰の部分を掴んで、龍之介が顔を出し、淳也に威嚇するように、睨みながら言った。
「行くんじゃねぇぞ」
龍之介の威嚇に苦笑いして、横目で私を見下ろす淳也を見ると、なんとなく、青ざめてる気がした。
「変態」
龍之介が、背中を向けたのを確認してから、背伸びをして、淳也の耳元で囁くように言った。
「外で待ってる」
頬を赤くしながら、小さく頷く淳也に優しく微笑むと、更衣室の出入口から、祐介が腕組をして言った。
「何話してんの?」
祐介の威圧感のある笑顔に淳也は、首を振りながら、手を胸の前で小さく振って言った。
「なんでもないっす」
そんな状況に、私は、クスクスと笑いながら、背を向けて、扉に向かった。
「じゃ、またね?如月君」
小さく手を振ってから、階段を上がって、すぐ横の壁に寄り掛かって、淳也が出てくるのを待った。
十分くらい待っていると、ドアベルの音が聞こえた。
階段を急いで駆け上がる靴音に顔を向けると、私服に着替えた淳也の顔が見えた。
息を切らしながら、左右に首を振り、私を見付けると、壁に手を着き下を向いた。
「大丈夫?」
「チョー怖かったっす」
「ごめんね?」
大きく一つ深呼吸してから、顔を上げた淳也は、高校時代と変わらない人懐っこい笑顔だった。
「大丈夫っすよ。なんとか、誤魔化したっすから」
変わらない笑顔が、高校時代を思い出させ、こんなにも変わってしまった自分が、恥ずかしくて悔しい。
「そっか。じゃ~行こっか」
そんな思いを悟られないように、明るくそう言うと、淳也も気付かないフリをして、明るく返事を返してくれた。
「うっす」
淳也と並んで、車を停めてあるコインパーキングとは、真逆に歩き出した。
「噂の彼女とは、どうなったの?」
淳也には、二つ上の彼女がいて、私たちも、顔は知っていた。
「フラれたっす」
「なぬ!?いつよ」
「一年くらい前っす」
「あれ?もしかして、知らなかったの私だけ?」
「いえ。誰にも言ってないすから、誰も知らねっすよ」
本当は聞きたい。
別れた原因が何なのか。
だが、龍之介のように、無神経にもストレートに聞く度胸なんて私にない。
「なんか俺、他に好きな人がいるらしいんすよ」
「…ん?自分のことじゃないの?」
「そうなんすけど、自分じゃ気付いてないらしいんすよ。そんで、フラれたんす」
「変なの。なんで、そう思ったんだろうね?」
「あ。それは、俺が、よく髪型とか服装とかを指定してたからす」
「それだけ?」
「そんで、不意に、ある人に似てるって、思ったらしいんすけど、誰に似てんのかは、教えてくれなかったんすよ」
「へぇ。なんか複雑ね」
「そうなんすよ。ホント、女心分かんねぇっす」
「私も女なんだけど」
「そでしたっけ?」
「ひどっ!!」
「だって、先輩の私服が私服っすからね」
「すみませんね。男っぽくて」
アッカンベーをして、淳也を置いて、早足になって歩くと、小走りしてきた淳也が、私の肩に、わざと肩をぶつけた。
「え」
よろけて、バランスを崩して、倒れそうになった私を見て、淳也は、慌てて、私の手首を掴んで引き寄せた。
「大丈夫すか?」
私の肩を掴んで、支える淳也の前で、私は、ボーッとしていた。
おかしい。
前までは、これくらい、なんてことなかったのに、なんで踏ん張れなかったのか。
「先輩?」
支えるように掴まれていた肩から、背中に動いた手に、私は、我に返り、淳也の脇腹にパンチした。
「何してくれんの」
淳也がお腹を抱え、苦しそうに背中を丸めたのを見下ろし、私は、手加減するのを忘れてた。
「ごめん!!大丈夫?」
小さく頷く淳也の背中を擦り、何度も、私は、何度も謝った。
「もういいっす」
涙目になりながら、顔を上げた淳也は、体を起こして、脇腹を擦った。
「あ~痛かった」
「ホントごめん」
「もういいっすよ。それより、どこ行くんすか?」
私は、口角を上げて、ニヤリと笑い、淳也の腕を掴んだ。
「ちょっと付き合ってね?」
「…はい?どこにすか?」
「ちょっとね。物知りな如月君にしか出来ないこと」
優しく微笑んで、腕を絡ませると、淳也の頬が赤くなった。
「ほら。行くよ」
「え?ちょっと!!先輩!!引っ張んないで!!」
淳也の腕を引っ張るようにして歩き出した。
私が淳也を連れてきたのは、女性向けファッション誌で、よく特集を組まれている有名なショップだった。
「ねぇ。如月君的には、こっちとこっち、どっちが大人っぽい?」
黒のフレアスカートと白のサブリナパンツを見せながら聞くと、淳也は、考える仕草をしてから、人差し指を立てて言った。
「上に合わせる物に因るっすね。例えば…」
近くにあった花柄で、肩の部分が、少し空いたボレロのような服と白のノースリーブを持った。
「上が柄物なら白のサブリナ。逆に、無柄なら黒のフレアか柄物のスカートとかの方がいいっすね」
淳也が私の持つサブリナとフレアに、それぞれを合わせると、確かに、両方とも大人っぽく見える。
「如月君って、こうゆうのは凄いよね」
「なんか、褒められた気がしねっすよ?」
苦笑いしながら、持っていた服を片付ける淳也を尻目に、私は、近くのハンガーラックに掛けてある服を見ていた。
「先輩も、なんか着てみたら、どうすか?」
「え~。いいよぉ。私、こうゆうの似合わないし」
そう言うと、淳也は、何かを考えるように、指で顎に触れ、閃いたように、私に向き直った。
「じゃ、俺が先輩をコーデするのは、どうすか?」
「やだ」
速答すると、淳也は、私の隣に並んだ。
「なんですか?いいじゃないすか。コーデさせて下さい。お願いします」
「ちょ!!」
土下座しそうな勢いで、頭を下げた淳也のおかげで、周りから、冷たい視線が、飛んできた。
私は、慌てて、淳也の肩を掴んだ。
「こんな所でやめてよ。頭上げて」
「いいって言うまで上げねっす」
「分かったから。やっていいから」
「うっしゃ」
頭を上げて、ガッツポーズした淳也は、ハンガーラックや棚に並ぶ服を手に取り、私に合わせ始めた。
鼻唄を歌いながら、服を選ぶ淳也に、私は、溜め息をついた。
「何なら、メイクとかもして欲しいっすね」
「やだよ。めんどい」
また頭を下げようとした淳也の腕を掴んで、下を向いて、大きく溜め息をついてから言った。
「分かったから、それやめて」
「あざっす」
嬉しそうに笑う淳也が、恐ろしく思えた。
それから淳也が、悩むに悩んで、選んだのは、小さな淡い色の花柄フレアスカート、袖の部分がシースルーになってる黒のブラウスだった。
「んじゃ、待ってるんで」
ニコニコと笑ってる淳也に、私は、溜め息をついて、試着室に向かい、靴を脱いで上がり、カーテンを締めた。
渡された服に着替えてから、カーテンを開けると、目の前に淳也が立っていた。
「いいっすね。あと、これもっす」
そう言って、淳也が広げて見せる、白のロールアップジャケットを受け取ろうと、手を伸ばした。
だが、淳也は、靴を脱ぐと、試着室に入り、私の後ろに回った。
ジャケットを広げたまま、袖を通すのを待っていた。
私は、鼻で溜め息をついて、ジャケットに袖を通し、向き直ると、淳也は、満足そうに笑った。
「満足?」
「そっすね」
「じゃ、着替えるよ」
「何言ってんすか?」
試着室から出て、靴を履きながら、私に向き直った淳也は、カーテンを掴んだ。
「いやいや。だから、元に戻るのよ。離して?」
「ダメっす」
「何故に?」
「さっき言ったっすよ?メイクとかもって。そのまま着てくすよ。すみませ~ん」
手を上げて、店員を呼ぶ淳也のカーテンを掴んでいる腕を掴んで、カーテンを締めようとした。
だが、阻止されてしまい、締められずにいると、店員が来てしまった。
「はい」
「着てくんで、タグ、切ってもらっていいすか?」
「分かりました。ちょっとお待ち下さいね」
店員が、レジカウンターの方に向かうのを確認して、淳也に顔を近付け、小声で言った。
「ちょっと!!何勝手に進めてんのよ!!」
「いいじゃないすか。似合ってるんすから」
「そうゆう問題じゃないでしょ?」
「お待たせしました。これ、使ってください」
「どもっす」
さっきの店員が、ハサミとお店のロゴが入ったショップ袋を持って、戻って来ると、ショップ袋を淳也に渡した。
「失礼します」
淳也が、着ていたパーカーやジーパンをたたみながら、ショップ袋に仕舞っている間に、店員は、試着室に入り、服からタグを切って、試着室から出た。
「あと、これもいっすか?」
そう言って、店員にポーチ型のショルダーバックと白のバレーシューズ型の靴を差し出した。
「すぐ使いますか?」
「そっすね」
「じゃ、タグだけ切りますね」
そう言って、タグを切って、店員は、レジカウンターに向かった。
ポケットに入ってた携帯とお財布を入れて、ショルダーバッグを置き、試着室の前に靴を置くと淳也は、着てきた服の入ったショップ袋を置いて、レジカウンターに向かって、行ってしまった。
「ちょっと待って!!」
急いで、靴を履き、ショップ袋とショルダーバッグを掴んで、淳也を追いかけながら、お財布を取り出した。
だが、淳也は、支払いを終え、店員からレシートとおつりを受け取っていた。
「あと、半分出すから」
「いっす」
淳也は、おつりと一緒にレシートをお財布に入れて、私に向き直り、ショップ袋を奪うように取ると、お店の出入口に向かった。
「ちょっと待ってよ!!」
淳也を追って、お店を出て、隣に並んで見上げた。
「なんで?」
「何がすか?」
「お金。なんで?」
「あぁ。ちょっと早いすけど、誕生日プレゼントっす」
真っ直ぐ歩く淳也を横目で睨んだ。
「いくらしたのよ」
「二万くらいすかね」
想像してたのより、倍の金額に驚き、私は、淳也を見上げながら、腕を掴んだ。
「高すぎるよ!!半分は払うから」
「いっすよ」
「ダメ」
「ホントにいっすから」
「ダメだって」
「じゃ…」
急に立ち止まり、私に顔を近付け、鼻がぶつかりそうな距離で、淳也が言った。
「今日一日、俺の彼女で」
一瞬、私の思考が停止し、再起動してから、淳也の言ってる事を理解すると、私は顔を離した。
「何言ってんのよ。そんなんで、済む問題じゃ…」
「じゃ、満さんと忍さんに言うっす。金山先輩に脅されて、拉致られたっすって」
ニコニコと笑う淳也とは違い、私は、青ざめていた。
そんなことを二人に言ったら、何を言われるか分からない。
酷い時は、貴子さんと巴さんのオモチャにされかねない。
逃げ場を失った私は、溜め息をついて、頷くしか出来なかった。
「分かった。今日だけね」
「うっす。あざっす」
小さくガッツポーズをしてから、手のひらを向けた淳也を見つめてから、その手を握って、引かれるように歩き出した。
その後、淳也に連れられ、有名なヘアメイクサロンに入り、受付の店員が、こちらに気付いた。
「いらっしゃいませ」
「予約してた如月っす」
いつの間に、予約なんかしてたのか。
店員は、パソコンを操作して確認すると、営業スマイルをして、淳也に向き直った。
「こちらへどうぞ」
店員について行く淳也に、また手を引かれ、店の奥に進み、大きな三面鏡の真ん中にある椅子に座らせられた。
「今日は、どのようにしますか?」
肩にケープを掛けながら、店員に聞かれ、淳也は、鏡に写る私を見つめて、髪に触れた。
「そっすね。今日の服装に合わせてもらえればいいっすよ」
なんで、お前が答えるんだ。
そう思いながら、仏頂面で鏡越しに淳也を睨むと、店員は、クスクスと笑って言った。
「かしこまりました」
店員が、道具が置かれたカートから、クリーム状のファンデーションを手に取った。
淳也は、私の肩に手を置いて、鏡越しに見つめ、顔を私の横に出した。
「あっちで、待ってるんで」
「はいはい」
投げやりに返事をすると、淳也は、私の頭を一撫でして、背中を向けて、出入口の方に去っていった。
「それでは、始めますね?」
「お願いします」
あまり手入れをしてない私の顔に、ファンデーションを乗せて、メイクを始めた。
「彼氏さん。お優しいんですね」
目を点にして、鏡越しに店員を見つめると、店員は、クスクスと笑いながら、眉毛を整えた。
「恋人の為に、ご予約される方は、いらっしゃらないんですよ?」
「勝手に予約してただけですよ」
「そうなんですか?でも、いいじゃないですか。それだけ、想ってもらえてるんですから」
そう言いながら、アイラインを引いて、店員が、アイシャドーを手に取ったのを確認し、私は、静かに目を閉じた。
『想ってもらえてるんですから』
想うってなに。
サロンを予約する事なのか。
高い服を買ってくれる事なのか。
違う。
私は、知ってる。
私の事を本当に大切にして、本当に想ってくられる人が、ちゃんといる。
夜の仕事で、疲れてるはずなのに、私の為に、朝起きて、必ず朝食を作って、仕事に集中出来るように、洗濯をしてくれて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。
素直に甘えてくれる人。
甘えさせてくれる人。
私が綺麗に着飾らなくても、可愛いと言ってくれる人。
「終わりました」
目を明け、鏡に写る私は、まるで別人だった。
山崎さんに見せたいな。
そう思うと、自然と微笑みが漏れた。
「ありがとうございます」
鏡越しに店員を見て、お礼を言うと、店員も、自然な微笑みで、頭を下げた。
椅子から立ち上がり、出入口の方に行くと、淳也は、受付の前にあるソファーに座って、携帯をいじるのに夢中になっていた。
受付にあるレジに向かい、お財布を取り出し、会計をしてから、目の前に立って、やっと、私に気付いた淳也は、口を半開きにした。
「どうよ」
得意気な顔で、見下ろして聞くと、淳也は、ただ静かに頷いた。
「行こっか」
「う…うっす」
やっと、声が出た淳也が立ち上がり、お財布を出そうとして、私は、クスクスと笑って言った。
「もう払ったから」
ボーッとする淳也を置いて、先にサロンを出ようした。
「あ!!待って!!」
「ありがとうございました」
お財布を仕舞いながら、隣に並んだ淳也を見上げた。
私は、淳也に悪いと思いながらも、隣に並ぶのが、淳也ではなく、山崎さんだったら、よかったなと思った。
サロンを出てから、暫く、歩くと、緑が、綺麗な少し大きめの公園があった。
なんとなく、その公園に入り、ゆっくり歩いた。
「先輩は、好きな奴っているんすか?」
「急になに?」
「いや。なんとなくっす」
「いるよ」
そう答えると、淳也は、驚いた顔をして、空を見上げる私の横顔を見つめた。
「意外?」
「あ…いや。いるんなら、こんなことしてたら、まずいっすよね」
「まずい…か」
私の心が、どこか遠くに飛んでいく。
体を重ね合い、笑い合い、穏やかで充実して、隣にあった山崎さんの優しい微笑みが欲しい。
だが、あの日、私は、自分で全てを壊したんだ。
淋しくて、空しくて、悲しくて、苦しい。
なんで、私は、素直に自分の気持ちを伝えられなかったのか。
なんで、私は、あの日に謝れなかったのか。
「先輩?大丈夫すか?」
いつの間にか、顔を歪めていたらしく、淳也に視線を向けると、心配そうな顔をしていた。
そんな淳也に向けて、微笑みを浮かべたが、逆効果だった。
淳也の顔が、悲しそうに歪んだ。
「分かったっす」
淳也から視線を反らして、遊歩道を歩き出すと、すぐ淳也が、そう言って、私は、立ち止まり、淳也に振り向いた。
「分かったっすよ。俺、やっぱ、元カノが言ってた通り、別に好きな人がいたんっす」
「ふ~ん」
「ねぇ。先輩。俺、先輩が…」
「ごめんね」
真剣な顔の淳也が、告白しようとするのを遮り、私は、淋しく笑った。
「なんですか?」
体の横にぶら下げるようにしていた手を握り締めて、肩を微かに震わせながら、淳也は、哀しそうな顔をして、私を見つめた。
「俺は、先輩に、そんな顔、絶対、させないっす!!そんな淋しそうで、哀しそうな顔させないっすから。俺と…」
「無理だよ。今の関係を壊したくない」
顔を歪め、私の肩を掴んで、顔を近付けようとした淳也の胸元を押し返し、私は、足元に視線を向けた。
「なんで…」
肩を掴む淳也の指が食い込んで、私は、痛みに顔を歪めた。
暫く、肩に食い込む痛みを耐え、手から力が抜け、淳也は、囁くように言った。
「そいつの…どこがいいんすか」
目を閉じ、山崎さんを思い浮かべ、私は、静かに言った。
「仕事で、疲れてるはずなのに、私の為に、朝起きて、必ず朝食を作って、仕事に集中出来るように、洗濯をしてくれて、素直に甘えてくれて、甘えさせてくれて、私が着飾らなくても、可愛いと言ってくれて、私を本当に大切にしてくれて、私の事を本当に想ってくれて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。今は、気持ちが分からないけど、きっと、いつかは、分かり合いたいと思ってる。初めて、本気で好きになったの」
山崎さんへの想いを吐き出すように、一つ一つを確かめるように、自分に言い聞かせるように、大切な想いを淳也は、静かに聞いて、黙ったまま手を離した。
無言のまま、公園を一周してから、コインパーキングに向かって歩いた。
気まずさよりも、私は、淳也に悪い事をした罪悪感で、顔を上げられなかった。
淳也は、何かを考え込んでいるようだった。
「あほ…」
「はいはい」
「ばか…」
「はいはい」
「いじわる…」
「すみませんね」
山崎さんが、私の体を持ち上げ、布団に寝せて、枕に頭を乗せると、首に回した腕を押し上げた。
「もうほどいてよ…」
山崎さんにネクタイで、縛られた手を突き付けると、山崎さんは、意地悪な微笑みで、縛られた手を押し返した。
「ちょっと、ほどいてってば」
「イヤですよ」
「なんで」
山崎さんは、体を起こして、布団に膝を外に向けて、お尻を着いて座り、ティッシュを取って、股間を拭き始めた。
「ねえ!!」
拭き終わったティッシュをゴミ箱に投げ入れ、新しく、ティッシュを取ると、私に向き直った。
山崎さんの微笑みが、悪魔のように見え、私は、お尻を擦りながら、後退りした。
「何するつもり?」
「拭かなきゃないでしょ?」
「いっいいよ。自分でやるから」
「その手で、どうやって拭くんですか?」
「だからほどいてって」
「イヤです」
「いやって…ちょっと!!いや!!いや!!」
窓の下の壁に貼り付くように、背中を着け、両膝を掴んで、広げようとするのを足に力を入れて阻止した。
必死に縛られた手で、山崎さんの手の甲を掴んで、押し返そうと腕にも力を入れた。
「それじゃ、拭けませんよ」
「自分で…拭くから」
必死になって、山崎さんは、広げようとして、私は、広げないようにする。
暫く、そうしていたが、山崎さんは、溜め息をついて、私の膝から手を離した。
黙って見つめていると、山崎さんは、私から離れて、布団に座った。
それを確認して、足から力を抜いた私の視線が、天井に向いたのは一瞬だった。
山崎さんの手が、足首を掴んで、一気に引き寄せられ、山崎さんの太ももの上に、太ももを乗せ、寝転がったまま、山崎さんに股がるような形になった。
「やめ…ひぃ!!ん…んん…」
変な声を出し、体を捩りながら、床を足裏で蹴って、股間を拭く山崎さんの手から逃げようとした。
「ダメですよ?ちゃんと、拭かなきゃ」
「じ…ぶんで…ふく…ぅ…」
「そんなんで、拭けないでしょ?」
「ほ…どい…てん…」
「そんな声出されたら、したくなっちゃいます」
「でも…ぅ…ん…」
「我慢して下さい」
ティッシュ越しに、落ち着いた蕾に山崎さんの指が触れ、体を震わせて、縛られた手を噛んで、声を殺した。
山崎さんが、股間を拭き終わるまで、体を震わせながら、必死に絶えた。
「はい。終わりましたよ」
山崎さんが手を離し、そう言って、上半身だけを後ろに向け、使い終わったティッシュをゴミ箱に投げた。
グッタリしながら、ティッシュがゴミ箱に入るのを見て、天井に顔を向けて、目を閉じた。
「あのさ」
「はい」
私に覆い被さるように、のし掛かって、私の肩に腕を回して抱えると、布団に寝かせた。
山崎さんは、隣にうつ伏せに寝転んだ。
「いい加減、これほどいてよ」
「イヤですよ」
「だからなんで」
山崎さんに視線を向け、横向きになると、掛け布団を引き上げ、私を抱き寄せようと、手を伸ばしてきた。
「待て」
私の肩を掴んだまま、止まった山崎さんのはだけたYシャツを指差して、睨むように言った。
「着替えな」
山崎さんは、納得したように上半身を起こすと、Yシャツを脱ぎ捨てて、そのまま、仰向けに寝転んだ。
「ちょっと。シワになるでしょ」
そう言って、上半身を起こして、寝転んだ山崎さんの腹の布団を軽く叩いた。
「別にいいですよ。安物ですから」
「なんで、そんな投げやりなのよ」
「あの人。いいスーツでしたね」
「あの人?」
「今日、一緒にいた人です」
「一緒いたって。どっちのこと言ってんのよ」
「両方ともです」
イライラしたように、ため息混じりに言った山崎さんの態度が、イラッとした。
「そらそうよ。私がプレゼントしたんだから」
そう言うと、山崎さんの目が見開かれ、驚いたような顔をした。
「両方ですか?」
「片方は知らん」
「えっと…知り合いですか?」
「清彦さん」
「どっどっちですかね?」
「白髪」
「…嘘ですよね?」
「ホントよ」
天井に顔を向けたまま、目元を片手で覆った。
「ほどいて」
縛られた手首を山崎さんに差し出すと、山崎さんは、少し悩むような仕草をしてから、やっとネクタイをほどいてくれた。
「痕残ったじゃん」
ネクタイが擦れ、はっきりと残った痕を擦りながら、布団から立ち上がり、脱ぎ捨てられたスーツとYシャツを拾った。
ネクタイを抜き取ろうと、山崎さんの手を滑るように離れた時、手首を掴まれた。
「痛かったですよね?」
山崎さんは、心配そうな、後悔してるような、複雑な顔をして、手首の痕に触れた。
私は、鼻で溜め息をついて、その場に屈み、手首に触れる山崎さんの手を見つめて言った。
「もういいよ。暫くすれば、消えるから」
手首を擦りながら見つめる山崎さんの視線を見つめ返す事が、私は、出来なかった。
互い様だと思いながらも、謝らなければ、ならないのだと分かってる。
急だったとは言え、何も言わずに出掛け、清彦さんに山崎さんのことを言わなかった。
付き合ってないのに、こんな事してるのが、後ろめたくて言えなかった。
それでも、山崎さんを裏切ったような形になったのは、私自身が悪いのも痛感してる。
なんて謝ればいいか分からず、視線を反らして、黙っていると、私の手首から山崎さん手が離れた。
私は、下を向いたまま、立ち上がり、クローゼットに向かうと、中から使ってないハンガーを取り出し、山崎さんのスーツを掛けて、クローゼットに仕舞った。
「Yシャツの替えってあるの?」
「一枚あります」
山崎さんのYシャツを持ったまま、床に脱ぎ捨てられた自分のスラックスと下着を拾い、洗面所に向かった。
持ってきたものとブラウスを洗濯カゴに入れ、ジャージに着替えてから、寝室に戻った。
布団には、山崎さんの姿はなくなっていた。
着替えに和室に行ったのだろうと思い、布団に座り、なんて言って謝ろうかと、膝を抱えて、山崎さんが戻るのを待っていた。
だが、いつまで待っても戻って来ない。
和室に向かい、そっと障子を開け、中を覗くと、山崎さんは、障子に背を向けて、布団にくるまっていた。
背中で拒絶されてるように感じで、私は、障子を締めて、寝室に戻り、布団を頭から被って目を閉じた。
瞼に山崎さんの作られた微笑みが浮かび、泣きたくなってきた。
悪気があったんじゃない。
下心なんてまるでなかった。
でも、私の軽率な行動が山崎さんを傷付けた。
そう思うと、清彦さんにちゃんと、言えばよかった。
完全に自己嫌悪に陥った私は、頭を抱えたまま寝てしまった。
後悔した。
拒絶されようが、嫌われようが、怒られようが、この時に謝ればよかった。
でも、後になってから、悔しいと思うのが後悔であって、何をどうしても、どう足掻いても、もう全てが遅かった。
お昼少し前に目が覚め、寝室から出て、和室の障子を少しだけ開けて、中を覗いた。
でも、そこには、私の期待していた山崎さんの姿はなかった。
布団は、綺麗にたたまれ、庭には、洗濯物がそよ風でなびいているだけだった。
障子を締め、リビングに向かい、ドアノブに手を掛けて、大きく深呼吸してから、そっとドアを開けた。
隙間から顔を出し、中を見渡したが、山崎さんはいなかった。
大きくドアを開け、見渡すと、カウンターに何か置かれているのが、視界に入り、それに近付いた。
出掛けます。
温めてからからどうぞ。
短い文章の書き置きと一緒にラップの掛かった食器には、だし巻き玉子やウィンナーが盛られていた。
私は、書き置きをカウンターに置いて、暖めずに、そのまま、朝食を一人で食べ始めた。
だが、食欲がないのに、淋しさで、更に、食欲を亡くし、ラップを掛け直して、冷蔵庫に仕舞った。
コーヒーを淹れ、換気扇の下で、タバコを吸い始めたがすぐに消した。
マグカップを持ち、仕事部屋に行き、パソコンの電源を入れ、点滅していたメールを開いた。
Dear.マコトさん。
お疲れ様です。
早速なのですが、テーマは、大人の恋で、五月十日までによろしくお願いします。
可奈さんからメールを読んで、たった、一言だけの返信を返した。
Dear .可奈さん
了解です。
メールの完了画面を確認せず、コピー用紙を取り出し、言われたテーマに合うように、設定や詳細を書いて、新しくフォルダを作り、読み切りを書き始めた。
どれくらい、読み切りを書いていたのか分からない。
私が気付いた時には、空が茜色に染まっていた。
私は、パソコンを点けっぱなしにして、仕事部屋を出て、和室に向かい、庭の洗濯を取り入れた。
たたんでから、洗面所や寝室に片付けて、リビングに行き、冷蔵庫を開け、食材を確認した。
サラダとナポリタンを作り、山崎さんが、帰ってくるのを椅子に座って待った。
だが、電気を点ける程に、外が暗くなっても山崎さんは、帰って来なかった。
時計を見ると、もう八時を回っている。
サラダとナポリタンにラップを掛け、和室に向かった。
窓から顔を出し、車があるのを確認して、窓を締めて、鍵を掛けると、カーテンを引いて、玄関先に向かい、電話機の横にあるメモ帳を一枚、破いて、リビングに戻った。
夜遅くまでお疲れ様。
夕飯作ったから、温めて食べてね。
メモ用紙にメッセージを書き、ラップの上に置いて、リビングの電気を消し、ドアを締めた。
洗面所に向かい、シャワーを頭から浴び、着替えて、仕事部屋に戻った。
冷たいコーヒーを一口、飲んでから、また、仕事を再開した。
暫くして、携帯が鳴り、時計を見ると十時半になるところだった。
表示画面を確認し、受話ボタンを押した。
「はい?」
『もしもし?今週の土曜、夜の七時に来れるよね?』
「あのさ。ちゃんと説明してよ」
『だから、今週の土曜、夜の七時』
「意味分からん」
『来れるよね?』
「祐介。何が言いたいの?その日に何があんの?」
『あ。そっか。今、龍之介と、前みたいに、忍さんや貴子さんたちを誘って、バーベキューでもしようかって、話になってね?それで、忍さんと満さんに相談したら、今週の土曜なら、大丈夫だろうってなったんだ』
「私には、何も聞かないで決定かい」
『だって、マコトは、いつでも平気でしょう?』
オデコに触りながら、溜め息をついて、電話の向こうで、威圧的な笑顔を作ってる祐介の姿が見えた気がした。
「分かった。土曜の七時ね?どこでやるの?」
『マコトん家の庭』
「あー。場所、用意できなかったのね」
私が溜め息をついて、苦笑いすると、祐介は、短く声を上げて言った。
『でも、山崎さんいるから無理か』
山崎さんの姿を思い浮かべ、昨日の事を思い出した私は、いつの間にか、無表情になってた。
「いいよ。別に」
『でもさ~』
「山崎さんなら、その時間帯、仕事でいないから。大丈夫」
『…本当にいいの?何か、投げやりになってない?』
「そんな事ないよ?それに、ここは、私の家だし。彼は、ただの居候だし」
居候の部分を強調するように、強く言うと、祐介が何か言おうとしたが、私は、無視して続けて言った。
「買い出しは、任せたからね?よろしく。じゃ」
『ちょっと!?マコト!!』
騒ぐ祐介を無視して、終話ボタンを押して、携帯の電源を切って、中断していた仕事をすぐに再開した。
読み切りを途中まで、書いていたのは、覚えているが、気付けば、椅子に座ったまま、デスクに突っ伏して、寝ていた。
起きた時には、空が明るく、太陽が真上に昇り、時計の針は、十二時を差していた。
飲みかけのコーヒーが、入ってるマグカップを持って、リビングに行き、カウンターに昨日と同じように、ラップの掛かった食器に朝食が盛られてあった。
昨日と違い、書き置きはない。
空しい気持ちと淋しさで、私は、そのまま、冷蔵庫に全部仕舞った。
マグカップを洗って、寝室に行き、パーカーとジーパンに着替えて、仕事部屋で、お財布と携帯をポケットに押し込んだ。
下駄箱の上から車の鍵とキーケースを掴んで、車を走らせ、コインパーキングに車を停めて、満さんのお店の扉を開けた。
「いらっしゃい。って先輩!!」
「如月君!!」
「久し振りっす」
「ホント久しぶり。元気だった?」
「うっす」
「また背伸びた?」
「そうすか?」
「伸びたよ。ほら」
横に立って、私は、自分の頭上に手を置いて、真っ直ぐ横に動かし、淳也の肩に手をぶつけた。
「ほら。やっぱり伸びてる」
「本当っすね。横に立つと、よく分かるっすよ?先輩がちっちゃいの」
「ちっちゃい言うな」
軽く肩をパンチして、二人で笑っていると、カウンターの奥から満さんが、顔を出した。
「お?マコトか。んな所で何してんだ?」
「如月君と久々のふれあいです」
「お前。淳也(ジュンヤ)の邪魔すんなよ」
「邪魔なんかしてないですよ。ねぇ?」
「ぶっちゃけ邪魔っす」
「ひどっ!!」
肩を軽く叩いてから、カウンター席に座った。
「いつものでいいか?」
顔だけを私に向け、そう聞いた満さんに頷くと、満さんが、カウンターの奥に姿を消した。
淳也も、カウンターに入って、コーヒー豆を挽き始めていた。
「ねぇ~。如月君」
「なんすか?」
「土曜って、如月君も来るの?」
「なんの話すか?」
「土曜に私ん家で、バーベキューするんだって」
「なんすか?それ。自分ん家なのに、他人事みたいっすよ?」
「だって、龍之介と祐介が、計画したんだもん」
「またすか。懲りないっすね」
「もう諦めたよ。それで?来るの?」
「いや。誘われてないすから、行かないっすよ」
「予定は?」
「ないっす」
「じゃおいで」
「いいんすか?」
「別に一人増えるくらい、どってことないし。大丈夫だよ」
「でも、先輩ん家って、同棲してる人いるんすよね?」
何故、淳也が山崎さんの事を知ってるのかは、なんとなく分かった。
また、龍之介や祐介が、ベラベラと喋ったのだと思い、私は溜め息をついた。
「あれは居候」
「祐介先輩たちは、同棲って言ってたっすよ?」
湯気の上がるコーヒーカップをソーサーに乗せ、前に置きながら、淳也にそう言われ、私は、山崎さんと一緒に笑っていた日々を思い出した。
気持ちが落ち込み、黙って、カップの中で、黒々と揺れるコーヒーを見つめた。
「先輩?」
顔を覗き込みながら、心配そうな顔をした淳也が、視界に入り、我に返った。
「な何?」
「大丈夫すか?怖い顔になってるっすよ?」
「大丈夫。でも、同棲するなら、私は如月君がいいな」
ニコニコと笑いながら、そう言うと、淳也は、顔を真っ赤にして、私を見つめた。
「ダメかな?」
「あえ?あ!その。あの。えっと。んと」
慌てふためく淳也が、面白くて、ケタケタと笑っていると、前にオムライスを盛ったお皿を置きながら、満さんに頭を軽く叩かれた。
「いじめんな」
「だって、可愛いんですもん」
叩かれた所を擦りながら、カウンターの中に屈んで、こっちに背中を向けて、真っ赤になった顔を両手で覆って、首を振る淳也の背中を満さんと一緒に見下ろした。
「お前。悪女だな」
「そうですか?よく、小悪魔っては言われるんですけど」
「んな、可愛いもんじゃねぇよ」
オムライスを食べながら、カップが空になり、私は、淳也の背中に向かって言った。
「カップチーノ飲みたいなぁ~」
「はい!!ただいま!!」
勢いよく立ち上がり、顔も見ずに、コーヒーカップとソーサーを受け取ると、カウンターの中に片付け、機械の前に立ち、カップチーノを淹れ始めた。
「にしても。マコト。なんかあったのか?」
「なんでですか?」
「顔見りゃ分かる。なんかあったんだろ?」
私は、優しくそう聞かれ、全てを話してしまおうかとも思ったが、視線を落とし、オムライスを口に入れた。
「何もないですよ?強いて言えば、仕事が忙しかったです」
「大丈夫なんすか?」
頭が冷えたのか、淳也は、いつもの調子に戻り、カップチーノを私の手元に置き、満さんと並んで立った。
「なにが?」
「忙しいんなら、土曜、断った方がいいんじゃないすか?」
「大丈夫よ。もう、大体は片付けたから」
「ホントすか?」
「あんま無理すんじゃねぇぞ?」
「大丈夫だって」
そんな時、ドアベルの音がして、横目で見ると、龍之介が入ってきた。
あれ以来、久々に顔を合わせる。
なんとなく、気まずくて、オムライスをかっ込んで、カップチーノを一気に飲み干して、椅子から立ち上がった。
「ご馳走様」
お財布を取り出し、カウンターに代金を置いて、さっさと、お店から出ようとした。
「おい」
扉に手を掛けた時、龍之介に呼び止められ、肩を掴まれた。
「なに」
本当は、声が震えそうだった。
それでも、震えないようにして、睨むようにして見つめると、龍之介は、鼻で溜め息をついて、私の頭に手を乗せた。
「もう何もしねぇよ」
龍之介の目元が、柔らかな弧を描き、呆れたように微笑むのを見つめ、いつの間にか、強張らせていた肩から力が抜けた。
「ま。諦めはしねぇからな」
「あっそ」
扉に視線を戻すと、頬に柔らかな感触がして、驚いて、龍之介に顔を向けた。
「なにす…」
「別に何も」
「今、何もしないって…」
「ほっぺにチューくらいはいいだろ」
顔を真っ赤にして、龍之介の膝に蹴りを入れ、ガクンと揺れた肩に、思いっきり、パンチをのめり込ませた。
龍之介は、右肩を掴みながら、カウンターに倒れるように、突っ伏して痛みに悶えた。
「ざけんな!!ばか!!」
そう叫び、拳を握って、龍之介を睨み付けてると、肩に重みが掛かり、私は、顔を赤くしたまま固まった。
「ダメだなぁ。龍之介は、守備が甘いよ」
耳元に聞こえた祐介の声の後に、また頬に柔らかな感触がして、微かにチュッと音が聞こえた。
「…んなろー!!何すんだ!!」
祐介の脇腹に思い切り、肘を食い込ませ、腕が緩んだ隙に、かかとで脛を蹴りつけた。
壁に背中を着け、滑るように屈んで
脛を掴む祐介を睨むと、満さんが、苦笑いしながら、痛みに悶える二人に言った。
「何やってんだ。バカ共」
パーカーの袖で、頬をゴシゴシ拭くと、苦笑いしてる淳也が、おしぼりを差し出した。
「ありがと」
おしぼりを受け取り、頬を拭くと、祐介が立ち上がり、淳也を指差して、叫ぶように言った。
「淳也!!お前何渡してんのさ!!」
淳也は、胸の前で手を振りながら、後退りした。
「いや。あの。なんとなく、気持ち悪いのかと思って」
カウンターを強く叩きながら、起き上がった龍之介が、拳を作りながら、淳也に向けて言った。
「決死の覚悟でしたんだぞ!!拭かせんなよ!!」
「へぇ~。そうだったんだ。なら、別にぶん殴ってもいいんだよね?」
おしぼりを持つ手に、拳を作ると、二人は、身構えて、少しずつ、私から離れて、お店の奥にある更衣室に向かった。
「あ!!早く着替えなきゃな?龍之介」
「そうだな。それじゃな」
背を向けて、一気に、更衣室のドアを開け、バタバタと、二人で入っていった。
その背中を見送り、私は、溜め息をついて、淳也に視線を向けた。
「ごめんね?」
「いっすよ。慣れたすから」
苦笑いする淳也におしぼりを返し、私は、更衣室のドアを見つめた。
「二人が来たってことは、もうあがりなの?」
「そっす」
「この後の予定は?」
仕事以外で、家にいたくなかった私が、それとなく聞くと、淳也は、首を傾げて答えた。
「何もないすけど?」
「じゃ、早く着替えてきてね」
「…はい?」
「あ~そびぼ?」
小学生のように言うと、更衣室のドアが勢いよく開いた。
スラックスの腰の部分を掴んで、龍之介が顔を出し、淳也に威嚇するように、睨みながら言った。
「行くんじゃねぇぞ」
龍之介の威嚇に苦笑いして、横目で私を見下ろす淳也を見ると、なんとなく、青ざめてる気がした。
「変態」
龍之介が、背中を向けたのを確認してから、背伸びをして、淳也の耳元で囁くように言った。
「外で待ってる」
頬を赤くしながら、小さく頷く淳也に優しく微笑むと、更衣室の出入口から、祐介が腕組をして言った。
「何話してんの?」
祐介の威圧感のある笑顔に淳也は、首を振りながら、手を胸の前で小さく振って言った。
「なんでもないっす」
そんな状況に、私は、クスクスと笑いながら、背を向けて、扉に向かった。
「じゃ、またね?如月君」
小さく手を振ってから、階段を上がって、すぐ横の壁に寄り掛かって、淳也が出てくるのを待った。
十分くらい待っていると、ドアベルの音が聞こえた。
階段を急いで駆け上がる靴音に顔を向けると、私服に着替えた淳也の顔が見えた。
息を切らしながら、左右に首を振り、私を見付けると、壁に手を着き下を向いた。
「大丈夫?」
「チョー怖かったっす」
「ごめんね?」
大きく一つ深呼吸してから、顔を上げた淳也は、高校時代と変わらない人懐っこい笑顔だった。
「大丈夫っすよ。なんとか、誤魔化したっすから」
変わらない笑顔が、高校時代を思い出させ、こんなにも変わってしまった自分が、恥ずかしくて悔しい。
「そっか。じゃ~行こっか」
そんな思いを悟られないように、明るくそう言うと、淳也も気付かないフリをして、明るく返事を返してくれた。
「うっす」
淳也と並んで、車を停めてあるコインパーキングとは、真逆に歩き出した。
「噂の彼女とは、どうなったの?」
淳也には、二つ上の彼女がいて、私たちも、顔は知っていた。
「フラれたっす」
「なぬ!?いつよ」
「一年くらい前っす」
「あれ?もしかして、知らなかったの私だけ?」
「いえ。誰にも言ってないすから、誰も知らねっすよ」
本当は聞きたい。
別れた原因が何なのか。
だが、龍之介のように、無神経にもストレートに聞く度胸なんて私にない。
「なんか俺、他に好きな人がいるらしいんすよ」
「…ん?自分のことじゃないの?」
「そうなんすけど、自分じゃ気付いてないらしいんすよ。そんで、フラれたんす」
「変なの。なんで、そう思ったんだろうね?」
「あ。それは、俺が、よく髪型とか服装とかを指定してたからす」
「それだけ?」
「そんで、不意に、ある人に似てるって、思ったらしいんすけど、誰に似てんのかは、教えてくれなかったんすよ」
「へぇ。なんか複雑ね」
「そうなんすよ。ホント、女心分かんねぇっす」
「私も女なんだけど」
「そでしたっけ?」
「ひどっ!!」
「だって、先輩の私服が私服っすからね」
「すみませんね。男っぽくて」
アッカンベーをして、淳也を置いて、早足になって歩くと、小走りしてきた淳也が、私の肩に、わざと肩をぶつけた。
「え」
よろけて、バランスを崩して、倒れそうになった私を見て、淳也は、慌てて、私の手首を掴んで引き寄せた。
「大丈夫すか?」
私の肩を掴んで、支える淳也の前で、私は、ボーッとしていた。
おかしい。
前までは、これくらい、なんてことなかったのに、なんで踏ん張れなかったのか。
「先輩?」
支えるように掴まれていた肩から、背中に動いた手に、私は、我に返り、淳也の脇腹にパンチした。
「何してくれんの」
淳也がお腹を抱え、苦しそうに背中を丸めたのを見下ろし、私は、手加減するのを忘れてた。
「ごめん!!大丈夫?」
小さく頷く淳也の背中を擦り、何度も、私は、何度も謝った。
「もういいっす」
涙目になりながら、顔を上げた淳也は、体を起こして、脇腹を擦った。
「あ~痛かった」
「ホントごめん」
「もういいっすよ。それより、どこ行くんすか?」
私は、口角を上げて、ニヤリと笑い、淳也の腕を掴んだ。
「ちょっと付き合ってね?」
「…はい?どこにすか?」
「ちょっとね。物知りな如月君にしか出来ないこと」
優しく微笑んで、腕を絡ませると、淳也の頬が赤くなった。
「ほら。行くよ」
「え?ちょっと!!先輩!!引っ張んないで!!」
淳也の腕を引っ張るようにして歩き出した。
私が淳也を連れてきたのは、女性向けファッション誌で、よく特集を組まれている有名なショップだった。
「ねぇ。如月君的には、こっちとこっち、どっちが大人っぽい?」
黒のフレアスカートと白のサブリナパンツを見せながら聞くと、淳也は、考える仕草をしてから、人差し指を立てて言った。
「上に合わせる物に因るっすね。例えば…」
近くにあった花柄で、肩の部分が、少し空いたボレロのような服と白のノースリーブを持った。
「上が柄物なら白のサブリナ。逆に、無柄なら黒のフレアか柄物のスカートとかの方がいいっすね」
淳也が私の持つサブリナとフレアに、それぞれを合わせると、確かに、両方とも大人っぽく見える。
「如月君って、こうゆうのは凄いよね」
「なんか、褒められた気がしねっすよ?」
苦笑いしながら、持っていた服を片付ける淳也を尻目に、私は、近くのハンガーラックに掛けてある服を見ていた。
「先輩も、なんか着てみたら、どうすか?」
「え~。いいよぉ。私、こうゆうの似合わないし」
そう言うと、淳也は、何かを考えるように、指で顎に触れ、閃いたように、私に向き直った。
「じゃ、俺が先輩をコーデするのは、どうすか?」
「やだ」
速答すると、淳也は、私の隣に並んだ。
「なんですか?いいじゃないすか。コーデさせて下さい。お願いします」
「ちょ!!」
土下座しそうな勢いで、頭を下げた淳也のおかげで、周りから、冷たい視線が、飛んできた。
私は、慌てて、淳也の肩を掴んだ。
「こんな所でやめてよ。頭上げて」
「いいって言うまで上げねっす」
「分かったから。やっていいから」
「うっしゃ」
頭を上げて、ガッツポーズした淳也は、ハンガーラックや棚に並ぶ服を手に取り、私に合わせ始めた。
鼻唄を歌いながら、服を選ぶ淳也に、私は、溜め息をついた。
「何なら、メイクとかもして欲しいっすね」
「やだよ。めんどい」
また頭を下げようとした淳也の腕を掴んで、下を向いて、大きく溜め息をついてから言った。
「分かったから、それやめて」
「あざっす」
嬉しそうに笑う淳也が、恐ろしく思えた。
それから淳也が、悩むに悩んで、選んだのは、小さな淡い色の花柄フレアスカート、袖の部分がシースルーになってる黒のブラウスだった。
「んじゃ、待ってるんで」
ニコニコと笑ってる淳也に、私は、溜め息をついて、試着室に向かい、靴を脱いで上がり、カーテンを締めた。
渡された服に着替えてから、カーテンを開けると、目の前に淳也が立っていた。
「いいっすね。あと、これもっす」
そう言って、淳也が広げて見せる、白のロールアップジャケットを受け取ろうと、手を伸ばした。
だが、淳也は、靴を脱ぐと、試着室に入り、私の後ろに回った。
ジャケットを広げたまま、袖を通すのを待っていた。
私は、鼻で溜め息をついて、ジャケットに袖を通し、向き直ると、淳也は、満足そうに笑った。
「満足?」
「そっすね」
「じゃ、着替えるよ」
「何言ってんすか?」
試着室から出て、靴を履きながら、私に向き直った淳也は、カーテンを掴んだ。
「いやいや。だから、元に戻るのよ。離して?」
「ダメっす」
「何故に?」
「さっき言ったっすよ?メイクとかもって。そのまま着てくすよ。すみませ~ん」
手を上げて、店員を呼ぶ淳也のカーテンを掴んでいる腕を掴んで、カーテンを締めようとした。
だが、阻止されてしまい、締められずにいると、店員が来てしまった。
「はい」
「着てくんで、タグ、切ってもらっていいすか?」
「分かりました。ちょっとお待ち下さいね」
店員が、レジカウンターの方に向かうのを確認して、淳也に顔を近付け、小声で言った。
「ちょっと!!何勝手に進めてんのよ!!」
「いいじゃないすか。似合ってるんすから」
「そうゆう問題じゃないでしょ?」
「お待たせしました。これ、使ってください」
「どもっす」
さっきの店員が、ハサミとお店のロゴが入ったショップ袋を持って、戻って来ると、ショップ袋を淳也に渡した。
「失礼します」
淳也が、着ていたパーカーやジーパンをたたみながら、ショップ袋に仕舞っている間に、店員は、試着室に入り、服からタグを切って、試着室から出た。
「あと、これもいっすか?」
そう言って、店員にポーチ型のショルダーバックと白のバレーシューズ型の靴を差し出した。
「すぐ使いますか?」
「そっすね」
「じゃ、タグだけ切りますね」
そう言って、タグを切って、店員は、レジカウンターに向かった。
ポケットに入ってた携帯とお財布を入れて、ショルダーバッグを置き、試着室の前に靴を置くと淳也は、着てきた服の入ったショップ袋を置いて、レジカウンターに向かって、行ってしまった。
「ちょっと待って!!」
急いで、靴を履き、ショップ袋とショルダーバッグを掴んで、淳也を追いかけながら、お財布を取り出した。
だが、淳也は、支払いを終え、店員からレシートとおつりを受け取っていた。
「あと、半分出すから」
「いっす」
淳也は、おつりと一緒にレシートをお財布に入れて、私に向き直り、ショップ袋を奪うように取ると、お店の出入口に向かった。
「ちょっと待ってよ!!」
淳也を追って、お店を出て、隣に並んで見上げた。
「なんで?」
「何がすか?」
「お金。なんで?」
「あぁ。ちょっと早いすけど、誕生日プレゼントっす」
真っ直ぐ歩く淳也を横目で睨んだ。
「いくらしたのよ」
「二万くらいすかね」
想像してたのより、倍の金額に驚き、私は、淳也を見上げながら、腕を掴んだ。
「高すぎるよ!!半分は払うから」
「いっすよ」
「ダメ」
「ホントにいっすから」
「ダメだって」
「じゃ…」
急に立ち止まり、私に顔を近付け、鼻がぶつかりそうな距離で、淳也が言った。
「今日一日、俺の彼女で」
一瞬、私の思考が停止し、再起動してから、淳也の言ってる事を理解すると、私は顔を離した。
「何言ってんのよ。そんなんで、済む問題じゃ…」
「じゃ、満さんと忍さんに言うっす。金山先輩に脅されて、拉致られたっすって」
ニコニコと笑う淳也とは違い、私は、青ざめていた。
そんなことを二人に言ったら、何を言われるか分からない。
酷い時は、貴子さんと巴さんのオモチャにされかねない。
逃げ場を失った私は、溜め息をついて、頷くしか出来なかった。
「分かった。今日だけね」
「うっす。あざっす」
小さくガッツポーズをしてから、手のひらを向けた淳也を見つめてから、その手を握って、引かれるように歩き出した。
その後、淳也に連れられ、有名なヘアメイクサロンに入り、受付の店員が、こちらに気付いた。
「いらっしゃいませ」
「予約してた如月っす」
いつの間に、予約なんかしてたのか。
店員は、パソコンを操作して確認すると、営業スマイルをして、淳也に向き直った。
「こちらへどうぞ」
店員について行く淳也に、また手を引かれ、店の奥に進み、大きな三面鏡の真ん中にある椅子に座らせられた。
「今日は、どのようにしますか?」
肩にケープを掛けながら、店員に聞かれ、淳也は、鏡に写る私を見つめて、髪に触れた。
「そっすね。今日の服装に合わせてもらえればいいっすよ」
なんで、お前が答えるんだ。
そう思いながら、仏頂面で鏡越しに淳也を睨むと、店員は、クスクスと笑って言った。
「かしこまりました」
店員が、道具が置かれたカートから、クリーム状のファンデーションを手に取った。
淳也は、私の肩に手を置いて、鏡越しに見つめ、顔を私の横に出した。
「あっちで、待ってるんで」
「はいはい」
投げやりに返事をすると、淳也は、私の頭を一撫でして、背中を向けて、出入口の方に去っていった。
「それでは、始めますね?」
「お願いします」
あまり手入れをしてない私の顔に、ファンデーションを乗せて、メイクを始めた。
「彼氏さん。お優しいんですね」
目を点にして、鏡越しに店員を見つめると、店員は、クスクスと笑いながら、眉毛を整えた。
「恋人の為に、ご予約される方は、いらっしゃらないんですよ?」
「勝手に予約してただけですよ」
「そうなんですか?でも、いいじゃないですか。それだけ、想ってもらえてるんですから」
そう言いながら、アイラインを引いて、店員が、アイシャドーを手に取ったのを確認し、私は、静かに目を閉じた。
『想ってもらえてるんですから』
想うってなに。
サロンを予約する事なのか。
高い服を買ってくれる事なのか。
違う。
私は、知ってる。
私の事を本当に大切にして、本当に想ってくられる人が、ちゃんといる。
夜の仕事で、疲れてるはずなのに、私の為に、朝起きて、必ず朝食を作って、仕事に集中出来るように、洗濯をしてくれて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。
素直に甘えてくれる人。
甘えさせてくれる人。
私が綺麗に着飾らなくても、可愛いと言ってくれる人。
「終わりました」
目を明け、鏡に写る私は、まるで別人だった。
山崎さんに見せたいな。
そう思うと、自然と微笑みが漏れた。
「ありがとうございます」
鏡越しに店員を見て、お礼を言うと、店員も、自然な微笑みで、頭を下げた。
椅子から立ち上がり、出入口の方に行くと、淳也は、受付の前にあるソファーに座って、携帯をいじるのに夢中になっていた。
受付にあるレジに向かい、お財布を取り出し、会計をしてから、目の前に立って、やっと、私に気付いた淳也は、口を半開きにした。
「どうよ」
得意気な顔で、見下ろして聞くと、淳也は、ただ静かに頷いた。
「行こっか」
「う…うっす」
やっと、声が出た淳也が立ち上がり、お財布を出そうとして、私は、クスクスと笑って言った。
「もう払ったから」
ボーッとする淳也を置いて、先にサロンを出ようした。
「あ!!待って!!」
「ありがとうございました」
お財布を仕舞いながら、隣に並んだ淳也を見上げた。
私は、淳也に悪いと思いながらも、隣に並ぶのが、淳也ではなく、山崎さんだったら、よかったなと思った。
サロンを出てから、暫く、歩くと、緑が、綺麗な少し大きめの公園があった。
なんとなく、その公園に入り、ゆっくり歩いた。
「先輩は、好きな奴っているんすか?」
「急になに?」
「いや。なんとなくっす」
「いるよ」
そう答えると、淳也は、驚いた顔をして、空を見上げる私の横顔を見つめた。
「意外?」
「あ…いや。いるんなら、こんなことしてたら、まずいっすよね」
「まずい…か」
私の心が、どこか遠くに飛んでいく。
体を重ね合い、笑い合い、穏やかで充実して、隣にあった山崎さんの優しい微笑みが欲しい。
だが、あの日、私は、自分で全てを壊したんだ。
淋しくて、空しくて、悲しくて、苦しい。
なんで、私は、素直に自分の気持ちを伝えられなかったのか。
なんで、私は、あの日に謝れなかったのか。
「先輩?大丈夫すか?」
いつの間にか、顔を歪めていたらしく、淳也に視線を向けると、心配そうな顔をしていた。
そんな淳也に向けて、微笑みを浮かべたが、逆効果だった。
淳也の顔が、悲しそうに歪んだ。
「分かったっす」
淳也から視線を反らして、遊歩道を歩き出すと、すぐ淳也が、そう言って、私は、立ち止まり、淳也に振り向いた。
「分かったっすよ。俺、やっぱ、元カノが言ってた通り、別に好きな人がいたんっす」
「ふ~ん」
「ねぇ。先輩。俺、先輩が…」
「ごめんね」
真剣な顔の淳也が、告白しようとするのを遮り、私は、淋しく笑った。
「なんですか?」
体の横にぶら下げるようにしていた手を握り締めて、肩を微かに震わせながら、淳也は、哀しそうな顔をして、私を見つめた。
「俺は、先輩に、そんな顔、絶対、させないっす!!そんな淋しそうで、哀しそうな顔させないっすから。俺と…」
「無理だよ。今の関係を壊したくない」
顔を歪め、私の肩を掴んで、顔を近付けようとした淳也の胸元を押し返し、私は、足元に視線を向けた。
「なんで…」
肩を掴む淳也の指が食い込んで、私は、痛みに顔を歪めた。
暫く、肩に食い込む痛みを耐え、手から力が抜け、淳也は、囁くように言った。
「そいつの…どこがいいんすか」
目を閉じ、山崎さんを思い浮かべ、私は、静かに言った。
「仕事で、疲れてるはずなのに、私の為に、朝起きて、必ず朝食を作って、仕事に集中出来るように、洗濯をしてくれて、素直に甘えてくれて、甘えさせてくれて、私が着飾らなくても、可愛いと言ってくれて、私を本当に大切にしてくれて、私の事を本当に想ってくれて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。今は、気持ちが分からないけど、きっと、いつかは、分かり合いたいと思ってる。初めて、本気で好きになったの」
山崎さんへの想いを吐き出すように、一つ一つを確かめるように、自分に言い聞かせるように、大切な想いを淳也は、静かに聞いて、黙ったまま手を離した。
無言のまま、公園を一周してから、コインパーキングに向かって歩いた。
気まずさよりも、私は、淳也に悪い事をした罪悪感で、顔を上げられなかった。
淳也は、何かを考え込んでいるようだった。
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