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しおりを挟む「おい悠久。起きろ」
薄目を開けると、雅仁くんの顔が目の前にあった。爛々と目を光らせている。
「あれ、寝ちゃってた……?」
バーベキューの後片付けを終え、リビングのソファに半ば倒れ込んだところまでは覚えている。周囲を見渡すと、佳乃ちゃんはイヤホンをして音楽に没頭しており、蜜花ちゃんはテレビのニュース番組を流し見していた。画面の左上に10:39の表示、あまり時間は経っていないようだ。愛利ちゃんは俺の隣でカップアイスを食べている。みなまだ外着姿だ。
「はい注目! これからちょっと移動して夏ならではのアレ、やりたいと思います!アレわかる人~?!」
なにやら張り切っている雅仁くん。一日中動き回っていたというのにまだまだ元気なようだ。
「カメムシ!」
「私はカブトムシかな」
「うちはホタル探す!」
愛利ちゃん、蜜花ちゃん、佳乃ちゃんが次々に答える。テレビには天気図が映し出されており、日本列島に台風が迫っていることを伝えている。
「虫取りじゃねーよ! もっとさ、あるだろ。青春っぽいの」
「花火?」
俺がそう言うと、雅仁くんがただでさえ大きい目を極限まで見開いてくる。圧が強い。
「近い! 惜しい! もう正解!!」
雅仁くんに鼻先で指を鳴らされ、面食らう俺。
「じゃ、早速会場に案内するわ。Follow me!!」
案内された先は――地下室だった。薄暗い明かり、湿っぽい匂い。圧迫感のある高い棚がいくつも連なっている。
「っつーことで、肝試し! やろうぜやろうぜ~」
「花火おい」
小躍りする雅仁くんに、怪訝な視線を投げかける佳乃ちゃん。
「なんか寒ーい」
愛利ちゃんは二の腕をさすっている。確かに今が夏とは思えないほど、冷房が効いていた上階よりも寒い。
「ここさ、昔親父が作ったんだけど、迷路になってんのよ。棚で。ま、ガキ用だから大したことねーけど。俺はゴールで待ってるから、先に辿りついたもん勝ちな。賞品もあるぜ」
そう矢継ぎ早に言うと、雅仁くんは迷路へと消えていった。いまいち状況がのみ込めないまま、取り残される四人。
「やりたい放題かよ」 呆れ顔の佳乃ちゃん。
「蜜花ちゃん大丈夫? 真っ青だよ」
愛利ちゃんが蜜花ちゃんの顔を覗き込んでいる。微かに震えている蜜花ちゃん。
「あ、うん……ごめん。暗いとこ苦手で。でも頑張る」
蜜花ちゃんが弱々しく笑って見せる。額には汗が滲んでいる。
「いやいや無理だよ! やめた方がいい。あ……でも雅仁くん、さっき鍵かけてたよね?」
俺は上階への扉を一瞥しながら、そう言った。扉の枠から僅かに光が漏れ出している。
「うっそマジかよアイツ」 佳乃ちゃんが顔を歪める。
「ちょっと俺、行ってくる! ここで待ってて」
俺はすぐさま迷路へと向かった。もう雅仁くんの気配はなく、しんと静まり返っている。
「私も行く!」 愛利ちゃんが続く。
「一人で大丈夫だよ!」
俺は振り返りながらそう呼びかけたが、愛利ちゃんは頑として譲らなかった。
「思ったよりも本格的だね……」
意気揚々と突入した俺だったが、もう何度も行き止まりに出くわし、引き返している。足取りも随分と重くなっていた。見渡す限り、棚、棚、棚。
「ね、さっきから色々置いてあるけど、小道具かな? ハローウッド映画の。サインもあったよ! 全部売ったらいくらくらいになるかなぁ」
可愛い顔して下世話なことを言い出す愛利ちゃん。
「金欠なの?」
「やだ冗談だよもぉ~!」
そう言うなり、愛利ちゃんは俺にタックルをかましてきた。
「うぉっ?!」
思わず後ろの棚にぶつかり、俺は尻餅をついた。次いで何かが連続して頭頂部に直撃する。
「ごめんっ大丈夫?!」 愛利ちゃんが駆け寄ってくる。
「なんとか……」
俺はそう答えると、落ちてきた物を見やった。松ぼっくりと枝豆のおもちゃ、それに乗馬用の鞍?赤い国旗が縫い付けてある。白い三日月と星……どこの国だっけ。
「あ、これなつかし~! 何回でも押せるやつ」
愛利ちゃんはそう言いながら、枝豆の膨らみを親指で押した。ひょこっと薄黄緑色の豆が飛び出す。――豆には顔があり、悲鳴を上げているような表情がプリントされていた。
「はは、やりづら~」
苦笑いをする愛利ちゃん。と、その時、天井の裸電球が一際明るく発光したかと思うと、微かな音を立てて消えた。辺りは暗闇に包まれる。
「停電?! どうしよ~!!」
愛利ちゃんの焦った声が頭上から聞こえる。姿は目視できない。それほど暗い。
「マジか」 俺は頭を抱えた。
「悠久、立てる?」
愛利ちゃんが手を差し伸べてくれている気配を感じ、俺はその手を取った。つもりだったが、間違えてツインテールのどちらかをつかんでしまった。
「いたーい!」
「わっごめん!!」
慌てて手を離し、再び尻餅をつく俺。冷たく硬い石畳の感触。
「あ、ゴムが!」
焦る愛利ちゃん。どうやら衝撃で髪がほどけてしまったらしい。
「あ、ここにある! 待って。拾うから……」
指先に触れている感触があり、俺はリボンを手繰り寄せた。つもりだったが、何らかの力が働き、リボンは指の間をすり抜けた。
「あれっちょっと待って、もう少し」
手を伸ばすと、まだ近くにあった。しかし何度やってもうまくつかめない。蛇のように地面を這う。
そんなはずはない。ただ、指先で弾いてしまっているだけだ。現実感が薄れていく――。
「ちょっと悠久、どこー?」
遠くで愛利ちゃんの声がする。そんなに離れてしまったのか。我に返り、一旦引き返そうと思ったその時、手に硬いものが当たった。棒状の何か……懐中電灯だ! 俺はすぐさまスイッチを入れ、足元を照らした。
リボンだ。リボンが――やはり動いている。ゆっくりと、滑るように。目を疑いながらも、リボンの先を辿る。
最初に浮かび上がったのは、靴。上へ上へと、懐中電灯を向けていく。赤い飾りが付いた黒い靴、立体的な灰色の衣服。浮かび上がる真っ白な肌、赤い唇と、鼻。広いおでこ、ボサボサのオレンジ色の髪、、
不気味な笑顔。
俺は一瞬硬直したが、すぐに置物だとわかった。ピエロだ。等身大のピエロ。映画のプロモーション用に制作されたものだろうか。細部まで作り込まれている。
しかし問題はそこじゃなかった。リボンが、ピエロの腕に巻きついている。
「~’s gonna kill you.」
何か聞こえた。辺りを照らすが、異常は見当たらない。
「Here.Take it.」
もう一度声が聞こえて、俺は前方に向き直った。
すると――身動きが取りづらいほどの至近距離に、ピエロが迫っていた。移動している。
「Take it,Yuke.」
俺の名を呼んだ。
「うあぁぁ!!」
俺はピエロを蹴り飛ばし、反対方向へがむしゃらに走った。とにかく逃げなければ。曲がり角で何度も棚にぶつかりながらも、一心不乱に走り続ける。もはや先に進んでいるのかすらわからない。愛利ちゃんは? 人の気配がしない。騒々しい俺の足音以外は何も聞こえない。
「うわっ!!!」
濡れた床に足を取られる。勢い余って、数メートル先に滑り込んだ。何かにぶつかる。人の足だ。男性の。
「雅仁くん?!」
すぐに手放しかけた懐中電灯をつかみ直し、上方を照らす。
そこには――雄牛の頭があった。首から下は人間と変わらない。黒い腰巻、上半身は裸で、よく見ると頭から肩にかけて真っ赤だった。ポタポタと、何かが滴っている。
「っ……!!!!!」
悲鳴が声にならない。男は動くことのできない俺の胸ぐらをつかみ、強引に立たせた。荒い鼻息が頬にかかる。殺される。
「あぁ、悠久か」
――聞き覚えのある声。
男はため息混じりに自らの顔をつかみ、剥ぎ取った。
「ちょ、雅仁くんじゃん~もぉ~~びっくりさせないでよぉ!」
あまりの安堵感にオネエになる俺。
「わりぃわりぃ」
雅仁くんは満足げに笑いながら、雄牛マスクを近くの棚へと放り投げる。ぶわっと埃が舞った。
「ただ待ってるだけじゃつまんねーからよ、そこらへんにあったやつ使って仮装してみた。あ、これは事故だけどな。ペンキ缶倒しちまった」
顔をしかめながら、赤い液体に触れる雅仁くん。腰に巻いていた布をほどき、それで荒く体を拭う。
「あっじゃあ停電も仕込み?」
「それがちげーの。雷でも落ちたかな。衝撃音みたいなの聞こえたし」
雅仁くんはめんどくさそうに唸りながら伸びをする。白いハーフパンツ一丁だ。さっきまで着てたアロハシャツはどうしたんだろう。
「女子たちは? ギブ?」
「いやそれが、蜜花ちゃんが体調悪くなっちゃって。入口で待っててもらってる。ただ愛利ちゃんは俺に付いてきたんだけど、はぐれちゃって……」
「はぐれた? んな複雑じゃねーけどな、ここ。まぁとりあえず戻るか。懐中電灯借りるぞ」
そう言って、雅仁くんは慣れた足取りで引き返す。俺も一呼吸置き、後に続く。広い背中が頼もしい。
「ん、何だこれ」
何かを踏んだのか立ち止まり、足元を確認する雅仁くん。照らし出された――あのピエロの衣装。
いや、顔もある。着ぐるみだ。脱ぎ捨てられた状態のまま、だらんと横たわり、進路を妨害している。俺は戦慄した。
「お、なつかしー! 親父がよく着てたな。鬼ごっこの時」
あれは着ぐるみだった? でもそれなら、誰?
「ねぇ、お父さんは今、アメリカなんだよね……?」
俺は恐る恐る口を開いた。何が起きている?異世界に迷い込んでしまったような気分だ。
「ん? ああ、そうだけど」
「そうだよね、お母さ……ごめん、なんでもない」
言いかけて、口ごもる俺。雅仁くんはあまり母親の話をしたがらない。それに声色からして女性ではないだろう。
「あ、来た来たー! もー遅いっ」
前方の曲がり角から、軽快な足音と共に愛利ちゃんが現れた。どこかで見つけたのか、ランタンを手にしている。
「よかった、無事だったんだね! あ、リボンも。見つかったんだ」
俺がそう声をかけると、愛利ちゃんは不思議そうに目を瞬かせた。
「リボン? え、ずっと付けてたけど」
「えっいや、さっき俺が引っ張っちゃってほどけちゃったじゃん? それで……」
「さっき? わたしずっと、佳乃ちゃん蜜花ちゃんと一緒にいたよ?」
愛利ちゃんが振り返る。雅仁くんが懐中電灯の電源を切った。
「何やってんのー?早く~」
佳乃ちゃんの声。すぐそこにいるみたいだ。
――血の気が引いていく。おかしい。ピエロやリボンの件もそうだが、なにより入口がこんなに近いわけがない。もっと広くて、入り組んでいたはず。
「肝試し大成功、ですな……」
雅仁くんが俺の耳元でそう囁き、怪しい笑みを浮かべた。
「そういえば賞品って何だったの?」
俺は石の階段を上りながら、雅仁くんに尋ねた。ランタンの揺れに合わせて、光の玉が右往左往する。
「お、そうそう! 超高級絶品グルメがあるんだけどな、俺でもなかなか手に入らないくらいの。エヲーフコウエーパっていって、まぁジビエみたいなもん? それを食せる権利」
「へぇ、ジビエ料理か~」
癖が強そうだけどそんなに高価ならおいしいんだろうなぁと、俺は想像した。
階段を上りきり、地下室から出る。蜜花ちゃんが小さく息を吐いた。顔色は幾分か良くなっている。
「やっぱ停電してる」
愛利ちゃんが呟く。しかし窓の外が薄っすらと明るい為、視界はそれほど悪くない。
「月明かりありがて~」
佳乃ちゃんがそう言うと、蜜花ちゃんが思案顔で窓際へと近付いた。雅仁くんはリビングへと入っていく。
「えっ?! ちょっと、みんな! 火事!!」
蜜花ちゃんが叫ぶ。俺は慌てて窓に駆け寄った。衝撃が走る。
山麓から村にかけて――炎上していた。
家という家が炎に包まれている。電柱に沿って延焼しているように見える。
「嘘だろ」
俺は思わず窓を開けた。夜空は赤く染まり、入道雲のような白煙が立ち上る。村からは距離があるが、熱気がここまで伝わってくるようだ。
「これが停電の原因……?」
蜜花ちゃんは呆然と立ち尽くしながら、そう呟いた。
「みんな逃げられたかな?」
心配そうな愛利ちゃん。人影はない。消防車もまだ到着していないようだ。
「やべーぞ。電化製品全滅。スマホも使えねぇ。焦げてる。ただの停電じゃない」
リビングから出てきた雅仁くんが、つまみ上げたスマホの裏側を見せる。電池が爆発したらしく、見るも無残な状態だ。着替えたらしく、今度は青緑色のアロハシャツを着ている雅仁くん。
「てか火事やばいんだけど?!」
雅仁くんに詰め寄る佳乃ちゃん。それを聞いて足早に窓へと近付く雅仁くん。
「攻撃か?」
外の様子を確認するなり、雅仁くんはそう口走った。どういう意味だろう。
!
突如、村の方角から強い風が吹き込み、重いカーテンが勢いよくめくれ上がった。
「なんだこの風、急に……」
俺はそう言いながら顔を背ける。風の勢いは全く衰えず、むしろ強まっていく。舞い上がる砂埃に、目を開けていられない。
「迫ってきてない?! 火!!」
風の音に負けないよう、声を張り上げる愛利ちゃん。炎は高く立ち上り、荒れ狂う。強風でこちら側に引っ張られている。あちらこちらで小さな爆発が起き、火が飛び、急速に燃え広がっていく。
「逃げるぞ!」
雅仁くんはそう叫ぶと、リビングへと戻っていった。逃げる……日常が崩れていく、違和感。
「荷物まとめなきゃ」
蜜花ちゃんも続く。少し遅れて、佳乃ちゃんも無言で駆けていった。行かなきゃと思いながらも、俺はしばらく惨状を眺めていた。
目が離せない。深く焼き付き、引き込まれていく――。
数分後、全員が別荘前に集合した。生ぬるい外気に肌が粟立つ。
キャリーケースは運べない為、俺はボディバッグに貴重品を詰めた。愛利ちゃんも同様にポシェットを肩にかけている。雅仁くんと蜜花ちゃんはリュックを背負っている。佳乃ちゃんはビニールバッグ。ぐちゃぐちゃに物が詰め込まれているのが透けて見える。
「山を越えれば隣村がある。とりあえずそこを目指す。火は下へは燃え広がりにくい。頂上までいければおそらく逃げ切れる」
雅仁くんがコンパス片手に先導する。幸い、山道が整備されていて歩きやすい。
しかし思ったよりも火の回りが速いようで、熱気と火明かりがどんどん迫ってくるのを感じる。道なりに進んでいては、火に巻かれるのも時間の問題だ。
「このままじゃ追いつかれる。最短で行くぞ」
雅仁くんが道を外れ、生い茂る木々の中へと分け入っていく。この状況でこの落ち着きよう。雅仁くんの方が警察に向いてるよなぁなんて、呑気に考える俺。息を切らしながら最後尾につく。
時折、雅仁くんが足元に注意を促すくらいで、みな黙々と歩みを進める。
――何をしてるんだろう。さっきまでは普通に夏休みを満喫していたのに。
思考が追いついてくるにつれて、違和感も大きくなっていく。激しい呼吸音に混じり、パキパキと木の燃える音が聞こえてくる。体感温度も上がるばかりだ。
「まだ、死ねない……」
蜜花ちゃんの一言に心臓が跳ねた。どこか意識しないようにしていた、死という非日常が現実味を帯びる。
雅仁くんが無言で歩調を早める。未知への恐怖が思考を奪っていく。
「やだ……やだよ……」
俺のすぐ前を歩く愛利ちゃんの、消え入りそうな声。表情は見えない。華奢な肩が痛々しく、微かに震えている。
かける言葉が見つからず、俺はとっさに愛利ちゃんの手をつかんだ。愛利ちゃんは少し驚いたように振り返り、俺を見て微笑んだ。力強く握り返される手。
「おい! 頂上だっ」
喜びに満ちた雅仁くんの声。俺は強張っていた全身の力が抜けるのを感じた。
「やった!」
佳乃ちゃんが躓きながらも駆け出す。足取りから相当疲労が蓄積しているのが見て取れる。
「よかった……ってもう」
蜜花ちゃんが俺と愛利ちゃんを見やり、破顔する。俺は愛利ちゃんと手を繋いだままだったことを今さら認識した。
「あ、いやこれは! 特に意味はなく……」
俺はいたたまれなくなり、めちゃくちゃな弁明をする。すると愛利ちゃんが繋いだ手を力いっぱい引き、俺は地面に叩きつけられた。
「わたしも女だけでいーっ」
愛利ちゃんが蜜花ちゃんに飛びつく。土の苦味に俺は顔をしかめた。青臭い匂いが鼻をつく。
「やったぁ」
満足そうな蜜花ちゃん。俺は地面に突っ伏したまま、口元が緩むのを感じた。日常が戻ってくる気配を、感じたからだ。
一足遅く坂を上りきる。が、みんなの様子に違和感を覚えた。誰も喋らない。ただ呆然と立ち尽くしている。
「どうしたの? 早く行かなきゃ、火が」
俺はそう言いかけ、目に入った光景に息をのんだ。
隣村も、燃えていた。
それどころか曰降村側よりも燃焼が激しく、すぐそこまで火の手が迫っている。
「挟まれた……」
俺はそう呟くなり、脱力して膝を折った。膝頭に砂利が食い込む。
「火災が同時に……変圧器が……?」
思考を巡らせている蜜花ちゃん。瞳には炎が宿り、長い髪の毛は熱風にはためいている。映画か何かのワンシーンのようだ。
「そんなのどうだっていい!」 佳乃ちゃんが声を荒げる。
「どうせ死ぬんじゃん……っ」
頭を抱えて座り込む佳乃ちゃん。汗でびしょ濡れの髪。顔も真っ赤だ。「ごめん」と蜜花ちゃん。愛利ちゃんは佳乃ちゃんの背中をさすっている。
「待て、まだわからない」
雅仁くんの声に、みな一斉に顔を上げる。曰降村側を見下ろしていた雅仁くんが、一点を指差した。
「湖……神社を目指す。川のおかげで火の勢いが弱い。間に合うかもしれない」
そういえばと昼間の道中、橋を渡って川を横断したことを俺は思い出す。見ると曰降村と湖の間に川があり、延焼を足止めしていた。飛び火により火種が点在しているものの、対岸と比べるとその差は歴然だった。迂回して湖に向かえば助かるかもしれない。
「そっか湖! あれだけ広ければ火も飛んでこなそう」
蜜花ちゃんの表情は明るい。俺はゆっくりと体を起こした。
「問題はこいつらから逃げ切れるか……とにかくやるしかねー。行くぞ!」
雅仁くんの一声で場の空気が変わる。佳乃ちゃんも一拍遅れで立ち上がった。
「当たって燃えろだねっ」
「こうなったらヤケクソよ」
吹っ切れた様子の愛利ちゃん、いつになくテンションの高い蜜花ちゃん。
「火事だけに?」
俺は嬉しくなって口を挟んだ。
「静かにしろ」
しかし佳乃ちゃんに咎められる。なんで?
非常事態とは思えないほど砕けた雰囲気で、一同は山を下り始めた。空元気なことは明らかだったが、そうでもしないと正気でいられなかった。
間もなくして、見通しの甘さを思い知らされることとなる。
鈍重な足取り。漂い始める絶望感。空元気は完全に空になる。ふらつきながら、燃え上がる木々の合間を縫うように進む一行。亡霊のようだと、朦朧とした頭で思う。
「くそっ……なんで……」
悔しげに声を漏らす雅仁くん。出だしは好調だった。しかし崖や火の手を避け、蛇行を繰り返す内に方向を見失ったらしい。今やどこに向かっているのか、先頭をひた歩く雅仁くんすら把握できていないようだった。
そもそも既に湖まで火が到達していたら、どう進もうと辿り着けない。そんな悪い考えばかりが大きくなっていく。
「もう無理……歩けない。足痛い」
佳乃ちゃんがへたり込み、おもむろにサンダルを脱ぎ捨てる。靴擦れしたらしく、足には血が滲んでいる。
「迷ったんでしょ? もういいや、うちは」
弱々しく笑う佳乃ちゃん。火熱のせいか顔が真っ赤だ。
「もういいってそんな……結構歩いたし、もうすぐだよ。きっと」
俺も余裕がなくなっていた。励ましたいのに、うそ寒いセリフしか出てこない。
唇を噛み締める雅仁くん。滝のように流れる汗。シャツが体に張り付いている。
「大丈夫だから。行って」
膝を抱え、俯く佳乃ちゃん。雅仁くんが苦々しげに顔を歪めた。
「無理だよ……っ」
愛利ちゃんが泣き出す。すると雅仁くんが無言でしゃがみ込み、佳乃ちゃんを背負おうとする。
「いいって!」
「お前が良くても、俺らは嫌なんだよ……!」
佳乃ちゃんは拒絶するが、雅仁くんも引かない。舞い狂う火の粉に、焦燥感が募る。
「俺も後ろから支えるから、最後までみんなで逃げよう」
俺は決意を込めて、そう言った。
「うん……そうだよ、みんながいい」
愛利ちゃんが泣きながら笑う。木が燃え、弾ける音があちこちから聞こえる。
なんとか佳乃ちゃんも気を持ち直したようで、「ありがとう」とだけ呟き、大人しく雅仁くんの背中に身を預けた。
「っはーやっぱ身長の割におめーわー」
雅仁くんがいくら煽っても、佳乃ちゃんが口を開くことはなかった。
「また崖か……」
雅仁くんが舌打ちをし、迂回しようと方向転換した、その時だった。何か重いものが風を切るような音が近付いてくる。頭上からだ。
「え、飛行機?」
蜜花ちゃんが青ざめる。まさかと見上げる俺。火災のせいか空は雲に覆われ、星は見えなくなっていた。
「おいおいおいおい落ちる気か?!」
佳乃ちゃんを背負い直しながら、声を荒げる雅仁くん。俺は立ち尽くしたまま、目を凝らした。うっすらと輪郭が判別できる黒い影。急速に大きくなっていく。やがて火光に照らされ、白い機体が浮かび上がる。
やはり飛行機だ――。ランプは点いていない。何が起きてる?
「こっち来る!!」 愛利ちゃんが叫ぶ。
「走れ!!!」
雅仁くんが崖に沿って左方向へ駆け出す。が直後、バランスを崩してよろめいた。慌てて追いつき、佳乃ちゃんを支える俺。
「いい、一人の方が走りやすい。みんなを先導してくれ」
雅仁くんの有無を言わさない眼差しに、俺は躊躇する。
「うちはもういいから……」
「動くな!!」
体をよじった佳乃ちゃんを、雅仁くんが一喝する。力なく縮こまる佳乃ちゃん。
俺は動けずにいた。どうすればいいのか、頭がぐちゃぐちゃで考えられない。なんでこんなことに。今はそれどころじゃない。なんとかしないと。早く。
「わかった……!」
俺はそう声を絞り出すと、愛利ちゃんと蜜花ちゃんに目配せをして先を急いだ。耳を聾する轟音に駆り立てられ、一心不乱に走る。
――爆音と悲鳴。
間もなく衝撃がやってきて、爆圧で吹っ飛ばされる。崖の下へ。
何度も木や岩にぶつかり、痛みに気が遠くなる。うまく呼吸ができない。視界が縦横無尽に回転する。悲鳴は途絶え、何かがぶつかり合う鈍い音が断続的に聞こえる。
どうしようもない。ただひたすらに滑落する。
「ぅ……」
気を失っていたみたいだ。血の味に、吐き気。飛行機の機体と思わしき破片が目に入る。
顔を上げると――辺りの景色に既視感を覚えた。痛みを忘れ、走り寄る。
「やった!!」
眼下に広がる湖。辿り着いたのだ。俺は額の汗を拭い、嘆息した。
「悠久……?」
少し離れた暗闇から愛利ちゃんの声。いつもとあまり変わらない声色に聞こえた。
「愛利ちゃん?! 湖が! 湖が」
必死で呼びかける俺。興奮して呂律が回らない。愛利ちゃんが何かに気付き、息をのんだ。
「蜜花ちゃん……? 蜜花ちゃん!!」
愛利ちゃんのただならぬ語気に、俺は急いで駆けつけた。愛利ちゃんの傍らで、うつ伏せに倒れている蜜花ちゃん。その背中に――大きな金属片が、刺さっていた。
「熱い……後ろ、どうなってる……?」
意識はあるようだ。俺は慌てて屈み、傷の状態を確認する。それほど出血はしていないが、抜くとまずそうだ。俺が何と答えればいいか迷っていると、蜜花ちゃんは自嘲気味に笑った。
「ふふ、そんなひどいんだ。だよね。体、動かないし」
「! わ、わたし運ぶから! 大丈夫!」
愛利ちゃんが必死で励ます。有り得ない状況の連続に、気が狂いそうだ。
「重いから無理だよ~」
「俺が運ぶから。絶対」
気丈に振る舞う蜜花ちゃんが悲しくて、俺はそう口走った。言ってから、声が震えていることに気付く。蜜花ちゃんは何も言わず、目尻を下げた。
「みんな、そこにいるのか……?」
雅仁くんの声だ。重々しい足音が、ゆっくりと近付いてくる。
「雅仁くん! 無事だったんだ、よかっ……」
俺はそう言いかけ、様子がおかしいことに気付く。両腕に抱えられている佳乃ちゃんが、ぐったりと脱力している。
「佳乃がどっかで頭打ったらしい。意識がない。それに血が」
佳乃ちゃんの髪先から滴る血液。血の気のない顔色。目眩がする。
「とにかく神社まで行かねえと。階段は無理だが、船は使える」
雅仁くんが静かに佳乃ちゃんを地面に置き、対岸を見やる。どうやら曰降村側とは反対方向にある崖から滑り落ちたらしい。火の手は既に川を乗り越えたらしく、対岸は火の海だ。
昼間に見た階段は桟橋まで炎上している。しかし繋ぎ止められていた船は桟橋から離れ、こちら側に流されていた。ロープが燃え切れたようだ。
!
崖上から爆発音がして、火の玉が落ちてきた。間髪入れずにもうひとつ。どんどん落ちてくる。周囲の木々に燃え移り、火の粉を散らす。
「うゎ……」
一気に熱気に包まれる。肺が熱い。立っていた雅仁くんと愛利ちゃんが激しく咳き込み、上体を曲げる。
「っ……いけるか?ギリだな」
雅仁くんが湖を見下ろす。水面まで、十メートルはありそうだ。
「愛利、佳乃を頼む。悠久は蜜花だ」
力強く頷く愛利ちゃん。「わかった」と俺も返事をする。どうせ死ぬなら手を尽くして死のう、そう腹を決めた。
「足から着水するんだ。あとは浮くことに集中しろ。俺は船を取ってくる」
そう言い終わるや否やTシャツを脱ぎ、湖に飛び込む雅仁くん。高い水柱が立った。しばらくして浮上してきた雅仁くんは、すぐさま船に向かって泳ぎ始めた。速い。
「いけるいける……」
俺は軽く深呼吸をして、パニックになりかけている思考をなんとか落ち着けた。大丈夫だ。みんな助かる、元通りになる。
「愛利ちゃん。先行って」
俺はそう言って佳乃ちゃんを抱え上げようとしている、愛利ちゃんの助けに入る。お互い咳が止まらない。皮膚も焼けるように熱い。
佳乃ちゃんは小学生の頃からほとんど体型が変わっていないくらい、小柄だ。愛利ちゃん一人でも支えることはできそうだ。
「悠久、待ってるからね」
愛利ちゃんが湖を背後に、不安そうな顔で言う。その光景はなぜか強く目に焼き付いた。切ない痛みが胸を締め付ける。
俺は愛利ちゃんのタイミングに合わせて、佳乃ちゃんを持ち上げた。いくら小柄とはいえ、人なのだからやはり重い。愛利ちゃんも小柄な方だが、本当に大丈夫だろうか。寸前にしてよぎった不安を、俺は断腸の思いで振り払った。他に方法がない。考えられない。
「せーの……っ!!」
まっすぐに、二人は落ちていった。先ほどより大きい水柱。やがて派手な水音と共に、水しぶきが消え失せる。
――しかし、なかなか二人が浮かんでこない。俺は身を乗り出して人影を探した。背筋に嫌な汗が流れる。
「……っ」
雅仁くんに助けを求めようと俺が口を開いたその時、ようやく二人が浮かび上がってきた。
「大丈夫~……!」
愛利ちゃんが佳乃ちゃんを支えながら、俺に向かって手を振る。体勢が安定しない様子、声を出すのも辛そうだ。
一方、雅仁くんは船に辿り着いたようだ。船の縁に手をかけ、軽々と乗り上がる。
「蜜花ちゃん、大丈夫?」
俺が確認すると蜜花ちゃんは荒く息をしながら、微かに頷いた。俺は地面に立膝をつき、蜜花ちゃんの腕を取った。背中にあまり触れないよう抱え上げるのが難しい。後ろに倒れそうになる。かなり手間取って、なんとか抱えることができた。
「私、やっぱり……」
蜜花ちゃんが弱々しい声で何か言いかけるが、俺は聞こえないふりをした。俺を気遣って自分を犠牲にでもするつもりだろう。
!!
背後で破裂音がしたかと思うと、火玉が向かってきた。
「いくよ!!」
俺は愛利ちゃんらが落下点にいないことを確認すると、不安定な体勢のまま飛び降りた。横向きに落ちかけるが体を精一杯ねじり、どうにか足から着水する。ただ相当な衝撃で、骨が折れたのではないかと思うくらいの痛みが走る。
そして反動が思ったよりも強く、深く水中へとのみ込まれた。蜜花ちゃんが大きく水泡を吐く。
「……っ!」
水の抵抗が激しく、思わず手が緩んだ。蜜花ちゃんの体が離れかける。俺は必死の思いで蜜花ちゃんの腕をつかみ、手繰り寄せる。息が苦しい。早く、早くと、痛む足をバタつかせ、水上へと向かう。
「大丈夫か?!」
やっとの思いで浮き上がると、雅仁くんが乗った船がすぐ近くまで来ていた。呼吸を整える。蜜花ちゃんも息をしている。よかった。
愛利ちゃんがまず佳乃ちゃんを船に上げた。雅仁くんが船上からサポートしてくれる。続いて、俺が蜜花ちゃんを押し上げる。
「次は二人、上がれ」
雅仁くんはそう言って入水する。そして愛利ちゃんや俺が船に乗りやすいよう、後ろから支え上げてくれた。
「雅仁くんも」
俺が手を差し伸べるが、雅仁くんは首を振った。
「俺はこっから船を押す。五人はせめえ」
「でも……」
「いーから漕げ!」
俺は食い下がったが、雅仁くんは聞き入れなかった。渋々オールを持ち、漕ぎ始めた――その時だった。
バキバキと不穏な音がして見上げると、崖上からこちらに向かって、炎上した大木が落ちてくるところだった。
「漕げ!!」
雅仁くんはそう叫び、船を強引に押しやった。滑るように進む船。
「雅仁くん!!!」
雅仁くんは何かを口走り、水中に潜り込んだ。直後、木が落下して大爆発が起きる。猛火で辺りが照らされた。船が激しく揺れ、投げ出されそうになる。
俺は愛利ちゃんの手首をつかみ、身を伏せて佳乃ちゃんと蜜花ちゃんを支えた。歯をくいしばり、耐え忍ぶ。
「っう……」
ようやく揺れが収まり、顔を上げるが雅仁くんの姿がない。火は消えていた。
「雅仁くん! 雅仁くん!!」
俺は何度も繰り返し雅仁くんの名を呼んだ。水上にはいない。無駄だとわかっていても、叫ばずにはいられない。
「悠久……水、入ってきてる」
愛利ちゃんが虚脱した様子で、一点を見つめながら呟く。見ると先ほどの衝撃で船体が損傷したらしく、浸水している。
意識を失っている佳乃ちゃんと蜜花ちゃん。雅仁くんが消えた場所を見やる。『漕げ!!』と叫ぶ声が、今も耳に残っている。
「くそっ……」
俺は迷いを振り払い、オールを握った。雅仁くんは最後、『大丈夫だ』と言っているように見えた。だからきっと、大丈夫だ。言い訳のように繰り返す。
神社の手前で船は半壊した。愛利ちゃんと俺は船から降りて、一人ずつ二人を運んだ。何度も沈みそうになりながら。
陸に上がり、愛利ちゃんと顔を見合わせる。言葉が出てこない。疲労で足が小刻みに震えている。
――そびえ立つ、赤い鳥居。近くで見るとかなり大きい。今や完全に火に囲まれている湖。異様な光景だった。
時折、先ほどのように燃え盛る樹木が湖に落ち、爆発する。俺はそれを食い入るように見つめていた。
雅仁くんを探しに行きたいが、体が動かない。佳乃ちゃんと蜜花ちゃんも早く病院に連れて行かなければ。それにしても熱い。蒸し焼きにされているみたいだ。本当に助かるのだろうか?
緊急を要することから些細なことまで、浮かんでは消えていく。どこか現実感がなかった。
「何かないか、探してくるね」
どれくらいそうしていただろうか。愛利ちゃんが立ち上がり、拝殿の方へ歩いていく。
いつのまにか雨が降り始めていた。雨音に混じり、雷鳴が轟く。
「……っ」
身震いをする。暑いんだか寒いんだかわからない。濡れた衣服が体に張り付き、不快だ。火災臭が鼻をつく。
俺は二人を社殿まで運び、愛利ちゃんを探しながら裏手の方へと歩き出した。ミイソフサマと、斜めに彫り込みがある柱が目につく。
「あ、いた。愛利ちゃ……」
裏手へ入ったところで、愛利ちゃんを見つけた。が、強烈な違和感に立ち止まる。
こちらに背を向けている愛利ちゃん。ゆっくりと、振り向く。
それは――紛れもなく【影】だった。
墨汁を頭からかぶったかのように真っ黒な、異形の者。
ノイズが走る輪郭。ガサついて、不明瞭。そこに存在するのかさえ確信が持てない。
華奢な体のライン、高い位置で二つに結われた髪。愛利ちゃんによく似ていた。長い刀剣を両手に持っている。
「悠久……!」
影の足元に愛利ちゃんが倒れていた。俺の方へ必死で手を伸ばす。
が、すぐに刀が振り下ろされ、愛利ちゃんの
左 腕
が落ちる。
目を疑った。いとも簡単に切り捨てられ、地面に転がる、身体の一部。
「愛利ちゃん!!」
俺は咄嗟に走り出した。しかし視界が下がり、地面に叩きつけられる。
なんだ……? 立ち上がれない。
「ぐ、ぁ……っ」
しばらくして、両足に激痛が走る。呼吸ができない。
足を切られた?痛い。熱い。なんなんだあれは。愛利ちゃんを守らないと。これ以上は、させない。
影は、静止している。
俺はなんとか上体を起こし、腹ばいに進む。愛利ちゃんが痛みに震えている。手を伸ばす。
届け。
影が、俺に刀を向けた。あらゆる光を吸収する、濁りなく黒い刀身。
「ォ、ャスミ……」
俺を見下ろしながら呻く影。刀の切っ先が迫る。スローモーションのように。
俺はただ、それを見る。怒りと諦め。恐怖。疑問。
?!
その時、地鳴りがして、辺りが白い光で包まれた。渦巻くような風が吹き荒れる。砂利が舞い上がり、肌に突き刺さる。
動きを止め、振り返る影。
強まるばかりの光に、全ての境界線が曖昧になっていく。 俺は身動きができずにいた。
――真っ白だ。目を開けているはずなのに、何も見えない。全てがかき消されたようだ。伸ばした手は、今どこにある?
やがて空白が訪れた。
??????????
――やはり罠だったのか? いや、それにしては遅い。今のとことろ追手もない。これがもし地球全土で起きていたとしたら……何らかの策略が動き出したと見るべきか?
とにかく最優先事項は現状を司令官に報告することだ。その為にも慎重に動かなければ。通信は探知される可能性がある。しばらく身を隠して状況を把握しよう。
失敗は許されない。全てが水の泡になる。これが僕のせいだとしたら、本当に……多くが。
ゼロ、どうか無事でいて。
??????????
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