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第二幕

第29話 囚われの身

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 話し声に、織田は目を開けた。
 ぼやけた視界の焦点を合わせようと、何度か瞬きをする。

「気がついた?」
 夕貴の声だ。開いた扉の近くに立って、こちらを見ている。

 自分は、何かにもたれかかり、床に座っているらしい。手をついて立ちあがろうとしたら、両手首が動かなかった。

 後ろ手に縛られている。

 腕と背中の間に、小さな柱のようなものが当たる。
 織田は、机の脚と一緒に両手を括られていた。

 部屋を見回す。陶子と愛美はおらず、天野と夕貴だけがこちらを見下ろしている。
「どうして私の言うことを聞かず、勝手なことをしたのですか」
 天野が近づいてくる。ねっとりとした視線だ。

「聞いたのですね」
 目の前にまで迫った天野が、少しあごを上げて、いかにも見下すポーズを取る。
 かすかに伝わる体臭が、いつもと違う。生臭い、濃縮した体液のにおい。

「あなたがしているのは、僧侶としてあるまじきことです。信用できません。帰らせていただきます」
 にらみつけた織田の視線を、とぼけた口調でかわしてくる。

「僧侶としてあるまじきこと、ねえ。私は結婚していませんので、恋愛は自由です」
「でも、夕貴さんだけじゃなく亜矢さんとも」
「本人たちが納得しているなら、悪いことじゃありませんよ。まあ、凡夫にはちょっと理解するのが難しいかもしれませんね」

 子どもの幼稚な発言をいなすように、天野が笑う。
「さくらさん。あなたが男性、特に性的なことが苦手なのは、よくわかっています。……小さいころに、あんなことがあれば、ね」

 体の芯がすくんだ。過去を見透かされたようで、背筋が凍る。もしかすると、他のことも見抜かれているのかも。

 そう考えて、織田は思い直した。過去に何かあったことなら、津島も察していた。
 占いのときに答えに詰まった一瞬を見逃さなければ、類推は可能だ。この手のトラウマを持つ女性は、案外多い。だから、天野が特殊能力で心を読んでいるわけではない。落ち着け、落ち着くのだ。

「まあ、それはそれとして。……さくらさんには、魔が憑いています」

 しゃがみこんで目をすがめ、凝視してくる。
「見えます。あなたに巻きつき、頭をもたげる闇の蛇が」
 急に天野が立ち上がり、声を荒らげた。

「だから、私のことを信じられないのだ! この私のことを! 言いつけを守らず加持を乱したうえ、愛美さんまでそそのかして逃げようなど、言語道断。調伏して取り除いてやる!」

 天野の剣幕に、座ったまま後ずさるが、机が壁際につけられているのでこれ以上動くことができない。

 夕貴がとりなすように、横から口をはさむ。
「さくらさん、あなた自身は悪くないの。全部、魔がそそのかしたこと。でなきゃ、先生に逆らったりするはずないもの」

 汗で化粧の崩れた彼女は、どこか焦点のぶれた目をしている。これは、自分の見たいことしか見ない目だ。

 ──まずい。

 織田の脳裏に、自称宗教家が起こしたトラブルの数々が浮かぶ。
 悪霊祓いと称して信者を殴打し続け死なせた上に、よみがえるからとミイラ化するまで放置した事件。治療だと言って信者を熱湯につけ、全身火傷を負わせた事件。

 彼らの大半は、自分がこの世の支配者でいられる閉鎖的な環境を作り出し、いつしかその世界が真実だと錯覚してしまった。
 おそらく、天野も。

「この庵にまで侵入するとは、強い魔だ」
 今晩脱出できなければファルスのみんなが強硬手段を取るといえども、これでは間に合わない。何か方法はないか。考えろ、考えるんだ。

 だめでもともととばかりに、織田は訴えた。
「そんなことより、会社に行かせてください。さっき思い出したんですけど、夕方印刷予定の原稿に、致命的なミスがあったんです。早く連絡して止めないと」

 頭を打ったせいで支離滅裂になっている風を装って、織田は出まかせを早口でまくしたてた。
「一万部も刷るんです。一万部ですよ? 弱小のうちじゃ、刷り直しの事故金額をまかないきれません。せっかく取れた大手の仕事なのに、信用もガタ落ちです。会社がつぶれちゃいます!」

 延々しゃべり続ける織田を黙らせるように、天野が鼻を鳴らす。
「そうやって強迫観念に駆られるのも、魔の影響だ。私は意地悪をしているわけではない。ただ、ここから出すわけにはいかない」

 今なら、電話したいという譲歩案が通るかもしれない。
「じゃあ、せめて携帯で電話させてください!」

「電話はだめだ。あれは結界外とたやすくつながるから、魔に侵入されてしまう」
「なら、ファックスで。お願いします、お願いします!」

 悲鳴のような声で言い放ち、縛られたまま上半身だけで礼をし続ける。
 やがて、根負けしたのか天野が舌打ちをした。

「夕貴。さくらさんの言うことを聞き書きして、ファックスを送ってやれ」
 憮然とした天野の声に、織田は起き直った。
「ありがとうございます! 助かります。会社がつぶれずに済みます」

「私は神社の魔を調伏する準備をしてくる。夕貴、頼んだぞ」
 天野が廊下へと出ていく。

 夕貴が近づいてきて織田の横へ回る。机の上で、紙をめくって、ボールペンの芯をカチリと出す音が響いた。
「じゃあ、書きとるから。手短に言って」
 折句は使えない。おんはら神社が危ないことまで伝えるのは、無理だ。それなら。

「『シーザーの言葉はVRVです』……こう書いてください。VRVはアルファベットで」

 夕貴が怪訝な顔をして、動きを止める。
「世界偉人伝で、イラストの中のシーザーの台詞を、書きもらしていたんです。調べてから入れようと思って。あやうく空欄で印刷されるところでした」

 疑っているのか、彼女はまだペンを動かさない。
「知りません? 『来た、見た、勝った』って。あれのラテン語の頭文字です。ラテン語なんて使わないから、調べるのが後回しになっちゃって」

 来た見た勝ったのラテン語はVeni,Vidi,Vici だからVVVだが、ばれることはないだろう。
 ようやく夕貴がペンを動かし始める。カリカリという音が、机の脚を伝ってくる。

「これでいい?」
 ぶっきらぼうに紙を突き出される。「シーザーの言葉はVRVです」という文字を確認して、織田は息を吐き出した。

「はい。ありがとうございます! ファックス番号は……」
 紙の裏側に番号をメモし、夕貴が部屋を出ていく。
 廊下の向こうから、「ファックスを送信します」という機械音声が聞こえる。

 あれは、シーザーが使っていた暗号で、すべてのアルファベットを何文字かずつシフトするものだ。
 VRVをそれぞれ三つ前にずらすと、「SOS」になる。

 教材のコラムでシーザー暗号を扱ったことがある。津島ならわかってくれるはずだ。そうすれば、ファルスのみんなが助けに来てくれる。

 織田はその可能性にすべてを賭けた。
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