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第二幕
第25話 点数ゲーム
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織田が襖を開けると、ちょうど夕貴と鉢合わせをした。
「大丈夫? 体調でも悪いの?」
顔を覗き込む夕貴に、織田は焦りながら理由を探した。
「大丈夫です。その……アレになったのかなって思って取りに来たけど、違いました」
「さくらさんは、まだ高温期に入っていないから、あと二週間は来ないはずよ」
そう言って夕貴が踵を返し、階段を下り始める。生理周期を他人に把握されるのは嫌な気分だと思いながら、織田もそれに続く。
「最初は慣れないことばかりで体調を崩しがちだから、何かあったら、すぐに言ってくださいね」
座敷に入る手前で、夕貴が振り返って言う。
その笑顔を見て、織田は複雑な気分になった。彼女は天野のことをどう思っているのだろう。視線や言葉の端々に滲み出ているものは、恋愛感情と取れてしまう。天野も夕貴を特別扱いしているし、二人が並んだときの微妙に近い距離と空気は、親密な者のそれに見える。
しかし、もしそうなら、夕貴は他の女性に焼きもちを妬くはずなのに、自分たちを気遣ってくれる。彼女本来の純粋さなのか、天野に好かれたいから無意識に演じているのか。抑え込んだ感情が、いつか爆発してしまわないだろうか。
亜矢が会社へ出勤したので、残りの四人で長机を出して写経をした。天野は午前中の加持を修している。朝は世界平和やすべての生きとし生けるものの幸せを祈念し、午後は個人的な依頼に対して祈願するのだという。
一列になった机のいちばん右側で、織田は墨をすった。水を硯ですることにより、心を落ち着ける効果があるという。左側を見ると、みんな背筋を伸ばし、墨をまっすぐに立てて規則正しく動かしている。織田もそれに倣おうとするが、津島からの手紙の衝撃が治まらない。
津島の顔が、脳裏に浮かぶ。芥川龍之介に似た、いかにも文学青年といった顔立ち、そしてトレードマークの肩までかかる長い髪。
以前永井が、「仕事中は鬱陶しいでしょ」と、ネコ耳付きカチューシャを津島にプレゼントしたことがある。シャレのつもりなのか、津島はしばらくそれをつけて仕事をしていた。ネコ耳の生えた後姿を見るたびに、笑いが込みあげたものだ。
結局、「カチューシャは耳の後ろが痛くて集中できないのですよ」と、ネコ耳は卒業してしまったが。
墨をすり終わった夕貴たちが、般若心経のなぞり書きに取りかかる。
織田も、筆を取って毛先に含ませ、墨色を確認した。姿勢を正し、筆を垂直に持って、最初の「摩」の字をなぞる。とめ、はね、はらい、と昔習ったことを思い出し、できるだけていねいに。しかし、「舎利子」のあたりから、またしても心が泳ぎ始めてしまう。
初めて津島の笑顔を見たのは、入社してしばらくたってからだ。
それまでは、彼のことが苦手だった。いつも丁寧語なのが芝居がかっていてよそよそしいし、隙がなさすぎるからだ。
小学生用国語ドリルの企画を手伝い、ちょうど昼時だったので一緒に定食屋へ行った。待ち時間にネタ出しを続けていたのだが、壁に貼ってある「秋の味覚サンマ定食」のお品書きを見て、「秋の味覚を書き表してみよう、ってどうですかね?」と何気なく言った。
その案は却下だったものの、津島が「じゃあ織田さんは、サンマの味をどう表現します?」と訊いてきた。「そりゃあ、苦いかしょっぱいかでしょう」と答えると、「佐藤春夫ですね」と満面の笑みで津島がうなずいた。
あのときから、壁を感じなくなった気がする。
ぼんやりしているうちに、他の三人は写経を終えてしまった。
織田はあわてて残りの字をなぞった。出来上がった般若心経は、最初と最後でまったく字が違い、集中力が切れてしまったことが丸わかりだ。
夕貴が意味ありげに微笑むのを見て、織田は心の中で言い訳をした。
──違うってば! 天野のことなんか考えてないんだから!
天野が午前中の加持を終えて戻ってきた。机などを片付け、座敷で円座になって法話を聴く。
「仲のいい友人二人が、今にも崖から落ちそうになっています。時間的に一人しか助けられません。どちらを助けますか」
天野のたとえ話に、めいめいが「え、どうしよう……小柄な方?」「ダメもとで両方助けようとする」「運動神経のなさそうな方」などと回答する。全員の答えが出たあと、天野がおもむろに語り出した。
「我々は凡夫、つまり愚かな生き物です。だから、考えても大したことは出てこない。それどころか、迷っているうちに二人とも死なせることになってしまう。このような余計な考えのことを『はからい』と言います」
天野の分厚い唇が動く。ほくろが妙になまめかしい。
性的な雰囲気を感じさせる男性が、織田は苦手だ。
だから、あくまでもさわやかで品行方正な司と友人になれたのだろう。性差など超越したかに見える坂口社長も、自然に接することができる数少ない男性だ。うるおいはあるのに脂は抜けきったような津島も。
「はからいは、捨て去ってしまわなければなりません。迷うこと自体、価値がないのです」
天野が、一語一語はっきりと言う。
「どうすべきか判断がつきかねるときは、信じられる教えや道徳の通りに行動するのも方法の一つです。思考をトレースするうちに、だんだんとわかるようになります」
天野の言葉に、織田はある意味では納得し、心のどこかで「本当にそうかな」という留保をした。津島なら、どう反論するだろう。
──この場合は、はからいは確かによくない。ですが、考えることをすべて放棄してしまってはいけません。少なくとも「何を信じるか」は、自分で決めなければ。
そんな風に言うのかな、と想像すると、天野の方へ傾きかけていた心のバランスが、均衡に保たれてくる。
少しゲームをしましょう、という天野の提案で、織田と愛美、夕貴と陶子の二組に分かれた。一人につき、白と黒の碁石を一個ずつ渡される。
「では、ルールを説明します。せーの、のかけ声で、白か黒のどちらかの碁石を自分の前に出してください。相手も自分も白を出せば+5点、相手も自分も黒なら-3点。白と黒なら、白の人は-5点、黒の人は+5点とします。五回戦まで行いますので、合計の点数が多くなるようにしてください」
織田は、愛美と向かい合わせに座った。
天野をはさんだ向こうでは、夕貴と陶子が対面している。相手に見えないように碁石を両手のひらに一つずつ持ち、点数ルールを頭にたたき込む。
「では、一回目。せーの!」
考える暇がなかったので、とりあえず白を、畳の上に勢いよく置いた。
愛美が出したのも白だ。両者とも5点獲得となる。
天野が紙に点数を書き込む。夕貴と陶子の対戦分も、メモをしている。
「二回目。せーの!」
今度は黒を出した。
二人とも同じ色を出せば、プラスだろうとマイナスだろうと、同じだけ点が増減する。勝つためには、出す色が分かれなければいけない。
愛美が出したのは白だ。これで、10対0になった。
三回目も愛美は白、織田は黒を出し、15対-5となった。
ようやく愛美も気づいたのか、今度は黒を出してくる。しかし、織田も黒を出すので両者とも-3点。織田が白を出さなければ、愛美は得点できない。
五回戦を終えて、結果は織田が9点、愛美が-11点となった。
「大丈夫? 体調でも悪いの?」
顔を覗き込む夕貴に、織田は焦りながら理由を探した。
「大丈夫です。その……アレになったのかなって思って取りに来たけど、違いました」
「さくらさんは、まだ高温期に入っていないから、あと二週間は来ないはずよ」
そう言って夕貴が踵を返し、階段を下り始める。生理周期を他人に把握されるのは嫌な気分だと思いながら、織田もそれに続く。
「最初は慣れないことばかりで体調を崩しがちだから、何かあったら、すぐに言ってくださいね」
座敷に入る手前で、夕貴が振り返って言う。
その笑顔を見て、織田は複雑な気分になった。彼女は天野のことをどう思っているのだろう。視線や言葉の端々に滲み出ているものは、恋愛感情と取れてしまう。天野も夕貴を特別扱いしているし、二人が並んだときの微妙に近い距離と空気は、親密な者のそれに見える。
しかし、もしそうなら、夕貴は他の女性に焼きもちを妬くはずなのに、自分たちを気遣ってくれる。彼女本来の純粋さなのか、天野に好かれたいから無意識に演じているのか。抑え込んだ感情が、いつか爆発してしまわないだろうか。
亜矢が会社へ出勤したので、残りの四人で長机を出して写経をした。天野は午前中の加持を修している。朝は世界平和やすべての生きとし生けるものの幸せを祈念し、午後は個人的な依頼に対して祈願するのだという。
一列になった机のいちばん右側で、織田は墨をすった。水を硯ですることにより、心を落ち着ける効果があるという。左側を見ると、みんな背筋を伸ばし、墨をまっすぐに立てて規則正しく動かしている。織田もそれに倣おうとするが、津島からの手紙の衝撃が治まらない。
津島の顔が、脳裏に浮かぶ。芥川龍之介に似た、いかにも文学青年といった顔立ち、そしてトレードマークの肩までかかる長い髪。
以前永井が、「仕事中は鬱陶しいでしょ」と、ネコ耳付きカチューシャを津島にプレゼントしたことがある。シャレのつもりなのか、津島はしばらくそれをつけて仕事をしていた。ネコ耳の生えた後姿を見るたびに、笑いが込みあげたものだ。
結局、「カチューシャは耳の後ろが痛くて集中できないのですよ」と、ネコ耳は卒業してしまったが。
墨をすり終わった夕貴たちが、般若心経のなぞり書きに取りかかる。
織田も、筆を取って毛先に含ませ、墨色を確認した。姿勢を正し、筆を垂直に持って、最初の「摩」の字をなぞる。とめ、はね、はらい、と昔習ったことを思い出し、できるだけていねいに。しかし、「舎利子」のあたりから、またしても心が泳ぎ始めてしまう。
初めて津島の笑顔を見たのは、入社してしばらくたってからだ。
それまでは、彼のことが苦手だった。いつも丁寧語なのが芝居がかっていてよそよそしいし、隙がなさすぎるからだ。
小学生用国語ドリルの企画を手伝い、ちょうど昼時だったので一緒に定食屋へ行った。待ち時間にネタ出しを続けていたのだが、壁に貼ってある「秋の味覚サンマ定食」のお品書きを見て、「秋の味覚を書き表してみよう、ってどうですかね?」と何気なく言った。
その案は却下だったものの、津島が「じゃあ織田さんは、サンマの味をどう表現します?」と訊いてきた。「そりゃあ、苦いかしょっぱいかでしょう」と答えると、「佐藤春夫ですね」と満面の笑みで津島がうなずいた。
あのときから、壁を感じなくなった気がする。
ぼんやりしているうちに、他の三人は写経を終えてしまった。
織田はあわてて残りの字をなぞった。出来上がった般若心経は、最初と最後でまったく字が違い、集中力が切れてしまったことが丸わかりだ。
夕貴が意味ありげに微笑むのを見て、織田は心の中で言い訳をした。
──違うってば! 天野のことなんか考えてないんだから!
天野が午前中の加持を終えて戻ってきた。机などを片付け、座敷で円座になって法話を聴く。
「仲のいい友人二人が、今にも崖から落ちそうになっています。時間的に一人しか助けられません。どちらを助けますか」
天野のたとえ話に、めいめいが「え、どうしよう……小柄な方?」「ダメもとで両方助けようとする」「運動神経のなさそうな方」などと回答する。全員の答えが出たあと、天野がおもむろに語り出した。
「我々は凡夫、つまり愚かな生き物です。だから、考えても大したことは出てこない。それどころか、迷っているうちに二人とも死なせることになってしまう。このような余計な考えのことを『はからい』と言います」
天野の分厚い唇が動く。ほくろが妙になまめかしい。
性的な雰囲気を感じさせる男性が、織田は苦手だ。
だから、あくまでもさわやかで品行方正な司と友人になれたのだろう。性差など超越したかに見える坂口社長も、自然に接することができる数少ない男性だ。うるおいはあるのに脂は抜けきったような津島も。
「はからいは、捨て去ってしまわなければなりません。迷うこと自体、価値がないのです」
天野が、一語一語はっきりと言う。
「どうすべきか判断がつきかねるときは、信じられる教えや道徳の通りに行動するのも方法の一つです。思考をトレースするうちに、だんだんとわかるようになります」
天野の言葉に、織田はある意味では納得し、心のどこかで「本当にそうかな」という留保をした。津島なら、どう反論するだろう。
──この場合は、はからいは確かによくない。ですが、考えることをすべて放棄してしまってはいけません。少なくとも「何を信じるか」は、自分で決めなければ。
そんな風に言うのかな、と想像すると、天野の方へ傾きかけていた心のバランスが、均衡に保たれてくる。
少しゲームをしましょう、という天野の提案で、織田と愛美、夕貴と陶子の二組に分かれた。一人につき、白と黒の碁石を一個ずつ渡される。
「では、ルールを説明します。せーの、のかけ声で、白か黒のどちらかの碁石を自分の前に出してください。相手も自分も白を出せば+5点、相手も自分も黒なら-3点。白と黒なら、白の人は-5点、黒の人は+5点とします。五回戦まで行いますので、合計の点数が多くなるようにしてください」
織田は、愛美と向かい合わせに座った。
天野をはさんだ向こうでは、夕貴と陶子が対面している。相手に見えないように碁石を両手のひらに一つずつ持ち、点数ルールを頭にたたき込む。
「では、一回目。せーの!」
考える暇がなかったので、とりあえず白を、畳の上に勢いよく置いた。
愛美が出したのも白だ。両者とも5点獲得となる。
天野が紙に点数を書き込む。夕貴と陶子の対戦分も、メモをしている。
「二回目。せーの!」
今度は黒を出した。
二人とも同じ色を出せば、プラスだろうとマイナスだろうと、同じだけ点が増減する。勝つためには、出す色が分かれなければいけない。
愛美が出したのは白だ。これで、10対0になった。
三回目も愛美は白、織田は黒を出し、15対-5となった。
ようやく愛美も気づいたのか、今度は黒を出してくる。しかし、織田も黒を出すので両者とも-3点。織田が白を出さなければ、愛美は得点できない。
五回戦を終えて、結果は織田が9点、愛美が-11点となった。
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