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Ⅸ
しおりを挟む俺は気付いたら、病院のベットの上にいた。
手で顔を触ると、包帯でぐるぐる巻きにされているようだった。
静かで、物寂しく無機質な病室を見渡しながら、やっとの思いで上半身を起こすと、胴体に鈍い痛みが走った。
自分の身に何が起きたのか、思い起こしてみる。
そうだ、一番最後の記憶は、知らない男に付き添われ、タクシーに乗って病院に向かっていた記憶だ。
きっと、タクシーの中で気を失ったに違いない。
あの一方的な暴行の最後、俺たちに駆け寄ってきたのは警官だったと思う。
俺からジェンが離れ、警官に連行されていった筈だ。
タクシーに乗り込む前に、警官がジェンに向かって、大人しく着いてくるよう指示をしていた。
俺は血塗れで、まともに何も見えず、視界が悪かったが、耳で聞いていた。
大変な一日だった。
病室の時計に目を向けると、時刻は午前四時を示していた。
まだ夜中か。
何もすることがない。
薄暗い病室の中で、また横になって目を閉じた。
*
瞼の裏に光を感じて、俺は目をゆっくり開けた。
すると、寝る前は寂しく、薄暗かった病室が陽の光が入り、明るい室内になっていた。
体を起こす。
ふと、気付いた。
左手を握られている感覚と暖かさに。
ベッドの左脇に目を移すと、俺の左手を握りながら、ベットの脇に突っ伏して寝ている人物がいた。
栗色の綺麗な髪がベッドに広がり、垂れていた。
この髪の人物で思い起こさせられる人は彼女しかいない。
でも、俺はこの状況が嬉しくも信じられないから、俺の手を握って、側にいるその人がサキだと、すぐ思うことができなかった。
だが、この人は間違いなく、サキだ。
服装だって、サキが着そうな服だし、この華奢な体つきだって、見慣れた姿だった。
俺はジェンに痛めつけられ、なんとも言えない悲しい気持ちだったが、こんな時がくるなら、いくらでも耐えられると思った。
あの時はサキのために、とにかく必死だった。
サキに対するこの気持ちが、報われないとしても、ただサキの為になりたかった。
たとえ、と思っていても、このしっかり握られている左手を見ると、嬉しくて嬉しくて、俺は既に心の底から報われたような気分になった。
サキが俺のところに来て、手を握って見守ってくれていた。
そう考えたら、俺はたまらなくなって、気持ちが昂り、涙が出てきた。
次から次に、両目から涙が出てきて、止まらなかった。
これは嬉しさと切なさからだろうか。
包帯に涙が吸収されていく感覚がする。
涙で包帯の内側が蒸れたら、気持ち悪いに違いない。
そんなことも頭に過ぎったが、涙はまだ流れた。
涙のせいで鼻水が出てきて、鼻をしきりに啜った。
俺の鼻を啜る音が病室の中で、響き渡る。
ベッド脇に広がっていた茶色い髪が意思を持った生き物のように動いた。
サキが起きて、頭を上げる。
現れた顔はやはり、一瞬たじろいでしまうほど、整った顔だった。
目ぼけ眼のアーモンド形の二重の切れ長の目が俺を見つめている。
サキが驚いた顔になって、目を見開いた。
次の瞬間、サキは綺麗な顔を大きく破顔させて、目から涙を流し、俺の体にしがみつくように抱きついてきた。
俺はサキが堰を切ったように泣き出したので、ドキッとして心臓が跳ねた。
「よかった……よかったぁ……。ごめんなさい、トウマ……」
サキが泣きながら、言った。
俺は抱きついてきたサキの背中に、やっとの思いで、ゆっくりと片手を回した。
「俺は大丈夫、そんな大したことないよ。サキが無事でよかったよ」
「優しすぎるよ! なんで、なんで、そうやって自分はいつも平気みたいにっ」
サキが抱きついたまま、俺の体に顔を埋めながら、怒ったように言った。
サキの怒りの振動が体に直接伝わってくる。
なんて言おうか……。
俺は少し黙った。
そしてやっと口を開く。
「……俺は本当にいつも大丈夫なんだ。流れに身を任せるのが当たり前っていうか。今回の事は、俺ができる事なら、サキにしてあげたいって思ったからした。俺にとっては、何が起きても大丈夫。サキは、かけがえのない大切な人の一人だったから」
サキに対する想いは、はっきり言葉にできない。
別にサキに想いが届かなくてもいい。
こんな俺が、期待をしてはいけないと思う。
だから、自分の本当の思いを少しだけ乗せて答えた。
「私だって、トウマが大切だよ! 私の気持ちだってあるもん、私だってトウマに何かしてあげたいし、だから、反対に絶対に傷付いてほしくないのに……。もう、こんな風に危ないことはしないでよ……。あの時、一緒に逃げることもできたじゃん……」
サキが声をまた荒げた後、今度は勢いを弱めて、ボソボソと弱々しく言った。
俺が大切だという、サキの言葉に俺は驚いて、心臓が跳ねた。
ドキドキと鼓動が速く脈打ち、血が全身をめぐる感覚がした。
そうか、サキもいくらかは俺のことを大切に思ってくれていたのか。
「ごめん、今度はしない。なんか、逆に心配かけさせちゃってごめん。もっと他に方法あったよな、でも、もうあんなこと滅多に起きないでしょ」
もっと方法があったよな。
こんな俺が逆にサキに心配をかけさせにいったみたいに思えてきた。
まぁ、こんなこと滅多に起こらないだろうけど、今度はもっと安全で被害が最低限な方法を選ぼう。
「ばか」
サキが抱きついたまま、短く俺を罵った。
でも、その物言いは、消えてしまいそうに弱々しい言い方で、悪い気はそんなにしなかった。
*
「トウマ! 行ってらっしゃい、気をつけてね。今日は肉を多めに入れといたよ」
サキが玄関の前まで見送りに来て、憂鬱な気分やあらゆる負の感情を消し去るような、底抜けに明るい笑顔を俺に向けた。
俺は手に持った鞄に目を向ける。
どうやら今日の弁当は肉が多めのようだ。
「ありがとう。いいね、楽しみだな」
サキの笑顔を見て、気持ちが軽くなった。
ここ最近は大体そうだ。
靴を履いて、サキに向き直る。
「じゃあ、いってくるね、行ってきます」
俺もサキに笑顔で返した。
サキが笑っていると、俺も自然と笑みが溢れる。
「うん、行ってらっしゃい!」
玄関の扉を開いて、家を出た。
朝の柔らかい光を受けて、輝く、見慣れた風景が目に飛び込んでくる。
仕事場に向けて、歩き始めながら、俺は考えた。
サキは俺の家にいつまでいるのか。
ジェンの騒動のあと、俺は数日後に退院した。
その間もサキは、俺の見舞いに来てくれた。
そして、その後も俺の家にいて、俺の身の回りの世話を色々進んでやってくれた。
最初は自分のことが招いた罪悪感から、俺の世話をしてくれてるんだと思っていた。
もちろん、そんなことしなくていいと言った。
だけど、サキは俺の世話をやめなかった。
明るくて、いつも俺を太陽のように照らして、楽しい気持ちにさせてくれて、時にはドキドキさせてきて、でも、隣にいる体温が暖かくて。
俺はもう、仕事に復帰した。
それは三週間も前のことだ。
ジェンは暴行で逮捕され、懲役になった。
俺の傷は癒え、元の生活に戻った。
問題は片付き、日常が戻った所で、俺はサキがいずれ近いうちにまた離れていくんだろうと思っていた。
でも、そんな予想とは裏腹にサキは、俺の体が元気になってからも俺の家にいて、俺の世話もしてくれていた。
今日も鞄の中に、サキが作ってくれた弁当がある。
鞄を握る手に力が入った。
今の俺には、いつサキとの別れが来るんだろうという不安感が付き纏っていた。
どんどんと増えている彼女との思い出が頭の中を駆け巡る。
俺はサキを愛してしまっている。
でも、俺は彼女とは一緒にいられないだろう。
彼女は他の彼女に相応しい誰かと人生を共にするはずだ。
俺なんて、彼女の人生の中のただの通りすがりの友人だ。
痛む胸を抑えるような気持ちで、俺はまた今日も仕事場に向かった。
昼になって、オースティンと一緒に昼食を摂っていた。
テーブルの上には、オースティンのファストフードと俺の弁当が置かれている。
「なぁ、ステファニーがさ、今日の仕事終わりに友達含めて遊ぼうって言ってるんだけど、遊びに行かね?」
向かい側の椅子に座るオースティンが、長い足を組んで、携帯を夢中で弄り、こちらに目をくれずに話しかけてきた。
俺はサキに作ってもらった弁当を噛み締めながら、オースティンを見た。
俺はオースティンを見るが、オースティンはこちらを見ようともせずに、携帯を弄っている。
まぁ、友達との交流なんてこんなもんだ。
「うーん、別にいいかな」
俺は遊びに行く気分になれないので、断った。
ステファニーはいつの間にかできていたオースティンの恋人だ。
家に帰れば、今はサキがいるし、恋人同士でごゆっくりって感じだ。
「えー、今まではそんなおもわなかったけど、いよいよ、お前って付き合いわるーぅ」
オースティンが携帯を弄りながら、口を尖らせて冗談っぽく言った。
「ごめん、遊びに行く気分じゃないんだ。また今度誘ってくれ」
「おっけぇー、ま、いいわ。いやステファニーがさ、友達紹介してくれてうるさいんだわ。あいつ、人とつるむの好きだからさ」
「ふーん、お前も社交的だし、いかにもお似合いのカップルだな」
「ふふん、まぁなー、ありがと」
サキの作った肉巻き野菜を口に運ぶ。
うまい。
バーベキューソースでしっかりと味付けされていた。
オースティンは、携帯から目を離さずに、食べかけのハンバーガーを片手で掴んで口に運んでいた。
豪快にハンバーガーを貪っている。
アメリカのハンバーガーは大きかった。
それっきり沈黙が続いていたが、数分経ってオースティンが沈黙を破る。
「そういえば、お前最近、血色いいよな。前は顔色悪くて、いつ倒れるかと心配だったけどさ」
オースティンにそう言われ、俺は驚いた。
手の動きが止まる。
俺、前は倒れそうな人に見えていたのか。
「そうなのか、全然気付かなかった」
最近はサキがご飯を作ってくれているので、前より食生活が良くなったとは思う。
だからだろうか。
オースティンが白い歯を見せて、笑いながら、
「そうだよ、あと、前より明るくなったよな。まぁ、最近は元気そうでいいじゃん」
と言った。
自分では、気付かなかったな。
俺、前より明るくなったかな?
だとするなら、それは何よりサキのお陰以外ない。
サキが毎日、俺を明るい気持ちにさせてくれている。
いつも笑顔で、俺の背中を押してくれているような気がしていた。
「そうなのか」
「おうよ」
箸を動かして、弁当のおかずを口に運んだ。
オースティンがドリンクの蓋を取ると、ドリンクを口に流し込んで、大きく喉を立てて、飲み込んだ後に、短く肯定の返事をした。
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