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第13話
しおりを挟む耳に入れた言葉は、明日美の一番柔らかな部分を突き刺した。何重にも重なっているはずの盾で守られているその場所は、盾を通り越すとあまりにも無防備であった。
誰も知り得ない――
近づくものに恐れながらも、同じくらいの強さで、そんなこと信じる人はいないと高を括っていた。
突き刺された場所がどこであるのか、どんな深さでどう刺さったのか明日美にはよくわからなかった。
ただ、どくどくと鼓動はうるさいほどに鳴り、誤魔化すような笑いだけが、明日美の顔に仮面のように張り付いた。
でも――果たして刺したのは言葉だけなのだろうか。
射るように訝(いぶか)しむ眼光は、明日美のただの一瞬も見落とさないように観察していた。
その目は仮面の中にある、ただひとつ剥き出しになっている瞳だけを、やけに覗いているようだった。
「……よく、わかりません」
絞るように出した言葉は思ったより早口で、掠(かす)れていた。
さらにうるさくなる鼓動は呼吸すら、不安定させるようだった。
ただ、熱いものが身の内から出てくるのをはっきりと感じた。深く、深く沈めた熱を持つ感情が、うねりながら押し寄せ、込み上げる。
「――そんなもの、あるはずがありませんっ!」
吐き捨てるように言って、その場を飛び出した。
嘘だ、嘘だ――!
明日美は学校を抜け、息が上がって、足が引きつりそうになっても走り続けた。
そうしていないと、突き刺された場所が疼いて、どうにかなってしまいそうだった。
要に対して感じていた違和感。
それは口に出したくはなかったが、シロの言う通りなのかもしれないと思っていた。だから、あの言葉もいずれ耳にするかもしれないと、どこかではわかっていた。
だが、それはあの不思議な少年の口からであって、彼からではない。
胸の鼓動は、この訳がわからない状況で鳴っているのか、それともただ単に走って鳴っているのか――もうどちらで鳴っているのかわからなくなっていた。
要と出会ってから、ずっと不思議なことが起こっていた。その『不思議』は明日美に危害を加えるものはひとつもなく、幸運をもたらすものだった。
でも――これは違う。
こんなものは望んでなかった。
明日美が欲しかったものは、普通の日常と人並みの幸せ。
秘密を共有したい訳ではなかった。
誰であっても秘密に触れることは、あってはならない。
――特に須藤みたいなタイプは。
明るく、面倒見がよく、誰からも好かれる彼では――だめなのだ。
刺された傷口から、どくどくと嫌な思いが溢れ出る。
大好きだったこの力が恐ろしいものに変わったあの日。
――シロに触れた手。横たわるシロの姿。
そして今日子が明日美を見る目――明日美が犯してしまったことを、信じられないようなものを見る目。その目が――――その目が明日美をさらに化け物に変えたのだ。
それは数秒だったのか、それとも数分だったのか。
今日子のその目は、気づくと、いつもの明日美を見る目に戻っていた。
そして明日美の手を引き、家に帰ると、多恵子に事故で亡くなった猫がいるとだけ報告していた。
それを明日美はじっと見ていた。
多恵子は悲しそうな表情をすると、電話をかけた。そして次の日あの道を行くともうシロの姿はなかった。
――まるで最初からいなかったように。
多恵子は適切な人がきて、シロを迎えに行ったと言っていた。
今日子の態度はいつも通りで、あの目を向けたのも明日美の見間違いだったような気さえした。
それは明日美をどこか安心させたが、酷く悲しく不安にもさせた。
何故、あの日のことに触れてこないのだろう。今はどんな風に思っているのだろう。
どうして、私を責めてくれないんだろう――
あの猫のように、姉の記憶もどこかに消えてしまったのだろうか。
でも明日美はわかった。
年の離れた今日子のことが好きで、いつも引っ付いていた明日美には。
今日子はただ見なかったことに、知らなかったことにしたいだけなんだと。明日美を見たあの目を、ただ無理矢理に閉じてるだけなんだと。
そうでもしないと妹としての明日美ではなく、得体の知らない何かになってしまう気がしたのだろう――そう子どもながらに思った。
それは明るく世話好きな妹思いの今日子の優しさであり、恐怖だったのかもしれない。
明日美はあの道にシロがいるか確かめに行った時、ひどく心細く、そして恐ろしかった。
だが、恐怖に震えながらもどうしても確かめに行かなくてはいけない気持ちだけが、重い足を進めた。
着いた先には猫はいなかった。
それどころか猫が死んだその場所で、楽しそうに笑う子ども達、忙しそうに歩く大人。いつか見たことのある繰り返されたような、ただの日常がそこには流れていた。
何もなかったように、変わらない道を見たとき、明日美は崩れ落ちるようだった。
何故、わたしはのうのうと生きているのだろうか。一体わたしは何なのだろうか。
誰も知らない。知り得ることはない。
明日美は溢れた涙が止まらず、嗚咽を漏らしてただ泣き腫らした。
もうきっと永遠に、私は誰にも知られない。知り得ることはないのだ。
――――もう誰とも心を交わせることはできないのだ!
そんな絶望の淵から引き上げてくれたのは他でもないシロだった。
シロを確かめに行った日の夜のことだった。
明日美は夢を見た。
幹が太く、枝が横に広がっている大木。石で縁取られた小さな池。明日美はその幻想的でホッとする空間に息を飲んだ。そして、息が止まるようだった。
その木の上には真っ白な猫が、退屈そうに寝そべっていた。
その猫は明日美が殺してしまった猫だったのだ。
それも子猫の姿ではなく、明日美が変えてしまった姿だった。その姿を目に映すことが耐えきれず、明日美は手で顔覆い、しゃがみこんだ。
すると、上からため息が聞こえた。
そして「バカじゃないの?」と声まで、降り注いだのだ。
明日美は反射的に猫を見ると、呆れた顔で明日美を見ていた。
猫がしゃべっている……!!
夢の中とはいえ衝撃的だった。
その声はちょうど明日美と同じような年頃の少年の声だった。
「明日美――」
「え?」
「あんたの名前、明日美でしょ。――もしかして忘れた訳じゃないよね?……そこまでバカじゃないよね?」
初めて出会った猫は、苦しそうで弱り切っていたのに、今、目の前にいるのは同じ猫かと思うほどに、とにかく偉そうで生意気だった。
「……うん。明日美……これは夢なの?」
「夢だけどいつもの『夢』とは違うかな」
「……どうしてここに?」
「さあね。わからない。――でも、あえて言うなら、明日美が僕を覚えててくれたからじゃないかな?」
「それじゃあこれは私の妄想なの?」
そういうと木から飛び降り明日美の足に擦り寄り、思いっきり噛みついた。
「いっ!」
「妄想に感じる?」
明日美は痛む足に全神経が集まり、首を横に振った。
「明日美のせいじゃないよ」
ふいに落とされた言葉に、あんなに泣いた後だというのに、どうしようもないくらい涙が溢れた。
猫は足元に擦り寄り、傷口を舐めると「この傷は舐めてあげる」と笑った。
そうやってシロと時を重ねていった。
罪の意識が消えない明日美に、意地の悪いことを言いながらもひとつずつ、ゆっくりと丁寧に。
だが、シロは明日美が力を使わないことに、いつも顔を顰(しか)めていた。
力を恐れて、なにに対しても消極的になっていく姿を知っていたからだ。
「それって、完全にぼくのせいみたいじゃん。……気分悪いからどうにかしてくれる?」
そう言ってシロは、明日美がまた生き物に触れるように、誘導していった。
シロが何年もかけて、明日美をまた生き物に触れられるよう変えてくれたのだ。
まだ動物には触れられないが、植物を怖がらずに触れるようになったのはシロのおかげだ。
シロは珍しく喜び、そんなシロに明日美も心の底から嬉しかった。
久々に触れる花は――恐ろしさで震えたが、触れた手の先は、鼻の奥がツンとなるほど、懐かしくて愛おしてくてそして温かかった。――初めて触れた時のように自然と涙が溢れたのだ。
そして忘れていた感情を思い出した。
もう遠い記憶だか、明日美はこの力が大切で大好きだった。
子どもの言うことと笑い、誰にも信じてもらえなかったが、誇らしく特別だと感じていた。昔は力を誰かに知ってほしくて、隠すこともなく過ごしていた。
だが、ある時期から変わってる子だと指をさされ、からかわれるようになった。
明日美は自分が特別だと思っていることは、変わっていて可笑しなことだと知った。だからそれから口にするのはやめたのだ。
そしていつしかこれは全て自分の想像だったのではないか?――そう思うようになった。
そう思うと急に自分が恥ずかしくなり、明るかった性格は人の顔を伺うようになり、どんどん内向的になっていった。
そんな時期だった。――シロを見つけたのは。
その時、初めて自分の力は確かに存在しているとわかり、僅かに高揚した。
だが、それは明日美の想像を遥かに超えていた。あまりにも恐ろしすぎたのだ。
長いことそうやって遠ざけた力を、もう一度使うことがあるなんて――きっとひとりでは恐ろしくて勇気が出なかっただろう。
全てはシロのおかげなのだ。
シロがまた思い出させてくれた。
こんなにも胸が震えるほどの愛しいものがあったということを――
シロは明日美が悩めば相談も聞いてくれた。
面倒くさそうに尻尾を揺らすのだが、いつも最後まで話を聞いてくれるのだ。
それがまた明日美の孤独を癒し、支えてくれた。
今日子との関係も良好だった。
あの日から続けられるか不安だったが、すぐにあの道のように、ただの日常が流れた。
今日子のことだけはシロに相談していたからという事以上に、明日美も目を閉じたから、というのが大きかった。
そう、これはもうシロと明日美だけの秘密なのだ。誰も知ることはないふたりだけの秘密――。
だが、シロはそんな明日美をよく思わなかった。いつも「傷の舐め合いなんてまっぴらだね」とげんなりした様子で言った。
そして明日美が消極的になるほどに、シロは力のことを克服をしろと叱咤した。
その度、明日美は表情を明度を落とし、いつも葉を落としていた。そんな明日美にシロはため息を落とす、というのが明日美たちのお約束になっていた。
だがある日、シロはこんなことを言った。
「明日美と僕の秘密?ばっかばかしい。明日美はただ知られたくないだけでしょ、その傷を」
図星だった。
「――そんなに明日美が僕に償いたいと思っているなら、その厚い絆創膏剥がして傷を見せなよ」
意地の悪い声を出して、シロは明日美を見透かすように見ていた。
「僕は傷がどうなるのか見ていたいんだ」
走る足が重くて、呼吸が苦しい。
どうしようもない熱い思いが迫り上がって、明日美は泣きだしたい気持ちになった。
全部シロの言う通りだ。わたしは弱虫で卑怯なんだ。だから、ただの日常を欲した。
シロが望むことをわかっていながら、自分に向き合うことができないだけ。汚いところや恐ろしい気持ちになんてみたくない。
『罪悪感』を抱えることが、汚い自分に蓋をする唯一の方法。
だって、そんなの認めるわけにはいかない。
シロを殺してしまった恐怖より、向けられた目が――閉じられることが怖い、なんて―
そんなのってあんまりだ。
剥き出しになった傷がずきずきと痛んで、仕方がない。こんな気持ち忘れていたかった。奥底に沈ませていたかった。
どうして今更――――!
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