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第一章
第十三話 記憶喪失のショタは魔族を知る
しおりを挟む ついに、体裁を繕わなくなった、というよりも。
ふっきったか?と、当たり前のように執務室に入ってきた体格の良い男を見上げてスレインは疲れた顔になる。この男が来ると、女性たちは色めき立つが、目的が分かっているからその目が厳しいものになるのも知っている。
まあ幸い、この中ではそれほど目立った動きはないが、他の部署が絡んだときに、リラがやりづらそうにしていることが出てきていた。仕事に私情を挟むのはいかがなものかと思うが、おそらくそう言ったものたちは、職場を結婚への足掛かり程度に考えているのだろう。だからなおさら、リラにはその考えが思い浮かびもしないから、苦労しているのはわかる。
わかるのだが。
この目立って仕方ない、リラの視線が向けられていないときにはリラに近づくものを威嚇するような顔をする男。ふっきるにはふっきるなりの行動を起こしたのだろうが。
その割に、リラの方に変化がなさすぎる。
またきれいさっぱり、聞かなかったことにしたのか、思い切りよく勘違いをしたのか。
うちみたいに吹けば飛ぶような家の人間に関わっても、美味しくはないんですけどねぇ、なんて言ってたな、とふと思い出す。
いや、正直、リラがわかっていないだけでシェフィールド家とお近づきになりたい人間は履いて捨てるほどいる。どうにかしてその能力を発揮してもらいたいのに、揃いも揃って程々目立たず、昇進の話は素通りしながら来ているのだ。
「主任」
不意に呼ばれ、スレインが顔を上げれば、リラが目の前に立っていて。そのすぐ脇には、目を疑うような顔をしたローランドがいる。いやもう、だんだんこんなもんだと見慣れてきているのが恐ろしいが。
声も、仕草も、何もかもが目に入れても痛くない、孫を愛でるおじいちゃんか、と少しずれたツッコミを入れたくなるのは、ひたすらリラの方に自覚がないからで。
「今日、お昼ご一緒するお約束だったんですけど…」
「あ?ああああ、いい、いい」
リラがその言葉を口にした瞬間、背筋を嫌な汗が流れた。いや、比喩ではなく。しかも一気に体感温度が下がったようで。氷の騎士様が、本当に氷のような視線を向けてくるのだからたまらない。
「またの機会」
「いや、気にするな。リラ、気にするんじゃんない」
そして、余計なことは口にするな。
たまには食堂で飯でも、と、話していたのだが。迂闊だった。いくらローランドがリラをみそめる前の約束だったとしても、何か理由をつけてナシにしておけばよかった。
いや、こんなことをしていたらリラの交友関係がどんどん制限されていくわけで。
独占欲、なのだろうが。それはリラにとっては良いことではないと、早い段階で気づいて欲しいものだと思う。命が大事だから、とっさに逃げ腰になってしまうけれど。
やけに焦った様子のスレインに押し出されるように送り出され、リラは困った顔でローランドを見上げた。
今日は食堂の予定だったから、お弁当がない。そして、食堂のような場所なら百歩譲って構わないが、不特定多数に提供されるものではなく、リラが食べることを前提として作られたものは、口にするなと、さんざん言われているワケで。
「あの、せっかく作ってきてくださったってことなんですが、申し訳ないので、売店で何か、買ってきます」
「何を言っている?食べてもらえた方がありがたい。申し訳ないというなら、食べてもらいたいものだが」
申し訳なさの方向性が違うだろう、とローランドが思ったのは当然だな、とリラも思う。
困惑顔のリラを見下ろしながら、ふと思い出す。先日、リラの口に手ずから食べ物を入れたときに、リラが友人から叱られていたこと。魔力譲渡は、身内以外から受けないように言いつけられていると釘を刺されたこと。
「何か理由が?」
尋ねるローランドの目が不安そうなのを見てとって、リラは目を逸らす。
この人のどの辺が、氷のようだというのだろう。
ずっと答えを待っている様子に、諦めてリラは、その理由を口にする。別に秘密にしている話でもないし、知っている人も多い。
「わたしが口にするものに毒を仕込まれたことがあって。それで、口に入れるものは、不自由に感じない程度に、注意を受けていて」
「なっ」
いくつもの感情が一度に湧き上がって、ローランドは言葉にならない。
オレのリラに、毒を盛る輩がいた?
そいつを生まれてきたことを後悔するほどに…いや、何より、オレがそんなことをするわけがないだろうっっっ!
という心の中で吹き荒れる叫びにリラが気づくはずもなく。
なので、買ってきます、とどこかに向かおうとするリラの手首を握り、その細さに驚きながら、流れるようにローランドは腰を引き寄せる。
「え?」
驚いた顔でぽかんと見上げるリラを、物陰の壁に押しつけた。
「魔力譲渡でなければ、良いんだな」
「へ?」
何を、と聞き返す前に、壁に縫い付けられたリラの唇に柔らかいものが触れる。なんで、と問いかけることもできない。
どこで何のスイッチが入った、この人!
あまりにも唐突ではた迷惑な熱量で、頭がくらくらする。そもそも不慣れなのだから、やめて欲しい。
もがこうとしても、相手は騎士。かなうはずもなく。
逆に今まで肩透かしを喰らい続けた結果、すっかりおあずけ続きのローランドの方は、若干…ではなく、暴走気味で。
言葉を紡ぐその唇の動きだけで、互いのそれ同士が触れてしまうような距離で、ローランドはリラを見つめる。
「お前をこういう意味で、求めている。そんなお前を、この先一緒にいたいと願うお前を、傷つけるはずもない。むしろそういうものから、守りたいんだ」
この距離で話さないで!
と、言いたいのに、頭が真っ白で、混乱しすぎて血の気がひいて、とにかく立っているのもやっとで、腰を引き寄せるローランドに支えられているような状態で。
「お前が手に入らないというなら…いや、それでも、傷つけられない。だから、オレの作ったものを食べて何かあるわけもない。それでも拒否するなら、このままここで、お前を食べていようか?」
反射的に。思い切り。
リラは首を横にふった。文字通り血の気がひいているからくらくらするけれど、声が出ないから他に意思表示のしようもなく。
満足げに。
ぞっとするほどの美しい笑顔を、ローランドはうっとりとリラに向け、啄むような、惜しむような口づけを、軽く、瞼と唇に落とす。
「嬉しいが、惜しい気もするな」
瀬に腹は変えられない、と、精神衛生上よろしくないレベルのローランドの攻勢からリラは逃れ、当然のように腰を引き寄せてエスコートされる。
慣れない。慣れないから居心地が悪い。だが、先ほどので正直くらくらしていて、支えは必要で。
遠い目になりながら、この状況の説明がつくわけもなく。いやもう、言葉通り素直に受け取れば、それで説明はつくのだけれど。ただ、この人が何をそんなに気に入ったのか、全くわからない。
以前、リラが食べる場所として伝えた一つ、池の畔のベンチに誘われ、楽しげに、口に弁当を運ばれる。
悔しいが、美味しい。本当に、文句のつけようもなく美味しい。
だから、つい、そう呟いて仕舞えば、ローランドは心底嬉しそうに目を細めるのだ。
どうしていいか分からないままに目を逸らして仕舞えば、喉の奥を鳴らすような笑い声が降ってきて、また口に食事が運ばれる。
自分で食べるというのに、この間、咎められたことの原因もそれとわかって、なおさらこうしているのだろうかと思うほどに、譲ってくれない。
それもあるが、ただ、食べさせればとても素直に幸せそうに美味しそうに食べるリラに食べさせるのが、楽しくて仕方ないだけだったのだけれど。
なんか、餌付けされてるみたいだなぁ。
と、もはや感覚を麻痺させる以外に逃げる手段を見出せず、ぼんやりとなされるがままに遠い目をして、リラは自分を見下ろす蜂蜜のような目を見上げた。
やっぱり、氷でも鉄でも、ないよね、と。
むしろどっちも溶かしそうなくらい、恥ずかしいですよ、と。
ふっきったか?と、当たり前のように執務室に入ってきた体格の良い男を見上げてスレインは疲れた顔になる。この男が来ると、女性たちは色めき立つが、目的が分かっているからその目が厳しいものになるのも知っている。
まあ幸い、この中ではそれほど目立った動きはないが、他の部署が絡んだときに、リラがやりづらそうにしていることが出てきていた。仕事に私情を挟むのはいかがなものかと思うが、おそらくそう言ったものたちは、職場を結婚への足掛かり程度に考えているのだろう。だからなおさら、リラにはその考えが思い浮かびもしないから、苦労しているのはわかる。
わかるのだが。
この目立って仕方ない、リラの視線が向けられていないときにはリラに近づくものを威嚇するような顔をする男。ふっきるにはふっきるなりの行動を起こしたのだろうが。
その割に、リラの方に変化がなさすぎる。
またきれいさっぱり、聞かなかったことにしたのか、思い切りよく勘違いをしたのか。
うちみたいに吹けば飛ぶような家の人間に関わっても、美味しくはないんですけどねぇ、なんて言ってたな、とふと思い出す。
いや、正直、リラがわかっていないだけでシェフィールド家とお近づきになりたい人間は履いて捨てるほどいる。どうにかしてその能力を発揮してもらいたいのに、揃いも揃って程々目立たず、昇進の話は素通りしながら来ているのだ。
「主任」
不意に呼ばれ、スレインが顔を上げれば、リラが目の前に立っていて。そのすぐ脇には、目を疑うような顔をしたローランドがいる。いやもう、だんだんこんなもんだと見慣れてきているのが恐ろしいが。
声も、仕草も、何もかもが目に入れても痛くない、孫を愛でるおじいちゃんか、と少しずれたツッコミを入れたくなるのは、ひたすらリラの方に自覚がないからで。
「今日、お昼ご一緒するお約束だったんですけど…」
「あ?ああああ、いい、いい」
リラがその言葉を口にした瞬間、背筋を嫌な汗が流れた。いや、比喩ではなく。しかも一気に体感温度が下がったようで。氷の騎士様が、本当に氷のような視線を向けてくるのだからたまらない。
「またの機会」
「いや、気にするな。リラ、気にするんじゃんない」
そして、余計なことは口にするな。
たまには食堂で飯でも、と、話していたのだが。迂闊だった。いくらローランドがリラをみそめる前の約束だったとしても、何か理由をつけてナシにしておけばよかった。
いや、こんなことをしていたらリラの交友関係がどんどん制限されていくわけで。
独占欲、なのだろうが。それはリラにとっては良いことではないと、早い段階で気づいて欲しいものだと思う。命が大事だから、とっさに逃げ腰になってしまうけれど。
やけに焦った様子のスレインに押し出されるように送り出され、リラは困った顔でローランドを見上げた。
今日は食堂の予定だったから、お弁当がない。そして、食堂のような場所なら百歩譲って構わないが、不特定多数に提供されるものではなく、リラが食べることを前提として作られたものは、口にするなと、さんざん言われているワケで。
「あの、せっかく作ってきてくださったってことなんですが、申し訳ないので、売店で何か、買ってきます」
「何を言っている?食べてもらえた方がありがたい。申し訳ないというなら、食べてもらいたいものだが」
申し訳なさの方向性が違うだろう、とローランドが思ったのは当然だな、とリラも思う。
困惑顔のリラを見下ろしながら、ふと思い出す。先日、リラの口に手ずから食べ物を入れたときに、リラが友人から叱られていたこと。魔力譲渡は、身内以外から受けないように言いつけられていると釘を刺されたこと。
「何か理由が?」
尋ねるローランドの目が不安そうなのを見てとって、リラは目を逸らす。
この人のどの辺が、氷のようだというのだろう。
ずっと答えを待っている様子に、諦めてリラは、その理由を口にする。別に秘密にしている話でもないし、知っている人も多い。
「わたしが口にするものに毒を仕込まれたことがあって。それで、口に入れるものは、不自由に感じない程度に、注意を受けていて」
「なっ」
いくつもの感情が一度に湧き上がって、ローランドは言葉にならない。
オレのリラに、毒を盛る輩がいた?
そいつを生まれてきたことを後悔するほどに…いや、何より、オレがそんなことをするわけがないだろうっっっ!
という心の中で吹き荒れる叫びにリラが気づくはずもなく。
なので、買ってきます、とどこかに向かおうとするリラの手首を握り、その細さに驚きながら、流れるようにローランドは腰を引き寄せる。
「え?」
驚いた顔でぽかんと見上げるリラを、物陰の壁に押しつけた。
「魔力譲渡でなければ、良いんだな」
「へ?」
何を、と聞き返す前に、壁に縫い付けられたリラの唇に柔らかいものが触れる。なんで、と問いかけることもできない。
どこで何のスイッチが入った、この人!
あまりにも唐突ではた迷惑な熱量で、頭がくらくらする。そもそも不慣れなのだから、やめて欲しい。
もがこうとしても、相手は騎士。かなうはずもなく。
逆に今まで肩透かしを喰らい続けた結果、すっかりおあずけ続きのローランドの方は、若干…ではなく、暴走気味で。
言葉を紡ぐその唇の動きだけで、互いのそれ同士が触れてしまうような距離で、ローランドはリラを見つめる。
「お前をこういう意味で、求めている。そんなお前を、この先一緒にいたいと願うお前を、傷つけるはずもない。むしろそういうものから、守りたいんだ」
この距離で話さないで!
と、言いたいのに、頭が真っ白で、混乱しすぎて血の気がひいて、とにかく立っているのもやっとで、腰を引き寄せるローランドに支えられているような状態で。
「お前が手に入らないというなら…いや、それでも、傷つけられない。だから、オレの作ったものを食べて何かあるわけもない。それでも拒否するなら、このままここで、お前を食べていようか?」
反射的に。思い切り。
リラは首を横にふった。文字通り血の気がひいているからくらくらするけれど、声が出ないから他に意思表示のしようもなく。
満足げに。
ぞっとするほどの美しい笑顔を、ローランドはうっとりとリラに向け、啄むような、惜しむような口づけを、軽く、瞼と唇に落とす。
「嬉しいが、惜しい気もするな」
瀬に腹は変えられない、と、精神衛生上よろしくないレベルのローランドの攻勢からリラは逃れ、当然のように腰を引き寄せてエスコートされる。
慣れない。慣れないから居心地が悪い。だが、先ほどので正直くらくらしていて、支えは必要で。
遠い目になりながら、この状況の説明がつくわけもなく。いやもう、言葉通り素直に受け取れば、それで説明はつくのだけれど。ただ、この人が何をそんなに気に入ったのか、全くわからない。
以前、リラが食べる場所として伝えた一つ、池の畔のベンチに誘われ、楽しげに、口に弁当を運ばれる。
悔しいが、美味しい。本当に、文句のつけようもなく美味しい。
だから、つい、そう呟いて仕舞えば、ローランドは心底嬉しそうに目を細めるのだ。
どうしていいか分からないままに目を逸らして仕舞えば、喉の奥を鳴らすような笑い声が降ってきて、また口に食事が運ばれる。
自分で食べるというのに、この間、咎められたことの原因もそれとわかって、なおさらこうしているのだろうかと思うほどに、譲ってくれない。
それもあるが、ただ、食べさせればとても素直に幸せそうに美味しそうに食べるリラに食べさせるのが、楽しくて仕方ないだけだったのだけれど。
なんか、餌付けされてるみたいだなぁ。
と、もはや感覚を麻痺させる以外に逃げる手段を見出せず、ぼんやりとなされるがままに遠い目をして、リラは自分を見下ろす蜂蜜のような目を見上げた。
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