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病院生活・死の直撃弾の章
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「寒い」
翌朝、葵は寒さで眼を覚ました。
上着を羽織ると、松葉杖をついて廊下に出た。
窓から見上げた空は冷えて冴え渡り、1ミクロンの埃の存在さえも信じられないほど美しい、紫がかった青だった。
「きれい。ヒヤシンス・ブルーだわ」
葵の唇からすぐにその言葉が洩れた。
こんな日は、わくわくするほど素敵なことが起きそうな気がした。
オートバイに乗っているときのように、肉体を残して魂だけを風に乗せて、空へ飛ばしているような気分だった。
「空はいい。気持ちを壮大にしてくれる。自由になる。魂を解放してくれるわ」
葵が空に向かって微笑みかけた瞬間だった。
早朝だというのに、廊下の奥から悲鳴や泣き声が混じりながら、段々と騒々しい音が近づいてきた。
葵は廊下の端に立ったまま、何が近づいてきているのかを待った。
やがて1台のストレッチャーが、速足でそれを押す看護師と、その周りを泣き叫びながら小走りでついていく数人の人たちが、葵の横を通り過ぎた。
誰一人、葵の存在なんか気がついていなかった。
それに乗せられた人の頭の先から足の先まで、白い布で覆われていた。
葵はその異様さに眼が釘づけになった。
霊安室へと向かうそれが廊下の角を曲がるまで、葵は全く動けなかった。
まるで心臓めがけて液体窒素を吹きつけられ、そこから全身に向かって瞬間冷凍されたようだった。
それからわずか十数秒後、再びガラガラとキャスターが回る音と悲鳴が近づいてきた。
葵は初めのストレッチャーを見て凍りついた全身の中で、最初に溶けて動くようになった眼球を、消えたストレッチャーの残像から引き離し、音がする方へ首を回した。
それを見た瞬間、恐怖で震えあがった。
再び同じ様相のストレッチャーが走り抜けていったのだ。
(やだ! 死体?)
自分とは全く違う世界へ逝った、鼓動を止めた肉体。
動かない表情筋。
本能も感情も理性も奪われた、自分と同じパーツを持つだけの物体。
時間という概念がない。
(なに? これ......。怖い!)
一瞬の間で、葵はそれだけのことを思考した。
けれど、彼女を完全に無視して、それは通り過ぎた。
看護師が作った空気の流れがやけに冷たかった。
もう36度の温度がそこにはなかった。
それを吸いつくしてなお冷たい「死」が、白布を持ち上げて手を伸ばし、葵の頬を撫でていったような気がした。わくわくした気分は、一転して恐怖に変わった。
それに追い打ちをかけるように、3台目のストレッチャーが通り過ぎた。
「うそでしょう? ありえない!」
葵は呆然と呟いた。
「どうしてこんなに人が死んでくの?」
葵の思考回路は、完全にショートした。
20年間生きてきて、彼女が人の死に立ち会ったのは、祖父母と叔母の3人だけだった。
それと同じ数の死体が、わずか2分ほどの間に彼女の前を通り過ぎていった。
(死って、こんなに簡単に出会ってしまうものだったの? 毎日こんなにたくさんの人が死んでたの?)
葵は全く知らなかった現実に怯えた。
冷気と青空が、弱った身体から魂を引きずり出してしまったように思えた。
*
葵は40代で死んだ叔母のことを思い出した。
癌を患っていた叔母が亡くなったのは、葵が15歳のときだった。
葵の母親は彼女を産んだ直後、体調を崩して入院した。その間、葵を育ててくれたのが叔母だった。
母親は育ての親に当たる叔母が死にかけていることと、自分の死期を知っていることを葵に伝え、彼女に会いにいくようにと言った。
葵は言われるまま叔母を訪ねた。
叔母は信じられないほどやせ細っていた。
「葵......」
叔母は葵の名前を呟くと、両手で彼女の手を握り締め、そこに額を押しつけて、なにかを念じるような仕草をした。
それはわずか数秒のことだったが、葵は彼女の、何十年間か分の時間を託されたと漠然と思った。
*
当時の葵が、叔母から受け継いだものは「時間」だけだった。
少女の葵は「死」について深く考えることがなかったから、命のはかなさや死への恐怖を推し量ることはできなかった。
それが今、続けざまに通り過ぎていった死体を見送って初めて、「死」という直撃弾を食らったのだった。
あのとき、叔母が死を覚悟した人間の姿を、葵に教えてくれたというのに、健康そのもので、死にゆく者の恐怖や苦しみのひとかけらもわかってはいなかった。
おそらく今も、本当にはわかっていないと葵は思った。
「死」がその存在を彼女に示し、彼女は恐怖にすくみあがっただけだからだ。
けれど葵には、これだけは十分わかった。
「いつでもおまえを捕らえられるよ」
「死」は葵の背後に佇み、ピエロのように赤い唇の両端を吊上げて、笑いながらささやいているのだ。
今日生きているからといって、明日生きている保証はどこにもなかった。
翌朝、葵は寒さで眼を覚ました。
上着を羽織ると、松葉杖をついて廊下に出た。
窓から見上げた空は冷えて冴え渡り、1ミクロンの埃の存在さえも信じられないほど美しい、紫がかった青だった。
「きれい。ヒヤシンス・ブルーだわ」
葵の唇からすぐにその言葉が洩れた。
こんな日は、わくわくするほど素敵なことが起きそうな気がした。
オートバイに乗っているときのように、肉体を残して魂だけを風に乗せて、空へ飛ばしているような気分だった。
「空はいい。気持ちを壮大にしてくれる。自由になる。魂を解放してくれるわ」
葵が空に向かって微笑みかけた瞬間だった。
早朝だというのに、廊下の奥から悲鳴や泣き声が混じりながら、段々と騒々しい音が近づいてきた。
葵は廊下の端に立ったまま、何が近づいてきているのかを待った。
やがて1台のストレッチャーが、速足でそれを押す看護師と、その周りを泣き叫びながら小走りでついていく数人の人たちが、葵の横を通り過ぎた。
誰一人、葵の存在なんか気がついていなかった。
それに乗せられた人の頭の先から足の先まで、白い布で覆われていた。
葵はその異様さに眼が釘づけになった。
霊安室へと向かうそれが廊下の角を曲がるまで、葵は全く動けなかった。
まるで心臓めがけて液体窒素を吹きつけられ、そこから全身に向かって瞬間冷凍されたようだった。
それからわずか十数秒後、再びガラガラとキャスターが回る音と悲鳴が近づいてきた。
葵は初めのストレッチャーを見て凍りついた全身の中で、最初に溶けて動くようになった眼球を、消えたストレッチャーの残像から引き離し、音がする方へ首を回した。
それを見た瞬間、恐怖で震えあがった。
再び同じ様相のストレッチャーが走り抜けていったのだ。
(やだ! 死体?)
自分とは全く違う世界へ逝った、鼓動を止めた肉体。
動かない表情筋。
本能も感情も理性も奪われた、自分と同じパーツを持つだけの物体。
時間という概念がない。
(なに? これ......。怖い!)
一瞬の間で、葵はそれだけのことを思考した。
けれど、彼女を完全に無視して、それは通り過ぎた。
看護師が作った空気の流れがやけに冷たかった。
もう36度の温度がそこにはなかった。
それを吸いつくしてなお冷たい「死」が、白布を持ち上げて手を伸ばし、葵の頬を撫でていったような気がした。わくわくした気分は、一転して恐怖に変わった。
それに追い打ちをかけるように、3台目のストレッチャーが通り過ぎた。
「うそでしょう? ありえない!」
葵は呆然と呟いた。
「どうしてこんなに人が死んでくの?」
葵の思考回路は、完全にショートした。
20年間生きてきて、彼女が人の死に立ち会ったのは、祖父母と叔母の3人だけだった。
それと同じ数の死体が、わずか2分ほどの間に彼女の前を通り過ぎていった。
(死って、こんなに簡単に出会ってしまうものだったの? 毎日こんなにたくさんの人が死んでたの?)
葵は全く知らなかった現実に怯えた。
冷気と青空が、弱った身体から魂を引きずり出してしまったように思えた。
*
葵は40代で死んだ叔母のことを思い出した。
癌を患っていた叔母が亡くなったのは、葵が15歳のときだった。
葵の母親は彼女を産んだ直後、体調を崩して入院した。その間、葵を育ててくれたのが叔母だった。
母親は育ての親に当たる叔母が死にかけていることと、自分の死期を知っていることを葵に伝え、彼女に会いにいくようにと言った。
葵は言われるまま叔母を訪ねた。
叔母は信じられないほどやせ細っていた。
「葵......」
叔母は葵の名前を呟くと、両手で彼女の手を握り締め、そこに額を押しつけて、なにかを念じるような仕草をした。
それはわずか数秒のことだったが、葵は彼女の、何十年間か分の時間を託されたと漠然と思った。
*
当時の葵が、叔母から受け継いだものは「時間」だけだった。
少女の葵は「死」について深く考えることがなかったから、命のはかなさや死への恐怖を推し量ることはできなかった。
それが今、続けざまに通り過ぎていった死体を見送って初めて、「死」という直撃弾を食らったのだった。
あのとき、叔母が死を覚悟した人間の姿を、葵に教えてくれたというのに、健康そのもので、死にゆく者の恐怖や苦しみのひとかけらもわかってはいなかった。
おそらく今も、本当にはわかっていないと葵は思った。
「死」がその存在を彼女に示し、彼女は恐怖にすくみあがっただけだからだ。
けれど葵には、これだけは十分わかった。
「いつでもおまえを捕らえられるよ」
「死」は葵の背後に佇み、ピエロのように赤い唇の両端を吊上げて、笑いながらささやいているのだ。
今日生きているからといって、明日生きている保証はどこにもなかった。
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