立ち止まっている暇はない

柊 あると

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病院生活 始まりの章

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「やっほ―!」

 空は真っ青だったし、新雪は真っ白だった。

 ものすごい乱反射で、その二つの色以外なにもなかった。

 葵は2018年から2019年に変わる12月31日、両親と白馬連峰でスキーを楽しみながら、年越しをすることになった。

 午前中には到着し、さっそく上級者コースを気分良く滑走していた。

(青に染まっちゃえ!)

 葵は明快な空色に向かって、思いっきりジャンプした。

 その直後、真っ青な空がチカチカした白に変わり、雪から眼に見えない手が伸びてきて、一粒の雪の結晶が「ここへ来い!」とばかりに、眼の中で急速に巨大化していった。

(叩きつけられる!)

 心の中で叫んだときには、結晶が網膜に突き刺さり、フラッシュで眼をつぶされたかのように、視界が真っ暗になり意識が途切れた。

 葵は雪渓せっけいを見落として落っこちたのだった。

 それは命に関わるほどの大怪我だった。

 葵は意識を失っており、すぐさまドクターヘリが呼ばれ、医師が降りてきて彼女の様態を調べた。

 右大腿骨骨幹部骨折及び膝前十字靭帯ひざぜんじゅうじじんたい損傷そんしょう。半月板損傷もおまけされていた。

 簡単に言えば、身体の中で一番大きな骨と膝をめちゃくちゃに壊した。

 ヘリは躊躇うことなく、2018年7月に立ち上げられたばかりの、多発外傷および重度四肢外傷診療を行う「外傷チーム」がある、信州大学医学部付属病院整形外科へと向かった。

 長野県には北アルプスがあり、山岳事故も多く、地方都市のわりに重傷な患者が搬送されてくるのだった。そのために作られた専門チームに託されるのは、当然の選択だった。

 意識不明のまま、葵はあらゆる検査を受け、大晦日にもかかわらず、大勢の外科医が呼び出されて葵の怪我の処置に当たった。

 それらはすべて、怪我と麻酔による意識不明の状態で終わっていた。

 葵は真っ暗な部屋の中で眼を覚ました。

 寝かされているのが「個室」だということしかわからなかった。

 何となくボーっとしていると、ドアが開く音がした。

「あらっ? 眼が覚めたのね。具合はどう?」

 夜勤の看護師が枕元に近づき、点滴の管についているダイヤルを触って、滴量の調節をしていた。

「なんか......。下半身、ついてますか? それに今、何時ですか?」

 腹から下の感覚が全くなかった。

「やぁねぇ、ついてるわよ。零時よ。手術が終わって、まだ3時間しか経ってないから、脊椎麻酔が効いてて下半身の感覚がマヒしてるの。朝になったら、ちゃんと感覚が戻ってるわよ。もし、あまりに痛かったら、鎮痛剤が処方されてるから、我慢しないで声をかけてね」

 看護師は何か書きつけて出ていった。

(つまり、明朝には感覚があって、それは『激痛』って奴が一緒についてきてるってことね......)

 葵はズドーンと落ち込んできた。

(なんだか、とんでもないことになっちゃったなぁ~。とりあえず、足を怪我したらしいってことはわかる。でも、細かい説明ってないんだけど? 明日になれば、誰か説明してくれるんかな? これからいったい何が起きるんだろう。あ......、なんか泣きたくなった)

 じわーっと涙があふれた。何が起こるかわからない不安に押し潰されそうだった。

 ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

 ずっきん・ずっきん・ずっきん......、と下半身の感覚が戻るのと一緒に、看護師が予言した「激痛」が襲ってきた。

 七転八倒すらできないから、悔しいがナースコールボタンを押した。

「痛くなってきた? この点滴は6時間間隔でしか投与できないけど、もう1種類、飲み薬が処方されてるからね。3時間経ったところで飲み薬を服用して、それもまた6時間は服用できないの。つまり、3時間おきに、点滴と飲み薬で痛みを軽くするようにしてね」

 看護師が、痛み止めの使い方をレクチャーしてくれた。

(うまくできてるもんだ)

 葵が呟いた時ドアがノックされ、母親が飛び込んできた。父親もその後に続いてきた。

「葵ぃ――――――! 大丈夫? 痛くない? 昨夜は眠れた? 足以外に痛いところはない? ママがちゃんと見えてる? 頭が痛いとかない?」

 母親の質問連続射撃が個室に響き渡った。

「ママ。心配かけてごめんね。一応生きてる。手術したんだから痛いよ。夜中に麻酔から覚めた。ママたちは、昨夜はどうしたの? って、ここはどこ? 私はいったいどうなったの?」

 葵の質問に、母親は事故後の仔細を説明してくれた。

「げっ! マジ? そんなにひどい怪我だったの?」

 葵は初めて、自分が白馬ではなく松本市にいることを知った。

「ママは、一緒にヘリに乗って松本へ来たけど、パパは、まだチェックインしてなかったから、キャンセルして自動車で来たのよ。市内にホテルを取って、昨夜はそこで待機してたわ」

 母親が腕時計を見た。

「9時からお医者さんからの説明を聞いたら、一度家に戻って、入院に必要なものと、松本で滞在できるだけの荷物を取ってくるわ。6日までホテルに滞在してるからね。その後は......。説明を聞いてからになるけど、パパもママも仕事があるから、ごめんね、葵」

 母親は本当に申し訳そうに言いながら、葵の手を握りしめた。

 葵の両親は、それぞれ別に起業している。

 父親は「建築家」で、母親は「弁護士」だ。

 葵の正義感というより無鉄砲さは、母親譲りだった。

 曲がったことが大嫌いな葵の気性は、母親の背中を見てきたからだ。葵は母親と同じ弁護士を目指している。

 両親は病状を聞くために部屋を出ていった。

「ああ......。これから私はどうなるんだろう?」

 葵は、上を向いた状態で固定されたまま呟いた。

 やがて両親が戻ってきた。

「お医者さんは、なんて言ってたの?」

 葵の言葉に、丸椅子に座った母親が葵の手を握り、一通りの病状を説明してくれた。

 かなりの重傷だと告げられた。

「ここでの入院は約2か月よ。大腿と膝関節の2か所だから、慎重に経過を診ないと後遺症とかの心配があるの。葵はまだ若いから、障害が残らないように慎重にやらないといけないんだって」

 母親は、葵を安心させるように丁寧に説明してくれた。

「まさか、自分が通う大学の付属病院に搬送されてるとは思わなかったわ。2か月かぁ~。んで、その後は?」

 どう考えてもこの怪我が、2か月で治るとは思わなかった。

「その後、上田の回復期病院に転院して、約4か月、入院することになったわ」

「全治6か月の重傷だそうだ。首の骨を折らなかっただけ、ラッキーだったそうだよ」

 父親の言葉に、葵は大きなため息をついた。

(つまり、冬と春は病院の中ってことかぁ~)

 葵は白い天井を見上げた。激痛で、両親の話は半分以上他人事のように聞いていた。

 2か月後、葵は退院し、療養病棟がある上田市内の病院へ転院した。到着すると、救急搬送口に悠真が立っていた。

「大丈夫か?」

 悠真が心配そうに、葵を乗せたストレッチャーに近づいた。

「たはは~。やっちまった。心配かけてごめんね。運良く、右足だけだから大丈夫だよ。みんなにもそう伝えてね」

 葵は悠真を見上げた。

 葵は個室に籠り、毎日悶々と過ごしていたが、痛みは確実に退しりぞいていったし、松葉杖の使い方もかなり上手になってきた。

 リハビリテーションルームでは、さまざまな病気を患う人たちとも話すようになった。けっこう、病院生活にも馴染んできていた。

 3月末になると松葉杖は1本になり、病院の中を散歩する余裕が出てきた。

 葵は屋上へいった。

 底抜けに明るい青が視界一面を覆い尽くすと、それは海の青をイメージさせた。ゆらゆらと海中を浮遊して青に染まり、一気に浮上して空へと魂が向かう。

 空の青に対して、こんな想いを持っている自分が、葵はとても気に入っていた。

 それに、たまにはどろどろした感情も持つし、けっこう悪いことだってしている。

 それらが溜まってくると青空を見上げて、心の浅い部分でくよくよ悩んでいるものを、心の奥へとしまい込むのだった。

 それは「心をリセットする行為」だと葵は思っていた。

(明日の朝はきっと、もっと美しい青空が見られるだろうな)

 葵はわくわくしながら呟いた。

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