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胎内巡り(たいないめぐり)
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1歩入ると、周囲は発光する乳白色の空間だけになっていた。
歩いているのか、泳いでいるのか、それとも飛んでいるのか、はっきり自覚できない奇妙な感覚がみちるの中にあった。
けれど進むにつれて、自らの終焉に向かっていると感じ始めていた。
生への疲労と満足が身体の中を満たしていった。
みちるは「あ、死ぬんだな」と漠然と感じていた。
それに対してなんの感情も持たず、傍観者のように受け入れている自分を、取り立てて奇妙なことだとも思わなかった。
一瞬、気を失ったようだった。
次に気がついた時には、「死」の感覚が停止していた。
しばらくすると、「無」になっていた心の中に、ひたひたと波が打ち寄せるように歓喜の感情流れ込んできた。
わくわくして、両手を胸に当て、大きな声で叫びたい欲求が身体中を満たしていた。
それは膨らむ一方だった。
自分の身体を破裂させてしまいたくなるほど、それは体内に充満していた。
そしてついに、こらえきらないほどに膨れ上がった。
「うっ……わぁ――――――!」
今までこんなに大きな声は、出したことがないというくらい、みちるは力一杯叫んだ。
その瞬間、ばたっと倒れたらしい。
深く息を吸い込むと、四つん這いに倒れている自分を自覚した。
首をぐるっとまわして周囲を見た。見覚えのある売店があった。
もっともシャッターは降りていたが……。
「だろうな」
みちるはぽつりと言葉を落とした。
横を見ると、拓郎も同じ格好をしていた。
「お帰り。再生の気分はどうだい?」
頭上から声が降りてきた。
みちるは四つん這いのまま、首だけを上に向けると、クシティガルバの笑顔があった。
「再生?」
拓郎は自分が立ち上がりながら、みちるの腕を掴んで、一緒に起こした。
「そう。動物から、再び旅行者に戻った気分はどうだい?」
クシティガルバの言葉に、拓郎は頭を軽く振った。
「ああ、俺たちは『人間』とは違う意味の『動物』だったのか。それで『死』の感覚があったんだな。いいよ、とても」
顔に添えた手の中から、クシティガルバを見つめて言った。
「それはよかった。さあ、ロータリーへお帰り。二度とここへは来るなよ」
クシティガルバはゆっくりと笑った。
「来ないで済むように努力します」
拓郎はまだぼんやりとしているみちるの腕を引いて、電車に乗り込んだ。
「おい、うさぎ。大丈夫か?」
拓郎は座席に座ったところで、みちるの頬を軽く叩いた。
「う……ん」
みちるはやっと首を左右に動かして、眼を覚ます仕草をした。
「今の感覚はなんだったの?」
みちるはぼんやりと呟いた。
「俗にいう胎内巡りだ」
「何、それ」
「一度死んで再び甦るという、再生の儀礼を俺たちはしてきたのさ」
「ああ、それで『死』と『誕生』の感覚があったのね」
「うん」
うなずきながらも、拓郎の眼は何かを考えていた。
「どうしたの?」
みちるは不思議そうに尋ねた。
「うさぎは仏教に詳しいほうか?」
拓郎の眼はひどく暗かった。
「ううん」
「そうか。いや、ロータリーへ帰って、兎に確かめてみないとはっきりわからないんだが、もしかすると俺たちって、死んでるのかもしれない」
「え――――――!」
みちるは周囲をはばかることも忘れて叫んだ。
「まさか。だって……。どーして死ぬのよ。肉体だってここにあるし、第一、死ぬようなこと、してないわよ」
「ゴミ箱に落ちた」
拓郎はまだ思考を巡らしているようだったが、みちるの問いにはそう呟いた。
「そうだけど」
「今、思い出してたんだ。バルドゥって、日本語に訳すと『中有』と言う」
「中有?」
「そう。チベット語なんだけど、人が死んで次に生まれ変わる世界を決めるまでの、49日間いるところのことだ」
みちるは唖然として、何も答えられなかった。
「兎が『ロータリー』って言ってただろう? 死ぬとまず『中有』へ行くんだ。惹かれた扉の前に立ち切符を受け取り、次の世界に生まれ変わるんだよ。だから駅員は、俺たちを『旅行者か?』って聞いてたんだ」
「旅行者なら死んでないと思う。だって、次の世界に生まれ変わるわけじゃないもん」
「うん。俺もそう思うよ。でもこうしてバルドゥと、いろんな世界を行き来できるってことは、やはり死んでる状態ではあるんじゃないかな」
「なんで、私たちが死ななければならないの?」
「天界からいなくなった、かぐや姫ちゃんを捜すためだろ?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、天帝が放った兎が、俺たちの中にいるからだ」
「あのね!」
みちるの頭は爆発寸前だった。
「今の状態を、どうこう言うつもりはないんだ、俺」
拓郎は組んだ足に肘をのせ、頬杖をついた。
「かぐや姫ちゃんが見つかれば必ず帰れる。俺はそう信じてる。実は俺さ、どうでもよかったんだ。帰れなければ、それでもよかった」
拓郎はみちるを見つめた。
(あの眼だ)
みちるは心臓が冷たくなった。底なし沼の中に、今まさに入ろうとしている眼だ。
「ど、どうして?」
「執着がなかったから」
(生きてることに?)
みちるはそう聞きたかったが、のどの奥で止めた。
「でも、今はちょっと違う。おまえさ、仏教でいう『六道』ってどんな世界があるか知ってる?」
「ううん」
みちるは、びくびくしながら言った。
「天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄だ」
「あっ!」
みちるはやっと理解した。
「そう、俺たちは畜生道から帰ってきてるんだよ」
「じゃあ、その前は餓鬼道」
「うん。そして『クシティガルバ』はサンスクリット語だ。日本語にすると『地蔵菩薩』のことだ」
みちるは怖くて、もう拓郎の眼を見られなかった。
「かぐや姫ちゃんを捜して、俺たちは残りの三道に行かなければならないのさ」
「そんなぁ。あたし、もう嫌」
みちるは涙声で言った。
「うん。どこ一つとして、よい場所はないと思った方がいい」
「拓郎は? それでも行かなければならないけど、拓郎はどう思う?」
みちるは涙を拭きながら言った。
「俺は来てよかった」
「どうして?」
「俺さ、こんなどたばた騒ぎしてるけれど、何かが見えてきたような気がする」
拓郎はゆっくりとみちるを見た。
「なにが?」
みちるは小首を傾げた。
「俺たちは2つの世界を訪ねたけど、どちらもとてもわかりやすかったと思わないか? たった1つのことだけ考えてりゃいいんだ。でも、俺たち人間は違う。何にでも執着してんのな。今やっと、少しだけわかった気がする」
(あへ?)
みちるは心の中で、奇妙な声をあげた。
(ちょ――――――っと待ってよ? お兄さん。お前さん、自分が出会ういろいろな物事や、人に対して、興味とか好きとか嫌いとか、いいとか悪いとか、そういう感情を持ったことなかったんかい?)
みちるはとっても素直に人間が持つ感情すら、拓郎は持っていなかったのか? と不安にも似た違和感を持った。
そんなみちるの疑惑に気づくこともなく、拓郎はモノローグのようにしゃべり続けた。
「俺たち『人間』ってさぁ~。執着するものを選ぶ自由もあるんだな」
(こいつ、自分の意志で物事選んだことないんかい? 二十歳だよな? あたしより3年は多く生きてるよな。なのに、物欲すらなかったんかい? いや、ないわけないよねぇ―――?)
みちるは自分の仮説を力いっぱい否定することで、肯定派に傾いている自分を修正した。
そんな彼女の疑惑にすら気づくことなく、拓郎はみちるを再び肯定派に傾けるようなことを言い出した。
「でも、選ぶ自由があるって、『どっちにしようかなぁ~?』ってことだろ? マジに面倒くさくないか?」
拓郎はみちるの顔をじっと見た。
みちるは、生きている自分に無関心な拓郎の言葉に、ついにまた「プッツン」してしまった。
「お兄さん……」
みちるは、拓郎の肩に手を載せた。
「言っていい?」
みちるはサングラスの中から、上目遣いに拓郎を睨みつけた。
「なんだよ。俺が真剣に考えてるのに、何かおかしいことを言ってるか?」
「言ってる。めっちゃ、言ってる。拓郎! あたしは言うぞ! いいか? マジに受け取れよ!」
みちるは大きく深呼吸すると、周囲がどうとか拓郎がどうとか、ここが海の上だろうが、叫んだことで電車がグラっと揺れて海にドッポンしようが、そんなことは知ったこっちゃね――――――! ってな勢いでバカでかい声を出した。
「このすっとぼけ野郎が――――――! しんどくない生き方なんか、どこにもない! 息して、食って、糞して、眠るだけなら、乳児でもできる! お前は赤ん坊か? 違うだろ? 自分の生き方ぐらい、自分で考えろ! したいことが見つかったらやりやがれ! それに自分で責任を取れ! 辛かろうがしんどかろうが、んなもん当たり前だ! 楽して生きようなんて、甘ったれたこと言ってんじゃねーぞ? 一度くらい、『負ぁ――――――けて、たまるかってんだぁ――――――!』って叫んでみろ!」
一気に言い放ったみちるは、肩で荒い息をしながら、拓郎を睨みつけたままでいた。
その眼にじわじわと涙が溜まってきていた。
言われた拓郎はというと、カチコチに固まっていた。
双方言葉を失って、ただただ沈黙の時間が流れていった。
やがて、みちるがうつむいて自分のトレーナーのそでで、溢れてこぼれ落ちそうになっていた涙を拭いた。
「ごめん。うさぎ。お前、そんなにしんどく生きてたんか」
拓郎は、腫れ物に触るように、そっとみちるの頭に手のひらを載せた。
「うるさい! なりたくてこうなったんじゃない!」
みちるは拓郎の手を弾き飛ばした。
「ごめん……」
拓郎は、思いっきりみちるの頭を抱き締めた。しばらくして、みちるは小さく唸った。
「う――――――」
息を吐き終わると、両手で拓郎の胸を押して彼から離れた。
「もう大丈夫。すっきりした」
みちるは拓郎に笑いかけた。
「人形だった拓郎がさぁ、人間になろうとし始めたってことだよね。『胎内巡り』を終えたばっかりの赤ちゃんなんだよ」
拓郎は、恥ずかしそうにうつむいた。
「俺、生きることが、こんなにも難しいことだったなんて、ゴミ箱に落ちるまで、考えもしなかったよ」
(へ? ゴミ箱? なんで一気にそこまで遡るんだ?)
みちるは、やけにゴミに執着している拓郎が、なんだか滑稽に思えた。
「拓郎さぁ。どうしてそんなに『ゴミ』が好きなの?」
その質問が、拓郎には理解できなかったようだ。その顔にもみちるは笑った。
「拓郎って、兎を掴んだ時から、やけに『ゴミ』に執着してたわよ」
「そうだったかぁ? ゴミに執着? 俺の執着って、ゴミレベル?」
その言葉に、みちるは大声で笑った。
「みたいね。軽かったわね~」
「かもな。正直、まだ完全に落とし込めてない」
拓郎は少し暗い顔をした。
「いいじゃん。きっかけは掴めたんだから」
みちるは大きく背伸びをした。
「生きてる意味を考えるって、人間として生まれたからには、避けられないことなんだろうか」
拓郎ぼんやりと呟いた。
「さあ? それに気がついたときに、苦悩するんじゃないの? 気がつかない人だっているかもしれない。ただ、あたしは思うのよ。もし気がつかないで、自分の欲望のまま生きてたら、転生したときに、そこが餓鬼道だったり、畜生道だったりするんじゃないかしら?」
「なんか恐ろしいね」
「うん。知らないって怖いわ。でも拓郎。他の世界に生まれ変わったら、人間だけが持ってる、そんな気持ちもなくなるような気がするわ」
みちるは、ほんの少し笑った。
「ああ、そうだね。彼らは彼らなりに『生きる意味』があって、それに忠実に生きてるんだ」
拓郎は何気なく呟いた。
「拓郎。ここはあたしの意見も聞いてほしい。私は『生きる意味が明解』だとは思わない。『生きる苦しみが明解』なのよ。それに比べて、私たち人間の生きる『苦しみ』はなんて沢山あるのかしら。とあたしは思ってるんだけれどね」
みちるは、少し冗談めいた口調で言った。
「多分俺は、生きることに執着がないんだ」
拓郎は少し寂しそうに笑った。
「え……」
みちるは言葉に詰まった。
「でも、2つの世界を見て、定められた世界で生きるって、どういうことかわかってきたんだ。同じ『苦しみ』の世界に住むのなら、餓鬼道や畜生道でなくて良かったと思ってる」
拓郎はそこで一度言葉を切ると、両手の中に顔を理めた。
それからおもむろに、横に座るみちるの顔を見た。
「俺、みちるの言うとおり、川に放り込まれた空き缶みたいに、ただ流れてここまで来てしまったと思う。でも、どうしたら生きることに真剣になれるのかわかんない」
拓郎は身体を起こした。みちるは拓郎を見ないで、電車の天井を見上げた。
「眼が赤くなってからさぁ、あたしは、『自分が何をしたいのか?』を考えたわ。元の黒い眼に戻りたかった。けれど、どうすれば戻るのか、その時には全然分からなかったから、いろんなものと戦ってた。でも、今は違う。かぐや姫を探し出して、兎をこの身体から追い出せば、あたしの眼は黒色に戻る。だからあたしがやりたいことは、『かぐや姫を探し出す』ってことなのよ。拓郎もさ、自分が何をしたいかが見つかるといいね」
みちるは拓郎を見つめた。
歩いているのか、泳いでいるのか、それとも飛んでいるのか、はっきり自覚できない奇妙な感覚がみちるの中にあった。
けれど進むにつれて、自らの終焉に向かっていると感じ始めていた。
生への疲労と満足が身体の中を満たしていった。
みちるは「あ、死ぬんだな」と漠然と感じていた。
それに対してなんの感情も持たず、傍観者のように受け入れている自分を、取り立てて奇妙なことだとも思わなかった。
一瞬、気を失ったようだった。
次に気がついた時には、「死」の感覚が停止していた。
しばらくすると、「無」になっていた心の中に、ひたひたと波が打ち寄せるように歓喜の感情流れ込んできた。
わくわくして、両手を胸に当て、大きな声で叫びたい欲求が身体中を満たしていた。
それは膨らむ一方だった。
自分の身体を破裂させてしまいたくなるほど、それは体内に充満していた。
そしてついに、こらえきらないほどに膨れ上がった。
「うっ……わぁ――――――!」
今までこんなに大きな声は、出したことがないというくらい、みちるは力一杯叫んだ。
その瞬間、ばたっと倒れたらしい。
深く息を吸い込むと、四つん這いに倒れている自分を自覚した。
首をぐるっとまわして周囲を見た。見覚えのある売店があった。
もっともシャッターは降りていたが……。
「だろうな」
みちるはぽつりと言葉を落とした。
横を見ると、拓郎も同じ格好をしていた。
「お帰り。再生の気分はどうだい?」
頭上から声が降りてきた。
みちるは四つん這いのまま、首だけを上に向けると、クシティガルバの笑顔があった。
「再生?」
拓郎は自分が立ち上がりながら、みちるの腕を掴んで、一緒に起こした。
「そう。動物から、再び旅行者に戻った気分はどうだい?」
クシティガルバの言葉に、拓郎は頭を軽く振った。
「ああ、俺たちは『人間』とは違う意味の『動物』だったのか。それで『死』の感覚があったんだな。いいよ、とても」
顔に添えた手の中から、クシティガルバを見つめて言った。
「それはよかった。さあ、ロータリーへお帰り。二度とここへは来るなよ」
クシティガルバはゆっくりと笑った。
「来ないで済むように努力します」
拓郎はまだぼんやりとしているみちるの腕を引いて、電車に乗り込んだ。
「おい、うさぎ。大丈夫か?」
拓郎は座席に座ったところで、みちるの頬を軽く叩いた。
「う……ん」
みちるはやっと首を左右に動かして、眼を覚ます仕草をした。
「今の感覚はなんだったの?」
みちるはぼんやりと呟いた。
「俗にいう胎内巡りだ」
「何、それ」
「一度死んで再び甦るという、再生の儀礼を俺たちはしてきたのさ」
「ああ、それで『死』と『誕生』の感覚があったのね」
「うん」
うなずきながらも、拓郎の眼は何かを考えていた。
「どうしたの?」
みちるは不思議そうに尋ねた。
「うさぎは仏教に詳しいほうか?」
拓郎の眼はひどく暗かった。
「ううん」
「そうか。いや、ロータリーへ帰って、兎に確かめてみないとはっきりわからないんだが、もしかすると俺たちって、死んでるのかもしれない」
「え――――――!」
みちるは周囲をはばかることも忘れて叫んだ。
「まさか。だって……。どーして死ぬのよ。肉体だってここにあるし、第一、死ぬようなこと、してないわよ」
「ゴミ箱に落ちた」
拓郎はまだ思考を巡らしているようだったが、みちるの問いにはそう呟いた。
「そうだけど」
「今、思い出してたんだ。バルドゥって、日本語に訳すと『中有』と言う」
「中有?」
「そう。チベット語なんだけど、人が死んで次に生まれ変わる世界を決めるまでの、49日間いるところのことだ」
みちるは唖然として、何も答えられなかった。
「兎が『ロータリー』って言ってただろう? 死ぬとまず『中有』へ行くんだ。惹かれた扉の前に立ち切符を受け取り、次の世界に生まれ変わるんだよ。だから駅員は、俺たちを『旅行者か?』って聞いてたんだ」
「旅行者なら死んでないと思う。だって、次の世界に生まれ変わるわけじゃないもん」
「うん。俺もそう思うよ。でもこうしてバルドゥと、いろんな世界を行き来できるってことは、やはり死んでる状態ではあるんじゃないかな」
「なんで、私たちが死ななければならないの?」
「天界からいなくなった、かぐや姫ちゃんを捜すためだろ?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、天帝が放った兎が、俺たちの中にいるからだ」
「あのね!」
みちるの頭は爆発寸前だった。
「今の状態を、どうこう言うつもりはないんだ、俺」
拓郎は組んだ足に肘をのせ、頬杖をついた。
「かぐや姫ちゃんが見つかれば必ず帰れる。俺はそう信じてる。実は俺さ、どうでもよかったんだ。帰れなければ、それでもよかった」
拓郎はみちるを見つめた。
(あの眼だ)
みちるは心臓が冷たくなった。底なし沼の中に、今まさに入ろうとしている眼だ。
「ど、どうして?」
「執着がなかったから」
(生きてることに?)
みちるはそう聞きたかったが、のどの奥で止めた。
「でも、今はちょっと違う。おまえさ、仏教でいう『六道』ってどんな世界があるか知ってる?」
「ううん」
みちるは、びくびくしながら言った。
「天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄だ」
「あっ!」
みちるはやっと理解した。
「そう、俺たちは畜生道から帰ってきてるんだよ」
「じゃあ、その前は餓鬼道」
「うん。そして『クシティガルバ』はサンスクリット語だ。日本語にすると『地蔵菩薩』のことだ」
みちるは怖くて、もう拓郎の眼を見られなかった。
「かぐや姫ちゃんを捜して、俺たちは残りの三道に行かなければならないのさ」
「そんなぁ。あたし、もう嫌」
みちるは涙声で言った。
「うん。どこ一つとして、よい場所はないと思った方がいい」
「拓郎は? それでも行かなければならないけど、拓郎はどう思う?」
みちるは涙を拭きながら言った。
「俺は来てよかった」
「どうして?」
「俺さ、こんなどたばた騒ぎしてるけれど、何かが見えてきたような気がする」
拓郎はゆっくりとみちるを見た。
「なにが?」
みちるは小首を傾げた。
「俺たちは2つの世界を訪ねたけど、どちらもとてもわかりやすかったと思わないか? たった1つのことだけ考えてりゃいいんだ。でも、俺たち人間は違う。何にでも執着してんのな。今やっと、少しだけわかった気がする」
(あへ?)
みちるは心の中で、奇妙な声をあげた。
(ちょ――――――っと待ってよ? お兄さん。お前さん、自分が出会ういろいろな物事や、人に対して、興味とか好きとか嫌いとか、いいとか悪いとか、そういう感情を持ったことなかったんかい?)
みちるはとっても素直に人間が持つ感情すら、拓郎は持っていなかったのか? と不安にも似た違和感を持った。
そんなみちるの疑惑に気づくこともなく、拓郎はモノローグのようにしゃべり続けた。
「俺たち『人間』ってさぁ~。執着するものを選ぶ自由もあるんだな」
(こいつ、自分の意志で物事選んだことないんかい? 二十歳だよな? あたしより3年は多く生きてるよな。なのに、物欲すらなかったんかい? いや、ないわけないよねぇ―――?)
みちるは自分の仮説を力いっぱい否定することで、肯定派に傾いている自分を修正した。
そんな彼女の疑惑にすら気づくことなく、拓郎はみちるを再び肯定派に傾けるようなことを言い出した。
「でも、選ぶ自由があるって、『どっちにしようかなぁ~?』ってことだろ? マジに面倒くさくないか?」
拓郎はみちるの顔をじっと見た。
みちるは、生きている自分に無関心な拓郎の言葉に、ついにまた「プッツン」してしまった。
「お兄さん……」
みちるは、拓郎の肩に手を載せた。
「言っていい?」
みちるはサングラスの中から、上目遣いに拓郎を睨みつけた。
「なんだよ。俺が真剣に考えてるのに、何かおかしいことを言ってるか?」
「言ってる。めっちゃ、言ってる。拓郎! あたしは言うぞ! いいか? マジに受け取れよ!」
みちるは大きく深呼吸すると、周囲がどうとか拓郎がどうとか、ここが海の上だろうが、叫んだことで電車がグラっと揺れて海にドッポンしようが、そんなことは知ったこっちゃね――――――! ってな勢いでバカでかい声を出した。
「このすっとぼけ野郎が――――――! しんどくない生き方なんか、どこにもない! 息して、食って、糞して、眠るだけなら、乳児でもできる! お前は赤ん坊か? 違うだろ? 自分の生き方ぐらい、自分で考えろ! したいことが見つかったらやりやがれ! それに自分で責任を取れ! 辛かろうがしんどかろうが、んなもん当たり前だ! 楽して生きようなんて、甘ったれたこと言ってんじゃねーぞ? 一度くらい、『負ぁ――――――けて、たまるかってんだぁ――――――!』って叫んでみろ!」
一気に言い放ったみちるは、肩で荒い息をしながら、拓郎を睨みつけたままでいた。
その眼にじわじわと涙が溜まってきていた。
言われた拓郎はというと、カチコチに固まっていた。
双方言葉を失って、ただただ沈黙の時間が流れていった。
やがて、みちるがうつむいて自分のトレーナーのそでで、溢れてこぼれ落ちそうになっていた涙を拭いた。
「ごめん。うさぎ。お前、そんなにしんどく生きてたんか」
拓郎は、腫れ物に触るように、そっとみちるの頭に手のひらを載せた。
「うるさい! なりたくてこうなったんじゃない!」
みちるは拓郎の手を弾き飛ばした。
「ごめん……」
拓郎は、思いっきりみちるの頭を抱き締めた。しばらくして、みちるは小さく唸った。
「う――――――」
息を吐き終わると、両手で拓郎の胸を押して彼から離れた。
「もう大丈夫。すっきりした」
みちるは拓郎に笑いかけた。
「人形だった拓郎がさぁ、人間になろうとし始めたってことだよね。『胎内巡り』を終えたばっかりの赤ちゃんなんだよ」
拓郎は、恥ずかしそうにうつむいた。
「俺、生きることが、こんなにも難しいことだったなんて、ゴミ箱に落ちるまで、考えもしなかったよ」
(へ? ゴミ箱? なんで一気にそこまで遡るんだ?)
みちるは、やけにゴミに執着している拓郎が、なんだか滑稽に思えた。
「拓郎さぁ。どうしてそんなに『ゴミ』が好きなの?」
その質問が、拓郎には理解できなかったようだ。その顔にもみちるは笑った。
「拓郎って、兎を掴んだ時から、やけに『ゴミ』に執着してたわよ」
「そうだったかぁ? ゴミに執着? 俺の執着って、ゴミレベル?」
その言葉に、みちるは大声で笑った。
「みたいね。軽かったわね~」
「かもな。正直、まだ完全に落とし込めてない」
拓郎は少し暗い顔をした。
「いいじゃん。きっかけは掴めたんだから」
みちるは大きく背伸びをした。
「生きてる意味を考えるって、人間として生まれたからには、避けられないことなんだろうか」
拓郎ぼんやりと呟いた。
「さあ? それに気がついたときに、苦悩するんじゃないの? 気がつかない人だっているかもしれない。ただ、あたしは思うのよ。もし気がつかないで、自分の欲望のまま生きてたら、転生したときに、そこが餓鬼道だったり、畜生道だったりするんじゃないかしら?」
「なんか恐ろしいね」
「うん。知らないって怖いわ。でも拓郎。他の世界に生まれ変わったら、人間だけが持ってる、そんな気持ちもなくなるような気がするわ」
みちるは、ほんの少し笑った。
「ああ、そうだね。彼らは彼らなりに『生きる意味』があって、それに忠実に生きてるんだ」
拓郎は何気なく呟いた。
「拓郎。ここはあたしの意見も聞いてほしい。私は『生きる意味が明解』だとは思わない。『生きる苦しみが明解』なのよ。それに比べて、私たち人間の生きる『苦しみ』はなんて沢山あるのかしら。とあたしは思ってるんだけれどね」
みちるは、少し冗談めいた口調で言った。
「多分俺は、生きることに執着がないんだ」
拓郎は少し寂しそうに笑った。
「え……」
みちるは言葉に詰まった。
「でも、2つの世界を見て、定められた世界で生きるって、どういうことかわかってきたんだ。同じ『苦しみ』の世界に住むのなら、餓鬼道や畜生道でなくて良かったと思ってる」
拓郎はそこで一度言葉を切ると、両手の中に顔を理めた。
それからおもむろに、横に座るみちるの顔を見た。
「俺、みちるの言うとおり、川に放り込まれた空き缶みたいに、ただ流れてここまで来てしまったと思う。でも、どうしたら生きることに真剣になれるのかわかんない」
拓郎は身体を起こした。みちるは拓郎を見ないで、電車の天井を見上げた。
「眼が赤くなってからさぁ、あたしは、『自分が何をしたいのか?』を考えたわ。元の黒い眼に戻りたかった。けれど、どうすれば戻るのか、その時には全然分からなかったから、いろんなものと戦ってた。でも、今は違う。かぐや姫を探し出して、兎をこの身体から追い出せば、あたしの眼は黒色に戻る。だからあたしがやりたいことは、『かぐや姫を探し出す』ってことなのよ。拓郎もさ、自分が何をしたいかが見つかるといいね」
みちるは拓郎を見つめた。
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深楽朱夜
ファンタジー
13人の神がいる異世界《アタラクシア》にこの世界を治癒する為の魔術、異界人召喚によって呼ばれた主人公
じゃ、この世界を治せばいいの?そうじゃない、この魔法そのものが治療なので後は好きに生きていって下さい
…この世界でも生きていける術は用意している
責任はとります、《アタラクシア》に来てくれてありがとう
という訳で異世界暮らし始めちゃいます?
※誤字 脱字 矛盾 作者承知の上です 寛容な心で読んで頂けると幸いです
※表紙イラストはAIイラスト自動作成で作っています
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