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いしもりえりか

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午後11時。
デスクトップパソコンに向かっていた女が、作業を終えて電源を落とし、立ち上がる。

「…Alice、おいで。」

子猫を抱いて、寝室に向かう。クローゼットから深紅しんくのワンピースドレスと同じ色のピンヒールを取り出した。服を着替え、髪を軽く巻き、上の方で一つにまとめる。ナチュラルメイクをほどこして、太ももあたりに隠し持つブレン・テン。レースがあしらわれた黒いストールと、深紅のビジューが施された黒のクラッチバックを手に取り、再び子猫を抱いて1階に降りた。

「…留守番、できる?」

リビングのソファーに子猫を降ろした女が少し困り顔で問う。すると子猫は、少しばかり心細げに、しかしはっきりと頷くように鳴く。

「…なるべく早く、帰るから。」

ちらりと時計を見ればちょうど長針が9を指した時だった。

「行ってきます。」

子猫を撫でると、ミャア、と鳴く。そんな子猫に微笑んで、足早に家を出た。
オフィス街のビルの影にひっそりと建つ、女の自宅は地下を入れて4階建て。
路地裏を抜けて表通りに出るなり、タクシーを捕まえ乗り込む。行き先を伝え、静かに目を閉じる女。自宅からBarまでは車で10分もかからない。

「お釣りはいらないわ。」

紙幣を渡して、タクシーを降りる。路地の影にあるBarの入口。段数の少ない階段を上り、扉を引いて中に入る。

「いらっしゃいませ。いつもの席でお待ちですよ。」

マスターが女を見て、声をかける。

「…ありがとう。ブラッディ・メアリーをお願い。」
「すぐにお持ちします。」

柔和な笑みに微笑み返し、奥の個室へと向かう。形ばかりのノックを済ませ、中からの声を待たずに扉を開ける。

「…お待たせ。」

待ち合わせの5分前。

「俺も今来たところだ。」

熊の様に大柄のいかつい男。男の前には、手が付けられていないマティーニ。隣に腰を下ろしたところで、控えめなノック。

「入れ。」

男の声を聞いて入ってきたマスターが、ブラッディ・メアリーと共に、アボガドの生ハム巻き、トマトとモッツァレラチーズとバジルのカプレーゼ、サーモンのマリネをテーブルに並べる。

「好きだろ?」

男はそう言って、ニヤリ、と笑う。確かに女の好きなものばかりだった。

「…餌付け?」
「さぁな?」

愉しそうな男に、僅かに顔を顰める女。しかしすぐに元の表情に戻り、箸を進める。

「…で?」

女がブラッディ・メアリーを口に運びながら、ちらりと男を見る。

「まぁそう焦るなや。」
「…絹本。」
「せめて食い終わってからにしろよ、不味まずくなっちまう。」

少し困った様に頭を掻く男。
絹本キヌモトは、少なくとも今生きている殺し屋の中で唯一蜜姫に並ぶ強さを持つ殺し屋だ。殺し屋で女の名を呼ぶのは、この男だけである。歳は38。
女は、反論を飲み込み、再び箸を手に取った。

「そういや蜜姫。お前、一人の男にご執心しゅうしんみたいじゃねーか。」

しばらくとりとめのない話をしていると男が思い出したように言ってきて、流石に情報が早いな、と思いながら女は小さく息を吐く。

「…別にそんなんじゃない。」

少し不貞腐ふてくされる女を、男は愛しそうに見つめる。

「…美味しかった。」

ごちそうさま、と手を合わせるた女が、何杯目かのカクテルをあおる。

「で。」

有無を言わさず、話をうながす。男が、やれやれと肩をすくめ、口を開いた。

「報酬は、5億。」

2億5000万か、と心の中で呟く。

「一人、5億だ。」

男の言葉に少しばかり目を見開く。

「…そのクライアント、何者?」

5億までなら、有り得ない額でもない。しかし10億もかけて殺し屋を2人も雇うほどの人物とその取引となると…。
女の表情が驚きのそれから、怪訝なものへと変わった。

「御厨財閥の裏の顔、って知ってっか?」
「…御厨 緋彩ヒイロ。御厨 蒼彩ヒロテルの双子の弟。」

御厨財閥の、表の顔が兄の蒼彩、裏の顔が弟の緋彩、と言われている。

「そういえば、蒼彩の依頼受けてくれたんだったな。」

先日のパーティーで女が撃ったのは双子の伯父、すなわち御厨財閥現会長の姉の夫。

「どうしても予定が合わないからって、自分の顧客を私に回すなんて…。」

呆れる様に返す女。
あの依頼は、そもそも双子の兄が男に持ちかけたものだった。しかしパーティーの日、男には海外での仕事があり、どうしても予定の調整が出来なかった為、仲介人を通して女に回してきたのだ。

「蜜姫を信頼してるからな、俺は。」

浅く笑う男。そんな男に、女は小さな溜め息をつく。

「…で、その緋彩が、10億で2人も殺し屋雇って何をしようっていうの。」
「言っただろ?護衛だよ、護衛。俺は蒼彩とそのフィアンセを、蜜姫は緋彩とそのフィアンセを。」

正確に言えば俺の依頼主は蒼彩だ、と付け加える男に、女は、あぁそういうことか、と納得する。

「明後日、御厨主催の仮面舞踏会がある。4人が集まるそこで狙われる可能性が高い。」
「明後日…わかった。」
「2人には俺から伝えておく。会場と各データはあとでメールを入れる。」
「…ん。じゃあ…私は帰るから。」

女は、明後日会場で、と言い残してその場を後にした。

----

子猫を抱いて仲介人の店に向かう女。気怠げに欠伸をひとつ。それと同時に腕の中で欠伸をしていた子猫を見て目を細めた。

「もうすぐよ。」

角を曲がり、路地裏の闇に静かに紛れ込む。

「おはよう、蜜姫。」

顔を上げた仲介人が、挨拶と共に柔らかい笑みを寄越した。

「…おはよ。」

女は眠そうに挨拶を返す。

「ミルクティー?」
「…いや、ホットのハニーミルクを。あと、この子にも温めのミルク。」
「了解。…朝食は済ませたか?」
「まだ。」

わかった、と奥に入っていく仲介人。それを見送った女が子猫を置き、おもむろに扉に近づき開けた。

「ただいま…。」

少し目を見開いて静かに入ってきたスナイパーを、女が優しく抱きしめる。

「おかえり、椿。」
「蜜姫ちゃん…ただいま。」

ふわり、とどこか女に似た雰囲気の笑みを零すスナイパー。

「プラハはどうだった?」
「想像していた以上に素敵なところだった、かな…。」
「お、早かったな。」

仲介人が、ホットケーキを片手に奥から出てきた。

「蜜姫、出来たぞ。」
「ん、ありがと。」

子猫は既にミルクを飲んでいる。

「椿も、どうせ朝まだだろ?」

そう言って、仲介人はホットケーキが乗った皿をもうひとつ置いた。

「…ありがとう。」

スナイパーに微笑み、あ、と思い出したように口を開く仲介人。

「昨日絹本さんに呼び出されたんだって?」
「…あぁ、うん。」

一瞬考えた女が、思い出した様に頷く。

「…護衛の依頼よ。」
「護衛…?」

詳細を話せば仲介人が納得する。

「そういうことだから、明日の依頼は受けないで。」

そう言って話を終わらせた女は、夜までスナイパーの思い出話に耳を傾けた。
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