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5話 ありがとうの花束を
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「まぁ! このお肉、とっても柔らかくて美味しいですわね! 臭みも全然なくて、とっても食べやすいわ!」
「……」
「……」
「このお野菜もとっても新鮮! ドレッシングがなくても甘く感じますわよ!」
「……」
「……」
「……あの、御二方? せっかくこうやって集まったんですもの。何か、お話しませんこと?」
「……」
「……」
「……ソフィー? 何でも良いわ。最近あった面白い話をして頂戴」
「お嬢様。人選ミスでございます」
あまりの静けさに耐えかねたグレイスの無茶振りに、ソフィーの静かなツッコミが入る。ソフィーの冷静な返答に、グレイスも溜息を吐くしかない。
――ブラック家の屋敷のある一角。ここに集まったグレイス達は、今現在朝食の時間を過ごしている。きっかけは、セオが泣き疲れて眠ってしまった昨日の事だった。
*
「――だから、婚約を認めよう」
アーサーが婚約を認めたその後。グレイスはぽかんとアーサーを見つめていたが、ハッと我に返った。
言ってしまえば、金のための婚約・結婚だ。グレイスは、別にアーサー自身を気に入ってここに来たわけではない。
けれど、こちらを真っ直ぐに見つめて婚約を認めると言った年上の男性に、ドクドクと心臓が脈打っている。その事にグレイスは動揺していた。
グレイスは、改めてアーサーの全身を視界に入れた。
アーサーは男性の中でも背が高い。体つきもがっちりしている。髪はぼさぼさだし髭も生えているが、身なり自体は清潔感がある。……全身真っ黒ではあるが。男らしさでいえば、そこら辺の男より男らしい。
「(ど、どうしよう)」
恥ずかしくて胸がパンクしてしまいそうなのに、海底の様な瞳から目が離せず。グレイスは困惑した。
「……戻るか」
「えっ」
先に視線を外したのはアーサーだった。アーサーは眠ったままのセオを見下ろし、手を伸ばした。
グレイスは慌てた。彼女の胸には「もっと何か話さなきゃ」という気持ちが芽生えていた。
「あ、あの!」
「……なんだ?」
「あ、ええと。ご子息の事でお話が」
「ご子息?」
グレイスに言われて、アーサーは少しの間、首を傾げた。「誰の事だ」とでも言いたげな、本当に純粋な問いかけをしている瞳だったが、セオの事だと分かり「ああ」と頷いた。
「セオがどうかしたか?」
「その。……余計なお世話かもしれませんが、ご子息とは普段、どの様に過ごされているのかな、と」
「『どのように過ごしている』……」
グレイスに言われた事を繰り返し口にして、アーサーは口を手で覆って目を伏せた。少しの間考えて、アーサーは「普段は」と続け、顔を上げた。
「俺は公爵という立場上、多様な業務があってな。屋敷で机に向き合っている時もあれば、屋敷を出て領地の視察へ向かう事も多々ある。セオは……普段、貴族の子供が受ける教育を受けたり、何もない時は文字の練習も兼ねて本を読んでいる。……と、トールから聞いている」
「……え? あ、あの。お二人で過ごしたりは……?」
「ないな」
「一緒にお食事をしたりは?」
「……ないな」
「……起きかけの『おはよう』と、寝る前の『おやすみ』も?」
「……ない、な」
「そ、そうですか……」
グレイスの度重なる質問と居たたまれない視線に、アーサーは思わず目を逸らした。ここまでスキンシップのない親子など、貴族の中でも中々いない。グレイスが驚くのも無理はなかった。
気まずげなままのアーサーに、グレイスは「うーん」と考える。
「私が言うのも烏滸がましいのですが……お二人にはスキンシップが必要だと思います。ご子息はまだ幼い上、貴族の世界に入って間もありませんから、ブラック公爵の導きが必要不可欠かと」
「……すまない」
「え!? い、いえ! 怒っている訳ではないのです! 申し訳ございません、わたくし、説教じみた事を……!」
「い、いや。責めている訳じゃない。君の主張は正しいよ。謝らないでくれ」
謝られて慌てて謝り返すグレイスに、アーサーも少しどもりながらも告げる。その声は普段よりも穏やかで、まるで小さな子供を諭すような優しさが感じられる。
自分へと掛けられる優しい声音と言葉に、グレイスは落ち着きを取り戻した。少しむず痒い気持ちを覚えながら、視線をアーサーへと戻せないまま口を開く。
「ご子息は、ブラック公爵とどのように接したらいいかと悩んでおられました」
ゆらりと揺れるグレイスの視界に、ソファに置かれたアーサーの手と、セオのあどけない寝顔が見えた。グレイスは深呼吸をして顔を上げた。何を考えているか分からないアーサーの顔が見える。
「子供にとって……親と一緒にいられるという事は、とても大切な事だと思います。一日の始まりに挨拶をして、一緒にご飯を食べて、一緒に何かをする。そうして一緒に疲れて、また一緒にご飯を食べて、一日の終わりに挨拶をして。子供が辛い時は話を聞いたり、自信がなさそうだったら励まして。そういう愛情が、本当の意味で子供を育てるんだと思います」
「……」
「親の愛を受けて、子供は初めて『愛され方』と『愛し方』を知る。……それは他の誰でもない、『家族』が教えるべきだと、わたくしは思います」
言い切ったグレイスを、アーサーは見つめる。グレイスも、負けじと見つめ返す。
一瞬の静寂の中で、テオの寝息だけが静かに聞こえる。
アーサーは薄く唇を開いた。
「君は?」
「え?」
「君は、そうやって育ったのか?」
飛び出したのは、真っ直ぐな問いかけだった。
グレイスの顔がほんの一瞬、無になった。……しかし、それは本当に一瞬の事で、アーサーが瞬きした次の瞬間には、グレイスはいつもの様な微笑みを浮かべていた。
「父は男で一つでわたくしを愛してくれていました。妹も真っ直ぐで、誰よりも優しい良い子です。クロノス家の全員がわたくしを愛してくれたから、今のわたくしは存在している。……わたくしは、クロノス家の一員になれて良かったと、心の底から思いますわ」
「……そう、か。君は、良い家族に恵まれたんだな」
「ブラック公爵……?」
「それが聞けて、良かった」
芯の通ったグレイスの声に、アーサーは噛みしめる様に呟き、微笑んだ。
グレイスは目を見開き、目の前の男の顔を見つめた。トクリ、胸が静かに音を立てたのに、その時のグレイスは気付かなかった。
ハッとして、グレイスは口を開く。
「そうですわ! わたくしに良い考えがありますの!」
輝く笑顔を浮かべ、グレイスはアーサーを見上げる。急に明るい雰囲気で話始めたグレイスに、アーサーは少し驚きながらも「何だろうか?」と返した。
「よろしければ明日、ご一緒に朝食はいかがでしょうか? もちろん、ご子息もご一緒に!」
「……朝食か」
グレイスの提案に、アーサーは考える。癖なのだろう、手はまた口を覆っている。
少しだけ間を空けて、アーサーは頷いた。
「分かった。時間を調整しておこう」
「ありがとうございます! ふふ、明日が楽しみですわね!」
了承の返事にグレイスの顔は明るく輝いた。嬉しそうなグレイスに、アーサーもどこか微笑まし気な表情を浮かべている。
そうして、アーサーはテオを連れて、グレイスは自室へと向かい、二人は別れた。……これが昨日の出来事だ。
グレイスの思いも虚しく、セオとアーサーは顔を見合わすことなく静かに朝食を食べる手を進めている。二人が仲良くなれるかもしれない、という期待で胸いっぱいだったグレイスも、今のこの現状にはどう動き出せばいいか迷ってしまっていた。
とは言っても希望はない、とは言い切れない部分もある。セオが、アーサーの事をちらちらと見ているのだ。
セオの挙動に気付いたグレイスは、セオとアーサーへ交互に視線を送る。「自分に気付け!」という念がこもった視線だ。……その視線に気づいたのは、セオだった。
セオと目が合ったグレイスは、小さくアーサーを指を差す。
必死さが伝わる顔をしながらジェスチャーをするグレイスに、セオの心も決意を固めたようだ。神妙な面持ちでグレイスへ頷くと、アーサーへ視線を向けた。
「あ、あの。公爵様」
「……なんだ、セオ」
「え、えっと。……今日はお仕事大変そうですか?」
「そうだな……。最近、貴族への不満が溜まっている平民が多くなっている件への対応で、いつもより休憩は取れなさそうだな」
「そ、そうですか」
アーサーの返答に、セオは勢いをなくした。きっと、仕事の合間にでも「ありがとう」を伝えようとしていたのだろう。落ち込んだ様子で俯いてしまう。そんなセオに、アーサーは首を傾げている。
二人の様子を見守っていたグレイスが「セオ」と口を開いた。呼ばれたセオは弾かれたように顔を上げる。
「相手を思いやる気持ちがあるのは素敵な事だと思う。でも、伝えたい事があるなら、ちゃんと言わなきゃダメだよ」
「グレイス……で、でも――」
「セオ。何か、俺に言いたい事があるのか?」
セオ達の会話を遮るようにアーサーが言った。図星を突かれたセオはビクリと肩を震わせ、恐る恐るとでもいうようにアーサーへ視線を向けた。
そんなセオに、アーサーは「ああ」と頷いて、穏やかに告げる。
「すまない、言い方が悪かったな。怒ってるわけじゃない。ただ、お前が俺に気を遣って話したい事も話せていないんじゃ、俺も嫌だからな」
宥めるような優しい声に、緊張で固くなったセオの体から少し力が抜けた。
目を泳がせ、上目遣いにアーサーを見て、セオは話し始める。
「……えっと。大した話じゃ、ないんですけど」
「ああ、それでもいい。言って見ろ」
「……ずっと、公爵様にお礼を言わなくちゃって思ってて」
「お礼?」
セオの言葉にアーサーは首を傾げる。セオは頷いて、震える声で続けた。
「僕が死のうとした時に止めてくれたこと、ありがとうございます。お陰で僕、こうやって生きて、美味しい物食べられて。トールとも、グレイスとも出会えて。……本当は生きてていいのかなって自信がなくて。でも今は、僕が生きていて嬉しいって思ってくれてる人がいるって気付けたから、生きていて嬉しいと思えるようになりました。……僕を生かしてくれて、ありがとうございます」
言い切って、セオは席を立った。食事中に席を立つのはマナー違反。しかし、誰もそれを咎める事無く、彼の行動を見守った。
セオは歩を進めると、アーサーの目の前で止まった。
「本当に、ありがとうございました!」
大きな声で言って、セオはアーサーに向かって深々と頭を下げた。
こんな事をされるとは思っていなかったらしい。アーサーは驚いた様に目を見開き、ゆっくりと手をセオの元へ伸ばす。……伸ばされた手は、セオの頭へと置かれた。セオは驚き、勢いよく視線をアーサーへと向けた。
「こ、公爵様?」
「……大人が子供を助けるのは当たり前だ。礼を言われる事じゃない」
「は、はい……」
「……しかし。お前が生きたいと思えるのなら、こんなに喜ばしい事はないと、俺は思う」
「え……」
セオは大きく見開いた眼を、更に大きくさせた。……アーサーが、微笑んでいたのだ。初めて見るアーサーの笑みに、セオの口角が少しずつ上がっていく。
「セオ、席に座りなさい。食事中の離席はマナー違反だ」
「は、はい、公爵様!」
柔らかく頭を撫でながらアーサーが告げると、セオは元気のよい返事と共に自身の席へと戻った。そして興奮冷めやらぬ様子でグレイスを見ると、笑顔を浮かべた。
「グレイス、ありがとう! 僕、ちゃんと言えたよ!」
「ふふ。おめでとうございます、セオ。頑張りましたね」
グレイスが微笑みながら褒めれば、セオの顔は一層明るく輝いた。
「ありがとう、クロノス伯爵令嬢。君のお陰で、初めてちゃんとセオと話せた気がするよ」
「いえいえ、そんな。未来のブラック公爵夫人として、当たり前の事をしただけですわ」
突然のアーサーの例に目を丸くさせながらも、グレイスは嬉し気に微笑んだ。アーサーもいつもより穏やかな顔つきでグレイスを見つめている。
そんな二人の様子を交互に見て、セオは口を開いた。
「ねぇ、グレイス」
「? 何でしょうか、セオ」
「グレイスは公爵様のお友達じゃなくて、公爵様の『コイビト』なんだね」
「……え”っ!?」
ガチャンッ。グレイスの手からフォークが落ちて皿にぶつかり、大きな音が響いた。
汗が噴き出しているグレイスの事などつゆ知らず、セオは言葉を続けた。
「――じゃあグレイスは、僕の未来の『お母さん』だね!」
「んふっ」
セオの発言に、ソフィーのくぐもった笑い声が上がった。しかしながら、言われた当本人であるグレイスは顔を真っ赤にしたまま、俯いてしまっていて。ソフィーの笑いを押し殺す吐息だけが部屋の中に響いた。
「僕、グレイスが母さんになるの、嬉しい!」
「……やめて、セオ……お願いだから……」
「え、なんで? ――えっ、グレイス! 顔真っ赤だよ! どうしたの!?」
「やめて……やめて……」
「んふっ……! くっ……!」
「ソフィー! 貴女、笑わないでくれるかしら!?」
「も、申し訳っ……んふふっ……!」
「……賑やかだな」
「ホッホ。ここまで賑やかな朝食は、私も初めてですな。……旦那様。家庭を持つというのは、良いものですぞ」
諭すようなトールの言に、アーサーは「そうだな」と静かに笑った。――先程までの静けさが嘘の様に、部屋の中は笑い声に包まれていた。
「……」
「……」
「このお野菜もとっても新鮮! ドレッシングがなくても甘く感じますわよ!」
「……」
「……」
「……あの、御二方? せっかくこうやって集まったんですもの。何か、お話しませんこと?」
「……」
「……」
「……ソフィー? 何でも良いわ。最近あった面白い話をして頂戴」
「お嬢様。人選ミスでございます」
あまりの静けさに耐えかねたグレイスの無茶振りに、ソフィーの静かなツッコミが入る。ソフィーの冷静な返答に、グレイスも溜息を吐くしかない。
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*
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言ってしまえば、金のための婚約・結婚だ。グレイスは、別にアーサー自身を気に入ってここに来たわけではない。
けれど、こちらを真っ直ぐに見つめて婚約を認めると言った年上の男性に、ドクドクと心臓が脈打っている。その事にグレイスは動揺していた。
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「(ど、どうしよう)」
恥ずかしくて胸がパンクしてしまいそうなのに、海底の様な瞳から目が離せず。グレイスは困惑した。
「……戻るか」
「えっ」
先に視線を外したのはアーサーだった。アーサーは眠ったままのセオを見下ろし、手を伸ばした。
グレイスは慌てた。彼女の胸には「もっと何か話さなきゃ」という気持ちが芽生えていた。
「あ、あの!」
「……なんだ?」
「あ、ええと。ご子息の事でお話が」
「ご子息?」
グレイスに言われて、アーサーは少しの間、首を傾げた。「誰の事だ」とでも言いたげな、本当に純粋な問いかけをしている瞳だったが、セオの事だと分かり「ああ」と頷いた。
「セオがどうかしたか?」
「その。……余計なお世話かもしれませんが、ご子息とは普段、どの様に過ごされているのかな、と」
「『どのように過ごしている』……」
グレイスに言われた事を繰り返し口にして、アーサーは口を手で覆って目を伏せた。少しの間考えて、アーサーは「普段は」と続け、顔を上げた。
「俺は公爵という立場上、多様な業務があってな。屋敷で机に向き合っている時もあれば、屋敷を出て領地の視察へ向かう事も多々ある。セオは……普段、貴族の子供が受ける教育を受けたり、何もない時は文字の練習も兼ねて本を読んでいる。……と、トールから聞いている」
「……え? あ、あの。お二人で過ごしたりは……?」
「ないな」
「一緒にお食事をしたりは?」
「……ないな」
「……起きかけの『おはよう』と、寝る前の『おやすみ』も?」
「……ない、な」
「そ、そうですか……」
グレイスの度重なる質問と居たたまれない視線に、アーサーは思わず目を逸らした。ここまでスキンシップのない親子など、貴族の中でも中々いない。グレイスが驚くのも無理はなかった。
気まずげなままのアーサーに、グレイスは「うーん」と考える。
「私が言うのも烏滸がましいのですが……お二人にはスキンシップが必要だと思います。ご子息はまだ幼い上、貴族の世界に入って間もありませんから、ブラック公爵の導きが必要不可欠かと」
「……すまない」
「え!? い、いえ! 怒っている訳ではないのです! 申し訳ございません、わたくし、説教じみた事を……!」
「い、いや。責めている訳じゃない。君の主張は正しいよ。謝らないでくれ」
謝られて慌てて謝り返すグレイスに、アーサーも少しどもりながらも告げる。その声は普段よりも穏やかで、まるで小さな子供を諭すような優しさが感じられる。
自分へと掛けられる優しい声音と言葉に、グレイスは落ち着きを取り戻した。少しむず痒い気持ちを覚えながら、視線をアーサーへと戻せないまま口を開く。
「ご子息は、ブラック公爵とどのように接したらいいかと悩んでおられました」
ゆらりと揺れるグレイスの視界に、ソファに置かれたアーサーの手と、セオのあどけない寝顔が見えた。グレイスは深呼吸をして顔を上げた。何を考えているか分からないアーサーの顔が見える。
「子供にとって……親と一緒にいられるという事は、とても大切な事だと思います。一日の始まりに挨拶をして、一緒にご飯を食べて、一緒に何かをする。そうして一緒に疲れて、また一緒にご飯を食べて、一日の終わりに挨拶をして。子供が辛い時は話を聞いたり、自信がなさそうだったら励まして。そういう愛情が、本当の意味で子供を育てるんだと思います」
「……」
「親の愛を受けて、子供は初めて『愛され方』と『愛し方』を知る。……それは他の誰でもない、『家族』が教えるべきだと、わたくしは思います」
言い切ったグレイスを、アーサーは見つめる。グレイスも、負けじと見つめ返す。
一瞬の静寂の中で、テオの寝息だけが静かに聞こえる。
アーサーは薄く唇を開いた。
「君は?」
「え?」
「君は、そうやって育ったのか?」
飛び出したのは、真っ直ぐな問いかけだった。
グレイスの顔がほんの一瞬、無になった。……しかし、それは本当に一瞬の事で、アーサーが瞬きした次の瞬間には、グレイスはいつもの様な微笑みを浮かべていた。
「父は男で一つでわたくしを愛してくれていました。妹も真っ直ぐで、誰よりも優しい良い子です。クロノス家の全員がわたくしを愛してくれたから、今のわたくしは存在している。……わたくしは、クロノス家の一員になれて良かったと、心の底から思いますわ」
「……そう、か。君は、良い家族に恵まれたんだな」
「ブラック公爵……?」
「それが聞けて、良かった」
芯の通ったグレイスの声に、アーサーは噛みしめる様に呟き、微笑んだ。
グレイスは目を見開き、目の前の男の顔を見つめた。トクリ、胸が静かに音を立てたのに、その時のグレイスは気付かなかった。
ハッとして、グレイスは口を開く。
「そうですわ! わたくしに良い考えがありますの!」
輝く笑顔を浮かべ、グレイスはアーサーを見上げる。急に明るい雰囲気で話始めたグレイスに、アーサーは少し驚きながらも「何だろうか?」と返した。
「よろしければ明日、ご一緒に朝食はいかがでしょうか? もちろん、ご子息もご一緒に!」
「……朝食か」
グレイスの提案に、アーサーは考える。癖なのだろう、手はまた口を覆っている。
少しだけ間を空けて、アーサーは頷いた。
「分かった。時間を調整しておこう」
「ありがとうございます! ふふ、明日が楽しみですわね!」
了承の返事にグレイスの顔は明るく輝いた。嬉しそうなグレイスに、アーサーもどこか微笑まし気な表情を浮かべている。
そうして、アーサーはテオを連れて、グレイスは自室へと向かい、二人は別れた。……これが昨日の出来事だ。
グレイスの思いも虚しく、セオとアーサーは顔を見合わすことなく静かに朝食を食べる手を進めている。二人が仲良くなれるかもしれない、という期待で胸いっぱいだったグレイスも、今のこの現状にはどう動き出せばいいか迷ってしまっていた。
とは言っても希望はない、とは言い切れない部分もある。セオが、アーサーの事をちらちらと見ているのだ。
セオの挙動に気付いたグレイスは、セオとアーサーへ交互に視線を送る。「自分に気付け!」という念がこもった視線だ。……その視線に気づいたのは、セオだった。
セオと目が合ったグレイスは、小さくアーサーを指を差す。
必死さが伝わる顔をしながらジェスチャーをするグレイスに、セオの心も決意を固めたようだ。神妙な面持ちでグレイスへ頷くと、アーサーへ視線を向けた。
「あ、あの。公爵様」
「……なんだ、セオ」
「え、えっと。……今日はお仕事大変そうですか?」
「そうだな……。最近、貴族への不満が溜まっている平民が多くなっている件への対応で、いつもより休憩は取れなさそうだな」
「そ、そうですか」
アーサーの返答に、セオは勢いをなくした。きっと、仕事の合間にでも「ありがとう」を伝えようとしていたのだろう。落ち込んだ様子で俯いてしまう。そんなセオに、アーサーは首を傾げている。
二人の様子を見守っていたグレイスが「セオ」と口を開いた。呼ばれたセオは弾かれたように顔を上げる。
「相手を思いやる気持ちがあるのは素敵な事だと思う。でも、伝えたい事があるなら、ちゃんと言わなきゃダメだよ」
「グレイス……で、でも――」
「セオ。何か、俺に言いたい事があるのか?」
セオ達の会話を遮るようにアーサーが言った。図星を突かれたセオはビクリと肩を震わせ、恐る恐るとでもいうようにアーサーへ視線を向けた。
そんなセオに、アーサーは「ああ」と頷いて、穏やかに告げる。
「すまない、言い方が悪かったな。怒ってるわけじゃない。ただ、お前が俺に気を遣って話したい事も話せていないんじゃ、俺も嫌だからな」
宥めるような優しい声に、緊張で固くなったセオの体から少し力が抜けた。
目を泳がせ、上目遣いにアーサーを見て、セオは話し始める。
「……えっと。大した話じゃ、ないんですけど」
「ああ、それでもいい。言って見ろ」
「……ずっと、公爵様にお礼を言わなくちゃって思ってて」
「お礼?」
セオの言葉にアーサーは首を傾げる。セオは頷いて、震える声で続けた。
「僕が死のうとした時に止めてくれたこと、ありがとうございます。お陰で僕、こうやって生きて、美味しい物食べられて。トールとも、グレイスとも出会えて。……本当は生きてていいのかなって自信がなくて。でも今は、僕が生きていて嬉しいって思ってくれてる人がいるって気付けたから、生きていて嬉しいと思えるようになりました。……僕を生かしてくれて、ありがとうございます」
言い切って、セオは席を立った。食事中に席を立つのはマナー違反。しかし、誰もそれを咎める事無く、彼の行動を見守った。
セオは歩を進めると、アーサーの目の前で止まった。
「本当に、ありがとうございました!」
大きな声で言って、セオはアーサーに向かって深々と頭を下げた。
こんな事をされるとは思っていなかったらしい。アーサーは驚いた様に目を見開き、ゆっくりと手をセオの元へ伸ばす。……伸ばされた手は、セオの頭へと置かれた。セオは驚き、勢いよく視線をアーサーへと向けた。
「こ、公爵様?」
「……大人が子供を助けるのは当たり前だ。礼を言われる事じゃない」
「は、はい……」
「……しかし。お前が生きたいと思えるのなら、こんなに喜ばしい事はないと、俺は思う」
「え……」
セオは大きく見開いた眼を、更に大きくさせた。……アーサーが、微笑んでいたのだ。初めて見るアーサーの笑みに、セオの口角が少しずつ上がっていく。
「セオ、席に座りなさい。食事中の離席はマナー違反だ」
「は、はい、公爵様!」
柔らかく頭を撫でながらアーサーが告げると、セオは元気のよい返事と共に自身の席へと戻った。そして興奮冷めやらぬ様子でグレイスを見ると、笑顔を浮かべた。
「グレイス、ありがとう! 僕、ちゃんと言えたよ!」
「ふふ。おめでとうございます、セオ。頑張りましたね」
グレイスが微笑みながら褒めれば、セオの顔は一層明るく輝いた。
「ありがとう、クロノス伯爵令嬢。君のお陰で、初めてちゃんとセオと話せた気がするよ」
「いえいえ、そんな。未来のブラック公爵夫人として、当たり前の事をしただけですわ」
突然のアーサーの例に目を丸くさせながらも、グレイスは嬉し気に微笑んだ。アーサーもいつもより穏やかな顔つきでグレイスを見つめている。
そんな二人の様子を交互に見て、セオは口を開いた。
「ねぇ、グレイス」
「? 何でしょうか、セオ」
「グレイスは公爵様のお友達じゃなくて、公爵様の『コイビト』なんだね」
「……え”っ!?」
ガチャンッ。グレイスの手からフォークが落ちて皿にぶつかり、大きな音が響いた。
汗が噴き出しているグレイスの事などつゆ知らず、セオは言葉を続けた。
「――じゃあグレイスは、僕の未来の『お母さん』だね!」
「んふっ」
セオの発言に、ソフィーのくぐもった笑い声が上がった。しかしながら、言われた当本人であるグレイスは顔を真っ赤にしたまま、俯いてしまっていて。ソフィーの笑いを押し殺す吐息だけが部屋の中に響いた。
「僕、グレイスが母さんになるの、嬉しい!」
「……やめて、セオ……お願いだから……」
「え、なんで? ――えっ、グレイス! 顔真っ赤だよ! どうしたの!?」
「やめて……やめて……」
「んふっ……! くっ……!」
「ソフィー! 貴女、笑わないでくれるかしら!?」
「も、申し訳っ……んふふっ……!」
「……賑やかだな」
「ホッホ。ここまで賑やかな朝食は、私も初めてですな。……旦那様。家庭を持つというのは、良いものですぞ」
諭すようなトールの言に、アーサーは「そうだな」と静かに笑った。――先程までの静けさが嘘の様に、部屋の中は笑い声に包まれていた。
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