SMの世界

静華

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「おや、いいものを持ってるね、翔」
 ノックもなく入ってきたのは穂仁原と颯斗だった。
「な、なんでそんなもん持ってんだよ!」
 心なしか颯斗の目尻が赤い。
「こ、これは、その、有聖さんが!」
 乗馬鞭を握っているところを見られた、えもいわれぬ恥ずかしさから翔の頬が熱くなる。そそくさと箱に戻して、ずいっと有聖の方に押しやった。
「二人とも大きな声を出すものじゃないよ、颯斗。座りなさい」
「っ、はい」
 なんだか、颯斗の様子がいつもと違う気がする。歩き方がちょっとぎこちない。翔の横に腰を下ろすときには、「い、てぇ!」と小さな声で呻いた。
「颯斗さん、筋肉痛にでもなった? 大丈夫?」
「へ、平気だ。今日は、ちょっと、忙しかったから、な」
 頑張りすぎちまったかな、と颯斗が頭を掻いた。
 確かに今日は忙しかった。週末のイベントだから、普段よりも二倍くらいの数の客が来ていたはずだ。カウンターは翔と颯斗の二人で回していたから、忙しい時間帯はほとんど休憩も取れなかった。
「そだね。俺も疲れたぁ! イベントのときって、そんなに話しかけてくる人いないんだけど、今日はやけに多かったし。『君には首輪が似合いそうだね』なんて言われてもさぁ、えぇーって感じ」
「ああ、あの客な。結構、気に入られてたもんな、お前。気をつけろよ。あいつ、SM系のイベントばっか来てるから、そっち系だぞ」
「えぇーマジで!? まさかのロックオンとか、無理! 絶対、無理!」
 ぶるぶると思い切り首を振る。
 SM云々の前に、あのタイプは生理的に受け付けない。
 四十歳代くらいの男だったが、身長は翔と同じくらいなのに横幅は倍近くあったのだ。それに、ファンションにもこだわりがないようで、くたびれたスーツを着ていた。よれよれで、いつクリーニングに出したのかと聞きたくなるようなスーツだった。デブだろうとなかろうと小奇麗にしてない人は、翔のタイプじゃない。
「こらこら、お客様の話はやめなさい。失礼だよ」
「すみません。でも、なんかあからさまだったんです、あのお客様。他の人は、『可愛いね』とか『衣装は自前なの?』とか、当たり障りのないこと言う人が多いんだけど……。首輪はコレ、リードはアレがいいとか、なんとか……」
 ドリンクを頼まれるたびに、卑猥な妄想に付き合わされたら愚痴の一つもつきたくなる。
「そうか、それは嫌な思いをしたね。たまのイベントだと羽目を外してしまう人もいるから、大目に見てあげてくれ」
「ま、俺がちゃんとフォローしてやるって。気にすんな。あっこで働いてると、とんでもない経験なんて山ほどできるからさ。羞恥プレイに巻き込まれるのなんて序の口だ」
 ははは、と颯斗が大きな声で笑う。
「でも、翔くんも少し気をつけないとね。ちょっと危なっかしいから」
 口を挟んだ有聖に、「そうだねぇ。オオカミが多いから」と穂仁原が相槌を打つ。
「もう、みんなそんなことばっかり言う! オオカミって何なんですか? 俺だって、そんな柔じゃないんだから!」
 大人二人に子供扱いされて、翔が頬を膨らませる。
 その様がよりいっそう子供っぽく見えたのか、穂仁原と有聖が顔を見合わせてまた笑う。
 そうこうしているうちに、穂仁原が頼んでおいてくれたのだろう料理が次々と運ばれてきた。酢の物、刺身の盛り合わせ、野菜の天ぷら、茶碗蒸し、他にもいろいろな小鉢が並べられる。颯斗が好きだと言っていたステーキも、もちろんあった。
「わぁ、美味しそう!」
「料理長のオススメを頼んであるんだ。足りなければ、遠慮せず頼んでくれ。ああ、ノンアルコールはこちらに。翔は飲むだろう?颯斗は少し体調が悪いみたいだから、私たちと同じノンアルコールだよ」
「え? 颯斗さん、飲まないの? そんなに痛い?」
 そんなに筋肉痛が辛いのかと、颯斗の顔を覗きこむと、颯斗は「う、あ、いや、だ、大丈夫だから」と赤くなったり青くなったりしながら首を振った。
 なんだかよくわからないけれど、そんな颯斗の様子に有聖が笑いをこらえるように手で口元を隠した。
一人だけ酒を飲むのは気が引けたけれど、ありがたくもらうことにする。
 翔の前にはグラスに入ったビール、他の三人の手元にはまだビンに入ったままのビールが渡った。間違えないように、ノンアルコールのものはビンに入ったままだしているようだ。グラスの形も若干異なっている。
 三人がそれぞれビールをつぐのを待って、穂仁原の合図で「乾杯」とグラスを合わせた。
 腹が減っていたから、穂仁原に勧められるまま箸を進めて、これでもかというほどがっついた。さすが穂仁原御用達の店というべきか、どの料理も美味しかった。定番の刺身や天ぷらはもちろん、店オリジナルの鮭といくらの親子丼や颯斗おススメの和牛ステーキも絶品だった。
「ふぁ、食べたぁ! ……ここって、お茶もすっごく美味しいですね。玉露?」
 安い居酒屋だと、料理はそこそこでもお茶は出涸らしのようなものが出てきたりする。
 あれは本当にいただけない。料理が美味しくてもがっかりだ。
「ああ、いい茶葉だね。もう腹は膨れたかい?」
「もういっぱいいっぱいです。こんな美味しいもの食べたの久しぶりで、ちょっと食べすぎちゃったかも」
 ほんのり酔いが回ってすごく気分がいい。
「気に入ってくれてよかった。また連れてきてあげよう。ああ、そういえば、あの乗馬鞭は何だったんだい? 興味が湧いたのかな?」
 すっかり忘れていた話題を急に振られて、ごふっとむせてしまう。しかも、なんでSMに話が戻るんだ。いや、あの店で働いてるのだから仕方ないのかもしれない。なにせ穂仁原がオーナーで、有聖は調教師なのだから、共通の話題はそれくらいしかないのだ。
「翔くんが怖がるから、触らせてあげようと思ったんですよ。ちょうどあれは新しいやつだったので、触ってみたら少しは恐怖心が薄れるかな、と」
「なるほど。どうだい? 初めて鞭を握った感想は? ドキドキしたかな?」
 にこにこと穂仁原が微笑みながら聞いてくる。
「あ、……しま、した。すごく…」
 すごくドキドキした。本当は――もう一回触りたい。
 あれで叩かれたらやっぱり痛いのだろうか。そんなことを考えると、また胸が高鳴った。
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