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咲う鶯燕地
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忘れられない人がいる……。
忘れなきゃいけない人がいる……。
焦がれている人がいる……。
諦めなきゃいけない人がいる……。
傍にいてくれる人がいる……。
愛さなきゃいけない人がいる……。
それなのに──────ぼくは──────。
熱い息を首筋に感じ、意識がふわりと浮上する。まだぼんやりとしている頭を傾いで、首筋をくすぐる熱い息の主を見た。
眠い、とぼそりと呟いた彼は、そのまま夜具の中へと身体を滑り込ませてくる。桜亮は上体を起こして彼を引き入れた。カーテンの隙間から零れてくる光の筋をみつめ、徐々に戻りつつ意識が朝であることを認識する。
夜具に包まった途端に寝息をたて始めた、田上喬一の顔へ視線を落とした。
亮の傍にいる時間が多く取れるようにと、一年ほどで新聞社を辞め、紆余曲折があったものの、物書きとしてどうにか生計を立てられるようにまでなった。今も、その依頼された原稿を書き上げたところなのだ。
喬一が徹夜までして書き上げることは滅多にないが、今回の原稿はそれだけ困難なものだったのか、それとも急な依頼だったのか。亮は仕事に口を挟まないし、喬一もまた、仕事の内容を話すこともなかった。
波風の立たない平穏な毎日を送っていて、それをとても幸せだと感じてはいたが、どうしてもあと一歩が、亮には踏み出せずにいた。
仕事のことを一切話さない喬一に、今回はどんなお仕事なの、と訊けば済むことであるのに、その一言が亮には切り出せないのだ。
深く関わるのが怖い。
そんな思いが、諾々と過ごしていく毎日を意味もなく肯定していた。喬一はずっと傍にいると誓ってくれたが、その保証は誰がしてくれるのか。亮の思いの及ばない力が働いて、喬一を奪っていくかもしれないではないか。
何人たりとも抗えない、死というものが──。
考えただけで身体が震え出してくる。奪われたくない。離れたくない。喬一への執着が増していくほど、亮の心の壁は一層厚いものになっていく。
怖い。喬一を失うのが怖くてたまらないいのだ。だから、どこか冷めた自分を創り上げている。
ゆったりとした寝息を立てている喬一の唇に触れている指が震え出した。自分の想いが大切な人を破滅に追い込んでいくようで、怖ろしくて堪らない。──雪也──を死に追いやったのも、自分が愛したからではないかと思えて仕様がなかった。
訊けるものなら訊いてみたい。もし、そうであるなら──。喬一の傍にはいられない。しかし雪也はすでにこの世に存在せず、確かめることもできないのが現実だ。そうして胸に去来する激痛のような孤独に耐えかねて、何度後を追おうとしたか知れない。
上も下も、前も後ろもわからない真っ暗な闇の中で、自分だけがいる。生きているのか死んでいるのかもわからない。喉が枯れるまで泣き叫んで、血を吐いても尚生きている自分に反吐が出る。その度に、亮は鬱々とした顔で部屋に篭り、自分を含めた一切を否定した。
喬一はその大きな手で亮の頭を撫で、日がな一日傍にいてくれる。ただそれだけのことに、どれだけ心が救われたか知れない。今の心の平穏は、喬一によって齎されている。だから失いたくないのだ。
喬一の唇から指を離し、ゆっくりと顔を近づけて口づけた。
──訊けるものなら雪也に訊きたい。
「ぼくが喬一さんを愛しても、誰も奪ったりしないよね?」
亮の呟きに喬一が反応して瞼を開けると、笑顔を見せた。なにを言ったかまではわかっていない彼の笑顔は、寝顔のように安らかだった。
「出来上がりの原稿は、ぼくが届けてくるよ」
そう言ってもう一度唇を合わせると、喬一の腕が伸びてきて抱き寄せられた。
口づけの途中で睡魔に負けた喬一の腕がするりと落ちると、亮は切なげに眉根を寄せながらブランケットを掛けてやり、部屋を後にした。
忘れなきゃいけない人がいる……。
焦がれている人がいる……。
諦めなきゃいけない人がいる……。
傍にいてくれる人がいる……。
愛さなきゃいけない人がいる……。
それなのに──────ぼくは──────。
熱い息を首筋に感じ、意識がふわりと浮上する。まだぼんやりとしている頭を傾いで、首筋をくすぐる熱い息の主を見た。
眠い、とぼそりと呟いた彼は、そのまま夜具の中へと身体を滑り込ませてくる。桜亮は上体を起こして彼を引き入れた。カーテンの隙間から零れてくる光の筋をみつめ、徐々に戻りつつ意識が朝であることを認識する。
夜具に包まった途端に寝息をたて始めた、田上喬一の顔へ視線を落とした。
亮の傍にいる時間が多く取れるようにと、一年ほどで新聞社を辞め、紆余曲折があったものの、物書きとしてどうにか生計を立てられるようにまでなった。今も、その依頼された原稿を書き上げたところなのだ。
喬一が徹夜までして書き上げることは滅多にないが、今回の原稿はそれだけ困難なものだったのか、それとも急な依頼だったのか。亮は仕事に口を挟まないし、喬一もまた、仕事の内容を話すこともなかった。
波風の立たない平穏な毎日を送っていて、それをとても幸せだと感じてはいたが、どうしてもあと一歩が、亮には踏み出せずにいた。
仕事のことを一切話さない喬一に、今回はどんなお仕事なの、と訊けば済むことであるのに、その一言が亮には切り出せないのだ。
深く関わるのが怖い。
そんな思いが、諾々と過ごしていく毎日を意味もなく肯定していた。喬一はずっと傍にいると誓ってくれたが、その保証は誰がしてくれるのか。亮の思いの及ばない力が働いて、喬一を奪っていくかもしれないではないか。
何人たりとも抗えない、死というものが──。
考えただけで身体が震え出してくる。奪われたくない。離れたくない。喬一への執着が増していくほど、亮の心の壁は一層厚いものになっていく。
怖い。喬一を失うのが怖くてたまらないいのだ。だから、どこか冷めた自分を創り上げている。
ゆったりとした寝息を立てている喬一の唇に触れている指が震え出した。自分の想いが大切な人を破滅に追い込んでいくようで、怖ろしくて堪らない。──雪也──を死に追いやったのも、自分が愛したからではないかと思えて仕様がなかった。
訊けるものなら訊いてみたい。もし、そうであるなら──。喬一の傍にはいられない。しかし雪也はすでにこの世に存在せず、確かめることもできないのが現実だ。そうして胸に去来する激痛のような孤独に耐えかねて、何度後を追おうとしたか知れない。
上も下も、前も後ろもわからない真っ暗な闇の中で、自分だけがいる。生きているのか死んでいるのかもわからない。喉が枯れるまで泣き叫んで、血を吐いても尚生きている自分に反吐が出る。その度に、亮は鬱々とした顔で部屋に篭り、自分を含めた一切を否定した。
喬一はその大きな手で亮の頭を撫で、日がな一日傍にいてくれる。ただそれだけのことに、どれだけ心が救われたか知れない。今の心の平穏は、喬一によって齎されている。だから失いたくないのだ。
喬一の唇から指を離し、ゆっくりと顔を近づけて口づけた。
──訊けるものなら雪也に訊きたい。
「ぼくが喬一さんを愛しても、誰も奪ったりしないよね?」
亮の呟きに喬一が反応して瞼を開けると、笑顔を見せた。なにを言ったかまではわかっていない彼の笑顔は、寝顔のように安らかだった。
「出来上がりの原稿は、ぼくが届けてくるよ」
そう言ってもう一度唇を合わせると、喬一の腕が伸びてきて抱き寄せられた。
口づけの途中で睡魔に負けた喬一の腕がするりと落ちると、亮は切なげに眉根を寄せながらブランケットを掛けてやり、部屋を後にした。
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