恋風

高千穂ゆずる

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月季花

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 喬一はひとつの案に辿り着いていた。それには誰か協力者が必要だった。
 雪也は喬一の痴態を視ることでしか感じられないと言っていたが、一人で行うそれなど、たかが知れている。
 いわゆるバリエーションが必要だと思ったのだ。しかし、このことはあまりにも特殊すぎて、人様にそうそう話せるものではない。相手を選ばなければならないのに、喬一には女性を抱くことができなかった。
 興味がない。
 当たり前だ。ずっと兄だけを慕い、想いを募らせてきたのだから。
 こんな小さな街で、ホモセクシャルという同じ性癖を持つ者を、どうやって探せばいいのか――皆目見当がつかない。名案だと思った策も、これでは絵に描いた餅である。
 途方に暮れながら、喬一は、春の生暖かい風の中をぶらりと歩いた。
 暖かな春風が、喬一の頬を撫で上げた。その風と共に道路端の砂埃が巻き上げられ、歩道を歩く人たちからは怪訝そうな声が上がる。
 その中にあって、耳にするりと入り込んできた一人の少年の声。振り返ると、両手を荷物で塞がれた少年が、瞼を閉じて立ち往生していた。長い睫毛の下からは、涙が止め処なく溢れ出してきている。
 喬一は踵を返して少年の傍まで歩を進め、極力驚かさないよう努めながら、大丈夫かと声をかけた。
 驚いた少年が身体をびくつかせた。瞳を開けて、声の人物を確認しようとするのだが、それが却って仇となり、涙がよけいに溢れてくる。痛いともう一度呟いて、ぽろぽろ涙を零すと、もはや目の前の人物に気をかけることすらできない状態になった。
 その様子にいたたまれなくなった喬一は、頬を伝う少年の涙を拭った。無意識の行動だったが少年を驚かすのには充分で、彼は身を竦めて喬一の方へ顔を向けた。あてずっぽうに向けられたその顔を、喬一は繁々とみつめる。
 長い睫毛は涙で濡れて艶やかな光りを放っている。小振りの鼻は溢れる涙のせいで少し赤くなっていて、懸命に虚勢を張ろうとしている桜色の唇は、真一文字に結ばれていた。
 その一生懸命さがとてもいじらしくて、素直に可愛いと思った。
「その荷物。持ってやろうか?」
 頭の上から浴びせられたその言葉に、少年は、くいと面を上げて、いいえ結構ですと跳ね除けるように答えた。
「オレは物取りなんかじゃないぞ。目に砂埃が入って痛いんだろ? だったら遠慮なんかするなよ。ほんとうにオレは怪しいモンじゃないからさ……じゃあさ。オレが手を繋いでやるから、荷物を半分オレに渡せばいいだろ?」
 喬一は言いながら少年の荷物を半分取り上げ、空いた手を握り締めてやった。そうすれば安心するだろうと思ったからだ。
「な? こうして家まで送って行ってやるよ」
 とまどいつつも、少年は安心したように喬一の手を握り返した。
「ごめんなさい。それではお言葉に甘えます」
 まだ涙は止まらず、少年の頬を濡らし続けている。安堵に微笑む少年の笑顔が、却って痛々しかった。
「家はどこだ?」
「花街のユエチーホアです」
「花街って、あの?」
「はい、そうです」
「お前、そこに住んでるのか?」
 少年は小首を傾げて、不思議そうに答える。
「――はい。そこで住み込みで働かせてもらっているんです」
「男のお前がか?」
 尚も聞き及んでくる喬一に、少年は小さな笑い声をあげた。
「ぼくは下働きをさせてもらっているんです。けしてあなたが思っているような仕事はしていません。ぼくは男ですからできません」
 少年はそう言って微笑んだ。
 喬一の胸が針に刺されたようにちくりと痛む。彼は悪意を持って言ったわけではない。わかっていても、それでもきっぱり、男なのだからできないと言い切られるのは辛かった。
 喬一は黙って歩き出した。急に手を引っ張られた格好の少年は躓きそうになり、声をあげた。
 すばやく反応し、喬一はすぐに足を止めた。
 少年はなにか自分がいけないことを言ってしまったのだと思ったらしく、恐る恐る喬一の傍らへと近寄り、伺うように顔をあげる。
「ぼくが何かいけないことを言ってしまったんですね」
 涙で濡れた頬を引き攣らせ、ごめんなさいと呟いた。
 喬一は、大人気ない自分の行動をすぐに反省した。彼の頬へ手を伸ばし、指でやさしく涙を拭ってやる。痛みのせいか、その仕草のせいなのか。少年は更に涙を溢れさせ、終いには声をあげて泣き出してしまった。

 泣きじゃくる少年の手を引き、喬一は路地裏へ入った。
「ちょっとここに座っていろ」
 無造作に置かれている風呂焚き用の木材の上に、少年を座らせた。
 近くの井戸から水を汲み上げると、ポケットからハンカチを取り出した。しわだらけのハンカチは清潔そうに見えなくて、喬一は一瞬躊躇ったがほかに代わる物がないのでそのまま桶に浸した。
 緩めに絞ったハンカチを少年の両目に当ててやると、彼はようやく落ち着き、鼻にかかる掠れた声で不躾に泣いたことを詫びた。
「ごめんなさい。とつぜん泣き出してしまって。驚かれましたよね?」
「本当にな」
 少年は項垂れた後、更に消え入りそうな声で、ごめんなさいとまた謝る。
 喬一はなんだか自分が苛めているような錯覚に陥って苦笑した。
 とりあえず、目の痛みを尋ねてみる。
「もう目は痛くないか?」
「はい。なんとか開けることができそうです」
 そう答えた少年は、喬一のハンカチを膝へ乗せ、恐る恐る瞼を開けた。
「まだ少し目の中がゴロゴロしますけど、大丈夫そうです」
 少年は笑った。
「ちゃんと見えているのか?」
 少年は眉を寄せて、路地の向こうを見た。
「白く靄がかかった感じがします」
「それじゃあ、見えていないのと同じじゃないか」
「ぼんやりですが、見えていますよ」
「オレの顔がわかるか?」
 その言葉に少年が顔を寄せてくると、しゃがみ込んでいた喬一は驚いて身を引いた。
「離れたら見えないです」
 少年が口を尖らせて抗議した。
 幼げなその仕草にくくっと小さな笑い声を漏らし、喬一は少年の鼻先を摘んだ。
「なんであんなに泣いた?」
 さりげなく訊いたつもりだったが、少年の顔は一瞬で強張る。
 俯いて、膝に乗せていたハンカチを口元に当てると、ぽつぽつと話し始めた。
「辛いだなんて……。思っていい立場じゃないのに思ってしまうんです」
 くすんと鼻をすする。
「食事もちゃんと貰えるし、お布団に寝させて貰えるし、意地悪を言われることもないし。父や母の悪口を言う人もいなくて居心地がいいはずなのに……辛いって思ってしまうんです。贅沢ですよね、ぼく」
 喬一は自分の耳を疑った。
 食事が摂れるのも、布団で眠れるのも当たり前のことであるし、意地悪を言う人間なんてぶん殴ってしまえばいいわけだ。
 喬一は、自分が比較的恵まれた環境の中の人間であることに、気づいてはいた。
 だからといって、目の前ですすり泣く少年の言うことが罷り通っているのが一般社会だとは思わない。
「贅沢とか、そんなの関係ないぞ。今の店がそんなに辛いんなら辞めてしまえ」
 精一杯抑えて言ったつもりだったが、それでも言葉尻が少しきつくなる。
 少年は俯いたまま頭を振った。
「ほかに行く当てがありませんから」
 そう言って彼は立ち上がった。
「ありがとうございました。助けて貰っただけでもありがたいのに、愚痴まで聞いていただきました。もう充分です」
 手荷物を抱え、頭を下げた。そのまま立ち去ろうとするのを喬一が引き止める。
「まだふらついてる」
 本当はふらついてなどいなかったが、正直なことを言えば、彼ともう少し一緒にいたいと思ったのだ。
 優しい言葉をかけられて涙腺が壊れてしまったのか。自分を心配してくれる青年を見上げると、少年はぽろぽろとまた涙を零した。
「よく泣くヤツだな」
 喬一は少年の頭をくしゃりと撫でた。
「──亮です。桜亮」
 はにかみながら、少年は名乗った。
「オレは田上喬一。喬一でいい」
 白い歯を見せ、懐こい笑顔を浮かべた。
 亮は気恥ずかしさからか、ふいと視線を逸らし、
「まだ靄がかかっているみたいで、えと」
「喬一」
「きょ……喬一さん……の顔がよく見えません」
「それじゃあ、また荷物は半分ずつってことだな」
 荷物を奪うようにして半分取り上げ、その手を握った。
「あ、ありがとうございます」
 大股で颯爽と歩く喬一の傍を、亮はちょこちょこと雛鳥のようについて歩く。
 確かにまだ薄く靄がかかっていて、喬一の顔を鮮明に見て取ることはできなかったが、ぼんやりと浮かび上がる彼の横顔のシルエットはとても凛々しくて、つい見惚れてしまう。
 じんと胸の真ん中辺りが疼くのを感じて驚いた。初めて感じるそれに戸惑う。
 思えば思うほど胸の疼きが酷くなっていくのがわかる。時折、見惚れるように彼を見上げ、そしてそんな自分を諌めながら、亮はその傍らを歩いていた。
「ここがそうだろ?」
 大股開きの喬一の足が、ぴたりと止まった。
 ぼやけた視界に映るのは、見覚えのある今にも崩れそうな月季花の表玄関だった。
 今度は胸がずきんと痛む。
 間違いないよなあ、などと不安そうに玄関先から店の中を覗き込む喬一に、亮は慌てて、ここでいいんですと言った。
「よかったぁ。違う店に連れて来たのかと思って焦った」
 喬一は胸を撫で下ろしながら、安堵の笑みを浮かべた。
「オレ。花街って来たことないからさ」
 亮の胸の痛みは先ほどとは比べ物にならないくらいに酷くなっていた。血流に合わせ、ずきずきと痛んでは苦しめる。
「ありがとうございました」
 そう言って手を振り解くと、喬一はそのあまりの素っ気なさに、放り出された指先を攣らせた。
「もう……お会いすることはないと思います」
 くるりと背を向けて言い放ち、亮は振り返りもせずに店の中へ飛び込んで行った。
 喬一はぽかんと口を半開きにしたまま、しばらくの間動けずにいた。手にはまだ亮の温もりと柔らかな感触が残っている。
 どうして一方的な態度を取られたのか、わからない。唯一はっきりしているのは、亮の口から、もう会うことはないと言い切られたことだった。
 一枚の引き戸を挟んだ向こう側で亮が蹲り、泣いていることに喬一が気づくはずもなかった。
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