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思い至って諮詢する、ウバナンダの「付きっきりの通訳では外聞が悪い上に、一人いるのでな。新参者に嫉妬でもされたらたまらない」という言葉。それはそのまま、通訳がもう一人いるということになる。そして、新参者に嫉妬するような人物。己の地位に縋り付きたいということか。そんなふうに評するのならば、まさか鳧流の人間ではあるまい。どこからか私のような人間を連れて来たか、いや、違う。商人は拘束されることを嫌う。一か所に留まることを滞ると言ってあまり歓迎しない。それなのに、嫉妬する程自身の地位を守りたいと思っている。それは、何か守るものがある人間に違いない。あまり逢いたいとは思わないが、けれども、もう一人と仕事を共有することなれば、それは否応無く見えることになるだろう。そして、私はもう一人よりも鳧流から信頼を得ねばならない。半年の奉公と一時の邂逅、一体どちらに寵愛が傾くか、それからだろう。そのようなことを考えながら回廊を行く。時々懐かしさに囚われて扉を開き、迷った振りをして、頭を下げる。房に本人がいない悲しみと、少しの懐かしさを探しながら宮殿を行くのが私の楽しみとなった。そしてもう一つの楽しみが、この男だ。
「やあ」
後に准丁と名乗ったこの男は、私がここに居る理由を知っているにも拘らず私の姿が見えると嬉しそうに声を掛けてくる。
「さあ、聞いていってくれ。演奏後には君の手づからいれてくれたお茶をいただきたいな。その頃には、珍しい鳥がやってくるだろう。あまり美しくはないけれど、それはそれでまた一興」
そこで、と私の居場所まで指定して私は指差された椅子に腰を下ろす。途端に流れ出す旋律が今日は陽気な恋の歌。
鵬乗は既に天之原に入っているのだろうか。一足早く紗羅虞那都を立っているはずの鵬乗は、いまだ私の前に姿を現さない。それは構わないのだ。彼には内のことよりも、外のことを託したのだ。民が圧政に耐えきれずに立ち上がることを防ぐために。彼らのためには、それは良いことだろう。自分達の望む主人にこの国を託すことができるだろう。けれども、鵬乗が私を選んでくれた。それは、血や徴が理由だったとしても、忘れ去られた王子を思い出し、決して戻ることができないだろうと思っていた、この天之原に戻るきっかけをくれた。私はその報酬だけで、この地を行くことができる。けれども、この国の主についてはまた話が違ってくるが。願わくば、民の望む理想の王を、私はこの国の最後の王子として玉座に登らせる手伝いができるように。私ができることを、私しかできないことを、彼らのために。それが、国を荒らしてしまった王族の責任。
「君は恋をしたことがあるかい。そう、素敵だね」
准丁は私の言葉を聞かずとも、反射的に胸の髪紐を探り当てた仕草で大仰に手を広げてみせる。いつでも共にあったこの髪紐の元の持ち主は、私の婚約者で、私の初恋の人だった。この宮殿にあって彼女は、無事にいるだろうか。僅かに顰めた眉を見て取ってか、准丁は声色を低めて言う。
「恋という言の葉の元々は、私は乞うということだと思うのだよ。何かをしてくれるように他人に乞う。その一番の願いが恋だったという訳だ。だったら彼の行動も君への乞いだろうね」
抱えていたシタールを椅子に降ろし、准丁は窓による。下を覗くような仕草を見せて、意味ありげに私を招く。
「さあ、珍しい鳥が寄っているようだ」
つられて覗き込んだ窓下の庭には、あの日別れた姿のまま、全身をマントで覆った鵬乗が私に跪いた。それは一瞬で、鵬乗は立ち上がり二三歩下がると、そのまま踵を返した。鵬乗も私がここに居ることを確認したかっただけなのだろう。
「君は、」
続く言葉が紡げずに私は口を閉じる。
「内緒。女は秘密を飾って美しくなると言うけれど、男だって謎めいた所があった方が魅力的だと思わないかい」
口元に人さし指をたてる仕草で准丁は私の問いを制する。そんなことよりも、と准丁は続ける。
「今度は君が私のためにお茶を入れてくれるという約束だ」
そんな約束などしていないが、けれども、丁寧に入れたお茶がパータラに否定された後では、このように乞われるのは嬉しい。
「では、準備をしてくるよ。どちらにお持ちしたらよろしいでしょうか」
畏まったふうに戯けて、私は言う。そういう遊びが好きなのか、准丁も否定しない。
「ここがいい。ほら、庭が美しいだろう。君の準備が整うまで、私は午後のお茶のための一曲を提供しようか。さあ、私の音を聞き逃さないためにも、早く戻りたまえ」
おかしくて、二人顔を見合わせて笑う。そして私は、茶器を用意するためにしばし場所を離れる。その後を追うように、円舞曲が優雅に響いた。
しかし、帰り道はいくら近付いても円舞曲は耳に届かなかった。代わりに届くのは高い男声だった。
「宮殿の楽師は全て去ったというのに、まだ居座るつもりか」
居丈高に糾弾する声の次には、飄々とした准丁の声が続く。
「私はこの宮殿が気に入っているんだ。別に給料は頂いていないし、部屋は有り余っているだろう。私一人居候していても何も変わるまい」
ゆっくりと言い聞かせるように准丁は言い、そしてゆっくりと振り向いて私を見つける。気が付いていたのか。
「ああ、戻って来てしまったか」
すまなそうに、准丁は私に言う。そして、准丁に詰め寄っていた男も私へと視線を向ける。私は近くの卓子に茶器を置いて、准丁に近付いた。男は背が低く控えな目鼻立ちで、そして私の見知った男だった。
「李、篇丈殿」
「遙、遠之君」
同時に口を付いたお互いの名は微かに、周囲の空気を振るわせる。はっとしたように篇丈が膝を沈ませて礼を取ろうとするのを辛うじて押さえる。篇丈は私の元婚約者、如因の父親だった。手をつこうとする仕草に、左手の小指が不自然に無いことに気付く。
「貴殿の主は私ではないというのに、何故私に膝を折るの」
いえ、しかし、と繋がらない言葉を繰り返しながら、篇丈はただ居心地が悪そうに私の前に立つ。重い沈黙を破るように口を開いたのは、准丁だった。
「やあ、通訳師殿。知り合いかい」
長くなりそうな准丁の言葉を、私は奪い取る。まずは口止めをしなければならない。
「篇丈殿、君が文官殿から通訳師殿に変遷したように私はもうただの胡葯子です。ただの商人で、貴殿と同じ通訳師です。膝を折る必要はありますまい」
言外に他言無用と含ませて、逃げようとする篇丈の視線に無理矢理割り込む。
「葯子」
准丁が、急に私を呼んで、私は反射的に准丁と向き合う。繋がった視線は、極上の笑み。
「君のためにね、私はここに居るのだよ」
その真摯な声に、篇丈が驚愕の面差しで私の顔をまじまじと見る。不空と同じ血を引くこの男のことだ、戯れだと知りながらも私は、誤解に思考が先走っているだろう篇丈を止められない。いや、この国に王子として戻って来たことも、この国を鳧流以外の天之原の民が治められるように手を出しに来たことも間違いじゃない。ただ、今はまだ内緒にしておきたいだけだ。身長差で自然と見下ろす格好になる篇丈は、何かを決意したかのように一歩下がる。それはこの宮廷の、上位の者に対する儀礼。すいと片膝を落として私と篇丈との距離が広がる。頭を私に差し出すように下げる。それは、命を預けるという意思表示。完璧な礼に則ったそれを止めることができずに、私は後ずさって首を振る。そんな様子を鳧流に見られてしまったら元も子もない。いや、寧ろこれが狙いなのか。私は跪いている篇丈を気にすることなく話しかける。
「篇丈殿の姫君はご息災であらせられるか」
「はい。しかし、現在はこの宮殿の後宮にて」
「如因嬢はどちらかへ嫁されたか」
そして、篇丈と見えることは、懐かしい初恋の君の父親との再会でもあった。そう思い語りかける。彼女とは旅立つ以前は毎日のようによく逢っていたし、その父親とも面会したことはあった。けれども、今再会した時に篇丈の顔が思い出せたのは驚いた。私の胸元に忍ばせてある翡翠の髪紐は、長く旅した全てを共にしている。あの頃の懐かしく美しい思い出が、旅の縁になったことは仕方のないことだろう。まだ幼かった婚約者はその時の姿のまま、まだ私の胸にある。それは私の中で、愛しいもの、美しいものの連想として小さな如因を形作るのだ。婚約を解消したとはいえ、如因が鳧流の誰かの妻になっているのだとしたら私は、どうするのだろう。
「いえ、未だ」
「そう」
年頃の如因のためには、よき所と縁逢わせているのが好ましいと思う。それでも、不思議と安堵する気持ちを私は止められなかった。それでもまだ、篇丈は私に跪いたままその体勢を崩さない。篇丈を立たせるためには何か言葉が必要なのだ。
「君の沈黙がね、私の信頼になるよ」
口調を改めて私は篇丈に言う。
「御心のままに」
如因の父親だと言うことは十分に理解をしているが、それでも私はこの変わり身の早い篇丈を容易には信用できない。宮廷人がいなくなったこの宮殿に一人だけ家臣が残っている。それは、王でも神官でも重職の臣でもなく、下位の文官である篇丈がここで召し上げられているのはどのような理由があってのことだろうか。篇丈は、先ほど鵬乗が取った礼そのままで下がる。
遠ざかっていく篇丈を准丁と二人で見送った。長い回廊の先、姿が見えなくなった所で准丁が口を開いた。
「驚いたよ。この粗末な椅子が玉座に見える程に」
丁度真後ろに置かれた、准丁の演奏のための椅子がそのように見ていたのだと准丁は笑って言った。不意に不空がにたようなことを言ったことを思い出す。
「君のせいだよ。篇丈殿が奏上したらどうするつもりだい」
皮肉を込めて眺めやる、その先にはあたふたと慌てるそぶりを見せる准丁。戯けて言った。
「それは困る。君のために、私はここに居るのだと言ったじゃないか」
「ねえ、それはどういう意味」
気になって尋ねる私に、准丁は言う。
「だって君は、この宮殿で唯一私の演奏に耳を傾けてくれる人だからね」
聞き手がいなければ楽師など必要ないから。とっても貴重だろう。と、片目まで瞑ってみせる。そういう仕草が似合うから、私がそれ以上の追求をすることができない。本当は、不空や紋重の話を准丁から聞いてみたい気がするのだが。
「さあ、お茶にしよう。君が入れてくれるお茶を、いつも楽しみにしているのだから」
男二人のお茶会は、光差す窓の下で行われる。きっと准丁は世間の目よりも自身の目に移る世界の方が重要なのだろう。そういうことを気にしてしまう私の方が、不粋であると思えてしまう程に。
※
執務は、昼過ぎには遠乗りに出掛けるパータラのために朝早くからの勤めになる。国を治めるということは、須らくこのようなことが全てだというのに、パータラはいつもつまらなそうに毎朝玉座に座る。傍らにはパータラが控え、端の小さな卓子で篇丈はその様子を書き留める。その横で私はバター茶を差し出す。そしてそのまま私は、奏上に来る鳧流の民の言葉を聞く。
「パータラ、次は何処の国を落とすんだ。彼奴ら、我等が進軍中に全て刈ってしまったから来年まく種がないとほざいている」
私はこの宮殿を出てから、外の世界というものを知ったが、それでも宮殿というものは礼装をして来るのが礼儀だと思っていた。けれども先ほどから奏上する男は、普段着そのものだ。泥の付いた乗馬靴、大きな偃月刀を佩いたまま、しかも男はパータラやウバナンダに対して礼を取る仕草さえ見せない。持って来た議題を、さあどうするのだとばかりにパータラに詰め寄る。初めて見た時、私はきっと相当驚いた顔をしていたのだろう、ウバナンダがこれが普通だから慣れろとわざわざ私の房まで言いに来た。パータラも特に気にする様子もなく、
「では、種の貯蓄がどれほどあるか、わかる者を連れてこい」
と、命を下す。応と答えて下がった男は、昼前には話せる男を連れて来てもう一度パータラの前に立つ。込み入った案件や、昨今の情勢、相場価格などを私に聞くこともあるために、パータラの執務の時間には私も給仕としてだけではなく傍らに侍る。
「パータラ、今朝の続きだ」
入って来た男は今朝来年の作付けについて奏上しにきた男と、そして、鵬乗だった。引きずられるようにして連れて来られた鵬乗は、以前逢った時のような強者を彷佛とさせる様子はなく、寺院であっても気にすることなく佩いていた長刀も腰にはなかった。精悍な頬も僅かに痩け、この宮殿の外の生活が思った以上に酷いことを物語る。一瞬、私と鵬乗の視線が交差したが、鵬乗はあの日約束した通り知らないふりを貫いてくれた。連れて来た男が鳧流の言葉で話しかけても、鵬乗は首を振り、パータラは篇丈を見遣って通訳をさせる。鵬乗が返した言葉は、
「ありません」
ただ一言だった。
「何がないのか」
問うたウバナンダの声を篇丈が訳して、鵬乗が答える。
「田畑を耕すために必要な物全てです。種、水、労働力、そして」
言葉を切った鵬乗は一瞬私視線を合わせる。
「神々の加護が」
はっきりと言った鵬乗の言葉は、最後の一言だけ篇丈によって訳されることはなかった。
「成る程、では、人と種を何処からか奪ってくればいいのだな。天之原の肥沃な大地と恵まれた天候は他ではないゆえにな」
それは、ここに落ち着くのだというパータラの意志か。私は知らず、唇を噛み締める。その私の表情を見てか、僅かに鵬乗も顔を歪めた。パータラの言葉は鵬乗に通訳されないので、鵬乗はどのような状況にあって自分の言葉を求められているのかは空気で察するしかないのだ。何かを伝えられたら、大丈夫なのだと、そう言ってしまいたい。諸国の言葉を操るこの唇が、開きかけようとするのを制したのは鵬乗の瞳だった。力を込めて、言葉では伝えきれない信頼が、視線で伝わってくる。このような一瞬の熱情に浮かされてはならないのだと、私も表情を立て直す。感情を読ませない表情は商人にとっても、王族にとっても重要な一つだ。
「下がれ」
ウバナンダが手を振る仕草をして、その言葉の意味が通じた鵬乗は礼を取ることもなく踵を返した。そのことで鳧流の人間が機嫌を損ねる様子もなさそうで、私はほっと胸を撫で下ろす。染み付いた礼儀の世界に囚われている私が道化のようだ。
「お前はどう思う」
葯子。と、添えられてパータラが問う。思考に沈んでいた私は、咄嗟に対応しきれずに、何を、と問い返す。
「次はどの国を攻めるべきかと」
一瞬、私は全てが露見しているのではないかと篇丈を疑ってしまった。私と鵬乗が互いに知らないふりをしてパータラの前で顔を合わせる。次に滅ぼそうとする国の相談ではあまりにでき過ぎた展開で、議題が一息ついた所で、お茶を入れようとしていた私は茶器を扱う手先が震えそうになる。
「種がないのなら、購いませんか。その方が私たちにとってはありがたい」
上品に笑んで、私は玉座に座ったパータラを見下ろすように見つめる。
「それより奪った方が早いではないか」
「そうですか、私の見立てではあそこに飾ってある金の置物一つで天之原中の種籾が購えますよ」
私は獅子の置物を指差して、パータラへと指し示す。
「あれは儂の気に入りだ、手放す気はない」
素っ気なくパータラが答えて、代わりにウバナンダが言う。
「流石商人だな。何でも商いにするか。お前は、種の類いなど扱っていたのか」
「とんでもありません。争いも確かに武器、武具、防具、米など、食料を流通を盛んにしますが、それは田を荒らし、食べられなくなった故のこと。余剰の物はいつでもあるとは限りません。それは、食物の方がずっと確率が高い。私は長く茶の商いをしてまいりましたが、茶の相場など一時の泡沫のように移り変わるもの。それは種籾であろうとも変わりはありません」
国力を育てるのは、国民の数と食料の生産量。それが伴えば自然と他の物も増えてくる。人はまず、食べられなければ生きていけない。そして、人がいなければ戦などはできようはずもない。
「種が売れても、武器が売れても、米が売れても、お前の手もとに入って来るものは同じだろう」
パータラが不満そうに私に問う。
「一時はそうです。けれども、商人は先の予感程好きなものはありません。後々必ず発展し、取りかえせるだろうと踏めば、商人は一時の損失など勲章と変わりありません。国々が潤うことが、私たちを潤すことになるのです。それならば、少しくらいの山は誰でも踏みましょう」
「損失が取り戻せなかったとしたら」
ウバナンダならば答えは知っているはずだ。私のお茶を入れる手先を見つめながら、楽しそうに問う。
「それは、商人の目が不確かだっただけでしょう。それに、一度も損をしたことのない商人などありません」
「それも裁量という訳か」
パータラは頷いて、差し出されたバター茶に手を伸ばす。篇丈はいつもバター茶をだすと手を付けないので、今日は茶則に則って丁寧に青茶をいれる。私は傍らに立ったまま、お茶を持って議題を吟味する僅かの時間を過ごす。本当は上手く彼らを煽動していけたらいいのだろうとは思うのだけれど、私は発言をせずただ聞いているだけだ。釣り上がっていく税、過酷になる労役、幼い子供から老人までの兵役、確かに彼らの政は異常だ。まるで次の国を攻めるまでの軍資金のように天之原を吸い取ろうとしている。圧制に耐えきれず禁を犯して国境を越えようとする者も多く、今日は国境を密かに抜ける者の取り締まりの強化が決まった。不空が酷いと言ったそのままが、淡々と決められていく。私ができることはただ一つ、一番近くにいてこのかりそめの国を崩す瞬間を見極めることだ。
「葯子殿、よろしいか」
パータラの昼前の執務が終わって、茶器を片付けていた私に、一度執務室から出て行った篇丈が戻ってくる。パータラとウバナンダは食事に行き、しばらくは戻らないだろう。
「何か、篇丈殿」
扉が開く音に振り返った私は、そのまま篇丈を迎える。その改まった表情を見て取って私は、片付けていた茶器をもう一度広げ、篇丈のためにお茶をいれた。先ほどの青茶も、篇丈は手を付ける素振りがなかったので、今度は白茶を蓋碗にいれる。
「どうぞ」
私がすいと差し出したお茶は、篇丈の掌を暫し温めて、諮詢するように何度か蓋を開け閉めしたが、何かに警戒するように口を付けることはなかった。私は何か引っかかりを覚えて、思い起こす。私は篇丈が何かを口にする様子を見たことがないことを。
「・・・貴殿は、私などに手ずからお茶をいれてよいご身分の方ではありません」
何か思い詰めた顔をして、長い沈黙の後篇丈は小さな声で私に言った。
「そんなことはありませんよ。私は呼ばれれば何処へでも行く、ただの行商人です」
穏やかに、子供に言い聞かすように私は篇丈に告げる。この国の王が父ではなくなった以上、私はただの孤児でしかないのだ。長い留守の間、私は色々なことを知った。その多くは、至高の血と言われた父王の血を継ぐこの身が本当は何も知らないただの子供だったということだ。そして、そんな血は困った時には助けてくれない。咄嗟の時に私自身を救ったのは、旅の途中で身に付けた知識やすれ違った人々と交わした一言一言だった。けれども、篇丈はいいえ、と続ける。
「貴殿は至高の血を継いでいるというのに、そして今、後継者のいないこの玉座に登ることができるはずなのに。何故、蛮族などに媚び諂い、手ずからお茶など」
高まっていく感情を表すように、篇丈は徐々に声高く私に詰め寄る。貴方の椅子はそこだと言われるように、玉座の方へと追いやられる。
「だから、私のお茶には手を付けなかったの。毒など混ぜてはいないよ」
冗談で紡いだ一言に、篇丈は異常な程びくりと肩を振るわせる。驚いて見返した篇丈は蒼白で、蓋碗を包む両手は小刻みに震えている。私はまた新たに引っかかるものを覚えて首を傾げる。その途中で、篇丈は私にもう一度繰り返す。
「貴殿のこの至高の血が、この玉座にはふさわしい。遙遠之君」
「残念だけど、篇丈殿。私はね、この椅子に座る意志はないんだ」
言い伏せるように、私は篇丈にゆっくりと言葉を紡ぐ。篇丈は気付いていないかもしれないが、扉の向こうで、誰か人の気配がする。鳧流の人間が我々の言葉を理解しないのだとし知っていても、本人の前でしてていたい話ではない。
「何故」
と言い寄る篇丈を余所に、私は少し膝を沈めて篇丈に耳打ちする。
「君の沈黙が、私の信頼になるよ」
そんな曖昧な言葉で少しでも長く、騙されてくれるように。
「やあ」
後に准丁と名乗ったこの男は、私がここに居る理由を知っているにも拘らず私の姿が見えると嬉しそうに声を掛けてくる。
「さあ、聞いていってくれ。演奏後には君の手づからいれてくれたお茶をいただきたいな。その頃には、珍しい鳥がやってくるだろう。あまり美しくはないけれど、それはそれでまた一興」
そこで、と私の居場所まで指定して私は指差された椅子に腰を下ろす。途端に流れ出す旋律が今日は陽気な恋の歌。
鵬乗は既に天之原に入っているのだろうか。一足早く紗羅虞那都を立っているはずの鵬乗は、いまだ私の前に姿を現さない。それは構わないのだ。彼には内のことよりも、外のことを託したのだ。民が圧政に耐えきれずに立ち上がることを防ぐために。彼らのためには、それは良いことだろう。自分達の望む主人にこの国を託すことができるだろう。けれども、鵬乗が私を選んでくれた。それは、血や徴が理由だったとしても、忘れ去られた王子を思い出し、決して戻ることができないだろうと思っていた、この天之原に戻るきっかけをくれた。私はその報酬だけで、この地を行くことができる。けれども、この国の主についてはまた話が違ってくるが。願わくば、民の望む理想の王を、私はこの国の最後の王子として玉座に登らせる手伝いができるように。私ができることを、私しかできないことを、彼らのために。それが、国を荒らしてしまった王族の責任。
「君は恋をしたことがあるかい。そう、素敵だね」
准丁は私の言葉を聞かずとも、反射的に胸の髪紐を探り当てた仕草で大仰に手を広げてみせる。いつでも共にあったこの髪紐の元の持ち主は、私の婚約者で、私の初恋の人だった。この宮殿にあって彼女は、無事にいるだろうか。僅かに顰めた眉を見て取ってか、准丁は声色を低めて言う。
「恋という言の葉の元々は、私は乞うということだと思うのだよ。何かをしてくれるように他人に乞う。その一番の願いが恋だったという訳だ。だったら彼の行動も君への乞いだろうね」
抱えていたシタールを椅子に降ろし、准丁は窓による。下を覗くような仕草を見せて、意味ありげに私を招く。
「さあ、珍しい鳥が寄っているようだ」
つられて覗き込んだ窓下の庭には、あの日別れた姿のまま、全身をマントで覆った鵬乗が私に跪いた。それは一瞬で、鵬乗は立ち上がり二三歩下がると、そのまま踵を返した。鵬乗も私がここに居ることを確認したかっただけなのだろう。
「君は、」
続く言葉が紡げずに私は口を閉じる。
「内緒。女は秘密を飾って美しくなると言うけれど、男だって謎めいた所があった方が魅力的だと思わないかい」
口元に人さし指をたてる仕草で准丁は私の問いを制する。そんなことよりも、と准丁は続ける。
「今度は君が私のためにお茶を入れてくれるという約束だ」
そんな約束などしていないが、けれども、丁寧に入れたお茶がパータラに否定された後では、このように乞われるのは嬉しい。
「では、準備をしてくるよ。どちらにお持ちしたらよろしいでしょうか」
畏まったふうに戯けて、私は言う。そういう遊びが好きなのか、准丁も否定しない。
「ここがいい。ほら、庭が美しいだろう。君の準備が整うまで、私は午後のお茶のための一曲を提供しようか。さあ、私の音を聞き逃さないためにも、早く戻りたまえ」
おかしくて、二人顔を見合わせて笑う。そして私は、茶器を用意するためにしばし場所を離れる。その後を追うように、円舞曲が優雅に響いた。
しかし、帰り道はいくら近付いても円舞曲は耳に届かなかった。代わりに届くのは高い男声だった。
「宮殿の楽師は全て去ったというのに、まだ居座るつもりか」
居丈高に糾弾する声の次には、飄々とした准丁の声が続く。
「私はこの宮殿が気に入っているんだ。別に給料は頂いていないし、部屋は有り余っているだろう。私一人居候していても何も変わるまい」
ゆっくりと言い聞かせるように准丁は言い、そしてゆっくりと振り向いて私を見つける。気が付いていたのか。
「ああ、戻って来てしまったか」
すまなそうに、准丁は私に言う。そして、准丁に詰め寄っていた男も私へと視線を向ける。私は近くの卓子に茶器を置いて、准丁に近付いた。男は背が低く控えな目鼻立ちで、そして私の見知った男だった。
「李、篇丈殿」
「遙、遠之君」
同時に口を付いたお互いの名は微かに、周囲の空気を振るわせる。はっとしたように篇丈が膝を沈ませて礼を取ろうとするのを辛うじて押さえる。篇丈は私の元婚約者、如因の父親だった。手をつこうとする仕草に、左手の小指が不自然に無いことに気付く。
「貴殿の主は私ではないというのに、何故私に膝を折るの」
いえ、しかし、と繋がらない言葉を繰り返しながら、篇丈はただ居心地が悪そうに私の前に立つ。重い沈黙を破るように口を開いたのは、准丁だった。
「やあ、通訳師殿。知り合いかい」
長くなりそうな准丁の言葉を、私は奪い取る。まずは口止めをしなければならない。
「篇丈殿、君が文官殿から通訳師殿に変遷したように私はもうただの胡葯子です。ただの商人で、貴殿と同じ通訳師です。膝を折る必要はありますまい」
言外に他言無用と含ませて、逃げようとする篇丈の視線に無理矢理割り込む。
「葯子」
准丁が、急に私を呼んで、私は反射的に准丁と向き合う。繋がった視線は、極上の笑み。
「君のためにね、私はここに居るのだよ」
その真摯な声に、篇丈が驚愕の面差しで私の顔をまじまじと見る。不空と同じ血を引くこの男のことだ、戯れだと知りながらも私は、誤解に思考が先走っているだろう篇丈を止められない。いや、この国に王子として戻って来たことも、この国を鳧流以外の天之原の民が治められるように手を出しに来たことも間違いじゃない。ただ、今はまだ内緒にしておきたいだけだ。身長差で自然と見下ろす格好になる篇丈は、何かを決意したかのように一歩下がる。それはこの宮廷の、上位の者に対する儀礼。すいと片膝を落として私と篇丈との距離が広がる。頭を私に差し出すように下げる。それは、命を預けるという意思表示。完璧な礼に則ったそれを止めることができずに、私は後ずさって首を振る。そんな様子を鳧流に見られてしまったら元も子もない。いや、寧ろこれが狙いなのか。私は跪いている篇丈を気にすることなく話しかける。
「篇丈殿の姫君はご息災であらせられるか」
「はい。しかし、現在はこの宮殿の後宮にて」
「如因嬢はどちらかへ嫁されたか」
そして、篇丈と見えることは、懐かしい初恋の君の父親との再会でもあった。そう思い語りかける。彼女とは旅立つ以前は毎日のようによく逢っていたし、その父親とも面会したことはあった。けれども、今再会した時に篇丈の顔が思い出せたのは驚いた。私の胸元に忍ばせてある翡翠の髪紐は、長く旅した全てを共にしている。あの頃の懐かしく美しい思い出が、旅の縁になったことは仕方のないことだろう。まだ幼かった婚約者はその時の姿のまま、まだ私の胸にある。それは私の中で、愛しいもの、美しいものの連想として小さな如因を形作るのだ。婚約を解消したとはいえ、如因が鳧流の誰かの妻になっているのだとしたら私は、どうするのだろう。
「いえ、未だ」
「そう」
年頃の如因のためには、よき所と縁逢わせているのが好ましいと思う。それでも、不思議と安堵する気持ちを私は止められなかった。それでもまだ、篇丈は私に跪いたままその体勢を崩さない。篇丈を立たせるためには何か言葉が必要なのだ。
「君の沈黙がね、私の信頼になるよ」
口調を改めて私は篇丈に言う。
「御心のままに」
如因の父親だと言うことは十分に理解をしているが、それでも私はこの変わり身の早い篇丈を容易には信用できない。宮廷人がいなくなったこの宮殿に一人だけ家臣が残っている。それは、王でも神官でも重職の臣でもなく、下位の文官である篇丈がここで召し上げられているのはどのような理由があってのことだろうか。篇丈は、先ほど鵬乗が取った礼そのままで下がる。
遠ざかっていく篇丈を准丁と二人で見送った。長い回廊の先、姿が見えなくなった所で准丁が口を開いた。
「驚いたよ。この粗末な椅子が玉座に見える程に」
丁度真後ろに置かれた、准丁の演奏のための椅子がそのように見ていたのだと准丁は笑って言った。不意に不空がにたようなことを言ったことを思い出す。
「君のせいだよ。篇丈殿が奏上したらどうするつもりだい」
皮肉を込めて眺めやる、その先にはあたふたと慌てるそぶりを見せる准丁。戯けて言った。
「それは困る。君のために、私はここに居るのだと言ったじゃないか」
「ねえ、それはどういう意味」
気になって尋ねる私に、准丁は言う。
「だって君は、この宮殿で唯一私の演奏に耳を傾けてくれる人だからね」
聞き手がいなければ楽師など必要ないから。とっても貴重だろう。と、片目まで瞑ってみせる。そういう仕草が似合うから、私がそれ以上の追求をすることができない。本当は、不空や紋重の話を准丁から聞いてみたい気がするのだが。
「さあ、お茶にしよう。君が入れてくれるお茶を、いつも楽しみにしているのだから」
男二人のお茶会は、光差す窓の下で行われる。きっと准丁は世間の目よりも自身の目に移る世界の方が重要なのだろう。そういうことを気にしてしまう私の方が、不粋であると思えてしまう程に。
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執務は、昼過ぎには遠乗りに出掛けるパータラのために朝早くからの勤めになる。国を治めるということは、須らくこのようなことが全てだというのに、パータラはいつもつまらなそうに毎朝玉座に座る。傍らにはパータラが控え、端の小さな卓子で篇丈はその様子を書き留める。その横で私はバター茶を差し出す。そしてそのまま私は、奏上に来る鳧流の民の言葉を聞く。
「パータラ、次は何処の国を落とすんだ。彼奴ら、我等が進軍中に全て刈ってしまったから来年まく種がないとほざいている」
私はこの宮殿を出てから、外の世界というものを知ったが、それでも宮殿というものは礼装をして来るのが礼儀だと思っていた。けれども先ほどから奏上する男は、普段着そのものだ。泥の付いた乗馬靴、大きな偃月刀を佩いたまま、しかも男はパータラやウバナンダに対して礼を取る仕草さえ見せない。持って来た議題を、さあどうするのだとばかりにパータラに詰め寄る。初めて見た時、私はきっと相当驚いた顔をしていたのだろう、ウバナンダがこれが普通だから慣れろとわざわざ私の房まで言いに来た。パータラも特に気にする様子もなく、
「では、種の貯蓄がどれほどあるか、わかる者を連れてこい」
と、命を下す。応と答えて下がった男は、昼前には話せる男を連れて来てもう一度パータラの前に立つ。込み入った案件や、昨今の情勢、相場価格などを私に聞くこともあるために、パータラの執務の時間には私も給仕としてだけではなく傍らに侍る。
「パータラ、今朝の続きだ」
入って来た男は今朝来年の作付けについて奏上しにきた男と、そして、鵬乗だった。引きずられるようにして連れて来られた鵬乗は、以前逢った時のような強者を彷佛とさせる様子はなく、寺院であっても気にすることなく佩いていた長刀も腰にはなかった。精悍な頬も僅かに痩け、この宮殿の外の生活が思った以上に酷いことを物語る。一瞬、私と鵬乗の視線が交差したが、鵬乗はあの日約束した通り知らないふりを貫いてくれた。連れて来た男が鳧流の言葉で話しかけても、鵬乗は首を振り、パータラは篇丈を見遣って通訳をさせる。鵬乗が返した言葉は、
「ありません」
ただ一言だった。
「何がないのか」
問うたウバナンダの声を篇丈が訳して、鵬乗が答える。
「田畑を耕すために必要な物全てです。種、水、労働力、そして」
言葉を切った鵬乗は一瞬私視線を合わせる。
「神々の加護が」
はっきりと言った鵬乗の言葉は、最後の一言だけ篇丈によって訳されることはなかった。
「成る程、では、人と種を何処からか奪ってくればいいのだな。天之原の肥沃な大地と恵まれた天候は他ではないゆえにな」
それは、ここに落ち着くのだというパータラの意志か。私は知らず、唇を噛み締める。その私の表情を見てか、僅かに鵬乗も顔を歪めた。パータラの言葉は鵬乗に通訳されないので、鵬乗はどのような状況にあって自分の言葉を求められているのかは空気で察するしかないのだ。何かを伝えられたら、大丈夫なのだと、そう言ってしまいたい。諸国の言葉を操るこの唇が、開きかけようとするのを制したのは鵬乗の瞳だった。力を込めて、言葉では伝えきれない信頼が、視線で伝わってくる。このような一瞬の熱情に浮かされてはならないのだと、私も表情を立て直す。感情を読ませない表情は商人にとっても、王族にとっても重要な一つだ。
「下がれ」
ウバナンダが手を振る仕草をして、その言葉の意味が通じた鵬乗は礼を取ることもなく踵を返した。そのことで鳧流の人間が機嫌を損ねる様子もなさそうで、私はほっと胸を撫で下ろす。染み付いた礼儀の世界に囚われている私が道化のようだ。
「お前はどう思う」
葯子。と、添えられてパータラが問う。思考に沈んでいた私は、咄嗟に対応しきれずに、何を、と問い返す。
「次はどの国を攻めるべきかと」
一瞬、私は全てが露見しているのではないかと篇丈を疑ってしまった。私と鵬乗が互いに知らないふりをしてパータラの前で顔を合わせる。次に滅ぼそうとする国の相談ではあまりにでき過ぎた展開で、議題が一息ついた所で、お茶を入れようとしていた私は茶器を扱う手先が震えそうになる。
「種がないのなら、購いませんか。その方が私たちにとってはありがたい」
上品に笑んで、私は玉座に座ったパータラを見下ろすように見つめる。
「それより奪った方が早いではないか」
「そうですか、私の見立てではあそこに飾ってある金の置物一つで天之原中の種籾が購えますよ」
私は獅子の置物を指差して、パータラへと指し示す。
「あれは儂の気に入りだ、手放す気はない」
素っ気なくパータラが答えて、代わりにウバナンダが言う。
「流石商人だな。何でも商いにするか。お前は、種の類いなど扱っていたのか」
「とんでもありません。争いも確かに武器、武具、防具、米など、食料を流通を盛んにしますが、それは田を荒らし、食べられなくなった故のこと。余剰の物はいつでもあるとは限りません。それは、食物の方がずっと確率が高い。私は長く茶の商いをしてまいりましたが、茶の相場など一時の泡沫のように移り変わるもの。それは種籾であろうとも変わりはありません」
国力を育てるのは、国民の数と食料の生産量。それが伴えば自然と他の物も増えてくる。人はまず、食べられなければ生きていけない。そして、人がいなければ戦などはできようはずもない。
「種が売れても、武器が売れても、米が売れても、お前の手もとに入って来るものは同じだろう」
パータラが不満そうに私に問う。
「一時はそうです。けれども、商人は先の予感程好きなものはありません。後々必ず発展し、取りかえせるだろうと踏めば、商人は一時の損失など勲章と変わりありません。国々が潤うことが、私たちを潤すことになるのです。それならば、少しくらいの山は誰でも踏みましょう」
「損失が取り戻せなかったとしたら」
ウバナンダならば答えは知っているはずだ。私のお茶を入れる手先を見つめながら、楽しそうに問う。
「それは、商人の目が不確かだっただけでしょう。それに、一度も損をしたことのない商人などありません」
「それも裁量という訳か」
パータラは頷いて、差し出されたバター茶に手を伸ばす。篇丈はいつもバター茶をだすと手を付けないので、今日は茶則に則って丁寧に青茶をいれる。私は傍らに立ったまま、お茶を持って議題を吟味する僅かの時間を過ごす。本当は上手く彼らを煽動していけたらいいのだろうとは思うのだけれど、私は発言をせずただ聞いているだけだ。釣り上がっていく税、過酷になる労役、幼い子供から老人までの兵役、確かに彼らの政は異常だ。まるで次の国を攻めるまでの軍資金のように天之原を吸い取ろうとしている。圧制に耐えきれず禁を犯して国境を越えようとする者も多く、今日は国境を密かに抜ける者の取り締まりの強化が決まった。不空が酷いと言ったそのままが、淡々と決められていく。私ができることはただ一つ、一番近くにいてこのかりそめの国を崩す瞬間を見極めることだ。
「葯子殿、よろしいか」
パータラの昼前の執務が終わって、茶器を片付けていた私に、一度執務室から出て行った篇丈が戻ってくる。パータラとウバナンダは食事に行き、しばらくは戻らないだろう。
「何か、篇丈殿」
扉が開く音に振り返った私は、そのまま篇丈を迎える。その改まった表情を見て取って私は、片付けていた茶器をもう一度広げ、篇丈のためにお茶をいれた。先ほどの青茶も、篇丈は手を付ける素振りがなかったので、今度は白茶を蓋碗にいれる。
「どうぞ」
私がすいと差し出したお茶は、篇丈の掌を暫し温めて、諮詢するように何度か蓋を開け閉めしたが、何かに警戒するように口を付けることはなかった。私は何か引っかかりを覚えて、思い起こす。私は篇丈が何かを口にする様子を見たことがないことを。
「・・・貴殿は、私などに手ずからお茶をいれてよいご身分の方ではありません」
何か思い詰めた顔をして、長い沈黙の後篇丈は小さな声で私に言った。
「そんなことはありませんよ。私は呼ばれれば何処へでも行く、ただの行商人です」
穏やかに、子供に言い聞かすように私は篇丈に告げる。この国の王が父ではなくなった以上、私はただの孤児でしかないのだ。長い留守の間、私は色々なことを知った。その多くは、至高の血と言われた父王の血を継ぐこの身が本当は何も知らないただの子供だったということだ。そして、そんな血は困った時には助けてくれない。咄嗟の時に私自身を救ったのは、旅の途中で身に付けた知識やすれ違った人々と交わした一言一言だった。けれども、篇丈はいいえ、と続ける。
「貴殿は至高の血を継いでいるというのに、そして今、後継者のいないこの玉座に登ることができるはずなのに。何故、蛮族などに媚び諂い、手ずからお茶など」
高まっていく感情を表すように、篇丈は徐々に声高く私に詰め寄る。貴方の椅子はそこだと言われるように、玉座の方へと追いやられる。
「だから、私のお茶には手を付けなかったの。毒など混ぜてはいないよ」
冗談で紡いだ一言に、篇丈は異常な程びくりと肩を振るわせる。驚いて見返した篇丈は蒼白で、蓋碗を包む両手は小刻みに震えている。私はまた新たに引っかかるものを覚えて首を傾げる。その途中で、篇丈は私にもう一度繰り返す。
「貴殿のこの至高の血が、この玉座にはふさわしい。遙遠之君」
「残念だけど、篇丈殿。私はね、この椅子に座る意志はないんだ」
言い伏せるように、私は篇丈にゆっくりと言葉を紡ぐ。篇丈は気付いていないかもしれないが、扉の向こうで、誰か人の気配がする。鳧流の人間が我々の言葉を理解しないのだとし知っていても、本人の前でしてていたい話ではない。
「何故」
と言い寄る篇丈を余所に、私は少し膝を沈めて篇丈に耳打ちする。
「君の沈黙が、私の信頼になるよ」
そんな曖昧な言葉で少しでも長く、騙されてくれるように。
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