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たどり着いた沙羅虞那都の町は、砂埃が酷い。見上げれば薄茶色の大きな岩が圧倒するかのように聳え、真っ直ぐに引かれた水路の回りに緑が憩う。それを境界として人家が屋根を連ねていた。大きな町だ。覚悟もまだ決まってはいないのに、もう着いてしまった。枝夛から四月近くも旅をして、まだ髪を下ろす覚悟ができていない。王国が安泰であって欲しい。民には安寧を、天候に恵まれ、作物の実り良く、争い無く、平和であるように。けれど、この遠く離れた西の町で髪を下ろし、身を慎み、ただひたすらに祈りを捧げることが、どうしても私には、天之原の平和に繋がるとは思えなかった。
寺院に入る日は、不空と別れの日だった。突然始まった長い旅だったのにも関わらず、それは突然に終る。不空は私を寺院の前まで連れて行って、
「着いたな、ここまでだ」
と言うと、僅かな私の荷物を持たせたと思ったら、くいと大きな寺院の門に顎を向けた。当然驚いた私は、自分の荷物も受け取りきれずに砂埃の上に落とす。じゃあな、と踵を返しかねない不空の様子に、荷物を拾い上げることをせずに、咄嗟に不空の手を掴んだ。
「荷物、しっかり持ってないと持っていかれる。気をつけなさい」
代わりに不空が荷物を拾い上げ、もう一度私へと向ける。けれど、それを受け取れば私は不空と別れなければならないと思うと、掴んだ不空の手を離して、荷物を受け取ることができなかった。代わりに一言呟く。願いのような一言だった。
「もう一日、もう一日だけ供を。そうしていただけば、一人であの門を潜ります」
「明日になったら、またもう一日と言わないのならな」
そう言って、不空は私と視線を合わせる。それは、違えない約束の合図だ。私は、こくりと頷いた。
「もう一日預かってやってくれないか」
そう言って私の荷物を隊商に預けて、私に着いて来るようにと目配せした。
隊商は出発した時から、もう幾つも変わっていた。駅と駅を行き来する彼らの多くは一区間のみしか移動しない。長距離を移動すれば困難なばかりではなく、言語も通じなくなる。だから我々は、商品と同じように沢山の隊商を介して旅をしてきた。移動する毎に町行く人々の顔つきが変わり、言語が変わり、そして食べ物が変わった。次々と変わっていく町並みの様子も、まるで根源を探す旅が昇華の果てを見つけてしまったような、そんな長い距離だった。乳母たちと別れてからは、初めてばかりの、辛く、厳しい道程だった。早く着いて欲しいのに、たどり着くことの無い出口を目指すような旅だと思っていた。けれど、目の前の薄茶色の大きな岩は、砂漠で散々惑わされた陽炎ではなく本物の修行場だ。これを目の前にして、これが陽炎ならばいいと思うのは、本末転倒だ。けれど、私はどうしても一つ賭けをしたかった。
ー「血のせいか、随分と化けるな。もしかしたら使えるか」
不空が呟いた一言。多分口に出した覚えは無いだろうと思う、それとも不空が私に差し伸べた手だったのだろうか。後者であるならば決して愚かな願いではないと思う。旅の初め何も知らなかった私も、商人と旅をし、彼らがどのようにして町を渡るのか、商売をするのか見てきた。それらは確かに物知らずの私を、少し世間を見た私に成長させただろう。沢山歩いた。駱駝に乗り、馬に乗り、大河を、砂漠を渡った。その時に知った一つ一つは、この先、私がこの岩の中に籠ってしまえば、決して生かされることは無いだろう。けれども、私は未だその未来を受け入れられないのも確かだった。だから、一つ。人生を変える賭けをしたい。
宿は旅を始めた頃程ではなかったものの、不空の心遣いだろうか、久しぶりに良い宿だった。マントで覆っても猶酷く砂まみれの身体をお湯を使って流して、さっぱりすると、卓子には豪華な料理が並んでいた。卓子に並んだこの料理が、豪華であることを理解できる自分を思うと複雑になる。普通だと思い、礼も述べられなかった過去の自分と、そして俗世での最後の食事に心遣いしてくれた不空に感謝できる自分に。私はそれに気付くことがきて良かったと思う。既に椅子について杯を干している不空の前に座っている。誰かと食事を共にすることも、旅に出る前は無かった。なぜか嬉しくて、私は笑っていたと思う。
「座りなさい。食事にしよう」
不空は気にしたふうも無く言って、私を正面へと招いた。椅子に着くと、食事を前にしながらも、この賭けに勝つためにはどのようにして、不空に持ち掛ければよいのだろうか落ち着かない。けれど、思えば不空の方がずっと上手だった。
「話があるのならば聞こう」
くいと杯を干して、また酒瓶を傾ける。そんな何気ない仕草の途中で、不空は私に問うた。まるで、何もかも知っているかのように。
「私は、賭けをしようと思う。不空が商いに私を欲してくれるのなら、いつか必要になったときに迎えにきて欲しい」
僧になることは、四月近くあっても決意できなかったのにも関わらず、この賭けは一瞬で決意できた。不空だからこそ預けられる、そう、思った。
「それが、何の賭けになる」
不空が、酒杯から私に視線を移す。
「私が王子から、僧になり、そして商人になるための」
軽い笑い声をたてて、不空は問い返す。
「葯子が商人に、冗談だろう」
けれども私は、幾つかの勝算の手札の在り処を知っていた。
「不空は、そんなに冷たい人ではない。私の賭けが本当に無駄なものなら、もう不空は私に分かるように示しているはずだ」
そして私が願ったとはいえ、このような我侭に付き合ったりしない。
「俺ごときに、葯子の行く先を預けると言うのか。俺にとってはこれも商いなのだがな」
「そんなつもりは無い。これは私自身の賭けであって、不空には何の関係も無い。ただ、私が何かの役に立つと思う時が来たなら。ここにいる、迎えにきてくれないか」
私の人生の中で、願いは口にすれば必ず、命令となり実行された時期があった。けれど、これは独り言のような願いだった。一口二口しか手を付けていない食事を前にして、私は不空の癖を真似るように真っすぐに不空を見つめる。視線を交わして、次の瞬間、先に背けたのは不空だった。
「覚えておく」
小さく聞こえたその一言に、私はもう一度不空をまじまじと見つめ、照れた不空が不機嫌に、
「早く食べなさい」
といつも冷静な表情を崩して言った。
次の日、不空は夜明けと共に沙羅虞那都の町を出た。そして私は不空との約束通り一人で寺院の大門を潜った。入道を申し出ると、そのまま髪をおろされると思い込んでいた私は、取り次ぎの者にまで、私は天の意志を待っている途中なので、剃髪には猶予が欲しいと、使い慣れない言語で何度も言った。結局、受付をしてくれた僧に、
「何の段も踏まずに、身なりだけ僧にはなれません」
と諭されてしまった。慣れるまでと、付けてくれた僧は紋重という半年前に髪を落としたばかりという少年僧だった。年は僅かに彼の方が若かったが、戸惑うばかりの私は彼に寺院での生活のすべてを請うて教わった。そして彼が、私にとって最初の友人になった。同室の彼は勤めの間を縫って、私に色々なことを話してくれた。生まれた町、家族、そして、私たちはよく似た経緯でこの寺院に縁が繋がったことも。
「僕は大きな商家の八番目の末子に生まれて、そして一年前にこの寺院に預けられました」
特に突出した感情も見せずに、何故ここに来たのか尋ねた私に答えた。急で一方的な私の入道の段取りを組んだ父王に向けた一言を、私は今になって後悔をしはじめていた。国家の安寧のためと言ったが父王の真意を知らない私は、いらないのならもっと早く捨てればよかったと言ってしまったのだから。
「発心は自分から」
重ねて尋ねると、紋重は、いいえ、と首を振った。
「僕の兄弟は言った通り八人です。三人の姉はいずれ嫁ぐとしても、五人もの子供が家業をそれぞれ分担して継いだとして、後に家が細っていくのは必定です。特に私は遅くできた子供でした。だからでしょうね。私が僧門に下ったのは。遠く離れて暮らすことになりましたが、もし私がここにいることで家族や家業の安寧に繋がれば嬉しいと思います」
家族間で与えられた役割を誇りに思うかのような彼の言に、私は驚く。そして紋重とよく似た理由で、私も遙か遠い天之原から沙羅虞那都へとやってきたのだろうと、父王の本意を慮る。これから父王が退位した後に起こるだろう兄たちと兄たちそれぞれに肩入れする重臣たちの争いが。幸い私は年若く、そして王家の人間の銀髪の一房を持っていながら、よく見ないと金髪に紛れて分からない上、母の血を濃く引いたために特異な容姿を持っていた。だからこそ、これから始まる舞台に上がらなくてすむような手立てをとってくれたのだ。王位など欲しいとは思っていなかった私を父王には分かっていたのだろう。知らず、涙が溢れた。嬉しくて、淋しくて。言い置いて来なかった言葉を、悔いて。
「すまない。郷愁を誘ってしまった」
年下なのに、やけに大人びて紋重は言った。流れ落ちる涙に、顔をあげられない私は、慌てて首を振る。
「僕は、ここが合っているからここにいる。浄土の絵を描いていると全て捧げてもいいと思えることがあるから。けれど、我に返れば故郷も恋しいと思う。『感情は時々に移ろい変わるもの、これが至上だと思ったものが、次の瞬間には異なる至上が浮き上がってくる。それは俗世を捨てたここにいても、世の波の中にいても同じ。ここで一日のすべてを勤めに捧げているからとて、世の波にいながら帰依している人に勝るということではない。全てを同じ尺度で示そうとするから分からなくなる。それらはすべからく違うものなのだから』ということなんだ」
この寺院で最高僧の水月宝珠が僕の剃髪に当たって下さった言葉だと、紋重が言う。この寺院の僧位は上から宝珠、竜車、水煙、九輪、請花、覆鉢、路盤となる。紋重の位は路盤、私は未だ無位だ。だから、と紋重は続ける。
「葯子が誰かを待っているのだとして、もしその結果待人が来たなら、葯子は行きたければ行っていいと思う。家族を思う気持ちに寺院にいて祈りを捧げ続けるのと、世間にて思うのと何の変わりがあるものか」
不空によく似た褐色の肌と黒い髪と瞳。そんな姿をした紋重は、不空に窘められているように錯覚する。きっと彼は私を遙か西域から来た民だと思っているだろうけれど、だからこそこれほど優しい言葉をくれるのだと分かっているのだけれど、それでも、今は聡い彼の優しい言葉を聞いていたいと思った。
その言葉を聞いて私は、もし不空が私の元に訪れることがあったとしたら私は迷わず彼と共に行こうと決めた。この身に流れる西域の血の故郷にも、騎馬の民集う草原、酷暑の砂漠、安らぎのオアシス、雪の高原。そしていつか天之原が私を忘れた頃、胡人のふりをして故郷に戻ってみたい。きっと墓前になると思うがそれでも父王に、言えなかった感謝の言葉を伝えたい。
寺院に入る日は、不空と別れの日だった。突然始まった長い旅だったのにも関わらず、それは突然に終る。不空は私を寺院の前まで連れて行って、
「着いたな、ここまでだ」
と言うと、僅かな私の荷物を持たせたと思ったら、くいと大きな寺院の門に顎を向けた。当然驚いた私は、自分の荷物も受け取りきれずに砂埃の上に落とす。じゃあな、と踵を返しかねない不空の様子に、荷物を拾い上げることをせずに、咄嗟に不空の手を掴んだ。
「荷物、しっかり持ってないと持っていかれる。気をつけなさい」
代わりに不空が荷物を拾い上げ、もう一度私へと向ける。けれど、それを受け取れば私は不空と別れなければならないと思うと、掴んだ不空の手を離して、荷物を受け取ることができなかった。代わりに一言呟く。願いのような一言だった。
「もう一日、もう一日だけ供を。そうしていただけば、一人であの門を潜ります」
「明日になったら、またもう一日と言わないのならな」
そう言って、不空は私と視線を合わせる。それは、違えない約束の合図だ。私は、こくりと頷いた。
「もう一日預かってやってくれないか」
そう言って私の荷物を隊商に預けて、私に着いて来るようにと目配せした。
隊商は出発した時から、もう幾つも変わっていた。駅と駅を行き来する彼らの多くは一区間のみしか移動しない。長距離を移動すれば困難なばかりではなく、言語も通じなくなる。だから我々は、商品と同じように沢山の隊商を介して旅をしてきた。移動する毎に町行く人々の顔つきが変わり、言語が変わり、そして食べ物が変わった。次々と変わっていく町並みの様子も、まるで根源を探す旅が昇華の果てを見つけてしまったような、そんな長い距離だった。乳母たちと別れてからは、初めてばかりの、辛く、厳しい道程だった。早く着いて欲しいのに、たどり着くことの無い出口を目指すような旅だと思っていた。けれど、目の前の薄茶色の大きな岩は、砂漠で散々惑わされた陽炎ではなく本物の修行場だ。これを目の前にして、これが陽炎ならばいいと思うのは、本末転倒だ。けれど、私はどうしても一つ賭けをしたかった。
ー「血のせいか、随分と化けるな。もしかしたら使えるか」
不空が呟いた一言。多分口に出した覚えは無いだろうと思う、それとも不空が私に差し伸べた手だったのだろうか。後者であるならば決して愚かな願いではないと思う。旅の初め何も知らなかった私も、商人と旅をし、彼らがどのようにして町を渡るのか、商売をするのか見てきた。それらは確かに物知らずの私を、少し世間を見た私に成長させただろう。沢山歩いた。駱駝に乗り、馬に乗り、大河を、砂漠を渡った。その時に知った一つ一つは、この先、私がこの岩の中に籠ってしまえば、決して生かされることは無いだろう。けれども、私は未だその未来を受け入れられないのも確かだった。だから、一つ。人生を変える賭けをしたい。
宿は旅を始めた頃程ではなかったものの、不空の心遣いだろうか、久しぶりに良い宿だった。マントで覆っても猶酷く砂まみれの身体をお湯を使って流して、さっぱりすると、卓子には豪華な料理が並んでいた。卓子に並んだこの料理が、豪華であることを理解できる自分を思うと複雑になる。普通だと思い、礼も述べられなかった過去の自分と、そして俗世での最後の食事に心遣いしてくれた不空に感謝できる自分に。私はそれに気付くことがきて良かったと思う。既に椅子について杯を干している不空の前に座っている。誰かと食事を共にすることも、旅に出る前は無かった。なぜか嬉しくて、私は笑っていたと思う。
「座りなさい。食事にしよう」
不空は気にしたふうも無く言って、私を正面へと招いた。椅子に着くと、食事を前にしながらも、この賭けに勝つためにはどのようにして、不空に持ち掛ければよいのだろうか落ち着かない。けれど、思えば不空の方がずっと上手だった。
「話があるのならば聞こう」
くいと杯を干して、また酒瓶を傾ける。そんな何気ない仕草の途中で、不空は私に問うた。まるで、何もかも知っているかのように。
「私は、賭けをしようと思う。不空が商いに私を欲してくれるのなら、いつか必要になったときに迎えにきて欲しい」
僧になることは、四月近くあっても決意できなかったのにも関わらず、この賭けは一瞬で決意できた。不空だからこそ預けられる、そう、思った。
「それが、何の賭けになる」
不空が、酒杯から私に視線を移す。
「私が王子から、僧になり、そして商人になるための」
軽い笑い声をたてて、不空は問い返す。
「葯子が商人に、冗談だろう」
けれども私は、幾つかの勝算の手札の在り処を知っていた。
「不空は、そんなに冷たい人ではない。私の賭けが本当に無駄なものなら、もう不空は私に分かるように示しているはずだ」
そして私が願ったとはいえ、このような我侭に付き合ったりしない。
「俺ごときに、葯子の行く先を預けると言うのか。俺にとってはこれも商いなのだがな」
「そんなつもりは無い。これは私自身の賭けであって、不空には何の関係も無い。ただ、私が何かの役に立つと思う時が来たなら。ここにいる、迎えにきてくれないか」
私の人生の中で、願いは口にすれば必ず、命令となり実行された時期があった。けれど、これは独り言のような願いだった。一口二口しか手を付けていない食事を前にして、私は不空の癖を真似るように真っすぐに不空を見つめる。視線を交わして、次の瞬間、先に背けたのは不空だった。
「覚えておく」
小さく聞こえたその一言に、私はもう一度不空をまじまじと見つめ、照れた不空が不機嫌に、
「早く食べなさい」
といつも冷静な表情を崩して言った。
次の日、不空は夜明けと共に沙羅虞那都の町を出た。そして私は不空との約束通り一人で寺院の大門を潜った。入道を申し出ると、そのまま髪をおろされると思い込んでいた私は、取り次ぎの者にまで、私は天の意志を待っている途中なので、剃髪には猶予が欲しいと、使い慣れない言語で何度も言った。結局、受付をしてくれた僧に、
「何の段も踏まずに、身なりだけ僧にはなれません」
と諭されてしまった。慣れるまでと、付けてくれた僧は紋重という半年前に髪を落としたばかりという少年僧だった。年は僅かに彼の方が若かったが、戸惑うばかりの私は彼に寺院での生活のすべてを請うて教わった。そして彼が、私にとって最初の友人になった。同室の彼は勤めの間を縫って、私に色々なことを話してくれた。生まれた町、家族、そして、私たちはよく似た経緯でこの寺院に縁が繋がったことも。
「僕は大きな商家の八番目の末子に生まれて、そして一年前にこの寺院に預けられました」
特に突出した感情も見せずに、何故ここに来たのか尋ねた私に答えた。急で一方的な私の入道の段取りを組んだ父王に向けた一言を、私は今になって後悔をしはじめていた。国家の安寧のためと言ったが父王の真意を知らない私は、いらないのならもっと早く捨てればよかったと言ってしまったのだから。
「発心は自分から」
重ねて尋ねると、紋重は、いいえ、と首を振った。
「僕の兄弟は言った通り八人です。三人の姉はいずれ嫁ぐとしても、五人もの子供が家業をそれぞれ分担して継いだとして、後に家が細っていくのは必定です。特に私は遅くできた子供でした。だからでしょうね。私が僧門に下ったのは。遠く離れて暮らすことになりましたが、もし私がここにいることで家族や家業の安寧に繋がれば嬉しいと思います」
家族間で与えられた役割を誇りに思うかのような彼の言に、私は驚く。そして紋重とよく似た理由で、私も遙か遠い天之原から沙羅虞那都へとやってきたのだろうと、父王の本意を慮る。これから父王が退位した後に起こるだろう兄たちと兄たちそれぞれに肩入れする重臣たちの争いが。幸い私は年若く、そして王家の人間の銀髪の一房を持っていながら、よく見ないと金髪に紛れて分からない上、母の血を濃く引いたために特異な容姿を持っていた。だからこそ、これから始まる舞台に上がらなくてすむような手立てをとってくれたのだ。王位など欲しいとは思っていなかった私を父王には分かっていたのだろう。知らず、涙が溢れた。嬉しくて、淋しくて。言い置いて来なかった言葉を、悔いて。
「すまない。郷愁を誘ってしまった」
年下なのに、やけに大人びて紋重は言った。流れ落ちる涙に、顔をあげられない私は、慌てて首を振る。
「僕は、ここが合っているからここにいる。浄土の絵を描いていると全て捧げてもいいと思えることがあるから。けれど、我に返れば故郷も恋しいと思う。『感情は時々に移ろい変わるもの、これが至上だと思ったものが、次の瞬間には異なる至上が浮き上がってくる。それは俗世を捨てたここにいても、世の波の中にいても同じ。ここで一日のすべてを勤めに捧げているからとて、世の波にいながら帰依している人に勝るということではない。全てを同じ尺度で示そうとするから分からなくなる。それらはすべからく違うものなのだから』ということなんだ」
この寺院で最高僧の水月宝珠が僕の剃髪に当たって下さった言葉だと、紋重が言う。この寺院の僧位は上から宝珠、竜車、水煙、九輪、請花、覆鉢、路盤となる。紋重の位は路盤、私は未だ無位だ。だから、と紋重は続ける。
「葯子が誰かを待っているのだとして、もしその結果待人が来たなら、葯子は行きたければ行っていいと思う。家族を思う気持ちに寺院にいて祈りを捧げ続けるのと、世間にて思うのと何の変わりがあるものか」
不空によく似た褐色の肌と黒い髪と瞳。そんな姿をした紋重は、不空に窘められているように錯覚する。きっと彼は私を遙か西域から来た民だと思っているだろうけれど、だからこそこれほど優しい言葉をくれるのだと分かっているのだけれど、それでも、今は聡い彼の優しい言葉を聞いていたいと思った。
その言葉を聞いて私は、もし不空が私の元に訪れることがあったとしたら私は迷わず彼と共に行こうと決めた。この身に流れる西域の血の故郷にも、騎馬の民集う草原、酷暑の砂漠、安らぎのオアシス、雪の高原。そしていつか天之原が私を忘れた頃、胡人のふりをして故郷に戻ってみたい。きっと墓前になると思うがそれでも父王に、言えなかった感謝の言葉を伝えたい。
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