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第10話
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十二月に入り、街の雰囲気は一気に忙しなくなった。
年の瀬を迎えるにあたって、まずはクリスマスが控えている。
幸か不幸か忙しさに拍車が掛かり、充輝のことは積極的に考えないようになっていた。
それでも、人気者である彼の姿は必ずどこかで目にしてしまうものだ。
翌週のレイアウトを考えようとチルドピザの売り場にやって来たら、美味しそうに頬張る充輝のポップと出会ってしまった。
彼との時間は夢物語だったのかもしれない。
勢いのまま握手を求めたことから始まり、手料理をご馳走になり、あろうことか告白も受けて、自身のスマートフォンには彼の連絡先もちゃんと入っている。
そんな現実味のない現実は、時間が経つにつれ、ついに「あれは夢だったのかもしれない」という境地にまで達しようとしていた。
仕事をしていても家にいても、四六時中飽きることなく彼の姿を眺めていたのに、今はその機会もめっきり少なくなっていた。
クリスマス商戦を盛り上げようと装飾された店内に、営業終了を知らせる音楽が流れ始める。
ゆったりとした空気に包まれ、一日の疲労も出てきていた。
注意力も散漫になって、ろくに周りも見えていなかった。
「久保さん」
名前を呼ばれて反射的に振り返った。
ダウンジャケットで着膨れしている若い男が立っていた。
どこか見覚えのある風貌をしている。
知り合いだろうか。
思い出そうとしていると、彼は目深に被ったキャップのつばを少し上げた。
「お久しぶりです」
「………………みっ……!」
大声で名前を叫びそうになって慌てて口を噤んだ。
そんな俺に充輝は「ありがとうございます」と小声で礼を述べた。
「ど、どうしたんですか……」
動揺を隠せないでいる俺とは対照的に、相手は落ち着き払ったまま至極真面目に答えた。
「久保さんに会いに来ました」
「えぇ……?」
ちょっと待ってくれ、これは一体どういうことだ。
一旦整理したいところだけど、相手はさらに畳みかけてくる。
「あの、これから……もうだいぶ遅いんですけど、俺の家に来てもらえませんか」
「今からですか?」
「……やっぱり難しい、ですか……?」
表情が豊かな分、少し眉を垂らしただけでもとても落ち込んだように見える。
こんな所までわざわざやって来たのだから、何か事情があることは間違いない。
とにかく詳しく話を聞かなければ、と思った矢先で一つ奥の通路歩く斎藤と目が合った。
客に捕まっていると思ったらしく、相手はそのまま通り過ぎていく。
辺りを見渡せば、客は少ないと言えど、ゼロではない。
充輝がいるとわかり、騒ぎになってしまえば店側としても面倒なことになる。
「わかりました。すぐ用意してくるんで、ちょっとの間だけ店の外で待っててもらえますか」
そう告げると、彼はあからさまにほっと胸を撫で下ろし、素直に頷いた。
一旦別れ、斎藤の姿を探して後を追う。
今夜の出勤者の中でまとめ役的立場にいる彼はバックヤードへ向かおうとしていた。
控えめに呼び止め、「先に上がるから、後を頼む」と詫びとともに言い残すと、踵を返して事務所へ走った。
咄嗟に店の外を指定してしまったけど、冷え込みも厳しくなる夜更けに芸能人を待たせるなんて選択を誤ってしまった。
毎年のように暖冬だと言われても、冬はやっぱり寒いもので、そんな中で一秒でも長く待たせる訳にはいかない。
鞄を抱えて従業員通用口を飛び出し、店の裏側から正面入口へと急ぐ。
しかしながら、心配していた以上に厄介な事態が起きてしまっていた。
「本物だ! すごいっ」
「私たち、大ファンなんですっ。こんな所で会えるなんて嬉しい!」
大学生くらいと思しき女の子二人に、充輝は囲まれているではないか。
彼女達の言葉に、彼は「ありがとう」と満面の笑みで応えている。
「写真とかダメですか?」
「写真は事務所から禁止されてるんですよ。ごめんなさい」
握手ならば大丈夫だと告げると、女の子達は大はしゃぎだ。
黄色い声は寝静まった住宅街によく響いた。
さらには様子を窺いに来たのだろう。
店の入口に従業員の姿まで見えて、焦って駆け出す。
「申し訳ございません。あまり大きな声を出されますと、近隣にお住まいの方々のご迷惑になりますので」
極力やんわりと彼らの間に割って入った。
ロングコート姿でも従業員だと認識してくれたのか、もしくは握手ができて単に満足したのか。
彼女達はすんなりと聞き入れて、ご満悦で店を後にする。
「すみませんでした。お待たせした挙げ句、こんな目に……」
「いえ。俺の方こそ、また迷惑かけちゃったみたいで」
そう言って視線を落とす彼に、今の言葉は決して充輝を責めたつもりではないと弁解した。
すぐに笑みを浮かべてくれた相手を見て、こちらも一安心する。
「ありがとうございます。じゃぁ、車、こっちなんで」
「車……!?」
少し歩くが、駅前まで出てタクシーを捕まえるつもりだった。
まさかの移動手段に驚きつつ後を追えば、ミニバンが一台止まっていた。
彼の自家用車だろうかと、恐縮しながらも促され、助手席に乗り込んだ。
後部座席に彼がビニール袋を置いたのを見て、初めて持っていることに気付いた。
「うちで買い物してくれたんですか?」
「ちょっと足りない物があって。でも、久保さんに会いに来たのは本当ですよ」
シートベルトを締めながら、さらりとそんなことを言ってくれる。
どう聞いたって好意にしか受け取れなくて、動揺しつつ、彼の気持ちを持て余してしまう。
車は緩やかに走り出した。
家に来て欲しいと言われたけれど、果たしてどこまで行くのだろう。
そして、ふと思い出す。
「そう言えば、無事引っ越しできましたか?」
「あっ、はい。あれから直ぐ」
話の流れで教えてくれた新居はタワーマンションが建ち並ぶ高級住宅地だった。
流石は芸能人だ。
どんな豪邸にお邪魔することになるのか、想像だけでも凡人は身構えてしまう。
窓の外の、流れ行く景色へ目を向ける。
自分は果たして今ちゃんと現実にいるのだろうか。
車が順調に走り進めるほど、どんどん現実味を失っていき、足元はふわふわと不安定になっていく。
隣にいるのは人気絶頂のアイドルで、今から彼の家に行くなんて、現実で起こり得るのか。
「何か、考え事ですか?」
口を閉ざしてしまったために、充輝が気にして声を掛けてくれた。
何でもないと返したけど、顔を見てちゃんと確かめることもできないせいか、相手は納得できなかったようだ。
「……やっぱり、迷惑でしたか?」
「迷惑だなんて。全然。明日はちょうど休みなんで、寧ろタイミングが良かったくらいです」
「そうですか……」
前方を見つめる彼の横顔が曇った。
少しの間を置いて、おもむろに口を開いた。
「先日は、マネージャーがとても失礼なことをしてしまって、本当にすみませんでした」
言わずもがな、マネージャーと電話で話したあの件のことだろう。
ちらりとこちらを見る目は酷く申し訳なさそうだった。
思うところがない訳ではないけれど、充輝がそこまで気に病むことではない。
「大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
「すみません……。まさか人のスマホ使って、あんなことするとは思ってもなくて……」
やはりマネージャーの独断で行われたようだ。
でも彼のことを責めきれない、そんな気持ちも滲み出ていた。
信頼を置く相手のしたことだし、充輝自身、思うところがあるにちがいない。
気の利いた言葉も言えずにいると「本当は家に着いてから話すつもりだったんですけど……」と前置きをして彼は話し始めた。
「マネージャーに襲われかけたことを話したら、こっぴどく怒られました。相手を見つけた時点でまず連絡を入れて安全な所で待機するべきだし、百歩譲って通りすがりの人に助けてもらったとして、その見ず知らずの人を家に上げるなんて何事だって」
「……まぁ、確かに……」
ごもっともな指摘に、俺はそう返すしかなかった。
「でも、あまりにも悪く言うので、久保さんのこと教えたんです。あの日会った人だって」
「え、会ったことあるんですか?」
「実を言うと……。夏に初めて会った時、俺のこと引っ張って連れて帰った人のこと、覚えてます?」
記憶をたぐり寄せて思い浮かんだのは年齢不詳の小柄な美男だ。
充輝は俺の様子を横目に見て、その人だと頷いた。
「マネージャーだったんですか、あの人」
「そうなんです。で、そう言ったら『顔見知りだとかそういう問題じゃない!』って余計に怒らせちゃって」
「あー……」
なんだろう。
当人同士はかなり真剣に揉めていたんだろうけど、話を聞くと何故だか親子のちょっと平和的な喧嘩を想像してしまう。
場違いにも微笑ましく思えて、頬が緩んでしまいそうになるのをぐっと堪える。
「普段は冷静なんですけど、俺の態度も悪かったんで感情的になっちゃったのかもしれません。久保さんのこと、否定するようなことを言われて……俺も我慢できなくなったんです。それで……俺があまりにも庇うから、気付かれちゃって……」
「……そうだったんですか……」
俺のことを悪く言わないで欲しいと、切実に訴える充輝の姿が想像できた。
果たして自分は彼にそこまでしてもらえるような人間なのだろうか。
隣の彼が落ち込むほど、こちらは恐縮してしまう。
とりあえず大まかな事情はわかったけれど、問題はその上でどうするべきか。
「久保さんのメッセージをも返せなくて……すみませんでした」
「あぁ、いえ。そんな……」
そもそもあなたとメッセージのやりとりができていたこと自体、奇跡なのだ。
さらに恐縮しながら、何度も気にしないで欲しいと繰り返す。
すると、不意に充輝の纏う空気が引き締まったように感じた。
「マネージャーが色々言ったと思うんですけど、俺は、本気です」
「本気」だと強調し、マネージャーの話をきっぱりと否定した。
ハンドルを握る手に力がこもる。
突然の告白を受けた時よりも幾分か冷静に、彼の言葉を受け止めることができた。
あの時は意識も飛んでしまって、もはや記憶も朧げだ。
けれど、もうあんなヘマはしない。
今度こそ、俺もちゃんと伝えなくてはいけない。
自分の気持ちを素直に伝えなければ。
「充輝さんにそう言ってもらえるなんて、本当に夢みたいで……というか今も夢をみてるみたいです。すごく嬉しくて、嬉しいんですけど……まさか、こういう展開になるとは思ってもいなくて、どうしても実感が湧かないというか……」
とにかく自分の身に抱えきれないことが起こっているのだと、正直に伝えた。
充輝の気持ちを手放しで受け取ることができない自分に、自分自身が戸惑っている。
彼は遮ることなく、とりとめのない話に耳を傾けてくれた。
俺の言葉が途切れ、車はしばらく走り続けた。
もう二つ、三つ信号を越えると大きな通りへと出るというところでウインカーを出し、車はゆっくりと減速して路肩に停まった。
こちらを向いた充輝は真剣な眼差しで告げてくる。
「どうしたら、本気だって思ってくれますか」
切実な問いかけだった。
相手にそこまで言わせておきながらもなお、考えあぐねていれば、彼は大き過ぎる一歩を踏み出した。
「キスしたら……伝わりますか?」
「え…………えっ!」
シートベルトを外し、身を乗り出してきた相手は俺の太腿にそっと手を置いた。
布越しに伝わってくる熱の、その生々しい感覚に驚いて体が強張ってしまった。
そんな俺を瞬きすらせずに見つめてくる双眸は、本気で行動に移そうとしているように映った。
「ま、待って下さい……! それはっ! そういうのは……!」
決して、充輝にそういうことをさせたい訳ではない。
両手を前に出し、のけ反りながら懸命に訴えた。
落ち着いて欲しいと言う自分が一番落ち着くべきだと思うほど、みっともなく焦った。
こちらの動揺などお構いなしに、彼は表情を変えることなく俺を見ていたけど、不意ににっこりと微笑んだ。
「久保さんを困らせたいわけじゃないんです。ごめんなさい」
体勢を元に戻して再び発進したのだが、方向を転換させて来た道を戻っていく。
「やっぱり今日は時間も遅いし、やめましょう。このまま家まで送ります」
「え。いや、そんな……。家はスーパーの近くなんで、もうこの辺でも全然」
「じゃぁ、スーパーまで送ります」
優しい口調なのに、有無を言わせない強さがあってそれ以上何も言えなくなってしまう。
どうしよう。
自分は選択を誤った。
だからと言ってあのままキスをするなんて、その選択肢もきっと違う。
じゃぁ、どうすれば良かったのか、それもわからない。
あっという間にスーパーの前へと到着してしまった。
店内の照明も消え、周囲はすっかり薄暗く、人気も皆無だった。
「なんだか無駄に連れ回しちゃってすみませんでした」
「そんな……俺の方こそ……」
「今日、たまたま時間ができてダメ元で来たんですけど、会えて良かったです。やっぱり久保さんとは何か縁があるのかもしれません」
確かに、自分もあの時間に勤務していなければ、こうして会うこともできなかっただろう。
不思議な巡り合わせだと話す彼はどこか寂しそうに笑う。
そんな相手を放っておけないと思うのに「じゃぁ」と切り出されてしまえば、何も言えなくなってしまう。
車を降りて向き直った俺へ、助手席の窓を開けた充輝は曇りのない笑顔を見せてくれた。
「頬の怪我、綺麗に治って良かったです」
自分でも忘れていたことに、頬に手を当てて思い出す。
「気を付けて帰って下さいね」
そう言って走り去った後、もはや誰一人としていなくなった夜道で思う。
「また」という言葉が無かった。
年の瀬を迎えるにあたって、まずはクリスマスが控えている。
幸か不幸か忙しさに拍車が掛かり、充輝のことは積極的に考えないようになっていた。
それでも、人気者である彼の姿は必ずどこかで目にしてしまうものだ。
翌週のレイアウトを考えようとチルドピザの売り場にやって来たら、美味しそうに頬張る充輝のポップと出会ってしまった。
彼との時間は夢物語だったのかもしれない。
勢いのまま握手を求めたことから始まり、手料理をご馳走になり、あろうことか告白も受けて、自身のスマートフォンには彼の連絡先もちゃんと入っている。
そんな現実味のない現実は、時間が経つにつれ、ついに「あれは夢だったのかもしれない」という境地にまで達しようとしていた。
仕事をしていても家にいても、四六時中飽きることなく彼の姿を眺めていたのに、今はその機会もめっきり少なくなっていた。
クリスマス商戦を盛り上げようと装飾された店内に、営業終了を知らせる音楽が流れ始める。
ゆったりとした空気に包まれ、一日の疲労も出てきていた。
注意力も散漫になって、ろくに周りも見えていなかった。
「久保さん」
名前を呼ばれて反射的に振り返った。
ダウンジャケットで着膨れしている若い男が立っていた。
どこか見覚えのある風貌をしている。
知り合いだろうか。
思い出そうとしていると、彼は目深に被ったキャップのつばを少し上げた。
「お久しぶりです」
「………………みっ……!」
大声で名前を叫びそうになって慌てて口を噤んだ。
そんな俺に充輝は「ありがとうございます」と小声で礼を述べた。
「ど、どうしたんですか……」
動揺を隠せないでいる俺とは対照的に、相手は落ち着き払ったまま至極真面目に答えた。
「久保さんに会いに来ました」
「えぇ……?」
ちょっと待ってくれ、これは一体どういうことだ。
一旦整理したいところだけど、相手はさらに畳みかけてくる。
「あの、これから……もうだいぶ遅いんですけど、俺の家に来てもらえませんか」
「今からですか?」
「……やっぱり難しい、ですか……?」
表情が豊かな分、少し眉を垂らしただけでもとても落ち込んだように見える。
こんな所までわざわざやって来たのだから、何か事情があることは間違いない。
とにかく詳しく話を聞かなければ、と思った矢先で一つ奥の通路歩く斎藤と目が合った。
客に捕まっていると思ったらしく、相手はそのまま通り過ぎていく。
辺りを見渡せば、客は少ないと言えど、ゼロではない。
充輝がいるとわかり、騒ぎになってしまえば店側としても面倒なことになる。
「わかりました。すぐ用意してくるんで、ちょっとの間だけ店の外で待っててもらえますか」
そう告げると、彼はあからさまにほっと胸を撫で下ろし、素直に頷いた。
一旦別れ、斎藤の姿を探して後を追う。
今夜の出勤者の中でまとめ役的立場にいる彼はバックヤードへ向かおうとしていた。
控えめに呼び止め、「先に上がるから、後を頼む」と詫びとともに言い残すと、踵を返して事務所へ走った。
咄嗟に店の外を指定してしまったけど、冷え込みも厳しくなる夜更けに芸能人を待たせるなんて選択を誤ってしまった。
毎年のように暖冬だと言われても、冬はやっぱり寒いもので、そんな中で一秒でも長く待たせる訳にはいかない。
鞄を抱えて従業員通用口を飛び出し、店の裏側から正面入口へと急ぐ。
しかしながら、心配していた以上に厄介な事態が起きてしまっていた。
「本物だ! すごいっ」
「私たち、大ファンなんですっ。こんな所で会えるなんて嬉しい!」
大学生くらいと思しき女の子二人に、充輝は囲まれているではないか。
彼女達の言葉に、彼は「ありがとう」と満面の笑みで応えている。
「写真とかダメですか?」
「写真は事務所から禁止されてるんですよ。ごめんなさい」
握手ならば大丈夫だと告げると、女の子達は大はしゃぎだ。
黄色い声は寝静まった住宅街によく響いた。
さらには様子を窺いに来たのだろう。
店の入口に従業員の姿まで見えて、焦って駆け出す。
「申し訳ございません。あまり大きな声を出されますと、近隣にお住まいの方々のご迷惑になりますので」
極力やんわりと彼らの間に割って入った。
ロングコート姿でも従業員だと認識してくれたのか、もしくは握手ができて単に満足したのか。
彼女達はすんなりと聞き入れて、ご満悦で店を後にする。
「すみませんでした。お待たせした挙げ句、こんな目に……」
「いえ。俺の方こそ、また迷惑かけちゃったみたいで」
そう言って視線を落とす彼に、今の言葉は決して充輝を責めたつもりではないと弁解した。
すぐに笑みを浮かべてくれた相手を見て、こちらも一安心する。
「ありがとうございます。じゃぁ、車、こっちなんで」
「車……!?」
少し歩くが、駅前まで出てタクシーを捕まえるつもりだった。
まさかの移動手段に驚きつつ後を追えば、ミニバンが一台止まっていた。
彼の自家用車だろうかと、恐縮しながらも促され、助手席に乗り込んだ。
後部座席に彼がビニール袋を置いたのを見て、初めて持っていることに気付いた。
「うちで買い物してくれたんですか?」
「ちょっと足りない物があって。でも、久保さんに会いに来たのは本当ですよ」
シートベルトを締めながら、さらりとそんなことを言ってくれる。
どう聞いたって好意にしか受け取れなくて、動揺しつつ、彼の気持ちを持て余してしまう。
車は緩やかに走り出した。
家に来て欲しいと言われたけれど、果たしてどこまで行くのだろう。
そして、ふと思い出す。
「そう言えば、無事引っ越しできましたか?」
「あっ、はい。あれから直ぐ」
話の流れで教えてくれた新居はタワーマンションが建ち並ぶ高級住宅地だった。
流石は芸能人だ。
どんな豪邸にお邪魔することになるのか、想像だけでも凡人は身構えてしまう。
窓の外の、流れ行く景色へ目を向ける。
自分は果たして今ちゃんと現実にいるのだろうか。
車が順調に走り進めるほど、どんどん現実味を失っていき、足元はふわふわと不安定になっていく。
隣にいるのは人気絶頂のアイドルで、今から彼の家に行くなんて、現実で起こり得るのか。
「何か、考え事ですか?」
口を閉ざしてしまったために、充輝が気にして声を掛けてくれた。
何でもないと返したけど、顔を見てちゃんと確かめることもできないせいか、相手は納得できなかったようだ。
「……やっぱり、迷惑でしたか?」
「迷惑だなんて。全然。明日はちょうど休みなんで、寧ろタイミングが良かったくらいです」
「そうですか……」
前方を見つめる彼の横顔が曇った。
少しの間を置いて、おもむろに口を開いた。
「先日は、マネージャーがとても失礼なことをしてしまって、本当にすみませんでした」
言わずもがな、マネージャーと電話で話したあの件のことだろう。
ちらりとこちらを見る目は酷く申し訳なさそうだった。
思うところがない訳ではないけれど、充輝がそこまで気に病むことではない。
「大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
「すみません……。まさか人のスマホ使って、あんなことするとは思ってもなくて……」
やはりマネージャーの独断で行われたようだ。
でも彼のことを責めきれない、そんな気持ちも滲み出ていた。
信頼を置く相手のしたことだし、充輝自身、思うところがあるにちがいない。
気の利いた言葉も言えずにいると「本当は家に着いてから話すつもりだったんですけど……」と前置きをして彼は話し始めた。
「マネージャーに襲われかけたことを話したら、こっぴどく怒られました。相手を見つけた時点でまず連絡を入れて安全な所で待機するべきだし、百歩譲って通りすがりの人に助けてもらったとして、その見ず知らずの人を家に上げるなんて何事だって」
「……まぁ、確かに……」
ごもっともな指摘に、俺はそう返すしかなかった。
「でも、あまりにも悪く言うので、久保さんのこと教えたんです。あの日会った人だって」
「え、会ったことあるんですか?」
「実を言うと……。夏に初めて会った時、俺のこと引っ張って連れて帰った人のこと、覚えてます?」
記憶をたぐり寄せて思い浮かんだのは年齢不詳の小柄な美男だ。
充輝は俺の様子を横目に見て、その人だと頷いた。
「マネージャーだったんですか、あの人」
「そうなんです。で、そう言ったら『顔見知りだとかそういう問題じゃない!』って余計に怒らせちゃって」
「あー……」
なんだろう。
当人同士はかなり真剣に揉めていたんだろうけど、話を聞くと何故だか親子のちょっと平和的な喧嘩を想像してしまう。
場違いにも微笑ましく思えて、頬が緩んでしまいそうになるのをぐっと堪える。
「普段は冷静なんですけど、俺の態度も悪かったんで感情的になっちゃったのかもしれません。久保さんのこと、否定するようなことを言われて……俺も我慢できなくなったんです。それで……俺があまりにも庇うから、気付かれちゃって……」
「……そうだったんですか……」
俺のことを悪く言わないで欲しいと、切実に訴える充輝の姿が想像できた。
果たして自分は彼にそこまでしてもらえるような人間なのだろうか。
隣の彼が落ち込むほど、こちらは恐縮してしまう。
とりあえず大まかな事情はわかったけれど、問題はその上でどうするべきか。
「久保さんのメッセージをも返せなくて……すみませんでした」
「あぁ、いえ。そんな……」
そもそもあなたとメッセージのやりとりができていたこと自体、奇跡なのだ。
さらに恐縮しながら、何度も気にしないで欲しいと繰り返す。
すると、不意に充輝の纏う空気が引き締まったように感じた。
「マネージャーが色々言ったと思うんですけど、俺は、本気です」
「本気」だと強調し、マネージャーの話をきっぱりと否定した。
ハンドルを握る手に力がこもる。
突然の告白を受けた時よりも幾分か冷静に、彼の言葉を受け止めることができた。
あの時は意識も飛んでしまって、もはや記憶も朧げだ。
けれど、もうあんなヘマはしない。
今度こそ、俺もちゃんと伝えなくてはいけない。
自分の気持ちを素直に伝えなければ。
「充輝さんにそう言ってもらえるなんて、本当に夢みたいで……というか今も夢をみてるみたいです。すごく嬉しくて、嬉しいんですけど……まさか、こういう展開になるとは思ってもいなくて、どうしても実感が湧かないというか……」
とにかく自分の身に抱えきれないことが起こっているのだと、正直に伝えた。
充輝の気持ちを手放しで受け取ることができない自分に、自分自身が戸惑っている。
彼は遮ることなく、とりとめのない話に耳を傾けてくれた。
俺の言葉が途切れ、車はしばらく走り続けた。
もう二つ、三つ信号を越えると大きな通りへと出るというところでウインカーを出し、車はゆっくりと減速して路肩に停まった。
こちらを向いた充輝は真剣な眼差しで告げてくる。
「どうしたら、本気だって思ってくれますか」
切実な問いかけだった。
相手にそこまで言わせておきながらもなお、考えあぐねていれば、彼は大き過ぎる一歩を踏み出した。
「キスしたら……伝わりますか?」
「え…………えっ!」
シートベルトを外し、身を乗り出してきた相手は俺の太腿にそっと手を置いた。
布越しに伝わってくる熱の、その生々しい感覚に驚いて体が強張ってしまった。
そんな俺を瞬きすらせずに見つめてくる双眸は、本気で行動に移そうとしているように映った。
「ま、待って下さい……! それはっ! そういうのは……!」
決して、充輝にそういうことをさせたい訳ではない。
両手を前に出し、のけ反りながら懸命に訴えた。
落ち着いて欲しいと言う自分が一番落ち着くべきだと思うほど、みっともなく焦った。
こちらの動揺などお構いなしに、彼は表情を変えることなく俺を見ていたけど、不意ににっこりと微笑んだ。
「久保さんを困らせたいわけじゃないんです。ごめんなさい」
体勢を元に戻して再び発進したのだが、方向を転換させて来た道を戻っていく。
「やっぱり今日は時間も遅いし、やめましょう。このまま家まで送ります」
「え。いや、そんな……。家はスーパーの近くなんで、もうこの辺でも全然」
「じゃぁ、スーパーまで送ります」
優しい口調なのに、有無を言わせない強さがあってそれ以上何も言えなくなってしまう。
どうしよう。
自分は選択を誤った。
だからと言ってあのままキスをするなんて、その選択肢もきっと違う。
じゃぁ、どうすれば良かったのか、それもわからない。
あっという間にスーパーの前へと到着してしまった。
店内の照明も消え、周囲はすっかり薄暗く、人気も皆無だった。
「なんだか無駄に連れ回しちゃってすみませんでした」
「そんな……俺の方こそ……」
「今日、たまたま時間ができてダメ元で来たんですけど、会えて良かったです。やっぱり久保さんとは何か縁があるのかもしれません」
確かに、自分もあの時間に勤務していなければ、こうして会うこともできなかっただろう。
不思議な巡り合わせだと話す彼はどこか寂しそうに笑う。
そんな相手を放っておけないと思うのに「じゃぁ」と切り出されてしまえば、何も言えなくなってしまう。
車を降りて向き直った俺へ、助手席の窓を開けた充輝は曇りのない笑顔を見せてくれた。
「頬の怪我、綺麗に治って良かったです」
自分でも忘れていたことに、頬に手を当てて思い出す。
「気を付けて帰って下さいね」
そう言って走り去った後、もはや誰一人としていなくなった夜道で思う。
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