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第1話

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どこかで見たことのある顔だな。
前方からやってきた男を見て、そう思った。
相手と目が合う。
しかし、直ぐに逸らされてしまった。
そのまますれ違ってから数秒後にしてようやく、彼の正体を思い出す。

「久保? どうした、おい!」

突然駆け出した自分を上司が大声で呼んだ。
驚きの混じるその声に、振り返る余裕すら無かった。
俺、久保義彦くぼ よしひこはとにかく必死だった。
男の姿を見つけるや否や、決して見失うまいと、ただ一心に走る。
接待呑みのおかげで、アルコールをそこまで摂取していなくて助かった。
日は沈めど、いつまで経っても蒸し暑い。
連日の熱帯夜に、誰もがうんざりしている。
けれど、頬に張り付く生温い空気も今は何とも感じない。
むしろそれどころではなかった。
金曜の夜、繁華街は一段と賑わう。
忙しない日常の息抜きとして呑み会を開く会社員が大半で、かく言う自分もその一員だ。
飲み屋のひしめく通りは人でごった返していた。
視界に捉えた先程の男は、一見すれば、周囲の雰囲気にとても馴染んでいた。
自分の周りでも、彼の存在に気付いている人はいない。
しかし、自分にはそれが信じられなかった。
今し方、自分も彼らと同類だった訳だが、気付いてしまった今となっては、とても落ち着いてなんていられない。
どうして彼だとわからなかったんだろう。
逸る気持ちを抑え切れず、沸き上がる勢いに身を任せる。
人の間をすり抜けてというより、強引に押し進んで追いついた。
着ていたワイシャツとネクタイはおかげでぐちゃぐちゃに着崩れている。
脇に挟んでいた上着と鞄を抱え直して、男の行く手を塞いだ。
立ち止った途端に体の至るところから汗は噴き出し、額に滲むそれを手の甲で拭う。
大層な距離を走った訳でもないのに、息もかなり切れていた。
大学生活を経てもう八年、不規則な生活が祟り、体力は確実に落ちている。
けれど、息切れの原因はそれだけではない。

「あのっ、すみません……っ。長谷川充輝はせがわ みつきさん、ですよね……!」

息も絶え絶えに、高ぶる感情をぶつけた。
歩道のど真ん中にいたものだから、すれ違うおじさんやお姉さんに睨まれる。
その一人ひとりに頭を軽く下げながら、返答を待つ。
デザインTシャツにジーンズという何てない服装も、彼はお洒落に着こなしていた。
行く手を遮られるようにして呼び止められ、青年は俯き加減だった顔を上げる。
目深に被っていたキャスケットでほとんど窺い知れなかったものが露わになる。
辺りの喧噪が一瞬にして止んだ。
目鼻立ちのはっきりとした小顔はテレビで見るよりもさらに端整だ。
男だというのに、化粧でもしているのではないかと思ってしまうくらい肌は白くてきめ細かい。
とても綺麗だ。
茶色の髪は明るい色をしていて、大きく丸い、黒の瞳に少しかかっていた。
長めの睫毛も相まって可愛らしい目元をしている。
それが上目遣いになってしまうのは身長差の為だった。
公式のプロフィールでは一七五センチあるはずの背丈だが、思っていたよりも少し小さく感じる。
身長の幅を読んでいるという噂は、もしかすると本当なのかもしれない。
何にせよ、見上げられると、可憐な顔立ちはさらに可愛く見えた。

「はい。そうですけど」

やっぱり。
彼は、若干二十一歳にして国民的人気を誇るアイドルの長谷川充輝、その人だった。
答える声は周りの喧騒に掻き消されてしまう。
それでも、汚れを知らない少年のような澄んだ声音に胸は高鳴る。
マイクも画面も何も通さなければ、こんなにも心地よく響くのか。
思わずうっとり聞き惚れる。

「あの……」

ぎこちなくも、笑いかけてくれた相手は明らかにこちらを不審がっていた。
慌てて姿勢を正すと、言葉を見繕う。

「す、すみません。ぼーっとしちゃって。俺、充輝さんの大ファンなんですっ! サタデーミュージックに初めて出演された時に一目惚れしまして、ずっと応援してました。この間発売された新曲もすごく良かったです。本当に、ずっと応援してて。あの、握手とかお願いできませんか?」

何を喋っているのか全く意識していなかった。
今いる状況だとか、どんな言葉を掛けるべきなのかとか。
そんな思考なんて皆無だ。
ただ、ファンになってからの三年間の気持ちを伝えようと、そればかりだった。
身を乗り出すようにして思いの丈をぶちまける。
充輝は大きな目を二、三度瞬かせ、俺は鼻息荒くそんな彼を見つめる。
すると相手は口角をきゅっと持ち上げた。

「いいですよ」

優しく微笑みかけてくれた。
太陽よりも輝かしい笑顔は眩し過ぎて、堪らず目を細める。
差し出された白い手を見て、俺は直ぐさま汗ばんだ己の両手をズボンで拭う。
長く、傷一つない指先はまるで美しい造作品のようで、恐る恐る握ってみた。
細くて柔らかくて、とても同じ男のものとは思えない。
さらにはもう片方の手まで添えられてしまい、人肌の心地良さに、感動すら覚えた。
舞い上がってしまいそうになったところをまた呼び戻される。

「あのー……」
「あっ、す、すみません……!」

また怪しまれては大変だ。
手を離した自分は、反射的に両手を挙げることで身の潔白を示めそうとした。
けれど、「そこまでしなくても」と充輝が笑いかけてくれたのでほっと胸を撫で下ろす。

「男性のファンの人って少ないんですごく嬉しいです。ありがとうございます。……ただ、その……」

言葉は途絶えて、何か言いたげな眼差しが向けられる。
なかなか続きを口にしようとしないので気になってしまい、自分からその先を問いかけた。

「何か……?」
「…………ズボンのチャック、開いちゃってますよ」
「え! 嘘!? 本当に!!」

通りすがりのおじさんも飛び上がってしまうほど、それはもう大きな声が出た。
急いで股間を見遣れば、見えてはいけないスカイブルーのボクサーパンツが垣間見えてしまっているではないか。
さっき居酒屋を出る前にトイレへ寄ったから、きっとその時だろう。
何でこんな時に限って目立つ色合いの下着なんぞを身に付けてしまったのだろう。
よりによって憧れの人の前でこんな失態を犯してしまうとは、まさに穴があったら入りたい。
今更どうしようもないことなのに後悔せずにはいられない。
瞬時に閉めようと伸ばした指先は、焦りからか言うことを聞いてくれない。
チャック一つにもたつきながら、やっとの思いで引き上げることに成功した。
顔を上げれば、含み笑いを浮かべる充輝と目が合った。
必死に堪えてくれていたものの、途端に噴き出す。

「ごめんなさい。でも、おかしくて……っ」

目に涙を溜めてまで笑う彼を見ていたら、先程までの後悔の念が急にどうでもよくなってしまった。
現金なもので、張っていた気も和らいでいく。

「お見苦しいところを見せしてしまって、本当に失礼しました」
「いえいえ。俺もうっかり、よくやっちゃうんですよ。男ってこれだから大変ですよね」

どちらともなく零れた笑みで雰囲気は随分と和やかなものになった。
これは意外といいきっかけになったのかもしれない。
そう思っていた矢先、突然シャッター音が響いた。
そちらを見遣って初めて、俺は自分達を取り囲む人だかりの存在に気付いた。
数え切れないほどの好奇の眼差しとスマートフォンがこちらへ向けられている。
正確には充輝に対してだ。
一度鳴ったかと思えば、まるでそれを合図にしたかのように次々と写真を撮る者が現れた。
途端に、自分はとんでもないことをしでかしてしまったという焦燥に駆られた。
この状況を作り出したのは間違いなく自分だ。
人通りも多い道のど真ん中で、大声を出して呼び止めてしまった。
少し気を配れば、こうなることは十分想像できたのに。
人の群れはざわつき始め、じわりじわりと迫り来る。
高揚した空気が弾けた時、どうなってしまうのか。
恐怖心から思わず身を竦ませる。

「迷惑かけちゃってすみません」

よくこういった場面に出くわすのだろう。
充輝は特に気にした様子もなく、あろうことか頭を下げた。
他の誰でもない、自分に対してだ。
一瞬訳がわからず、ボケっと姿を眺めてしまった。
巻き込まれた彼にはどこにも謝る理由などない。
この騒ぎの責任を彼に背負わせるなんて、とんだ筋違いだ。

「謝らないといけないのは俺の方です。こんなことになって本当にすみません」
「違うんです。悪いのは俺ですよ。俺がこんなだから……」

苦笑いを浮かべた相手に陰りを見る。
言葉の中に彼はどんな思いを込めたのか。
想像できない自分は戸惑ってしまう。

「何をしているんだ!」

鋭く響き渡った怒号に、その場にいた全員が口を噤んだ。
俺も充輝も、だ。
誰も悪事を働いている訳でもないのに、あまりに高圧的な声音だったため、皆怯んでしまった。
誰が誰に向けて発したものなのか。
正体を探していると、その人は堂々と現れた。
人混みを掻き分けることもなく、自然と開かれた道を通ってやって来た。
自分と同じ背広姿でも、一回りほど小柄な男はこの蒸し暑い中、しっかりと上着まで羽織っている。
いかにもお高そうな上、皺一つないそれを澄ました顔でさらりと着こなす彼もまた美男だ。
童顔だが、細く吊り上がった目元のせいで年齢を推測するのは難しい。
こちらへ近づいてくる相手から、咄嗟に充輝を庇おうとした。
様相からして間違いなく自分達に対して憤っている。
これ以上、充輝を面倒なことに巻き込む訳にはいかない。
群衆が傍観する中、一歩前へ踏み出す。
男はこの態度に顔を顰めた。
まるで汚らしいものを見るかのような目を向けたのも束の間、邪魔だと言わんばかりに伸びた手が俺を押し退け、充輝の腕を掴む。
華奢な体躯に隠された予想外の力によろめいてしまう。

「どこで油を売っているのかと思えば、こんな所で……だから迎えに行くと言ったでしょう」
「そう怒らないでよ。ごめんって」

親しげな会話から、彼らが知人関係であると悟っている間に、充輝は男に引きずられるようにして連れて行かれる。
流れるような動作を誰も止められなかった。
その場で佇む自分を振り返り、彼は「ごめんなさい」と唇を動かした。
そうして小さくだけれど手まで振ってくれたから、とりあえず俺もそれに倣った。


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