うさぎ穴の姫

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 オルレアンの連れ子を大学の保育所にいったん預け、ニームは図書館の中の個室を一室借りた。個人の研究室を持っている助教授のニームがわざわざ学生も往来するような学内施設をつかうことはあまりないことだったが、怪しまれるほどのことでもない。保育所でもとくに不審に思われることもなかった。学内関係者の身分を提示すれば保育士は子どもを預かるしかないし、教授職はそのなかでも権威ある立場だった。保育士は保育所にかよう教授たち以外とと接点もたないし、ニームがそこをはじめておとずれても、奥さんに用事があって、しかたなく子どもを預かるしかなくなった教授のひとりくらいにしかみられていないようだった。
「きみのことは耳に入っていたよ。あんな田舎町でも新進気鋭な医者の話は入ってくるものなんだ。ましてや、その医者の出身地であればなおさらだろう」
 オルレアンはまるで学校の教室で話していたときと同じように話した。一方、ニームはもう二度そのときには戻れないだろうと思いながら話した。
「ぼくにはブラーヴのことはしばらく耳に入ってこなかった。ぼくの両親もこっちに呼んでしまったからね」
「こんな都市にきみのような若さで親に家をプレゼントするなんてそうそうできることではない。ぼくがいうのも気が引けるくらいだが、きみはたいしたひとだと思うよ」
「ぼくなんて、運がよかっただけさ」ニームは運によしあしなんてないと思いながら、そういった。よしあしではなく、ただそうなるしかなかったから運なのだ。ニームはブラーヴにはもういられなくなった。でも、独力でブラーヴを飛び出るだけの元手がなかった。だからダンケルクに依存するしかなかった。依存を強めるしかなかった。ニームはブラーヴの学校を即日退学し、ダンケルクのいわば門下に入り、医学を学んだ。ダンケルクを崇拝するニームの両親を説得するのは難しいことではなかった。むしろ彼らのほうが率先してそれを進めようとした。
 しかしもちろん、ニームは医者になりたかったわけではなかった。ニームが欲していたのはブラーヴからの脱出だった。ニームはそのためにダンケルクを利用した。ずっと利用され続けていたダンケルクをはじめてニームが利用したのだった。
「きみの専門をぼくなんかの凡人が理解することはできないんだろうね」オルレアンは感心するようにそういったが、オルレアンは過去についてお互いの理解を深めるような議論は無意味だとあらかじめ腹に決めてきているようだった。実際、そんなことは無意味だ。なぜブラーヴを去ったのだと、そんなことをたずねられてもなんの意味もない。


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