うさぎ穴の姫

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「まだ帰らないの?」
 液晶を長時間見続けたかすむ目の目がしらを押さえて疲労をなぐさめるニームに、そう声をかけてきたのは同じ研究室に属する女性研究者だった。丸いメガネをかけ、黒い髪をざっくりと後ろでひとつに結んでいるあたりは、典型的な理系の女のようであったが、メガネをかけているのは目を守るためだったし、雑に結ったような髪には朝方に巻き髪にしたうねりがしっかり残っているのをニームは知っていた。彼女は研究室の外では、けして地味な存在ではなかった。
「ええ。おもしろいデータがとれたので、今日中にまとめておきたいのです」
 彼女とニームは同い年だったが、ニームは彼女に対して常に敬語だった。彼女はニームに親しい口調で話した。ニームは、彼女が自分に好意を抱いているのかもしれないと思った。しかし、彼女は同じ研究室の同年代か年下の男には同様の口調で話していた。けれど、それよりもいくぶん、自分に対してはより頻繁によりくだけた話し方をしているようにも思えた。そんなことで頭を悩ます自分に、ニームはいらだち、頭をかきむしった。
「そっか。がんばりやさんだねえ」彼女は小さい子どもを褒めるようにニームにそういうと、皮のポシェットのひもを肩にかけて、研究室から出ていった。
「未練、か。あるいは、執着か」
 ニームは彼女が去っていったあとの研究室で、ひとりそうつぶやきながら、コーヒーを口にふくんだ。「おもしろいデータか」
 ニームは自分の言葉をそう繰り返して、冷ややかに笑った。たしかに新たに採取されたデータは興味深い物ものだった。未発表なこのデータも、他研究者の、この若手をなんとか蹴落としてやろうという粘着質な追試をまぬがれたら、ニームをさらに上位の研究者へと評価を釣り上げるだろう。
 自分はそう、若手だ。しかしそれは研究界隈にのみ通用する若手の身分だ。ひとたび世間に放り出されれば、自分はさえない中年だ。35歳の男なら、結婚して、子どもがいるのがふつうだ。そんな自分の恋人は、羅列された数字と、もともと自分たちのものだったのに自分たちの思い通りに全然ならない染色された細胞たちだ。そんなものに、人生の意味はない。ひとはそういうだろう。自分もそう思う。しかし、意味のない現象が自分にとって意味のあるものとなったとき、そのときに味合う耽美な恍惚は、恋人とのつながりよりもはるかに尊いものだ。
 









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