うさぎ穴の姫

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「きみのほうが先に答えたまえ」ニームは横柄にそういった。
「ぼくはあるひとを待たせている。約束しているんだ。十年後の約束だ。ぴったり十年後のことだ。十年先の約束だろうが。期日の価値にかわりはない。一日だって遅れるわけにはいかないんだ」オルレアンはほとんと包み隠さず、そう答えた。「それでは、きみも答えたまえ。時間がないとはどういうことかと」
 ニームはそれを口に出すのもおそろしいという形相でいった。「ひとがひとり死ぬかもしれない。殺されそうになっている。もともとないものとされていたものが、跡形もなくなかったものとされそうになっている。ぼくはそれをとめなければならない」
 それを伝えることに精魂全てを使い果たしたように、ニームはひとりで立ってることが困難になったニームは、オルレアンの肩を支えに立とうとしたが、ニームはそれを蚊ともハエともつかないもののようにたたき落とし、そしてパスィヤンス病院を目指してまっしぐらに走り出した。
「待ってくれ!ぼくを置いていかないでくれ!」
 ニームの悲惨な声だけが、後ろから追ってきていることにオルレアンは気がついていたが、オルレアンはけして振り返ることをしなかった。パスィヤンス病院の目の前にきたとき、オルレアンは一度だけ、後ろを振り返った。そこには誰の姿もなかった。ニームの姿も、もちろんなかった。それなのに、どれだけ走っても、そしてどれだけ時が経っても、ニームのその悲痛な叫び声が、オルレアンの身体の中で、こだまし続けていた。ニームはいまも、オルレアンがニームを振り切ったあの道で、崩れ落ちたままなのだろうか。
「それでも、きみにはこれは渡せなかったよ」
 オルレアンはそうひとりごちて、また走り出した。
 きみはどうして最後までそうだったのだ。アルルの身の危険を知っていて、なぜぼくを足止めするばかりで、急かすことをしなかったのだ。誰が助け出すかなんて、どちらでもいいことじゃないか。ぼくはあのとき、きみが本心を打ち上げてくれることを期待していたんだ。
 もちろんそうなると、ぼくのこころは多少揺らがされざるをえない。図面を渡してもいいとまではいえないけれど、少しは考えるかもしれない。もちろんぼくが図面を失えば、ぼくはアルルと交わした十年の約束を破ることになる。しかし、そんなものはアルルの今後の人生で、その約束の重みが年を経るごとに軽くなっていくと考えることもできなくない。
 ああ、ぼく自身も、ここまできてそんなことを考えるような、やわな決意なのだろうか。ぼくはニームに背中を押されたのも同然だ。ぼくがこうして走っていられるのは、ニームの決意のなさに、ぼくの大したことない決意が強調されてみえたおかげなのだ。
 もちろんニームはぼくのそんな気持ちなんて知らないだろう。ニームはぼくを恨みの眼差しで見送っただろう。
 ニームとはもう会うことはないような気がする、とオルレアンはそんな予感をこころに秘めながら、パスィヤンス病院の裏口へとまわった。



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