うさぎ穴の姫

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 血の流れの本当の動力は喜びだ。心臓ではない。血の流れが心臓を動かしている。生物はみな例外なく、いつかは血が途絶え、心臓もとまる。すると、生物は死ぬ。しかし、それは肉体の死でしかない。喜びに満ち足りていれば、身体は死んでも、たましいは死なない。たましいは肉体の死後も、悠久の旅を続ける。
 肉体が生きていても、喜びが枯れるとひとは死ぬ。それは、絶望という名の死だ。たましいの死だ。たましいの離れた肉体は、時の流れに乗る。肉体は分解され、自然に帰る。それは正の流れの時間である。肉体が分解されたあとに残る粒子は、いつか生物の形に再構成される。それは負の流れの時間である。どちらにしても肉体は時の流れに残されることはない。再構成された肉体には、神に選ばれたたましいが旅を中断して宿る。
 絶望のたましいは停止する。そこからどこにも動けない。時の流れから取り残される。停止したものは、停止以外のいかなる状態も許されない。生でもなく死でもなく、在るでもなく不在でもなく、再生もなく腐敗もない。
 ニームは、たましいと喜びについて語った祭司が自分に重ね合わされたように、そのようなことを考えた。あるいは祭司の語りを思い出していただけなのかもしれない。ニームにはその区別が自分ではつかなかった。
 アルルに喜びを与えたものはだれか。自分はそれをアルルに与えることができなかった。アルルの泉からあふれるその喜びの、はじめの一滴を与えたものはだれか。
 水は循環する。水は与えられ、与え続ければ途絶えることはない。アルルの喜びの水は誰から与えられたのか。そして、アルルの控えめな微笑みは誰に捧げられているのか。
 その流れの中に自分はいない。だって、萌え出るように浮かび上がるアルルの微笑みを見ても、自分の中に喜びが生まれてこないから。アルルから注がれるその喜びの水が、自分のたましいに注ぎ込まれてくる様子が一向にないから。
「十年後の約束」ニームは黒い吐息を吐くように、そう暗唱した。「それはどう考えても、信じられるのは自分のほうでしょう。といっても、自分が特別信じられるというわけではなくてですね、他人の十年後を信じるということに現実味がなさすぎるのです」ニームはそういって、アルルの表情を意図的に操作しようと試みた。アルルはニームの言葉を間に受けないように気をつけながらも、「そうよね」とつぶやくその声はすこし傷ついているようだった。ニームはそれを自分の思うままに引き出すことに成功したことを得意に感じた。




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