うさぎ穴の姫

もも

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 ニームはダンケルクの部屋をそっと出ると、すぐに走り出した。そして、病院の中をかけずりまわった。ダンケルクが浮かべたあの不敵な笑みはなんだろうか。ダンケルクはアルルをどうするつもりだろうか。まさか、殺しはしないだろうけど。
 ニームの額にはようやく引いたばかりの汗が、また噴き出てきた。自分は今日、汗をかいてばかりだと思った。汗をかき体温があがると、背中に小さな針で刺されたようなかゆみが走り、腕に水泡状のぼつぼつができる。普段は薬を服用して症状を抑えているが、家を出る前に飲んできた薬が切れてきたらしい。つまり家を出てから六時間以上経っているのだ。生きた心地のしない六時間だった。それに比べればこうして、不快なかゆみと汗と、心臓が圧迫されるような胸苦しさと、徐々に悲鳴をあげ始める足のつかれを感じながらがむしゃらに走るいまのほうが、よほど楽だった。しかしそれでも、それはあてどなく自由に走っている場合であって、とある場所に向かおうとしている自分の足取りは重かった。自分はその場所につきたいのか、つきたくないのかもわからなかった。幸いにして、この歪んだ迷路のような建物なら、考える時間は山ほどあった。たとえ行き着けなくても、建物の構造のせいにすることができた。もし目的地の場所がはっきりわかっていたとしたら、自分は走り出すこともかなわなかったのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
 このパスィヤンス病院が高々二層式の、凡庸な病院だったころはまだ、旧パスィヤンス病院であり、ダンケルクとその一家の住まいであったあの家は取り壊されずに残っていた。患者の騒がしい出入りがなくなったことで、アルルは静かな時間を穏やかに過ごしていた。家の中であれば自由に出入りすることも許されるようになった。
 ニームは新築のパスィヤンス病院で薬をもらった帰りに、アルルのもとに立ち寄った。
 アルルは病院が建て替えられることで、なにかしらの不幸が自分に舞い降りることを恐れていたが、それは杞憂に過ぎなかったように思われた。アルルとニームの関係は変わらなかった。アルルの表情が明るくなったように見えた。ニームはダンケルクに通されてアルルに会うようになったものが、いつしか足が勝手にアルルのもとにおもむいていくようになった。ニームは病院が建て替えられたことで恩恵をあずかった。このままなにも変わらないまま、アルルとふたり、時間だけが過ぎていくことも悪くないと思うようになった。ダンケルクとアンティーブ夫人が新築のパスィヤンス病院に部屋を構えて、あちらで寝泊まりするようになると、ニームはアルルといるこの家が、まるで自分とアルルのものになったと錯覚するほどだった。





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