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ニーム、ダンケルクに報告する
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ニームはダンケルクの部屋のドアをノックしたが、その返事はなかなか帰ってこなかった。ダンケルクは部屋にいないのかもしれない。気が早まっていたニームは、返事を待たず部屋の中に入った。ダンケルクは机の上に書類を山積みにして、目で紙面の文字を追うことに没頭していた。ダンケルクはニームのことにも気づいていないようだった。こうなるとダンケルクは一切の音通を遮断してしまうことをニームは理解していた。ニームはそれでもダンケルクが知の世界から解き放たれるまで待とうと思った。ニームはダンケルクに今日のことを伝えなければ気が済まなかった。
ニームはダンケルクの許可を得ず裏庭の鍵を持ち出していた。そして許可を得ず裏庭に入った。全てはニームが自分に義務づけて行ったことだった。ニームは恐れていた。勝手な行いはダンケルクの怒りを買うだろうとも思った。しかし誇りにも思っていた。そして自信もあった。ニームはダンケルクに認めてもらいたかった。ダンケルクに認めてもらうためには、ダンケルクの意図を超えて、ダンケルクの思考を超える必要があった。だからダンケルクがすぐにニームの勝手な行いを理解してくれるとは限らなかったけれど、賢明なダンケルクであれば、いつかニームの行いを認めてくれるとニームは信じていた。ニームはそのためなら、いまこの場では、ダンケルクに怒声や罵声を浴びせられることも厭わなかった。
「ちがう!これもダメだ!」
ダンケルクはそう突然叫んで、机を両方のこぶしでドンと叩いた。ニームはそのとき、窓から見える夕陽が沈んでいくのぼんやり見ていたが、それが山の影に隠れてほとんど見えなくなったときに、ダンケルクは突如そう取り乱したのだった。
ニームは固く身をこわばらせていたが、ダンケルクは書類の一枚をくしゃりと握りつぶすと、重々しく顔を上げた。
「いたのかね」ダンケルクは搾り出すようにそう言った。ダンケルクの表情は怒りに満ちていたが、ダンケルクのその怒りはほとんど、ダンケルクに今にも焼却炉に投げ入れられようとしている書類たちに向かっていて、ニームはそれに自分が視野にさえ入っていないような、そうしたむなしささえ覚えるほどであった。
「無断で入室し失礼しました」ニームはそう言って頭を下げた。
「なんのようだ。もう診察は終わりの時間だよ」
「お伝えしたいことがありました。急を要することです」
「なにかね。私はいま虫のいどころが悪い」
ダンケルクはニームにそう警告した。
「なにか調べ物だったのでしょうか」ニームはいったんそう話をそらしたが、ダンケルクは黙って、視線で話の先を促すだけだった。
ニームはズボンのポケットから、裏庭の鍵がついたキーホルダーを取り出して、ダンケルクに見せた。
「無断で持ち出しました」
ダンケルクはそれを見たとき、平静を装っていたが、こぶしに握りしめられていた紙はいまにも粉々に破られて、床に舞い落ちるかのように、ダンケルクのこぶしの中で震えていた。「それにはいくつか鍵がついている。君はそのうちのどれを使ったのだ」
「裏庭に入る鍵です」
「そうか。そこで君はなにをした」
「裏庭には防空壕があります。先生ももちろん覚えていらっしゃると思います」
「もちろんだ」
「あの穴にオルレアンを閉じ込めました」
ダンケルクはニームのその言葉を聞くと、信じられないというように顔面を蒼白させたが、今度は一転して顔を鬼のように赤くすると、激昂の咆哮を上げた。その獣のような叫びは、病院として使われている下位層から断絶されたこの部屋からでなければ、病院中に響き渡っているに違いなかった。
ニームはダンケルクに叱責を受けることは、あり得るものと覚悟していた。その叱責はダンケルクの本心からくるものであるかもしれないし、あるいは実は内心ほくそ笑みながら社会的責任や地位がある立場からそうして牽制することで自己の責任を回避するものものであるかもしれなかったが、ニームにとってはそのどちらでもかまわないと思っていた。
しかしニームは、ダンケルクが我を失うほど激怒するとは思っていなかった。ダンケルクが自分にこれほど激烈な感情を自分に向けてくるとは予想してなかった。ニームはそのときダンケルクは自分に憎しみの感情のみを持っているのだと悟った。優しさや愛や慈しみ、そのようなダンケルクが自分に持ち合わせていない感情は、どうしたって増幅も減衰もしなかった。しかし、現に持っている憎しみであれば、いくらでも膨れ上がる。ニームはそのことを突きつけられた。自分が尊敬や信頼、そして時には父親に向けるべき感情さえ投げかけるダンケルクは自分のことを憎んでしかいない。ダンケルクの秘匿する弱みを、不本意ながら握っている自分に対して。ダンケルクの弱みは、ニームの記憶の中に埋め込まれてしまっている。現金や証書や手形、写真、音声、あらゆる現物として保存しているものではなかった。ダンケルクがもしニームの記憶まで抹消したいと願うなら、ニームは死を選ぶしか道はなかった。
ダンケルクは机の上の書類を払い落とすと、地を鳴らすような重厚な歩みでニームに近づき、顔を寄せた。ニームは顔色は変えないようにこらえたが、首に冷たい汗が伝わるのは感じていた。
「ぼくはなにもオルレアンの命まで取ろうとは思っていません」
ニームはダンケルクの強い眼光を前にして、搾り出すようにそう弁明した。ニームにはなぜダンケルクの逆鱗に触れたのかわかっていなかったが、もっともそうであろうものを言ったのだった。「もちろん勝手を働いたことは謝ります。そしてこの件はぼくの独断専行ですから、もちろん病院はなんの関係もありません。オルレアンはもしかしたらこれを不慮の事故と思うかもしれません。故意の事件と思うかもしれません。もしそうなったときは、ぼくはひとりで罪を負う覚悟をもっています」
「君が言いたいことはそれだけか?」ダンケルクは唸るようにそう言った。
「なにが不足でしょうか?ぼくにはわからないのです。先生がぼくに与えた罰ならどのようなものでも受け入れましょう」
「君は防空壕の中に入ったことがあるかい?」
「いえ、ありません」
「なぜ入ってみなかった」
「なぜと言われても、ぼくが入る必要はありませんでしたから」
「ほんとうにそれだけか?」
「いえ、つまり、恐ろしかったのです」
「なにが恐ろしかった」
「穴の中は真っ暗でした」
「それだけか」
「真っ暗で穴の底が見えませんでした。穴の底があるのかさえわからないくらいでした」
「他には。その穴はどのような様子だった」
「オルレアンに穴の中へ入らせました。長い時間はしごを降りていきました。ぼくにはそれがどれくらいよ時間だったかはちょっとわかりません。しかし、オルレアンは穴の底についたようでした。中の様子については詳しく聞きませんでした。オルレアンが穴は奥の方に続いていると言っていたので、ぼくはオルレアンを奥まで行かせました。そしてぼくはオルレアンを閉じ込めることを一番に考えていましたから、オルレアンが穴の下に戻ってくる前にはしごを落とし、ロープを切りました」
ニームがそう言うと、ダンケルクはニームにさらに顔を寄せ、詰問するように言った。
「もし、君が同じように暗闇の穴の中に閉じ込められたら、君ならどうする。想像したまえ。君ならどうする。君は穴の中にへたりこみ、絶望し、生きる意志を失って、成し遂げられなかったことを悔やみ、これまでの浪費した時間を惜しみ、そして、涙の泉に沈みながら、土に還ることを選ぶだろうか」
「いえ、そのようなことはしないでしょう」
「君ならどうする」ダンケルクは同じ問いを続けた。
「もちろん一時は絶望に暮れるかもしれません。しかし、生きる活路をなんとか見出したいとそのうち動きだすでしょう。抜け穴はないか、道具はないか、掘りやすい土はないか、奥にはなにがあるのか、と手当たり次第に生きる道を探すに違いありません」
「では、オルレアン君ならどうするだろう」
「ぼくでさえ行動するでしょうから、オルレアンならなおさらだと思います。オルレアンは一時の絶望すら感じていないのかもしれません」ニームはそこで一度言葉を切ったが、「しかしそれがなんだと言うのでしょう」と楽観的な口調でそう言った。
「なんだと」ダンケルクは反抗的な口調のニームに今にもかみつきそうであった。
「それがなんだと言うのでしょう。だって、あの穴は防空壕なのではないですか。防空壕の出入り口は一箇所なのが当たり前でしょう。たしかに、あれほど穴が深い防空壕だったということは意外でした。しかし、あの穴に他に抜け道があるとは考えられません。オルレアンもいまごろそのことに気づいているのではないでしょうか」
「君はまだあの穴を防空壕だと思っているのか?」
「違うのですか?ぼくはたしかに、昔、まだパスィヤンス病院が先生のご自宅だったとき、防空壕を見せてもらいました。ただそのときのぼくは幼かったので、防空壕の中がどのようだったか記憶が曖昧なのですが」
「君は誰に防空壕を見せてもらったんだ」
「先生に」
「ほんとうか?」
「ほんとうです」
「君はほんとうにこの私に見せてもらったと、そう言い切るのか?」
ニームはどちらに進んでも崖にしか続かない三叉路に立たされているような気がした。はい、か、いいえ、か、それか黙るか。そのどちらも許されないような気がした。
「それを言うことはぼくには許されていません」
「それはなぜだ?」
「それは」
それは、ダンケルクの秘密であり、オルレアンのような青年たちにはけして明かされることのなかった、ダンケルクの後ろめたさだったから。もちろん畏れおおいダンケルクに、ニームはそのようなことを言うことはできなかった。ニームはどうせ死に行く三叉路ならば、神の意志に任せてただ待つことがほんとうだと考えて、ダンケルクが自分を殴るか、窓から突き落とすか、ダンケルクからの行動をダンケルクににらまれながらただ従順に待っていた。
「あの穴はもう君が知っている防空壕ではない」ダンケルクはニームにそう告げた。「あの穴は、私がこの病院の建て替えと増築を決めた時、生意気な大工がそう言ったのだ。病院はおまえが望むままに、増築してやる。おまえは私が増築した建物を、自分のこころに寸分の隙間なくぴったりはまるものと感じるだろう。しかし、こちらが立てばどこかが立たなくなるのが常識というものさ。庭に空いている防空壕は、おまえのものではなくなる。おまえの力は及ばなくなる。病院が上に築かれていくように、おまえの知らぬうちに穴は下に下に深くなっていく。それを止めることは誰にもできない。おれが病院の増築をやめたときにそれは止まるだろう。だかららどうしてもそれが嫌ならば、おれに増築を頼むことを止めることだ、とな。口の利き方の知らない、無礼な大工だった。しかし腕は確かだった。私はやつの作品、そう作品と言ってもいいだろう、に満足した。他の大工では代わりにならなかった。だから私は、あの防空壕を手放した。私はあの穴に近づくことさえできない。当然、私はあの穴がどうなっているか知らない」
「しかし、しかしですよ」ニームは狼狽しながら言った。「ぼくにはやはりわかりません!先生のおっしゃったことは普通でしたらなかなか信じられないことでしょう。しかしぼくは先ほど自分の目であの穴を見てきました。たしかにあの穴は奇妙でした。恐ろしいものでした。しかし穴であるのことに変わりはないでしょう。入り口にフタをふれば出口をふせげる。それが穴というもの。しかも、あの穴の奈落と呼ぶべき深淵は、誰かをとらえるのにうってつけとさえ言えるでしょう。つまり、ぼくの目標はなんにせよ達成されたのです。先生がぼくをお叱りになるのはもっともです。しかし先生はぼくをお叱りになるわけに、あの穴を利用したということにこだわっておられる。あの穴に、どのような不都合があるとおっしゃるのでしょうか」
ニームがそう言うと、ダンケルクはとうとう耐えかねたようにニームの肩を突き飛ばした。ニームは腰から床になだれ落ちるように倒れた。
「君は、君がこの私の部屋にたどり着くことが当たり前のようにできることに慣れすぎている」ダンケルクは一転、憔悴しているような静かな声でそう言った。「この部屋にはふつうたどり着けないものだ。たどり着けるのは、私と家内と君だけ。この病院が増築を繰り返す中で、絶えず私の部屋に足しげく通ったものだけなのだ」
「それはそうですが」
「この部屋にたどり着くまでの間、われわれは一体どこにいる?」
「考えるまでもありません。病院の中です」
ニームがそう言い切ると、ダンケルクは首を振った。
「その保証はない。明らかに空間がねじれている。われわれは病院の外に一度連れ出されてから戻されている。オルレアン君は家内に連れられてここに来たとき、それを経験しただろう。そして彼は今またその中にいるだろう。彼はねじれた空間を果敢に突き進み、はたしてどこに連れ出されるのだろうか」
「そんなことが」ニームは唖然として二の句が継げなかったが、自分がここで体験していることを、まさかそのようなことはあり得ないと否定することは困難だった。
「オルレアンは一体どこに連れられていくのでしょうか。あの穴からどこに抜けていくのでしょうか」
「それはわからない。あれは私の意志ではどうにもすることのできないものだから」ダンケルクは諦めたようにそう言った。「しかし、あれが私の意志から遠いところにあることと、あの穴のことがなにもわからないことはちがう。私はあの穴のことがわかる気がする。つまりあの穴は、私の意志とは最も遠いところにつながっているのだ」
「先生の意志のとおいところ」ニームは愕然として、精気が抜けた吐息のような声でそうつぶやいた。ニームにはそれがどこなのか、わかるように思った。自分はそこからオルレアンを遠ざけるために、画策してきたのだった。それがかえって、オルレアンをその場所に導いてしまったとしたら、自分はとんだ道化だった。ニームは窓から自分の身を投じてしまいたいと、そう思うほどだった。ニームは窓の方へとぼとぼと歩いた。ニームは窓の外を見た。あたりはすっかり夜だった。遠くからフクロウの声が聞こえた。ニームはもう間に合わないだろうと思った。せめて、自分がダンケルクに、まだ日が沈まぬうちに、今日のことを話せていたら。
「まあ、いいさ」ダンケルクはニームの横に立って外を眺めると、そう言った。「これが運命ならば」
ニームはダンケルクを見た。ダンケルクの眼光は、ギラギラと決意にみなぎっていた。
「なにをなされるつもりですか」ニームはダンケルクの言葉を怯えて待った。
「いまにわかることさ」
ダンケルクはそう言うと、ニームがまだ持ったままだった鍵束を強引に奪い取り、ニームにさっさと部屋から出ていくように言い渡した。
ニームはダンケルクの許可を得ず裏庭の鍵を持ち出していた。そして許可を得ず裏庭に入った。全てはニームが自分に義務づけて行ったことだった。ニームは恐れていた。勝手な行いはダンケルクの怒りを買うだろうとも思った。しかし誇りにも思っていた。そして自信もあった。ニームはダンケルクに認めてもらいたかった。ダンケルクに認めてもらうためには、ダンケルクの意図を超えて、ダンケルクの思考を超える必要があった。だからダンケルクがすぐにニームの勝手な行いを理解してくれるとは限らなかったけれど、賢明なダンケルクであれば、いつかニームの行いを認めてくれるとニームは信じていた。ニームはそのためなら、いまこの場では、ダンケルクに怒声や罵声を浴びせられることも厭わなかった。
「ちがう!これもダメだ!」
ダンケルクはそう突然叫んで、机を両方のこぶしでドンと叩いた。ニームはそのとき、窓から見える夕陽が沈んでいくのぼんやり見ていたが、それが山の影に隠れてほとんど見えなくなったときに、ダンケルクは突如そう取り乱したのだった。
ニームは固く身をこわばらせていたが、ダンケルクは書類の一枚をくしゃりと握りつぶすと、重々しく顔を上げた。
「いたのかね」ダンケルクは搾り出すようにそう言った。ダンケルクの表情は怒りに満ちていたが、ダンケルクのその怒りはほとんど、ダンケルクに今にも焼却炉に投げ入れられようとしている書類たちに向かっていて、ニームはそれに自分が視野にさえ入っていないような、そうしたむなしささえ覚えるほどであった。
「無断で入室し失礼しました」ニームはそう言って頭を下げた。
「なんのようだ。もう診察は終わりの時間だよ」
「お伝えしたいことがありました。急を要することです」
「なにかね。私はいま虫のいどころが悪い」
ダンケルクはニームにそう警告した。
「なにか調べ物だったのでしょうか」ニームはいったんそう話をそらしたが、ダンケルクは黙って、視線で話の先を促すだけだった。
ニームはズボンのポケットから、裏庭の鍵がついたキーホルダーを取り出して、ダンケルクに見せた。
「無断で持ち出しました」
ダンケルクはそれを見たとき、平静を装っていたが、こぶしに握りしめられていた紙はいまにも粉々に破られて、床に舞い落ちるかのように、ダンケルクのこぶしの中で震えていた。「それにはいくつか鍵がついている。君はそのうちのどれを使ったのだ」
「裏庭に入る鍵です」
「そうか。そこで君はなにをした」
「裏庭には防空壕があります。先生ももちろん覚えていらっしゃると思います」
「もちろんだ」
「あの穴にオルレアンを閉じ込めました」
ダンケルクはニームのその言葉を聞くと、信じられないというように顔面を蒼白させたが、今度は一転して顔を鬼のように赤くすると、激昂の咆哮を上げた。その獣のような叫びは、病院として使われている下位層から断絶されたこの部屋からでなければ、病院中に響き渡っているに違いなかった。
ニームはダンケルクに叱責を受けることは、あり得るものと覚悟していた。その叱責はダンケルクの本心からくるものであるかもしれないし、あるいは実は内心ほくそ笑みながら社会的責任や地位がある立場からそうして牽制することで自己の責任を回避するものものであるかもしれなかったが、ニームにとってはそのどちらでもかまわないと思っていた。
しかしニームは、ダンケルクが我を失うほど激怒するとは思っていなかった。ダンケルクが自分にこれほど激烈な感情を自分に向けてくるとは予想してなかった。ニームはそのときダンケルクは自分に憎しみの感情のみを持っているのだと悟った。優しさや愛や慈しみ、そのようなダンケルクが自分に持ち合わせていない感情は、どうしたって増幅も減衰もしなかった。しかし、現に持っている憎しみであれば、いくらでも膨れ上がる。ニームはそのことを突きつけられた。自分が尊敬や信頼、そして時には父親に向けるべき感情さえ投げかけるダンケルクは自分のことを憎んでしかいない。ダンケルクの秘匿する弱みを、不本意ながら握っている自分に対して。ダンケルクの弱みは、ニームの記憶の中に埋め込まれてしまっている。現金や証書や手形、写真、音声、あらゆる現物として保存しているものではなかった。ダンケルクがもしニームの記憶まで抹消したいと願うなら、ニームは死を選ぶしか道はなかった。
ダンケルクは机の上の書類を払い落とすと、地を鳴らすような重厚な歩みでニームに近づき、顔を寄せた。ニームは顔色は変えないようにこらえたが、首に冷たい汗が伝わるのは感じていた。
「ぼくはなにもオルレアンの命まで取ろうとは思っていません」
ニームはダンケルクの強い眼光を前にして、搾り出すようにそう弁明した。ニームにはなぜダンケルクの逆鱗に触れたのかわかっていなかったが、もっともそうであろうものを言ったのだった。「もちろん勝手を働いたことは謝ります。そしてこの件はぼくの独断専行ですから、もちろん病院はなんの関係もありません。オルレアンはもしかしたらこれを不慮の事故と思うかもしれません。故意の事件と思うかもしれません。もしそうなったときは、ぼくはひとりで罪を負う覚悟をもっています」
「君が言いたいことはそれだけか?」ダンケルクは唸るようにそう言った。
「なにが不足でしょうか?ぼくにはわからないのです。先生がぼくに与えた罰ならどのようなものでも受け入れましょう」
「君は防空壕の中に入ったことがあるかい?」
「いえ、ありません」
「なぜ入ってみなかった」
「なぜと言われても、ぼくが入る必要はありませんでしたから」
「ほんとうにそれだけか?」
「いえ、つまり、恐ろしかったのです」
「なにが恐ろしかった」
「穴の中は真っ暗でした」
「それだけか」
「真っ暗で穴の底が見えませんでした。穴の底があるのかさえわからないくらいでした」
「他には。その穴はどのような様子だった」
「オルレアンに穴の中へ入らせました。長い時間はしごを降りていきました。ぼくにはそれがどれくらいよ時間だったかはちょっとわかりません。しかし、オルレアンは穴の底についたようでした。中の様子については詳しく聞きませんでした。オルレアンが穴は奥の方に続いていると言っていたので、ぼくはオルレアンを奥まで行かせました。そしてぼくはオルレアンを閉じ込めることを一番に考えていましたから、オルレアンが穴の下に戻ってくる前にはしごを落とし、ロープを切りました」
ニームがそう言うと、ダンケルクはニームにさらに顔を寄せ、詰問するように言った。
「もし、君が同じように暗闇の穴の中に閉じ込められたら、君ならどうする。想像したまえ。君ならどうする。君は穴の中にへたりこみ、絶望し、生きる意志を失って、成し遂げられなかったことを悔やみ、これまでの浪費した時間を惜しみ、そして、涙の泉に沈みながら、土に還ることを選ぶだろうか」
「いえ、そのようなことはしないでしょう」
「君ならどうする」ダンケルクは同じ問いを続けた。
「もちろん一時は絶望に暮れるかもしれません。しかし、生きる活路をなんとか見出したいとそのうち動きだすでしょう。抜け穴はないか、道具はないか、掘りやすい土はないか、奥にはなにがあるのか、と手当たり次第に生きる道を探すに違いありません」
「では、オルレアン君ならどうするだろう」
「ぼくでさえ行動するでしょうから、オルレアンならなおさらだと思います。オルレアンは一時の絶望すら感じていないのかもしれません」ニームはそこで一度言葉を切ったが、「しかしそれがなんだと言うのでしょう」と楽観的な口調でそう言った。
「なんだと」ダンケルクは反抗的な口調のニームに今にもかみつきそうであった。
「それがなんだと言うのでしょう。だって、あの穴は防空壕なのではないですか。防空壕の出入り口は一箇所なのが当たり前でしょう。たしかに、あれほど穴が深い防空壕だったということは意外でした。しかし、あの穴に他に抜け道があるとは考えられません。オルレアンもいまごろそのことに気づいているのではないでしょうか」
「君はまだあの穴を防空壕だと思っているのか?」
「違うのですか?ぼくはたしかに、昔、まだパスィヤンス病院が先生のご自宅だったとき、防空壕を見せてもらいました。ただそのときのぼくは幼かったので、防空壕の中がどのようだったか記憶が曖昧なのですが」
「君は誰に防空壕を見せてもらったんだ」
「先生に」
「ほんとうか?」
「ほんとうです」
「君はほんとうにこの私に見せてもらったと、そう言い切るのか?」
ニームはどちらに進んでも崖にしか続かない三叉路に立たされているような気がした。はい、か、いいえ、か、それか黙るか。そのどちらも許されないような気がした。
「それを言うことはぼくには許されていません」
「それはなぜだ?」
「それは」
それは、ダンケルクの秘密であり、オルレアンのような青年たちにはけして明かされることのなかった、ダンケルクの後ろめたさだったから。もちろん畏れおおいダンケルクに、ニームはそのようなことを言うことはできなかった。ニームはどうせ死に行く三叉路ならば、神の意志に任せてただ待つことがほんとうだと考えて、ダンケルクが自分を殴るか、窓から突き落とすか、ダンケルクからの行動をダンケルクににらまれながらただ従順に待っていた。
「あの穴はもう君が知っている防空壕ではない」ダンケルクはニームにそう告げた。「あの穴は、私がこの病院の建て替えと増築を決めた時、生意気な大工がそう言ったのだ。病院はおまえが望むままに、増築してやる。おまえは私が増築した建物を、自分のこころに寸分の隙間なくぴったりはまるものと感じるだろう。しかし、こちらが立てばどこかが立たなくなるのが常識というものさ。庭に空いている防空壕は、おまえのものではなくなる。おまえの力は及ばなくなる。病院が上に築かれていくように、おまえの知らぬうちに穴は下に下に深くなっていく。それを止めることは誰にもできない。おれが病院の増築をやめたときにそれは止まるだろう。だかららどうしてもそれが嫌ならば、おれに増築を頼むことを止めることだ、とな。口の利き方の知らない、無礼な大工だった。しかし腕は確かだった。私はやつの作品、そう作品と言ってもいいだろう、に満足した。他の大工では代わりにならなかった。だから私は、あの防空壕を手放した。私はあの穴に近づくことさえできない。当然、私はあの穴がどうなっているか知らない」
「しかし、しかしですよ」ニームは狼狽しながら言った。「ぼくにはやはりわかりません!先生のおっしゃったことは普通でしたらなかなか信じられないことでしょう。しかしぼくは先ほど自分の目であの穴を見てきました。たしかにあの穴は奇妙でした。恐ろしいものでした。しかし穴であるのことに変わりはないでしょう。入り口にフタをふれば出口をふせげる。それが穴というもの。しかも、あの穴の奈落と呼ぶべき深淵は、誰かをとらえるのにうってつけとさえ言えるでしょう。つまり、ぼくの目標はなんにせよ達成されたのです。先生がぼくをお叱りになるのはもっともです。しかし先生はぼくをお叱りになるわけに、あの穴を利用したということにこだわっておられる。あの穴に、どのような不都合があるとおっしゃるのでしょうか」
ニームがそう言うと、ダンケルクはとうとう耐えかねたようにニームの肩を突き飛ばした。ニームは腰から床になだれ落ちるように倒れた。
「君は、君がこの私の部屋にたどり着くことが当たり前のようにできることに慣れすぎている」ダンケルクは一転、憔悴しているような静かな声でそう言った。「この部屋にはふつうたどり着けないものだ。たどり着けるのは、私と家内と君だけ。この病院が増築を繰り返す中で、絶えず私の部屋に足しげく通ったものだけなのだ」
「それはそうですが」
「この部屋にたどり着くまでの間、われわれは一体どこにいる?」
「考えるまでもありません。病院の中です」
ニームがそう言い切ると、ダンケルクは首を振った。
「その保証はない。明らかに空間がねじれている。われわれは病院の外に一度連れ出されてから戻されている。オルレアン君は家内に連れられてここに来たとき、それを経験しただろう。そして彼は今またその中にいるだろう。彼はねじれた空間を果敢に突き進み、はたしてどこに連れ出されるのだろうか」
「そんなことが」ニームは唖然として二の句が継げなかったが、自分がここで体験していることを、まさかそのようなことはあり得ないと否定することは困難だった。
「オルレアンは一体どこに連れられていくのでしょうか。あの穴からどこに抜けていくのでしょうか」
「それはわからない。あれは私の意志ではどうにもすることのできないものだから」ダンケルクは諦めたようにそう言った。「しかし、あれが私の意志から遠いところにあることと、あの穴のことがなにもわからないことはちがう。私はあの穴のことがわかる気がする。つまりあの穴は、私の意志とは最も遠いところにつながっているのだ」
「先生の意志のとおいところ」ニームは愕然として、精気が抜けた吐息のような声でそうつぶやいた。ニームにはそれがどこなのか、わかるように思った。自分はそこからオルレアンを遠ざけるために、画策してきたのだった。それがかえって、オルレアンをその場所に導いてしまったとしたら、自分はとんだ道化だった。ニームは窓から自分の身を投じてしまいたいと、そう思うほどだった。ニームは窓の方へとぼとぼと歩いた。ニームは窓の外を見た。あたりはすっかり夜だった。遠くからフクロウの声が聞こえた。ニームはもう間に合わないだろうと思った。せめて、自分がダンケルクに、まだ日が沈まぬうちに、今日のことを話せていたら。
「まあ、いいさ」ダンケルクはニームの横に立って外を眺めると、そう言った。「これが運命ならば」
ニームはダンケルクを見た。ダンケルクの眼光は、ギラギラと決意にみなぎっていた。
「なにをなされるつもりですか」ニームはダンケルクの言葉を怯えて待った。
「いまにわかることさ」
ダンケルクはそう言うと、ニームがまだ持ったままだった鍵束を強引に奪い取り、ニームにさっさと部屋から出ていくように言い渡した。
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今度こそ、幸せになろうと誓ったはずなのに、求められてたのは魔法の素質がある跡取りの男の子だった。私は4歳で家を出され、森に捨てられた!?幸せなんてきっと無いんだ。そんな私に幸せをくれたのは王太子だった−−
神様のサウナ ~神様修業がてらサウナ満喫生活始めました~
イタズ
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定年を機に、サウナ満喫生活を行っていた島野守。
極上の整いを求めて、呼吸法と自己催眠を用いた、独自のリラックス方法『黄金の整い』で、知らず知らずの内に神秘の力を身体に蓄えていた。
そんな中、サウナを満喫していたところ、突如、創造神様に神界に呼び出されてしまう。
『黄金の整い』で得ていた神秘の力は、実は神の気であったことが判明し、神の気を大量に蓄えた身体と、類まれなる想像力を見込まれた守は「神様になってみないか?」とスカウトされる。
だが、サウナ満喫生活を捨てられないと苦悶する守。
ならば異世界で自分のサウナを作ってみたらどうかと、神様に説得されてしまう。
守にとって夢のマイサウナ、それが手に入るならと、神様になるための修業を開始することに同意したとたん。
無人島に愛犬のノンと共に放り出されることとなってしまった。
果たして守は異世界でも整えるのか?
そして降り立った世界は、神様が顕現してる不思議な異世界、守の異世界神様修業とサウナ満喫生活が始まる!
*基本ほのぼのです、作者としてはほとんどコメディーと考えています。間違っていたらごめんなさない。
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