うさぎ穴の姫

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ニーム、アンティーブ夫人に鉢合わせる

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 ニームは自分の義務を果たすと、急いで、しかし誰の目にもつかぬように音を立てず、そこから逃げた。ニームは走って裏庭から抜け出した。吸った分だけ口から抜けようとする息の音を消そうと口をしめ、力を入れてできる限り喉をしぼろうとすると、息苦しさにたえられるむせこんでかえって音を立ててしまった。ニームはここが病人の集まる病院でよかったと思った。日はまだ高かった。咳き込む音が聞こえても、この病院の患者の誰かだとしか思われないだろう。もっとも、咳き込む患者を心配して駆け寄る看護師がこなければの話ではあるが。
 ニームは病院の中に入るとダンケルクの部屋を目指したが、途中でアンティーブ夫人に鉢合わせた。無視して通り過ぎるわけにいかなかったニームはアンティーブ夫人の前で立ち止まった。
「あら。お急ぎのようね」アンティーブ夫人はそうとわかっているのに、ニームの前に立ちはだかって、道を譲ろうとはしなかった。
「足に湿疹が出たもので、先生に見ていただきたいと思って」ニームはそう言ったが、看護師のアンティーブ夫人にそう嘘をついたのは失言だったかもしれないと思った。しかしアンティーブ夫人はニームの症状には興味を示す様子もなく、「大変ね」とだけ同情の言葉を寄せた。
「あのときの地獄のような日々に比べたら、そこから抜け出せただけでぼくは恵まれたものと思います」
「不自由な思いはしていないというのね」
「月に一回薬をもらいにこなければならないだけですので。もっとも、自分の必要とする薬がここパスィヤンス病院でしか処方してもらえない薬であるというのは、普通のひとにとっては不便なことなのでしょうが、ぼくはなんにしてもここ以外に行くつもりはないですから」
「そう。それはありがたいことね」
 アンティーブ夫人はニームより顔ひとつ分ほど背丈が低かったが、その視線はまるでニームを見下すようであった。
「ぼくはそろそろよろしいでしょうか」しばらく沈黙が続いて、アンティーブ夫人に無感動な視線を向けられていることに耐えかねたニームは、そう言ってその場から立ち去ろうとしたが、
「二兎追うものは一兎も得ず」アンティーブ夫人の横を通り過ぎた時、アンティーブ夫人は独り言のようにそう言った。ニームはうさぎという言葉に、神経を直接を触れられたようにはっと立ち止まった。
「こういう言葉を知っていて?」ニームに背を向けていたアンティーブ夫人は、ニームのほうに半身をくるりと向けて怪しく微笑んだ。
「いえ、知りません」ニームは本当に知らなかった。
「東洋のことわざよ。以前主人と漢方を学びに」
「そのことわざが一体なんなのです」アンティーブ夫人の言ったことわざの意味はニームには十分予測がたつものだった。ニームがアンティーブ夫人に聞いたのは、それをニームに言った意味だった。
「あなただいぶ息苦しそうではなくて?」アンティーブ夫人はニームの質問には応えず、見透かすようにそう言った。
「その答えは先ほど申し上げたとおりです。ぼくは快適に生活していまふ。ぼくは先生に未来と自由をいただきましたから」
「それにしては顔色が悪く見えるわ」
「少し暑さにやられたようです」
 外は大して暑くなかったが、ニームは流れ落ちる汗を止められなかった。アンティーブ夫人は今日一日病院の中にいたから外の気温については全然知らなかったから、それについてはなにも言わなかった。
「主人が早くあなたの薬を世間に公表すればいいのにねえ」アンティーブ夫人はしばしの沈黙のあと、そう言った。
「これも先ほど言いましたが、将来、パスィヤンス病院以外でもぼくの薬が処方されるようになっても、ぼくはここ以外に行くつもりはありません」
「でもあなただって、いつかはブラーヴを出ていくのでしょう。出て行きたいでしょう?」
「ぼくはブラーヴィを出ていくつもりはありません」
「薬をこの病院以外でも手に入れることができるようになっても?」
「なってもです」
「野心がないのね」
「自己をかえりみない冒険心のような希望はないかもしれません。でも夢はあります」
「それは?」
「このブラーヴで人並みに働くことです。そして人並みの家庭を持つことです。ぼくにはそれさえ不相応に思えるほど、ぼくが求めるのはそういう人並みのことなのです」
「謙虚なのね」
「臆病なのです」
 ニームは今のこの会話が苦痛だった。早くここから抜け出したかった。
「でも、変に思わなくて?」しかしアンティーブ夫人はそれを許さないように会話を続けた。
「なにがですか」ニームはそう聞き返した。
「主人はなぜ、自分の人生で唯一発明に成功した薬の特許を取らないのかしら。学会で発表しないのかしら」
「さあ」
「だってあなた、特許を取得すれば富が得られる。学会で発表すれば名声が得られるのよ」
ニームはやや口ごもったが、「やはりぼくのかかった病気は症例が少ないのではないでしょうか。ぼくに菌を付着したあの植物はブラーヴ一帯でしかほとんど生息していないのでしょう。失礼ながら、ぼくのためにつくられた薬は公にはあまり価値のない薬なのかもしれません」
「つまり、世間に発表しても誰にも相手にされないし、大量生産しても買い手がつかずゴミの山になるだけってことね」
「誰もそんなことは言っていません」
「それに、実際そうだとしても、医者なら公共の福祉の精神に則って、世間に公表するのが本当ではないかしら。誰からも必要とされなくてもそれでよし。もしあなたみたいなひとが世の中にたくさんいて、そのひとたちが主人の薬で救われるならそれ以上の幸福を探し出すのが難しいくらいのことだわ。そう思わなくて?」
「先生はもうすでに世間に発表したのかもしれません。しかし世間の反応はかんばしくなかった。奥様だって先生の全てをご存知なわけではないでしょう。先生はダメでもともと、奥様をわざわざがっかりさせることはないと思ってなにも知らせていないのでしょう」
ニームが弱々しくそう言うと、アンティーブ夫人はくちびるの端で笑った。
「あなたはそうやって自分に言い聞かせているのね。そうしてやってきたのね」
「ぼくに先生を疑うことで得になることはありませんから」
ニームが今度はにらみつけるようにアンティーブ夫人にそう言うと、アンティーブ夫人は嘲笑するというよりはあわれむように、ニームを鼻で笑った。
「まあいいわ。足止めして悪かったわね」アンティーブ夫人はそう言って、ニームに手を振った。
「それでは失礼します」ニームは一礼して、アンティーブ夫人に背を向けた。
「私に期待しないことね。私には何もできないわ」
アンティーブ夫人は歩き去っていくニームの背中にそう声をかけたが、ニームが再び振り返ることはなかった。




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