うさぎ穴の姫

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老婆、オルレアンを紹介する

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 パスィヤンス病院の門を通ると、患者が散歩したり本を読んだり軽い運動したりする庭園があって、老若男女の患者たちが病人と呼ぶのにさしつかえるほどに健康そうな表情と顔色をして、自由な時間を過ごしていた。庭園は緑の木々に囲まれていて、遊歩道の周りを色とりどりの草花がいろどり、その中心には石工の噴水が格調高く臨在していた。
 オルレアンは老婆に連れて行かれるまま受付を素通りして奥の方まで進んでいき、ある木目調の扉の前で立ち止まると、老婆はその扉を開けた。オルレアンは老婆が部屋に入るのに続くと、婦人が金色の縁取りのメガネを斜めにかたむけながら書類に目を通していた。婦人はメガネを正面に直しながら視線をあげると、「ノックをせずに入ってくることが、まるで自分であるとわたくしに示しているようね」と言って、上品に笑った。
「昔であれば私の足音でわかっただろうに」
「そうね。あなたの足をひきずる音で」
「あんたらに助けてもらった足だ」
 老婆は言われてみれば確かに右足を出す時に苦労しているようだったが、それもわずかだったし、老婆くらいの年齢のものがそのように歩いていてもなんら不思議でないから、オルレアンはそのことに気をとめていなかった。
「なつかしいわ」
「昔は壁は薄くて音もすきま風も全部筒抜けだったのに、今では扉もこんなに立派になった。扉の外で何か企まられても気づけないな」
「門にも院内にも守衛がたくさんいますから、心配していただかなくても平気ですわ」
 オルレアンはふたりの会話を黙って聞いていたが、婦人の厳しい視線はそんなオルレアンにうつった。
「それで今日はなんの用かしら」
「ひとり紹介したいものがおってね」
「その青年ね」
「そうだ。全ての権威を悪と見るよくある青年だ。院長に会いたいのだと」
「まあ、それは」
 オルレアンは目の前にいる婦人が、たぶんこの病院で高い地位にいるであろうこの人が、老婆の言葉に気を悪くするだろうと思っていたから、婦人が嬉しそうにするのが不思議だった。
「わたくしはあなたのような青年に敵意の眼差しを受けることがとても嬉しいのよ」婦人は優しげな眼差しでオルレアンに視線を向けた。
「ぼくは敵意などという感情を抱いているわけではありません」オルレアンは自分をそう弁護したが、老婆の紹介に強く反発しすぎると折角の機会を失くしそうだったので、婦人にあまり悪く思われないようにする程度の言葉だけにした。
「いいのよ、わたくし怒ってなどいないのですから」
「怒らないでくださるのはとてもありがたいのですが、嬉しいというのは、ぼくにはちょっとわかりません」
「あなたも大人になればわかるわ」
「敵意を向けられることが嬉しくなるのですか」
「もちろん、その敵意が正当であるなら話は別ですわ。わたくしは悪を支持するつもりはございません」
「悪でないものにも敵意が向きますか?」
「そうよ。たとえば権威」
「権威はたしかに悪ではないですね」
「でも実際、あなたは悪を照らす正義の視線と思って、わたくしたちを見ている」
 オルレアンは本当はそうではなかったが、面白い話が聞けそうだったので、黙ってうなずいた。
「わたくしにはこのパスィヤンス病院を築いてきたという誇りがあるの。そしてブラーヴを医療を支えてきたたいう誇りが。わたくしたちの権威は町民たちの信頼の結集なのです。信頼が集まってできた輝く石なのです。権威は時に幻想となりますが、わたくしたちは権威は宝石のように、硬くそして輝いております。その権威を誇示こそしないにせよ、堂々と掲げることは、町民の信頼に応えるわたくしたちの決意でありますし、覚悟であります。また町民がよりいっそうわたくしたちどもを頼りになってくださる礎ともなるでしょう」婦人は長々とそう演説した。
「しがない町民のひとりでしかない私にはとても口にできぬ、たいそれた今の言葉だったが」オルレアンが黙っていたので、老婆が言葉を引き継いだ。「実際、パスィヤンス病院がなければ、私たち町民は流行り病でみな息絶えていただろう。他の町や村では人口の半分、それ以上を失ったところがたくさんあった。パスィヤンス病院はいち早く治療法予防法を確立し、被害を最小限にとどめたのだ」
「そうしたことも確かにありました」婦人は本来なら苦々しい思い出であるはずの伝染病が町中、あるいは国中をおそった時期のことを、美しい思い出の一部として思い出しているようだった。
「ぼくは祖父母を亡くしているために、失礼ながら知りませんでした」
「まあ。もしやその時の流行り病で?」
「いえ、老衰だったそうで」
「天寿を全うされたのね。よかったわ」婦人は祈りを捧げるように両手を腕の前で組んで目をつむった。
「それだけでなく、幸いなことに病院のお世話になることもこれまでほとんどなく」
「それだけ、病から解放される時代になったということですわ」
「だからあなたのこともぼくは知りませんでした」
「最前線でいつも働いてくれているのは現役の医者やナースですから」
「あなたもかつてはナースだった」
「ええ、もちろん」
「そしてあなたがこの病院の最初のナースだったのですね」
「ええそうよ」婦人は穏やかに微笑んだ。
「さて、そろそろ暗くなってきたが」老婆は窓から差し込む夕陽が消えつつあるのを見て、そう言った。「今日はここで引き下がるかね」
「あら、そんなことおっしゃらないで」オルレアンが答える前に、婦人がオルレアンを引きとめた。「わたくしとのお話はここでおしまい。なごり惜しいけど」婦人は誘惑するような視線をオルレアンに向けた。
「ぼくもです」オルレアンはあっさりとそう返した。
 婦人は「嬉しいわ」と言って立ち上がった。「あなたの名前をうかがってもよろしいかしら」
「オルレアンです」
「ありがとう。わたくしはアンティーブよ」
 アンティーブ夫人はオルレアンのすぐそばを歩き通ると、オルレアンたちが入ってきた扉を開いた。
「あなたのご希望どおり、院長室までご案内するわ。お察しのとおり、このパスィヤンスの開業医であり、わたくしの主人よ」アンティーブ夫人はそう言って、オルレアンを誘導するように、扉を外を手のひらで指し示した。


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