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第二章 シロガミ
七話 予兆
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ジャ! シャ、――シュッ。
一心不乱に画布へ向かう男性は、絵を描き殴る。十一月と言うのに、額から汗を吹き出しつつ、鬼気迫る表情と共に、変形しそうになるほど力を込めた指は筆と同化しているのではと思うほであった。
やがて、痛みによって正気を取り戻したかのように、ふと呟く。
「おっと、もう展色材が無くなっていたか」
その程度の小さなことにも関わらず、なぜか小さな笑みを浮かべた後、身体をひねり、奇異な形状の小瓶を開きて、中身を開け放つ。
そしてどういう意図か、手近の小刀で自身の指を傷つけ、調色板へと滴下させた後、先ほどの小瓶の内容物とを、混ぜ合わせる。
「――よし」
調色板の上では、淀んで、不気味な、赤と黒の色溜まりが、波打つように産まれる。それらを確認した男性は満足そうに、微かに笑ってこう呟いた。
「……もう少し、もう少しだよ。待ってて、ミノリ」
月桑市豊銘町無銘蔵四八番地 アパート那伊202。
十一月らしい、少し弱い秋の陽が差す午前十時頃であった。古ぼけた賃貸の一室にて、男性の声が聞こえる。
「よし、完璧だ」
一部変色を呈している灰色の壁紙が四方を囲む、六畳の和室風の室であった。
和室風と説明したのは、隙間なく綺麗に敷かれた畳調の敷物を慮ってのことだけであった。
テレビもパソコンも置かれていないこの室を埋めるのは、幾多にも積み上げられた崩れそうな本の塔に他ならなかった。その合間を縫うように敷かれた煎餅座布団の上に寝転ぶ男性こと、神薙蒼一。
令和の現代。控えめにも脱俗超凡とは言い難いこの情景下において、彼はおよそ満足気な表情を浮かべていた。
「食糧良し、玄関の施錠良し、――今日は心ゆくまで、読むぞ」
積み上げられた本の類型にはおよそ一貫性が無かった。
西洋哲学、文芸学、数学史、統計学、マーケティング、民法など多岐に渡っていたが、彼が手にしていたのは、色褪せた日本往来の純文学であった。
「この年齢になって【晩年】を読んでいないなど、恥に当たるかもしれないな。――まぁ、他者の定義は置いておこう」
神薙にしては珍しく笑みを浮かべて、近所の中古書店で買い取った、古びれた本を開き見る。
人によっては、小難しい文体や表現に面喰らうかもしれないが、彼に関しては何ら問題無かった。むしろ心躍らせながら、最初の文を静かに、だが張り切って、黄ばんだ頁を捲り進む。――その時、
トゥルルル、トゥルルル。
携帯の初期設定の着信音が室内に鳴り響く。無視。古びた紙同士が織りなす乾いた音に、うっとりしつつ、読み進める。
トゥルルル、トゥルルル。
「――にしても、こんな傑作が百円で手に入るとは、本当に恵まれた時代だ」
トゥッ……――トゥルルル、トゥルルル。
鳴り止まない機械音に対してであろう、眉間に一本の亀裂が走る。
本を片手に持ち替え、空いた手は本の塔の隙間を這うように動き、やがて掴んだ携帯の画面には、数少ない連絡先登録者である、星宮輝の名前が表示されていた。
ピッ。
「――あっ。お、お休み中にごめんなさい~」
意図していないのだろうが、しょげつつも甘く、媚びるような声が耳をくすぐる。
普通の健全な成人男性なら引き込まれるナニかがあるかもしれないが、旧友であり、男であった過去を知っている神薙は、携帯に向かって、
「本当にそう思っているなら、今から明日の出勤時間まで、二度と掛けてくるな」
遠慮の無い向かっ腹を含んだ声で、そう告げた後、反応の一切を待たずに切り、携帯を投げ置く。
呼吸を整えつつ、
「ふー、よし。心に波風が立っては、この本の素晴らしさを堪能出来ないからな」
再び両手で、古ぼけた本を丁重に開く。読んでいた箇所から数行遡り、一節一節を味わうごとく読み進める。
ピロン、ピロン……ピロン。
「……」
ピロン、ピン、ピロン。
「(こ、心に波風を――)……」
だがやがて、軽く蟀谷を押さえ、怒気に震える片手で携帯を手繰り寄せる。アプリ由来である、星宮からの電子文章が追表示され続ける。
そこには泣いている絵や謝罪の電子印章が十件分ほど送られてきていた。それらを読み飛ばし、肝心なる内容のみを視認する――、
「――はぁぁ~」
至大な溜息を吐き出した後、観念した様相で立ち上がった神薙は、小さな洋服箪笥から数少ない外着を乱暴に掴み取り、
「……最悪だ」
ガチャ。
鰯雲こと巻積雲が上空に点在する、穏やかな秋の日差し溢れる、月桑市へと繰り出すのであった。
「薙君、まだかなぁ」
午前十一時前。月桑市市内に位置する雑居ビルの一角であった。
望月探偵事務所の古びたビル内の通路にて、ひらひらと青いワンピースのスカートを揺らし、待ち人の到来に首を長くしている星宮。
ピンポーン。
古ぼけた昇降機の到着音が廊下に響く。
開いた扉の先には、いつも以上に眉間に皺を刻んでいる神薙探偵が、降り立つ。
「――ぁ、ぅ、そ、そのぅ」
待ち侘びていたにも関わらず、姿を見るや否や委縮する星宮は、まるで捨てられた子犬の様な声をあげ、上目遣いで見上げる。
そんな彼女に対して――、
「貸し一つだ。状況は?」
何を言われるかとびくついていた星宮は、耳を疑うかのように、恐る恐る口を開く。
「お、怒ってないの?」
「短時間労働者にこれ以上、言っても仕方あるまい。責任者に文句を言うのが筋だ」
「しょ、所長さんのことだよね? 今、依頼人の方の話を聞いている所だよ」
神薙は事務所へ繋がる薄灰色の扉を見る。
「来ておいて何だが、築羽団地の時みたく、それほど緊急性が高い依頼なのか?」
「そ、それが――」
言い淀みながら星宮は、名刺くらいの大きさの一枚の無地の紙を取り出した。真っ白なそれは妙に肌触りが良く、ただの紙片と呼ぶには少し違和感を感じさせた。
「依頼人の方が、これを――」
「……シロガミか」
再び溜息と共に携帯の明りを点けて、紙片を透かす。
中央に直径四センチメートルほどの天秤の紋章が浮かび上がり、右下にはゼロから始まる五桁の数字が薄っすらと見える。
「管理番号、照合したか?」
「うん。協会の仲介案件で間違いなさそう。もちろん、依頼主の人は知らないと思うけど――」
「依頼主が相談した相手の内、どこかしらで協会の人間が見知って、シロガミを渡し、ここを教えたという感じだろう」
「え、えっと、ってことはやっぱり……」
自分で言いながらと、言葉に竦む星宮に対して、
「あぁ、協会が噛んでいる以上、霊装能力者が携わるべき案件だ」
仕方ない、っといった情調で気持ちを切り変えた神薙は、星宮へ目配せをした後、確認の音と共に望月探偵事務所へ入った。
一心不乱に画布へ向かう男性は、絵を描き殴る。十一月と言うのに、額から汗を吹き出しつつ、鬼気迫る表情と共に、変形しそうになるほど力を込めた指は筆と同化しているのではと思うほであった。
やがて、痛みによって正気を取り戻したかのように、ふと呟く。
「おっと、もう展色材が無くなっていたか」
その程度の小さなことにも関わらず、なぜか小さな笑みを浮かべた後、身体をひねり、奇異な形状の小瓶を開きて、中身を開け放つ。
そしてどういう意図か、手近の小刀で自身の指を傷つけ、調色板へと滴下させた後、先ほどの小瓶の内容物とを、混ぜ合わせる。
「――よし」
調色板の上では、淀んで、不気味な、赤と黒の色溜まりが、波打つように産まれる。それらを確認した男性は満足そうに、微かに笑ってこう呟いた。
「……もう少し、もう少しだよ。待ってて、ミノリ」
月桑市豊銘町無銘蔵四八番地 アパート那伊202。
十一月らしい、少し弱い秋の陽が差す午前十時頃であった。古ぼけた賃貸の一室にて、男性の声が聞こえる。
「よし、完璧だ」
一部変色を呈している灰色の壁紙が四方を囲む、六畳の和室風の室であった。
和室風と説明したのは、隙間なく綺麗に敷かれた畳調の敷物を慮ってのことだけであった。
テレビもパソコンも置かれていないこの室を埋めるのは、幾多にも積み上げられた崩れそうな本の塔に他ならなかった。その合間を縫うように敷かれた煎餅座布団の上に寝転ぶ男性こと、神薙蒼一。
令和の現代。控えめにも脱俗超凡とは言い難いこの情景下において、彼はおよそ満足気な表情を浮かべていた。
「食糧良し、玄関の施錠良し、――今日は心ゆくまで、読むぞ」
積み上げられた本の類型にはおよそ一貫性が無かった。
西洋哲学、文芸学、数学史、統計学、マーケティング、民法など多岐に渡っていたが、彼が手にしていたのは、色褪せた日本往来の純文学であった。
「この年齢になって【晩年】を読んでいないなど、恥に当たるかもしれないな。――まぁ、他者の定義は置いておこう」
神薙にしては珍しく笑みを浮かべて、近所の中古書店で買い取った、古びれた本を開き見る。
人によっては、小難しい文体や表現に面喰らうかもしれないが、彼に関しては何ら問題無かった。むしろ心躍らせながら、最初の文を静かに、だが張り切って、黄ばんだ頁を捲り進む。――その時、
トゥルルル、トゥルルル。
携帯の初期設定の着信音が室内に鳴り響く。無視。古びた紙同士が織りなす乾いた音に、うっとりしつつ、読み進める。
トゥルルル、トゥルルル。
「――にしても、こんな傑作が百円で手に入るとは、本当に恵まれた時代だ」
トゥッ……――トゥルルル、トゥルルル。
鳴り止まない機械音に対してであろう、眉間に一本の亀裂が走る。
本を片手に持ち替え、空いた手は本の塔の隙間を這うように動き、やがて掴んだ携帯の画面には、数少ない連絡先登録者である、星宮輝の名前が表示されていた。
ピッ。
「――あっ。お、お休み中にごめんなさい~」
意図していないのだろうが、しょげつつも甘く、媚びるような声が耳をくすぐる。
普通の健全な成人男性なら引き込まれるナニかがあるかもしれないが、旧友であり、男であった過去を知っている神薙は、携帯に向かって、
「本当にそう思っているなら、今から明日の出勤時間まで、二度と掛けてくるな」
遠慮の無い向かっ腹を含んだ声で、そう告げた後、反応の一切を待たずに切り、携帯を投げ置く。
呼吸を整えつつ、
「ふー、よし。心に波風が立っては、この本の素晴らしさを堪能出来ないからな」
再び両手で、古ぼけた本を丁重に開く。読んでいた箇所から数行遡り、一節一節を味わうごとく読み進める。
ピロン、ピロン……ピロン。
「……」
ピロン、ピン、ピロン。
「(こ、心に波風を――)……」
だがやがて、軽く蟀谷を押さえ、怒気に震える片手で携帯を手繰り寄せる。アプリ由来である、星宮からの電子文章が追表示され続ける。
そこには泣いている絵や謝罪の電子印章が十件分ほど送られてきていた。それらを読み飛ばし、肝心なる内容のみを視認する――、
「――はぁぁ~」
至大な溜息を吐き出した後、観念した様相で立ち上がった神薙は、小さな洋服箪笥から数少ない外着を乱暴に掴み取り、
「……最悪だ」
ガチャ。
鰯雲こと巻積雲が上空に点在する、穏やかな秋の日差し溢れる、月桑市へと繰り出すのであった。
「薙君、まだかなぁ」
午前十一時前。月桑市市内に位置する雑居ビルの一角であった。
望月探偵事務所の古びたビル内の通路にて、ひらひらと青いワンピースのスカートを揺らし、待ち人の到来に首を長くしている星宮。
ピンポーン。
古ぼけた昇降機の到着音が廊下に響く。
開いた扉の先には、いつも以上に眉間に皺を刻んでいる神薙探偵が、降り立つ。
「――ぁ、ぅ、そ、そのぅ」
待ち侘びていたにも関わらず、姿を見るや否や委縮する星宮は、まるで捨てられた子犬の様な声をあげ、上目遣いで見上げる。
そんな彼女に対して――、
「貸し一つだ。状況は?」
何を言われるかとびくついていた星宮は、耳を疑うかのように、恐る恐る口を開く。
「お、怒ってないの?」
「短時間労働者にこれ以上、言っても仕方あるまい。責任者に文句を言うのが筋だ」
「しょ、所長さんのことだよね? 今、依頼人の方の話を聞いている所だよ」
神薙は事務所へ繋がる薄灰色の扉を見る。
「来ておいて何だが、築羽団地の時みたく、それほど緊急性が高い依頼なのか?」
「そ、それが――」
言い淀みながら星宮は、名刺くらいの大きさの一枚の無地の紙を取り出した。真っ白なそれは妙に肌触りが良く、ただの紙片と呼ぶには少し違和感を感じさせた。
「依頼人の方が、これを――」
「……シロガミか」
再び溜息と共に携帯の明りを点けて、紙片を透かす。
中央に直径四センチメートルほどの天秤の紋章が浮かび上がり、右下にはゼロから始まる五桁の数字が薄っすらと見える。
「管理番号、照合したか?」
「うん。協会の仲介案件で間違いなさそう。もちろん、依頼主の人は知らないと思うけど――」
「依頼主が相談した相手の内、どこかしらで協会の人間が見知って、シロガミを渡し、ここを教えたという感じだろう」
「え、えっと、ってことはやっぱり……」
自分で言いながらと、言葉に竦む星宮に対して、
「あぁ、協会が噛んでいる以上、霊装能力者が携わるべき案件だ」
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