霊装探偵 神薙

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第一章 幻核生物

四話 エントランス

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 カシャ、カシャ。
 携帯のカメラの無機質な撮影音が、底気味悪い無人の廊下にて小さく残響する。
 土萩は撮ったばかりの写真を確認しつつ、
「――ほら見ろ。幽霊なんて写るもんか。あいつら、明日ぜってぇ謝らせてやる」
 息を巻いて二階の西側通路へと歩き始める。このB-2で四棟目。撮影した写真は外景、廊下、室内、ゴミ捨て場などで、合計三十枚以上であった。
 これだけの物証を提示できれば、友人達も口を紡ぐしか無いように思えた。
 寧ろ、こんな遅い時間に人気ひとけの無い団地にて、これほどの写真を撮ったことを学校で広めれば、女子達から脚光を浴びられるかもしれない。
「へへっ」
 埃と枯葉、そして剥がれた塗装がそこかしこに落ちてある廊下を渡り終え、一階へ続く西側階段を降りようとしたその時であった。
 遠くにある、小さな小さな公園を、視界の端が捉える。
「――ふ、ふん」
 遠い遠い昔の記憶に、束の間の逡巡しゅんじゅんを覚えるも、使命を思い出し、吐き捨てるように呟いた後、階段を降り始める。
 ……ベチョ、ヌチョ。
「えっ?」
 とんと聞き馴れない、耳障りな音が中耳道内みみのなかにて反響する。
 それはまるで、液体にまみれた粘土状の塊を、自由落下に任せて、天井くらいの位置から地面へと落としたような音であった。
「なん、の音だ。 ――んっ? く、っせ!」
 間もなく離れるであろう二階西通路や、近くの閉じた扉を視認する。たが何の変化も認められない。
 にも関わらず奇妙な、例えるなら放置されたどぶと卵が腐乱したような匂いを掛け合わせ、それを何倍も酷くしたような、およそ生理的に受け入れ難い臭気が、少年を包囲するかのごとく、立ち込める。
「お、おえっ! は、早く、かえろっ」
 ダッタッタ!
 携帯の光源ライトを階段下へ向け、足早に階下を目指す。そして、降りて逃げようとした先を照らしたが、
 ニチャ……ヌッ、チョォ。
「は?」
 階段の下、一階西側通路に、怪異ソレは待ち構えていた。
 乾留液タールのごとき形状で、茶色い泥のようであり、それらは噴水から湧き出る水のごとく掃き出してはまといを繰り返し、粘土のごとく自在に変形する。
 その不定形の異形は、まるで久方ぶりの餌との迎合に、悦ぶかのように手? 触手? なる判別不可の、だが決して触れ得てはいけないナニカを、突き伸ばして来た!
「ひやっ! ぁ、ああああァッ!」
 脳が指示するよりも速く、筋肉が自律的かってに収縮し、急ぎ階段を逆戻りする。
「なん、アレ、なに。何、っんだ!」
 震え乾く喉を無意味に酷使しつつ両足を動かす。階段下からは決して聞きたくない、奇妙で、得体の知れない、いやらしい音が響き続ける。
 そう。それはまるで、ような酷く奇怪ふかいな音であった。
「あああアアぁぁァ!」
 とにかく距離を保つために来た道、つまり二階西側廊下を反射的に逆走する。
「ハアッハアッ、あ、あ、アッ!」
 まるで幼少期おさないころ、寝苦しい夏の夜にうなされた悪夢の中に引きずり込まれたかのような奸悪が、身体中を絡めとる。
 西と東通路の中央までは、一度も振り返らずに走って来られた。
 ……だが、停止している昇降機エレベーターは、やはり何の務めも果たさず、残る東側通路へと逃奔とうぼうするしか道は残されてい無かった。
 カン、カララン。
 気がこの上なく動転し、携帯を落としてしまう。慌てて拾おうとするも、指先の動きが驚くほど不安定で、再び手を滑らす。
 その刹那わずかの間ですら、本来は穏やかな夜の静寂を汚すがごとく、生理的嫌悪感の塊のごとき、不定形のソレは、その肌に触れんがため、か黄白こうはくな音を静かに鳴らす。鼻腔はなと肺を汚損させるがごとし、異臭を漂わせながら――、
「はぁっ、グッ、ぇ」
 今度こそ、っと震える手で携帯を握りしめ、東側階段への廊下を照らす。十月にも関わらず、汗腺は冷たい汗を吐き出し続け、肌は泡立ったままであった。
 走る姿勢を保ちながら、白の上着を無理やりに脱ごうとする。同時に、辛うじて残っていた理性の残渣かけらが、異常せいじょうに作用して、
「け、けいさつ。け、警察に!」
 貴重な光源である携帯を握りしめ、やっとの思いで上着を、外へと脱ぎ捨てた――。



 経緯いきさつつぶさに説明し終えた星宮は、未だ恐怖の追体験が脳を揺さぶっている様子であった。雛が真冬の風に震えるがごとく、寒気だった様相であった。
「……」
 話を聞き終え、神薙はしばし目をつむる。
 眼前の暗き沈黙の廃墟からは、かすかな物音すら発せられない。聞こえるのは、足元の小さな麒麟草ざっそうを微かに揺らせる、弱い秋風かぜだけであった。
「な、薙君。こ、この、泥みたいな動くモノって――」
 神薙は目を開け、静かに、だが力強く言い放つ。
「星、ここにいろ」
「――え?」
「違和感を感じたらすぐに車へ戻るか、あるいは国道の方に逃げろ。もちろん【霊子装甲】の展開と維持は怠るな。……霊子装甲はわかるな?」

 霊子装甲:霊子操作技術の一種。結合した霊子で身体を覆うことにより、物理的強度あるいは超常的脅威への耐性を獲得する。
 霊子装甲の威力せいのうは、霊子操作技術の習熟度に影響される他、肉体の精強さや精神力の強勢ごうせいさとも緩やかな相関関係にある。一般的に女性や子供の霊装能力者は低い傾向にあるが、これは原始的な闘争本能に起因されるとの報告に基づく。
 また霊子装甲は霊装能力者の白兵戦技能にも大きく寄与するため、厚みや密度きょうど多寡たかは、純粋な攻防力に直結すると言えた。

「(星の霊子装甲は薄い方だが、それでもきちんと展開できていれば、ナイフによる斬撃程度の威力では傷を負わないはず)他には――そうだな。余裕があれば電話しろ」
 そう言い残し、神薙は目の前の一階入 エントランスり口へと歩き向かう。
「な、薙君、待って!」
「どうした?」
「……え、えっと。や、やっぱり。ボ、ボク達だけでこの広い建物を隈なく調べるのは難しいよ。お、応援を呼んだほうが――」
 震えながら精一杯の提案をする星宮は、神薙を気遣ってか、自分の保身か、あるいは――、
 だが神薙はこう答えた。
「……土萩君かれがもう生きていないとの確証があるなら、そうすべきだろう」
「な、薙君」
「だが、生きている可能性が僅かでもある以上、現場にて出来うる限りのことをする。彼は今尚、この暗い団地のどこかで、独りで震えているのかもしれないのだから」
 寂しそうな、あるいは後悔しているような、やや複雑な表情の神薙は、星宮も見ずに、自身の片手を凝視しながら呟いた。
「(今でもまだ……)な、薙君にそうまで言われたら、ボク」
 言葉を詰まらせる星宮に対して、
「行ってくる」
「う、ん。――き、気をつけてね」
 古錆びた郵便箱ポストが並ぶ中、停止して久しい昇降機エレベーター二台が滞留たいりゅうしている一階中央へ踏み込む。
 神薙は、東西さゆうへ伸びる支点の中央から、暗く静寂に満ちた東側通路へ足を踏み出す。
「(とりあえず、星の確認再現リワインドが導いた階層の東階段を目指し、登りながら思案する)よし」
 携帯の光源ライトにより道を照らしつつ、埃を舞い上げながら走る。
 入口エントランスから建物の両端まで四十メートルほどの距離があり、その間に七から八戸ほどのへやが割り当てられていた。
 当然、錆び汚れた扉は壁と同化するかのごとく、固く閉ざされている。
「!」
 突如、神薙は歩行速度を緩める。
 僅かだが、淀んだ建物内にてそよぐ風が、奇矯ききょうな異臭を鼻腔内へ運び込んだためだ。
「(これが星や戸金さんが言っていた異臭か。メタンチオール由来の、どぶさらった時に発生する匂いに似ている)しかし、これは――」
 弱い、明らかに。この臭いの元となる存在モノが近くにいるなら、こんな度合では到底すみそうに無い。
 ここの階、少なくとも一階東側通路にはいない公算が高い。
「よし」
 再び速度を上げ、当初の目的通り東階段から上階を目指す。
「――しかし、妙だな」
 走りつつ、思考を張り巡らせる。
「(土萩君は二階西側階段を降りようとした時、謎の存在に阻まれ、西廊下を引き返し、東側廊下へ戻った)だとしたら、そのまま突っ切って東側階段を下りれば、一階へ出られたはず」
 だが、何かの理由でそう出来なかった……。思考をまとめつつも、暗雲が漂う二階へ通じる東側階段へ辿り着く。
 肺に入る空気は、埃や塵だけでなく、何か、言葉では説明出来得ない、不浄な微粒子を含んでいるかのごとく感じられた。
 ――だが、神薙はそんなことにはつゆと神経を割かず、足音を響かせて一気に駆け上がる。
「(俺がもし、土萩君と同じような危機的状況に追い込まれたら)どう逃げる?)」
 軽く肩を上下させ、そのまま二階東廊下へ出る。
「……」
 東通路を見据える。
 欠けた月の光に照らされたそれぞれの白い扉は、不気味なほど青白く照っていた。当然ながら空いている扉は一つとして無く、遥か奥に西通路が霞む。
 心做こころなしか異臭が少し強くなった気がした。
「……抵抗する手段が無く、階下へ逃げられないなら、とりあえずは上へと逃げるか」
 三階への、やはり視覚的にも心的にも暗い、おずましげな影が滴り落ちる、東側階段へ目をやる。
「(だが、他の棟への渡り廊下が無い以上、上へ逃げても、結局は袋小路となる。ならば――)ふむ」
 上階へ続く階段に足を踏み込みつつ、
「どこか空いているへやに賭けて、くだんの脅威をやり過ごす以外に、選択肢は無いはず!」


 時はほぼ同時刻、一階中央の入口エントランス。星宮は、光源である携帯を胸の辺りで大切に持ち、神薙あいぼうの安否を気遣っていた。
 秋の星々が瞬く、肌寒い空の下にて独り。
「薙君。大丈夫かなぁ」
 恐怖におののきつつも、やっとの思いで入口中央の手前までやってきていた。
 なぜ手前で立ち止まったかというと、もう一歩前に出ると、東西に延びる長い通路が視界に収まってしまうためであった。
 もしてしまおうものなら、何かの拍子に、ほの暗く、薄気味悪い、奇怪な異形ナニカが、不図ふずに扉を開け、顔をもたげるような錯覚を覚えたためだ。
「あぁっ、もう! 何でこんな時にそんな怖い想像するかなぁ、ボク!」
 やっとの想いで半歩進んでは東か西通路を眺め、また半歩下がり、っというおよそ無意味な動作を繰り返していた。
「(で、でも。薙君一人を危ない目に遭わせるわけには)土萩君も、ここにいるなら早く見つないといけな――」
 その時であった。
 ギィィー……。
 ビクリ! っと星宮の小さな身体が軽く跳ねる。
「ひぅ!」
 一瞬、心臓が他の臓器を押し退けたごとき、倒錯的な痛みを感じたほどに吃驚びっくりした。
 西側通路へ目をやる。錆びた蝶番ちょうつがいの鈍い悲鳴と共に、手前から四つ目のへやの扉が、ゆっくりと、僅かに開く。
 の扉が、静かに。
「……ぁ、あっ」
 鳥膚とりはだはおよそ収束の兆しを見せず、身体中の横紋筋きんにくは痛いほど強張こわばり、口は息を吸う事を忘れそうであった。
 扉から目を離せない。
「……ぅ、ぅう」
 攣縮れんしゅくする手は、反射的かってに神薙の電話番号を呼び出そうとする――が、
「ダメッ」
 発信ボタンの赤くて丸い、液晶部分を押そうとする指が、寸での所で止まる。
「よ、よし」
 そう言うと、ジャリ、ジャリと小さな音を足下から響かせる。
 細い両脚によって行われる亀のごとき緩歩かんぽは、混凝土コンクリートとその上に無数にある砂利だの落ち葉だの、蟲の死骸だのを踏みしめ、開いた扉へと歩み寄る。
「(薙君がもし隠れていたりしたら、電話が鳴ったら危ないかも)――そ、それに、ボクだって、霊装能力者なんだっ」
 男性おとこであった頃の気丈さを思い起こした星宮は、自身を奮い立たせ、暗澹あんたんたる恐怖を吐き出すも、淡い勇猛さと共にぽっかりといた暗い室へっ、
「――ご、ごめんくださ~い」
 ……おののきつつ、霊子装甲しょうへきを展開して入っていく――。
 だが、過度の緊張と削られつつある正気のためか、風が運ぶ微かな異臭を、星宮はまだ感じ取れていなかった。
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