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第一章 幻核生物
序章
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「ハァ、ハァ、ハァッ!」
秋風がすさぶ、やや肌寒い夜空の下であった。
高校生くらいであろう少年は灰色の上着を脱ぎ捨て、汗だくのシャツ一枚で、人気の無い廃団地の階段を駆け上がる。
「ハァハァ……うっ」
カラカラに乾いた喉のため嘔吐く中、塗料が剥離している灰色の壁に手を押し付ける。
東側階段から一階へ逃げ損ねたのは最大の失敗であった。そのせいで、今はどう逃げればいいか、血が昇る濁った頭では上手く考えられない。
携帯電話の小さな光源を頼りに、血が鉛のように溜まった足を引きずるように動かすも、とうとう二階と三階の間にある踊り場にて、膝を着く。
「ハァッ、ハァッ。う、うっ、嘘だ。あんなモノ、モノが、いる、ッ、わけが――」
軽い錯乱状態にて、途切れ途切れの言葉を紡ぐ。過度の恐怖と水分不足により震える片手で、携帯電話の接触画面に触れる、が――、
「っ! だ、めだ。つ、つか、点かない!」
二階通路を逃走中に落としてしまい、その際に画面に皹が走ってしまった。
事前に点灯させていたライトだけが、まさに壊れたように小さな灯りを供していた。
……ビチャ。
「!」
どこからか粘っこく、汚泥のごとき不定形の何かが、天井から床へ垂れ墜ちるような、酷く不快な音を響かせる。
「やだ、もやだぁ!」
過呼吸に近い息遣いのまま、踊り場から三階へ、さらに四階へと這って上がる。
手すりの向こう、廃団地の敷地内には、数本の街灯が弱々しい光を放つも、人影は皆無であった。
目を戻し、携帯の光で壁と同一化しかけている扉を照らす。最も手近にあった戸口の扉へと近寄り、震える汗にまみれた手で握りを回す。
ガチャ――。
幸か不幸か、施錠はされていなかった。滑るように暗い玄関へと入り込む。
「はぁー、はぁー」
錆びた蝶番が鈍い金属音を響かせ、重々しく閉まる。
狭い伽藍洞の室内では、舞い上がる埃と萎びた黴の匂い、そして好ましくない小さな虫と暗闇だけが存在した。
室内が無人であろうことを確認した少年は、喘ぐような呼吸のまま、その場ににへたり込み、汚れた玄関扉の内側に耳を押し当てる。
……ピチ……ペチャ。
「~っ!」
通路からだろうか。粘っこく、身の毛がよだつ、まるで生きた汚泥が這い歩くかのごとく、微かな、しかし堪え難い不浄な音が鼓膜を震わせる。
――そして徐々に、室内の黴などとは比べ物にならない、強い刺激臭が鼻腔を犯し始める。少年はあらゆる意味で息を殺し、震えながら両手を交差させ、泣く寸前の表情で瞼を強く閉じる。
「……」
不意に音が止む。扉の前にいるのだろうか? 油断は出来ない。なぜならキツい臭いが辺りに――、
「えっ?」
少年はふと疑問に思った。そもそも扉越しになぜ、異臭をこれほどまでに感じるのだろう? 朽ちかけているとは言え鉄の扉だ。それを貫通する臭気などあるわけがない。
だと、すれば――?
ベチャ、ベチャ。
「ひっ!」
気づいた。気付いてしまった。
頭上より、不気味で、土色の、見るに堪えない、汚らわしい、不敬なナニかが、生きた糞尿のごとく、室内へ流れ落ちて来た。
「ああああアアアアア!」
耐えに耐えた悲鳴は、ついに堰を切った濁流のように、口から吐き出される。
ガチャ、ガチャガチャ!
半狂乱で扉の握りを回すも、まるで外側から抑えつけられているように頑に開かなかった。
「なんでなんでなんでなンデ?」
その間も、室内では異臭放つ汚泥が次第次第と姿を形成していく。
「やめてぇ、ぃやめてえええ!」
音を立てて落ちた携帯の灯りが、少年の開きかけた瞳孔の先を照らす。
――ニチャァ。
彼が最後に見たのは、不定形の、醜悪で、奇怪に蠢く、科学の外側に潜む存在であった。
秋風がすさぶ、やや肌寒い夜空の下であった。
高校生くらいであろう少年は灰色の上着を脱ぎ捨て、汗だくのシャツ一枚で、人気の無い廃団地の階段を駆け上がる。
「ハァハァ……うっ」
カラカラに乾いた喉のため嘔吐く中、塗料が剥離している灰色の壁に手を押し付ける。
東側階段から一階へ逃げ損ねたのは最大の失敗であった。そのせいで、今はどう逃げればいいか、血が昇る濁った頭では上手く考えられない。
携帯電話の小さな光源を頼りに、血が鉛のように溜まった足を引きずるように動かすも、とうとう二階と三階の間にある踊り場にて、膝を着く。
「ハァッ、ハァッ。う、うっ、嘘だ。あんなモノ、モノが、いる、ッ、わけが――」
軽い錯乱状態にて、途切れ途切れの言葉を紡ぐ。過度の恐怖と水分不足により震える片手で、携帯電話の接触画面に触れる、が――、
「っ! だ、めだ。つ、つか、点かない!」
二階通路を逃走中に落としてしまい、その際に画面に皹が走ってしまった。
事前に点灯させていたライトだけが、まさに壊れたように小さな灯りを供していた。
……ビチャ。
「!」
どこからか粘っこく、汚泥のごとき不定形の何かが、天井から床へ垂れ墜ちるような、酷く不快な音を響かせる。
「やだ、もやだぁ!」
過呼吸に近い息遣いのまま、踊り場から三階へ、さらに四階へと這って上がる。
手すりの向こう、廃団地の敷地内には、数本の街灯が弱々しい光を放つも、人影は皆無であった。
目を戻し、携帯の光で壁と同一化しかけている扉を照らす。最も手近にあった戸口の扉へと近寄り、震える汗にまみれた手で握りを回す。
ガチャ――。
幸か不幸か、施錠はされていなかった。滑るように暗い玄関へと入り込む。
「はぁー、はぁー」
錆びた蝶番が鈍い金属音を響かせ、重々しく閉まる。
狭い伽藍洞の室内では、舞い上がる埃と萎びた黴の匂い、そして好ましくない小さな虫と暗闇だけが存在した。
室内が無人であろうことを確認した少年は、喘ぐような呼吸のまま、その場ににへたり込み、汚れた玄関扉の内側に耳を押し当てる。
……ピチ……ペチャ。
「~っ!」
通路からだろうか。粘っこく、身の毛がよだつ、まるで生きた汚泥が這い歩くかのごとく、微かな、しかし堪え難い不浄な音が鼓膜を震わせる。
――そして徐々に、室内の黴などとは比べ物にならない、強い刺激臭が鼻腔を犯し始める。少年はあらゆる意味で息を殺し、震えながら両手を交差させ、泣く寸前の表情で瞼を強く閉じる。
「……」
不意に音が止む。扉の前にいるのだろうか? 油断は出来ない。なぜならキツい臭いが辺りに――、
「えっ?」
少年はふと疑問に思った。そもそも扉越しになぜ、異臭をこれほどまでに感じるのだろう? 朽ちかけているとは言え鉄の扉だ。それを貫通する臭気などあるわけがない。
だと、すれば――?
ベチャ、ベチャ。
「ひっ!」
気づいた。気付いてしまった。
頭上より、不気味で、土色の、見るに堪えない、汚らわしい、不敬なナニかが、生きた糞尿のごとく、室内へ流れ落ちて来た。
「ああああアアアアア!」
耐えに耐えた悲鳴は、ついに堰を切った濁流のように、口から吐き出される。
ガチャ、ガチャガチャ!
半狂乱で扉の握りを回すも、まるで外側から抑えつけられているように頑に開かなかった。
「なんでなんでなんでなンデ?」
その間も、室内では異臭放つ汚泥が次第次第と姿を形成していく。
「やめてぇ、ぃやめてえええ!」
音を立てて落ちた携帯の灯りが、少年の開きかけた瞳孔の先を照らす。
――ニチャァ。
彼が最後に見たのは、不定形の、醜悪で、奇怪に蠢く、科学の外側に潜む存在であった。
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