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終話 精算
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今年のクリスマスは人生で最も辛いクリスマスとなった。高校の時、初めて出来た彼女に別れ話を切り出された時なんて、比べ物にならないほどであった。
帰国してクタクタの妻がようやく住まいへ辿り着いたのが十二月二十五日であった。外から玄関へ、玄関から居間へ妻が移動するつど、その身体を覆う葬式のような重い空気の正体を、やがて悟っていった。
当然ながら目を合わせることすら苦しかったが、その全てを僕と久美から伝えた。久美が昔から抱いていた僕への気持ち、増長してその箍が外れたこの数ヶ月、そしてそれを僕が受け入れてしまった事実を――、
「……」
妻は黙って聞いていた。そうなることを予想していたと思わせるほどの落ち着きに見えた。いや、僕がそうであって欲しいと願望し、色眼鏡で見ていただけかもしれなかった。
一時間後ほどで話を区切り終えた。久美は下を向いたまま、僕は妻と正視したまま。
……妻は机の上の、冷めたコーヒーに触れる事さえせず、ふーっ、と一度だけ息をついて天井を見る。
「そう」
脱力したような、諦めたような一言であった。
「すまない」
何に対する謝罪だったのだろう? 誰を想ってのなぐさめろだったのだろう?
そんな言葉を耳に入れた妻は、古いダイニングの机を静かに撫でつつ、
「――あなたの良い所は、すぐに謝ってくれるところ。あなたの悪い所は、すぐに謝ってしまう所よ」
ふふっと、冬の枯れ木のような笑みを浮かべて、口元へ皺を走らせる。
「怒りや悲しみは確かにあるけど、あなた達の全てを否定できないし、今でも家族と想っているわ」
久美が初めて顔を上げる。
「おかあさ――」
「でも、このまま一緒には暮らせないわね」
そう言った後、静かに椅子を引いて立ち上がる。やっとの思いで持って帰ってきた、色褪せたキャリーケースを見眺めつつ、
「二人共、こっちへ来て」
視線で久美を促して、妻の前へと立つ。彼女がひどく小さく見えた。
「けじめ、よ」
パァン。パァン――!
妻の目に小さな涙の欠片が見えかと思ったら、横を向いていた。頬のジンジンとした熱さがある事実を物語っていた。きっと、妻が触れてくれる、最後の場所になったのだろう、と。
結局……僕は、伴侶としても養父としても、恋人としてもまだ中途半端なままここにいた。
「今日は外に泊まるわ。細かい話は、また明日にしましょう」
必要最低限の荷物だけをバッグへ詰め直すと、当たり前のことだが振り向きもせずに、玄関へ向かう。
無策で追う僕は声を絞り出そうと、手を伸ばそうとした時、夜の闇に吸い込まれるように妻は姿を消した。
その幻を、ボーっとマネキンのように眺め佇む僕へ、
「パパ……」
かすれた声が聞こえた。
久美も久美でまた、その代償を支払っているのだろう。
久美に取って妻は、一種の恋仇のような存在だったのかもしれない。しかし、震えるその声が、養母として愛情を注いでくれていた事実と愛おしさに、今となって気付いたことを告げていた。
その想いの温かさと、懐かしさと、得難さに。
「……」
――それでもなお、玄関でただ立ち尽くす僕の右手が僅かに温かくなる。……というより手が異常に冷えていたようだ。
石棺の中のように冷たい玄関にて、行き交う血が減ったよう右手が冷たかった。それを柔らかい、――だがほんの僅かに温かい程度の左手がつかみ触れる。
「パパ」
わかってる。後悔するくらいなら最初からヤルなって話だ。
ここでいつまでも戸惑っていたら、もう一つの大切なものまで、失ってしまうぞ。僕は一度だけ、不細工に鼻を鳴らして、
「――お腹減った?」
「ううん。あんまり……」
食欲不振に苛まれる僕達は、二人してしょぼくれる。養母を裏切った代償としては軽すぎる、な。
――いや、むしろこれから訪れるのかもしれない。
「ケーキなら、食べられるか?」
場違いな発言を、胃に鉛玉でも入っているような精神状態でありつつ、吐き出すように呟く。
「えっ、買ってあるの?」
その問いには答えず、コートを持ってくるように伝える。
「コンビニかどこかで、投げ売りされているクリスマスケーキを探しに行こう――」
僕達に、いや、今の僕に相応しい行動と思えた。寒い中、期限切れ間近の幸福を探しに行くなんて。
「おまたせ。パパ」
ガウンを羽織った久美と小さく腕を絡め、妻の後を追うように夜の闇へ吸い込まれる。
ガチャ。
僕らが外へ出るや否や、月が雲で顔を隠す。汚い僕から目を背けるため? なんて妄想すら抱いてしまった。
一等星と金星が、電線の隙間から明かりを注ぐ中、静かに歩み出す。
「寒いね」
久美が白い息をくゆらせる。
「あぁ、寒いな」
僕も電灯の下、吐き出す。
「ねぇ、パパ」
冷たい風が耳に小さく噛みつく。
「幸せってなんだろう?」
視線を、まるで楔のようにアスファルトへ刺し込んだ僕は、
「……きっと失って初めて気づく、不幸みたいなものだよ」
そう言った僕は、静かに久美と目を合わせるのだった。
帰国してクタクタの妻がようやく住まいへ辿り着いたのが十二月二十五日であった。外から玄関へ、玄関から居間へ妻が移動するつど、その身体を覆う葬式のような重い空気の正体を、やがて悟っていった。
当然ながら目を合わせることすら苦しかったが、その全てを僕と久美から伝えた。久美が昔から抱いていた僕への気持ち、増長してその箍が外れたこの数ヶ月、そしてそれを僕が受け入れてしまった事実を――、
「……」
妻は黙って聞いていた。そうなることを予想していたと思わせるほどの落ち着きに見えた。いや、僕がそうであって欲しいと願望し、色眼鏡で見ていただけかもしれなかった。
一時間後ほどで話を区切り終えた。久美は下を向いたまま、僕は妻と正視したまま。
……妻は机の上の、冷めたコーヒーに触れる事さえせず、ふーっ、と一度だけ息をついて天井を見る。
「そう」
脱力したような、諦めたような一言であった。
「すまない」
何に対する謝罪だったのだろう? 誰を想ってのなぐさめろだったのだろう?
そんな言葉を耳に入れた妻は、古いダイニングの机を静かに撫でつつ、
「――あなたの良い所は、すぐに謝ってくれるところ。あなたの悪い所は、すぐに謝ってしまう所よ」
ふふっと、冬の枯れ木のような笑みを浮かべて、口元へ皺を走らせる。
「怒りや悲しみは確かにあるけど、あなた達の全てを否定できないし、今でも家族と想っているわ」
久美が初めて顔を上げる。
「おかあさ――」
「でも、このまま一緒には暮らせないわね」
そう言った後、静かに椅子を引いて立ち上がる。やっとの思いで持って帰ってきた、色褪せたキャリーケースを見眺めつつ、
「二人共、こっちへ来て」
視線で久美を促して、妻の前へと立つ。彼女がひどく小さく見えた。
「けじめ、よ」
パァン。パァン――!
妻の目に小さな涙の欠片が見えかと思ったら、横を向いていた。頬のジンジンとした熱さがある事実を物語っていた。きっと、妻が触れてくれる、最後の場所になったのだろう、と。
結局……僕は、伴侶としても養父としても、恋人としてもまだ中途半端なままここにいた。
「今日は外に泊まるわ。細かい話は、また明日にしましょう」
必要最低限の荷物だけをバッグへ詰め直すと、当たり前のことだが振り向きもせずに、玄関へ向かう。
無策で追う僕は声を絞り出そうと、手を伸ばそうとした時、夜の闇に吸い込まれるように妻は姿を消した。
その幻を、ボーっとマネキンのように眺め佇む僕へ、
「パパ……」
かすれた声が聞こえた。
久美も久美でまた、その代償を支払っているのだろう。
久美に取って妻は、一種の恋仇のような存在だったのかもしれない。しかし、震えるその声が、養母として愛情を注いでくれていた事実と愛おしさに、今となって気付いたことを告げていた。
その想いの温かさと、懐かしさと、得難さに。
「……」
――それでもなお、玄関でただ立ち尽くす僕の右手が僅かに温かくなる。……というより手が異常に冷えていたようだ。
石棺の中のように冷たい玄関にて、行き交う血が減ったよう右手が冷たかった。それを柔らかい、――だがほんの僅かに温かい程度の左手がつかみ触れる。
「パパ」
わかってる。後悔するくらいなら最初からヤルなって話だ。
ここでいつまでも戸惑っていたら、もう一つの大切なものまで、失ってしまうぞ。僕は一度だけ、不細工に鼻を鳴らして、
「――お腹減った?」
「ううん。あんまり……」
食欲不振に苛まれる僕達は、二人してしょぼくれる。養母を裏切った代償としては軽すぎる、な。
――いや、むしろこれから訪れるのかもしれない。
「ケーキなら、食べられるか?」
場違いな発言を、胃に鉛玉でも入っているような精神状態でありつつ、吐き出すように呟く。
「えっ、買ってあるの?」
その問いには答えず、コートを持ってくるように伝える。
「コンビニかどこかで、投げ売りされているクリスマスケーキを探しに行こう――」
僕達に、いや、今の僕に相応しい行動と思えた。寒い中、期限切れ間近の幸福を探しに行くなんて。
「おまたせ。パパ」
ガウンを羽織った久美と小さく腕を絡め、妻の後を追うように夜の闇へ吸い込まれる。
ガチャ。
僕らが外へ出るや否や、月が雲で顔を隠す。汚い僕から目を背けるため? なんて妄想すら抱いてしまった。
一等星と金星が、電線の隙間から明かりを注ぐ中、静かに歩み出す。
「寒いね」
久美が白い息をくゆらせる。
「あぁ、寒いな」
僕も電灯の下、吐き出す。
「ねぇ、パパ」
冷たい風が耳に小さく噛みつく。
「幸せってなんだろう?」
視線を、まるで楔のようにアスファルトへ刺し込んだ僕は、
「……きっと失って初めて気づく、不幸みたいなものだよ」
そう言った僕は、静かに久美と目を合わせるのだった。
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