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一章(心は)まだまだ男

序章 汚誘い

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「おいっ。どこ、触って、んだよ!」

 くそ、マズった。
 いくら花金で、色々あったとは言え、飲み過ぎてしまった。いつも以上に頭が回らず、力も余計に入らない。
 おれの傍にいる、酒と煙草を混ぜた臭い息をしきりに吐き出す野郎おとこは、加虐的サディスティックに笑いつつ、にじり寄ってくる。
 栗色の総髪ポニーテールを何度も振り動かして拒絶の意思を示し、大きなでもってにらみ返す、が。

「今更なに言ってんだよ。――ってか、そのツモリだったんだろ? 女社長に怒られちゃった、主任の新妻明にいづまあきらちゃん?」

 小さな夜桜が一本だけ、古びたネオン街の路地裏にボンヤリと浮かんでいた。おれの周囲は薄暗く、汚く不潔で、あちこちからゴミだの吐瀉物ゲロだのの臭気が、耐えがたいくらいに立ちこめていた。
 そんな中、目の前の――クズ同僚――川口は、そんなこと歯牙にもかけなず、チャラそうな見た目にそぐう蛮行におよんでいた。
 おれのグレーのスーツパンツの上から何度も尻を撫でくり回し、あげく指の一本一本を深々と尻の肉に沈めやてきやがる。
 走って逃げようにも、酔っていて思考も動作も鈍くなってしまっていて、さらに細い手首は捕まれて壁に押し当てられていた。のも、敗因の一つだった。

「(社長に怒られた理由は、こっちだってわかんねーんだよ)いいから早く離せ――痛っ」

 グニュッ、っと尻を握りしめられ、言葉が途切れる。痛みと共に、ゾワゾワっという気色悪い感覚が、尻から全身へ走り抜ける。
 ただでさえ頭がどうにかなりそうなこの状況下なのに、今ので今朝の痴漢の一件がフラッシュバックし、余計に硬直してしまう。

「俺と二十九歳どうきには見えねぇ身体付きしてるよなぁ。尻も、胸も、割とハッてんじゃん。――その男みたいな口調さえ何とかしたらモテるぜきっと。オッサン共に(笑)」

 モニュ。
 ! し、尻から手が離したかと思うと、スーツの上から無遠慮に乳を揉んできやがった。窮屈そうに服に仕舞われていた乳房は、グニュッ、と柔らかそうに潰れていた。
 ――当然ながら痛いだけで、AVみたく気持ちよくは全くなかった。

「さて、いい加減にホテル行こうぜ? 俺もう限界なのよ」

 その一言は、喧騒けんそうを遠退け、背筋に氷柱つららを当てられたのかと思うほどの恐怖と悪寒を、神経に刺し込んできた。おれは精一杯の虚勢でもって言い返す。

「か、会社に言いつけるぞ川口。コ、コンプラ違反だ!」

 女のおれじゃあ絶対に力で勝てない。助けを求めようにも、周りの酔っ払いや行き交う人間は、かと、下品に眺めるだけで、真剣に取り合ってはくれなさそうだった。

「……別に言ってもいいぜ。いいけどよぉ」

 そう笑うと、ようやく胸から手を離し、代わりに携帯を取り出す。おれが慌てて服装を直し終えた瞬間、映し出された動画に、釘付けとなった。

「なっ! お、お前。どこでそれをっ」

 小さな画面には、多目的トイレにて、酔ったままだらしなく便器に座り、スカートをたくし上げて水色の下着パンツを下ろし、放尿しっこしているおれの姿があった。

「! さ、さっきの居酒屋かっ」

 ――そう、さっきまで会社の飲み会の三次会を行っていた。今日は、その、とにかく色々とあって、思わず酩酊めいてい状態にまで陥りかけたおれが、トイレに席を立った時のことだ。
 おそらく、他の連中や客の目をあざむき、多目的トイレに入ったおれけて、盗撮しやがったんだ。
 ヤツのしてやったりな表情から、ずっと隙をつけ狙っていたことは簡単に予想できた。くそぉ。

「仕事はそこそこで、姉御肌なスレンダー巨乳の、営業部唯一の女社員の、貴重な小便シーンで~す」

 笑い声でそう言う放つと画面に、キ、キスをしやがった。頭がんでるんじゃねぇのか?

「おい、知ってるか新妻。営業部は野郎ばっかりだろ? お前の揺れる胸とか、スーツの上に浮くパンツライン、今日もガン見されてるんだぜ」

 侮辱しもって、さらにあざけりつつ、こき下ろしてくる。しかも余計な追加情報で頭がさらに混乱し、嫌な汗をかきつつ、酔った頭で打開策を考える。
 ――けど、ただでさえ短気な性分に加えて、酔いと焦りのため、誤った要求を投げてしまう。

「と、とにかくその動画。け、消せよっ」

 交渉かいわをすっ飛ばして、腹黒くて計算高い川口の機嫌を、損ねてしまった――。

「ああっ?」

 予想通りというか、唾を飛ばしつつ上から圧を掛けられて、思わず。

「いっ」

 殴られるのかと縮こまり、目を瞑ってから、上目遣いで川口を見上げてしまう。
 ――そんな怯えすら、余計にコイツの性悪な加虐心を刺激してしまったのは、言うまでもなかった。

「ぶふっ、可愛えぇ~。もうすぐ三十歳おばさんだけど、お前なら何とか許されるわぁ」

 汚ぇ夜に、上から好き勝手いいやがって。
 ……けど確かに、女になってしまって以降、本当に男との力の差に恐怖し、たじろいだ。
 もちろん、身体の変化や、体力や筋力の低下にも戸惑うばかりで――。

「動画、消してほしんだろ?」

 こっちの長考を断ち切るみたくそう言うと、顎で少し離れた位置のラブホテルを指す。瞬間、背筋がゾワッとする。

「て、てかお前。彼女さんいるだろうがっ」

 いや、いなくても嫌だが、義理もナニもあったもんじゃない川口コイツへ、ついこぼしてしまう。

「女の癖に義理堅いねぇ。新妻ちゅぁん」

 義理堅さに男も女もあるかっ。

「抱き心地よかったら、お前に鞍替えしてやってもいいぜ?」

 最低。本当に最低だコイツ。男だった頃、彼女さんには一度だけ会ったことがあるけど、感じの悪くないだったのに。

「――で、どうすんだよ? こっちはこの動画を職場の連中に売りつけて、小遣い稼ぎしてもいいんだぜ?」

 くっそ。例えホテルに行ってその要求とやらを飲んでも、そもそも消す気なんてさらさらないだろう。いくら酔ってて動揺しているおれでも、それくらいはわかった。
 ……だが、断って逆上されて、この場で拡散されでもしたら、それこそコトだし、川口コイツはやりかねない。

「――本番セックスなんて、ぜってぇヤラねぇからな」

 奥歯を噛みしめながら、吐き捨てるようににらみ放つ。

「まぁまぁ、とりあえず行こうぜ、新妻ちゃん。明日は土曜日だし、ナニかあっても大丈夫だぜ♪」

 肩に手を回して抱き寄せてくる。巨大な百足むかでが肩口から首筋を這うような気色悪さに、目眩がしそうだった。
 時折、行き交う一般カップルの大半と、同列と見なされているのかと思うと、本当に胸がムカムカした。

 ――そもそも、が、こんな目に遭うようになったのは、今朝を境目に……。
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