スニーカー

ニッチ

文字の大きさ
上 下
1 / 1

スニーカー

しおりを挟む
 ――ハァ、ハァ

 鉛みたいな両足を引きずるようにして動かし、幾万人に蹴られたであろう地面を、なぞる様にえぐる。
 今は割と舗装された道を走っているが、数時間前までは足を取られる砂地を踏み抜いていた気がする。

 ――ハッ、ハッ

 すり減った靴底は丸く、太腿は疲労で軽く痙攣していた。前後する腕すら、何十万回と繰り返した振り子運動に、ウンザリしている様子であった。

 ――フッ、ホッ

 ……いつからだろう? 心臓を試すようなこんな行為を、寝る間も惜しんで続けるようになったのは。そう思索にふけりたいが、身体中をめぐる貴重な酸素を、に割くなど、ありえなかった。

 ――ハッ、……あ、水

 誰もいない給水場に、紙コップが五つ置いてあった。その内の三つだけ水が入っていた。後から抜いてくる奴らを困らせるために、二つは捨てようかなんて思ってしまった。
 常套手段じょうとうしゅだんだ。みんなやっている。……ただ、けど、なんとなく止めた。

 ――(ゴクッ)……フゥ、ハァ

 いつの間にか、道の左側を民家がひしめき、右側は四階建て以上のビルが整然と並んでいた。どの窓も扉も閉め切ってあり、人の気配は、無かった。

 ――ハッ、ハッ

 ……物心ついたころは、歩いていた時期もあった気がする。少なくとも、こんなに必死じゃあなかった。それに、走り方を教えてくれた人もいたと思う。顔も背格好も人数も、今となってはもう思い出せないが。

 ――フッ、フゥ

 いつか走る日が来るとは知っていた。けど、走り始めた日のことは思い出せない。それにスタートした時は、もっと大勢いた気がする。いずれにせよ、独りということはなかったはずだ。
 空の色は、どうだったかな? こんな、心地よい紺碧こんぺき色だったろうか。

 ――うわっ!

 青い天井によそ見してしまい、道の破れに気づかず、足をとられる。今更やってしまうミスじゃない、くそっ。

 タッタッタ。

 ! 誰かに抜かれた。やはりさっきの給水場で水を、……いや、そんなことはいいから走らないと。足を動かさないと!

 ――ハァ、うっ!

 痛い。さっき、少しぐねったのか? ……いや、いつも通り。いつだって、そうやって治してきた。

 ポツ、ポツ。

 いつの間にか雨が振ってきた。体温が下がるのもだけど、地面が濡れるのが一番参る。走りにくいったらありゃしない。ちょっとはこっちのことも、考えてほしい。

 ――ホッ、ハゥ

 雨によって薄まった汗を、汚れたゼッケンで拭う。ゼッケンはいつもボロボロで臭い。初めて手渡された日はとても嬉しかった様な気もするけど、やはりもう、その日のことは思い出せない。
 やがて久しぶりの、本当に久々の下り坂にさしかかる。だが濡れており、滑らないように速度を落とす。慎重にいこう。

 ――う、ぅぅ

 えっ? 道の外れで、倒れ伏した誰かがいる。下りでこけるなんて、よっぽど油断したのか? 横目で見るに、起き上がろうとしているが、動けないままだ。
 手を貸す? そんなの、なんてこの世で最も愚かな方法の一つだ。……抜かなければ、一人でも多く。そのためだけに、この細い足を、必死に動かしてきたんだ。痛みに、孤独に、むなしさに耐え、正しいかどうかもわからずに、もうずっと何年も……。

 ――ご、めん

 ! 自分が言ったのか? はたまた倒れていた人が言ったのか? 追い抜いた今となっては確かめようもない。けど誰のために、何のために謝ったんだろう?
 気付かぬ間に雨はあがっていたが、茨のような植物が目の前の道を覆っていた。右側に迂回路があったような気がするが、すでに見えなくなっていた。

 ――くそっ

 慎重に進みたいが、遅れるわけだけにはいかない。
 痛っ! 焦りによって皮膚が小さく裂かれ、赤い血が垂れる。包帯を手に入れることができなくはないだろうが、時間がかかる。かかりすぎる。

 ドン!

 は? 押された、間違いなく横から。くっ、なんでだ? どこを歩いたって茨だらけの道なのに、決して平坦な道を独占していたわけじゃないのに!

 ポト、ポト

 倒れた時についた手も足も顔も、血だらけだった。いや、それよりも。悔しく、惨めで、そして痛くて辛い。なんでだ?
 こんなに頑張っているのに! どうして誰も、声すらかけてくれないんだ?
 ……追い抜く連中はみんな上手に走って行く。どうやったらそんな風に走り続けられる? 飛び越えられる? うくっ、走らなくっちゃ、ダメ、なの、に、もう足が。
 ……――走れないヤツはダメなんだ。理由なんて関係ない。ただただダメなんだ。意味も、価値も関係ない、存在そのものが、落伍者なのだ。
 諦めかけたその時、血だらけの手が地面に付く。茨の下にあった土。あぁ、土ってこんな感触だったんだ。柔らかく、ほんのり温かい。もうずっと忘れていたような気がする。

 ――

 なんだ? 今一瞬、言葉じゃない声が聞こえたような。どこを見ても誰一人見当たらないが、ひどく幼い声だった気がした。
 誰? わからない。だけど久しぶりに、本当に久しぶりに――がんばってるよ――って言われた気がした。

 ――ッ

 妄想さ、もちろんそうだ。
 でも、走り出して何度か、今みたいな声を掛けられたことがあった気がする。道の両脇からか、建物の上からか、あるいは自分の中からか。……そうだ。そのつど、この笑う膝が、再び動くんだ。諦めるのは、いつでもできると。
 眼前の道はぬかるんでいた。技量に関係なく、足を取られる道程になるだろう。

 ――フゥ、ハッ

 気合い一閃、大股で歩いては、

 ベチャ

 無様にこける。泥だらけの顔は無様と罵るには、ちょっとね。
 ……いいんだ。速くても遅くても、わたしなりに走り抜いてみせる。だって、それがおれに許された唯一の足掻きなんだからっ。

 ――ハッ、ハッ、ハァ

 薄汚れた犬みたいで無様? 言ってろ!

 ――ズジャァ、グジュゥ

 底が抜けてなお、この足を覆い、

 ――ジュボ、シュプ、シュ。……ペッ。ハァ、ァァア!

 まだまだ、走り続けてみせるっ。見ててね!  
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

それからの日々

佐倉 蘭
現代文学
あの地震のあと、夫と二人の娘を捨て、愛する男と一緒にこの街を出たみどり。 あれから二〇数年が経ち、またこの街に戻ってきた… ※ 「偽装結婚はおさない恋の復活⁉︎」および「きみは運命の人」のネタバレを含みます。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

春を売る少年

凪司工房
現代文学
少年は男娼をして生計を立てていた。ある時、彼を買った紳士は少年に服と住処を与え、自分の屋敷に住まわせる。 何故そんなことをしたのか? 一体彼が買った「少年の春」とは何なのか? 疑問を抱いたまま日々を過ごし、やがて彼はある回答に至るのだが。 これは少年たちの春を巡る大人のファンタジー作品。

処理中です...