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 ――ハァ、ハァ

 鉛みたいな両足を引きずるようにして動かし、幾万人に蹴られたであろう地面を、なぞる様にえぐる。
 今は割と舗装された道を走っているが、数時間前までは足を取られる砂地を踏み抜いていた気がする。

 ――ハッ、ハッ

 すり減った靴底は丸く、太腿は疲労で軽く痙攣していた。前後する腕すら、何十万回と繰り返した振り子運動に、ウンザリしている様子であった。

 ――フッ、ホッ

 ……いつからだろう? 心臓を試すようなこんな行為を、寝る間も惜しんで続けるようになったのは。そう思索にふけりたいが、身体中をめぐる貴重な酸素を、に割くなど、ありえなかった。

 ――ハッ、……あ、水

 誰もいない給水場に、紙コップが五つ置いてあった。その内の三つだけ水が入っていた。後から抜いてくる奴らを困らせるために、二つは捨てようかなんて思ってしまった。
 常套手段じょうとうしゅだんだ。みんなやっている。……ただ、けど、なんとなく止めた。

 ――(ゴクッ)……フゥ、ハァ

 いつの間にか、道の左側を民家がひしめき、右側は四階建て以上のビルが整然と並んでいた。どの窓も扉も閉め切ってあり、人の気配は、無かった。

 ――ハッ、ハッ

 ……物心ついたころは、歩いていた時期もあった気がする。少なくとも、こんなに必死じゃあなかった。それに、走り方を教えてくれた人もいたと思う。顔も背格好も人数も、今となってはもう思い出せないが。

 ――フッ、フゥ

 いつか走る日が来るとは知っていた。けど、走り始めた日のことは思い出せない。それにスタートした時は、もっと大勢いた気がする。いずれにせよ、独りということはなかったはずだ。
 空の色は、どうだったかな? こんな、心地よい紺碧こんぺき色だったろうか。

 ――うわっ!

 青い天井によそ見してしまい、道の破れに気づかず、足をとられる。今更やってしまうミスじゃない、くそっ。

 タッタッタ。

 ! 誰かに抜かれた。やはりさっきの給水場で水を、……いや、そんなことはいいから走らないと。足を動かさないと!

 ――ハァ、うっ!

 痛い。さっき、少しぐねったのか? ……いや、いつも通り。いつだって、そうやって治してきた。

 ポツ、ポツ。

 いつの間にか雨が振ってきた。体温が下がるのもだけど、地面が濡れるのが一番参る。走りにくいったらありゃしない。ちょっとはこっちのことも、考えてほしい。

 ――ホッ、ハゥ

 雨によって薄まった汗を、汚れたゼッケンで拭う。ゼッケンはいつもボロボロで臭い。初めて手渡された日はとても嬉しかった様な気もするけど、やはりもう、その日のことは思い出せない。
 やがて久しぶりの、本当に久々の下り坂にさしかかる。だが濡れており、滑らないように速度を落とす。慎重にいこう。

 ――う、ぅぅ

 えっ? 道の外れで、倒れ伏した誰かがいる。下りでこけるなんて、よっぽど油断したのか? 横目で見るに、起き上がろうとしているが、動けないままだ。
 手を貸す? そんなの、なんてこの世で最も愚かな方法の一つだ。……抜かなければ、一人でも多く。そのためだけに、この細い足を、必死に動かしてきたんだ。痛みに、孤独に、むなしさに耐え、正しいかどうかもわからずに、もうずっと何年も……。

 ――ご、めん

 ! 自分が言ったのか? はたまた倒れていた人が言ったのか? 追い抜いた今となっては確かめようもない。けど誰のために、何のために謝ったんだろう?
 気付かぬ間に雨はあがっていたが、茨のような植物が目の前の道を覆っていた。右側に迂回路があったような気がするが、すでに見えなくなっていた。

 ――くそっ

 慎重に進みたいが、遅れるわけだけにはいかない。
 痛っ! 焦りによって皮膚が小さく裂かれ、赤い血が垂れる。包帯を手に入れることができなくはないだろうが、時間がかかる。かかりすぎる。

 ドン!

 は? 押された、間違いなく横から。くっ、なんでだ? どこを歩いたって茨だらけの道なのに、決して平坦な道を独占していたわけじゃないのに!

 ポト、ポト

 倒れた時についた手も足も顔も、血だらけだった。いや、それよりも。悔しく、惨めで、そして痛くて辛い。なんでだ?
 こんなに頑張っているのに! どうして誰も、声すらかけてくれないんだ?
 ……追い抜く連中はみんな上手に走って行く。どうやったらそんな風に走り続けられる? 飛び越えられる? うくっ、走らなくっちゃ、ダメ、なの、に、もう足が。
 ……――走れないヤツはダメなんだ。理由なんて関係ない。ただただダメなんだ。意味も、価値も関係ない、存在そのものが、落伍者なのだ。
 諦めかけたその時、血だらけの手が地面に付く。茨の下にあった土。あぁ、土ってこんな感触だったんだ。柔らかく、ほんのり温かい。もうずっと忘れていたような気がする。

 ――

 なんだ? 今一瞬、言葉じゃない声が聞こえたような。どこを見ても誰一人見当たらないが、ひどく幼い声だった気がした。
 誰? わからない。だけど久しぶりに、本当に久しぶりに――がんばってるよ――って言われた気がした。

 ――ッ

 妄想さ、もちろんそうだ。
 でも、走り出して何度か、今みたいな声を掛けられたことがあった気がする。道の両脇からか、建物の上からか、あるいは自分の中からか。……そうだ。そのつど、この笑う膝が、再び動くんだ。諦めるのは、いつでもできると。
 眼前の道はぬかるんでいた。技量に関係なく、足を取られる道程になるだろう。

 ――フゥ、ハッ

 気合い一閃、大股で歩いては、

 ベチャ

 無様にこける。泥だらけの顔は無様と罵るには、ちょっとね。
 ……いいんだ。速くても遅くても、わたしなりに走り抜いてみせる。だって、それがおれに許された唯一の足掻きなんだからっ。

 ――ハッ、ハッ、ハァ

 薄汚れた犬みたいで無様? 言ってろ!

 ――ズジャァ、グジュゥ

 底が抜けてなお、この足を覆い、

 ――ジュボ、シュプ、シュ。……ペッ。ハァ、ァァア!

 まだまだ、走り続けてみせるっ。見ててね!  
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