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鬼道ものはひとり、杯を傾ける
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元日からしばらくした、ある日の事。
樹鶴は不意にこんなことを言った。
「そういや鏡椛、お前さん元服のあとはどうするんだい?」
年を越したということは、目の前の子供もまた一つ歳を重ね、元服の儀を行う頃合いに差し掛かっているはずだ。
そして、鏡椛は「元服までは」と生家に留め置かれている鬼道である。
家に守り神の如く留まるも、多くの鬼道がそうするように各地を回るも本人の自由だが、どちらにしろこれまでとは生き方を変える必要がある。
もはや雛でも子供でもなく、大人の仲間入りをするということなのだから。
そうして問われた鏡椛は、手にしていた湯呑をかちゃんと置いてにっこりと笑った。
「旅に出ようかと」
予想外の言葉だ。
樹鶴はぱちりと目を瞬く。
「……旅? 我はてっきり、百がいる間は留まると思っていたんだが、違うんだね」
「それも考えましたが……。百は跡取りであり、元より体もさして強くはない子故。まず遠出はできなくなりましょう?」
「マア……よっぽど悪くすれば湯治へ行くこともあるだろうが、おいそれとはね」
武家の長男だ。
自由気ままな鬼道どころか町人たちなどとも比べるまでもなく、主君に仕える身である彼らはそう長々と旅に出ることは許されない。
頷いた樹鶴に、鏡椛は笑みを深めた。
「ならば、わたくしが諸国漫遊し、その景色を届けることこそがあの子のためになると思いまして」
なるほど。三つ子の手助けを借りて完成させた術の使いどころというわけだ。
鏡椛の術の範囲は本来さほど広くはないが、片割れ相手であれば日ノ本の端と端にいても感じたものを共有することもできるだろう。
遠い雪国の中や澄んだ海に足を運んでは、遠く離れた屋敷の中にいる片割れに思念を届けて楽しげに語らう鏡椛の姿を想像し、樹鶴は面白いと言わんばかりに笑った。
「いいんじゃないか? これからこの日ノ本も緩やかとはいえ変わっていくだろうし、見ごたえはあると思うよ」
戦も遠い、とまだ見ぬ先のことを見てきたように語るその姿に、今度は鏡椛が目を瞬かせる番だった。
「勘に御座いますか?」
「勘と――あとはまあ、そういう風が流れているってだけさ」
「風?」
感覚だけどね、と言いながら、樹鶴は記憶を手繰るように目線を上向かせ、ふうっと花蜜の靄をくゆらせた。
瑞々しい花の香りが満ち、見世の中にだけ一足先に春が咲く。
「世が変わるときは空気のにおいがまず変わるんだよ。京の方からあれそれ移ってきたころにも似たようなにおいがした。あの頃はマア、血なまぐさかったが……その気配も今回は薄いしね。あちこちで川や道も整えているようだから、多分今度の殿様の家はそこそこもつんじゃねえかな」
香りに記憶を混ぜたのだろう。樹鶴が言葉を発するたびに、その目で見てきたのだろう景色が浮かんでは消えていく。
その景色の中には鏡椛が歴史書でしか聞いたことがない出来事の光景どころか、見たこともないような着物の様式や家屋、今は絶えたらしい動植物の姿まで混ざっている。この古き鬼道が歩んできた道筋の途方もなさを突きつけられるようだ。
生き字引の一端を垣間見せながら、気負う様子もないその姿に、鏡椛の口元に苦笑が浮かぶ。
「まだまだ、自分が若輩者であると思い知らされますな」
「ははは、じきにわかるようになるさ。只人の世はくるくる流転するもんだからね」
用は済んだとばかりに片手で香りをかき消す樹鶴の揺るがなさは、真似できるようなものではない。
一人前と呼ばれるような技量を身に着けた今だからこそ、その特異さがよくわかる。亀櫻がこの人の人間性を見つけて喜んだ理由は、きっとこの断絶にあるのだ。
それでも、鏡椛は背筋を伸ばし、目を背けずにその大樹を見据えた。
追いつける気はしないけれど、それを気にしていてはこの境地に至る以前の問題だろう。
「移り変わりを見守れるくらいに長くとどまれるよう、精進いたしまする」
「そうしておくれ。話し相手が減るのは寂しいもんんだ。その寂しさも愉しいけど、辛くねえわけでもない」
「はい、先生」
あの日――涙を流した日から、稀にではあるが、この人は置いて逝かれるものとしての胸中を明かしてくれるようになった。それだけで弟子冥利に尽きるというものだ。
まだ、弟子と呼んでもらったことはないけれど。
かつてこの見世の暖簾を潜ったころよりもこわばりの無い、自然とまっすぐ伸びる若木のようなその姿を見ながら、樹鶴は微笑んだ。
最初はどうなる事かと思ったが、いい鬼道に育ったものだ。
こん、と煙管を置く。
「で、いつ発つんだい?」
只人の間で元服の儀が行われるのは、睦月の中ごろである場合が多い。
きっと片割れの晴れ姿を見てからだろうとあたりをつけて尋ねれば、瞳の中の燐光がはぜるように揺れた。
「元服の儀が終わってすぐに」
「……もう月のひとつもないじゃないか」
呆れた顔をした樹鶴に、とびきりの悪戯が成功したと言いたげな満面の笑みが咲く。
「ええ。伝え忘れておりました」
嘘だな、とため息をついてから、気を取り直すように強く育った教え子に笑い返した。
「マ、いいけどね。達者でやりな」
「はい。発つときにはご挨拶に参りまする」
「楽しみにしてるよ」
さて、この子はどう生きると決めたのだろう。
金無垢の目は、焼き付けるようにその若衆姿をしげしげと見つめていた。
数日後。
元服の儀が終わっただろうその日の夕方。
暖簾のかかっていない樹鶴の見世を訪れるものがあった。
「もし」
「ん? すまないね今日は休みで……」
ころんと戸口から転がった声に、囲炉裏をつついていた樹鶴がゆるりと顔を上げる。
「……おやまあ」
金の目が、意外そうに瞬いた。
そこには、僧形の上から季節外れの紅葉の衣を被いた、奇妙な姿をした少女が立っていた。
少し照れたように身をすくめて、少女は衣をしゅるりと肩へ落とす。
燐光を宿した涼やかな目が、柔らかな微笑みを浮かべた。
「如何に御座いましょう。先生」
その男とも女ともつかない姿は、組み合わせこそ違えど、麗人のそれとよく似ている。
「……それ、我の真似かい? 鏡椛」
「少しだけ」
若衆姿からすっかり姿を変えた教え子に苦笑すれば、小さな笑いが返された。
それにしても、と樹鶴は息をつく。
「よかったのかい? 生まれた時の性に戻る絶好の機会だったろう?」
鏡椛の性が女に属することには、気づいていた。
いかに男の姿をしていようと骨格自体が女のそれであったし、魂も食い違うことなくそちらの性質を示していたのだ。鬼道ならば誰であってもそれと悟るのは容易い。
家の事情を知ってからは、片割れと取り替えられて育てられたのだろうと予想もついた。
その姿自体に魂が軋む様子はなかったが、三つ子にかんざしや紅をつけられて遊んでいるときにはいつもより目を輝かせていたので、女姿に抵抗があるというわけでもないだろう。てっきり百が男姿に戻ると同時に鏡椛の方も女姿に戻るとばかり思っていたが、予想が外れたらしい。
「ええ。それも考えはしましたが、女の一人旅というのも不用心だと百が。それに今さらどちらに寄った姿をしても落ち着かぬ心地になりそうで……」
「慣れちまうとそんなもんだよなあ」
年中性が定まらず両性の装束を纏っている麗人に頷かれ、ふふんと鏡椛は胸を張った。
「ええ。然らば、男女折衷がよいかなと」
「マ、お前さんがそれでいいなら構いやしないさ。どっちの方へ行くんだい。元服祝いに占ってやってもいいが」
滅多に使わない卜占の道具を引き寄せようとした樹鶴を制するように、かぶりが揺れる。
「いいえ。風に聞きます。卜占はまた、次の機会にお願いを」
「そうかい」
「……先生。一つだけ、我儘を申し上げても?」
「今さらだ。なんだい」
涼やかな目元の娘が、瞳の燐を燃やして静かに微笑んだ。
「――いつか、わたくしが彼岸へ往くとき。わたくしも亀櫻殿たちのようにあなたの夜で看取られとう御座います」
小さく目を瞠り、麗人は口元に苦笑を刷いた。
「……旅立つ前からそんな気の早いことをいう子があるかい。だいたいあんなの、忘れた方がいい」
「ふふ、最後が決まっているというのは気楽ではないかな、と。もちろん、無理にとは申しません」
約束していなくても最後にはまた願い出る気が満々であると見え透いた顔で、少女が笑う。
なるほど、中々押しが強い。絵島への道中に見た姫君を彷彿とさせる。
「はあ……相分かった。そのときはどこにいようが送ってやるよ。我が弟子」
意趣返しとばかりに口角をにっと上げてやれば、鏡椛の目が瞬いた。
「あれ? 先生、今わたくしのことを弟子とお認めに?」
「ここまで来て意固地になっても仕方ねえだろ。最後の最後まで面倒見る子を弟子以外になんて呼べってんだ。でも、いくらでも忘れていいんだからね。こんな約束に縋って生きるんじゃないよ」
「――ありがとうございます! お師さま!」
忘れろと念押ししたのが聞こえていないかのように、最も新しき鬼道の少女は心底嬉しそうに笑った。
――――
――
緩やかに、金無垢の目が瞬いた。
懐かしい夢を、見ていたようだ。
星と月が鮮やかな夜の中、紅葉がひとひら流れていく。
大気すっと撫でて彷徨い、風に浮きあがり、また沈む。
ゆらりゆらりと気ままに落ちて、土と草履とに挟まれ朽ちていくだけだったはずのそれを、麗人はひょいと白い指で捕まえた。
「ああ、もうそんな時節だったか」
見上げれば、夢の中よりもずいぶん大きくなった楓が頭上ではらはらと赤い葉を散らしている。
あの弟子がいたころには墨染だった着物は書生服へと姿を変え、打掛は紅い振袖になってはいるが、やはりその鬼道は男とも女ともつかない奇妙な恰好をしていた。
男にしてもひどく高い位置にある整い切った顔立ちは、国が海の外に開かれる前でも後でも価値観に揺るがされることなく美しい。
そんな麗人の、これまた滑らかな質感の白い喉が不意にくっと反り、金無垢の目が空へと向く。
水面のように凪ぎ、鏡のように細かな星の煌めきを映り込ませたその瞳に、ゆるりと感情が波立った。
――哀切と呼ばれる感情に近く、嘆きと呼ばれる想いに遠い。
――愛慕と呼ばれる感情と似て、憎悪と呼ばれる想いと違う。
まるで、稚い子供のちいさな悪戯を叱りたくても叱れないとでもいうように、柳眉がゆるりと八の字に歪んだ。
紅葉を眼前に持ち上げながらくるりと回して、薄い唇から息を零す。
「忘れてよいと、しかと教えただろうに」
麗人がそう言って瞼をおろせば、それに応える清流の如き声がした。
「忘れるはずがありませんよ、お師さま」
緩やかに目を開き、旅立った時と同じ男女折衷の装束を纏って微笑む鏡椛の顔が向こうを透かすのをみとめて、樹鶴は小さく眉をひそめた。
「――忘れられないくらい辛い生だったかい」
「いいえ。この三百年あまり、とても楽しゅうございました。だからといって、恩師のことを忘れるはずがないでしょう?」
晴れやかな笑みに、嘘はない。
片割れを失っても、この弟子は楽しく生きてきたのだと、安堵と共に息をつく。
「忘れてくれて構わなかったんだけどね」
「お師さまは、いかがお過ごしでしたか?」
「我は変わんねえよ。強いていやあ、弟子をまた取り始めたくらいだ」
「おや、わたくしが最後ではなくなってしまったのですね。残念」
「なに言ってんだい。お前さんが弟子を取る面白さを思い出させたんだろうよ、鏡椛」
寂しげだが憂いのないその白皙の貌を見上げ、少女姿のまま三百年を生きた鬼道は、泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「――わたくしは、お師さまの人生の、楽しみになれたでしょうか」
樹鶴は、その言葉に苦笑した。
まったく、健気な弟子どもだ。
「どいつもこいつも、人がつまんねえ生き方してるみたいな言い方しやがって……。マア、お前さんがいなけりゃ、もうちっとだけあの人を待つのに苦労してたかもしれねえな」
「左様に御座いますか。ならば、わたくしも満足です」
心底安堵したように、鏡椛は胸をなでおろした。
「で、お前さんも亀櫻みたいになんか仕掛けていくつもりかい」
「いいえ。今のお師様にそれは必要御座いませぬゆえ、致しません。――さあ、どうぞ、杯をお受けくださいな」
黒漆の杯になみなみと酒を注ぎ、自身の力で織った紅葉をひとひら泳がせて差し出せば、大きな手は一滴も零すことなくそれを受け取った。
「ああ、いただくよ」
その唇に杯が触れ、白い喉が露わになるのを見ながら、椛を冠した少女は薄く透けた体で呵々と笑った。
「これにて、御前を失礼いたします。またいつかお会いできましたら、そのときに」
どれだけ生きてもまっすぐであり続けた背筋を丸めるように――その弟子は、一礼した。
「左様なら、先生。お元気で」
紅葉が舞う。
漆のような夜闇に、赤々と。
嵐よりも優しい風が、大きくなった楓の葉を幾重にも舞い上げる。
「誰もかれも本当に、義理堅くて嫌になっちまうねえ」
黒髪の麗人はそう眉を寄せながら笑う。
そして残った酒をぐいと煽れば、紅い楓がそっと唇に触れた。
幾重の縁のその先で――鬼道ものはひとり、今日も杯を傾ける。
樹鶴は不意にこんなことを言った。
「そういや鏡椛、お前さん元服のあとはどうするんだい?」
年を越したということは、目の前の子供もまた一つ歳を重ね、元服の儀を行う頃合いに差し掛かっているはずだ。
そして、鏡椛は「元服までは」と生家に留め置かれている鬼道である。
家に守り神の如く留まるも、多くの鬼道がそうするように各地を回るも本人の自由だが、どちらにしろこれまでとは生き方を変える必要がある。
もはや雛でも子供でもなく、大人の仲間入りをするということなのだから。
そうして問われた鏡椛は、手にしていた湯呑をかちゃんと置いてにっこりと笑った。
「旅に出ようかと」
予想外の言葉だ。
樹鶴はぱちりと目を瞬く。
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「それも考えましたが……。百は跡取りであり、元より体もさして強くはない子故。まず遠出はできなくなりましょう?」
「マア……よっぽど悪くすれば湯治へ行くこともあるだろうが、おいそれとはね」
武家の長男だ。
自由気ままな鬼道どころか町人たちなどとも比べるまでもなく、主君に仕える身である彼らはそう長々と旅に出ることは許されない。
頷いた樹鶴に、鏡椛は笑みを深めた。
「ならば、わたくしが諸国漫遊し、その景色を届けることこそがあの子のためになると思いまして」
なるほど。三つ子の手助けを借りて完成させた術の使いどころというわけだ。
鏡椛の術の範囲は本来さほど広くはないが、片割れ相手であれば日ノ本の端と端にいても感じたものを共有することもできるだろう。
遠い雪国の中や澄んだ海に足を運んでは、遠く離れた屋敷の中にいる片割れに思念を届けて楽しげに語らう鏡椛の姿を想像し、樹鶴は面白いと言わんばかりに笑った。
「いいんじゃないか? これからこの日ノ本も緩やかとはいえ変わっていくだろうし、見ごたえはあると思うよ」
戦も遠い、とまだ見ぬ先のことを見てきたように語るその姿に、今度は鏡椛が目を瞬かせる番だった。
「勘に御座いますか?」
「勘と――あとはまあ、そういう風が流れているってだけさ」
「風?」
感覚だけどね、と言いながら、樹鶴は記憶を手繰るように目線を上向かせ、ふうっと花蜜の靄をくゆらせた。
瑞々しい花の香りが満ち、見世の中にだけ一足先に春が咲く。
「世が変わるときは空気のにおいがまず変わるんだよ。京の方からあれそれ移ってきたころにも似たようなにおいがした。あの頃はマア、血なまぐさかったが……その気配も今回は薄いしね。あちこちで川や道も整えているようだから、多分今度の殿様の家はそこそこもつんじゃねえかな」
香りに記憶を混ぜたのだろう。樹鶴が言葉を発するたびに、その目で見てきたのだろう景色が浮かんでは消えていく。
その景色の中には鏡椛が歴史書でしか聞いたことがない出来事の光景どころか、見たこともないような着物の様式や家屋、今は絶えたらしい動植物の姿まで混ざっている。この古き鬼道が歩んできた道筋の途方もなさを突きつけられるようだ。
生き字引の一端を垣間見せながら、気負う様子もないその姿に、鏡椛の口元に苦笑が浮かぶ。
「まだまだ、自分が若輩者であると思い知らされますな」
「ははは、じきにわかるようになるさ。只人の世はくるくる流転するもんだからね」
用は済んだとばかりに片手で香りをかき消す樹鶴の揺るがなさは、真似できるようなものではない。
一人前と呼ばれるような技量を身に着けた今だからこそ、その特異さがよくわかる。亀櫻がこの人の人間性を見つけて喜んだ理由は、きっとこの断絶にあるのだ。
それでも、鏡椛は背筋を伸ばし、目を背けずにその大樹を見据えた。
追いつける気はしないけれど、それを気にしていてはこの境地に至る以前の問題だろう。
「移り変わりを見守れるくらいに長くとどまれるよう、精進いたしまする」
「そうしておくれ。話し相手が減るのは寂しいもんんだ。その寂しさも愉しいけど、辛くねえわけでもない」
「はい、先生」
あの日――涙を流した日から、稀にではあるが、この人は置いて逝かれるものとしての胸中を明かしてくれるようになった。それだけで弟子冥利に尽きるというものだ。
まだ、弟子と呼んでもらったことはないけれど。
かつてこの見世の暖簾を潜ったころよりもこわばりの無い、自然とまっすぐ伸びる若木のようなその姿を見ながら、樹鶴は微笑んだ。
最初はどうなる事かと思ったが、いい鬼道に育ったものだ。
こん、と煙管を置く。
「で、いつ発つんだい?」
只人の間で元服の儀が行われるのは、睦月の中ごろである場合が多い。
きっと片割れの晴れ姿を見てからだろうとあたりをつけて尋ねれば、瞳の中の燐光がはぜるように揺れた。
「元服の儀が終わってすぐに」
「……もう月のひとつもないじゃないか」
呆れた顔をした樹鶴に、とびきりの悪戯が成功したと言いたげな満面の笑みが咲く。
「ええ。伝え忘れておりました」
嘘だな、とため息をついてから、気を取り直すように強く育った教え子に笑い返した。
「マ、いいけどね。達者でやりな」
「はい。発つときにはご挨拶に参りまする」
「楽しみにしてるよ」
さて、この子はどう生きると決めたのだろう。
金無垢の目は、焼き付けるようにその若衆姿をしげしげと見つめていた。
数日後。
元服の儀が終わっただろうその日の夕方。
暖簾のかかっていない樹鶴の見世を訪れるものがあった。
「もし」
「ん? すまないね今日は休みで……」
ころんと戸口から転がった声に、囲炉裏をつついていた樹鶴がゆるりと顔を上げる。
「……おやまあ」
金の目が、意外そうに瞬いた。
そこには、僧形の上から季節外れの紅葉の衣を被いた、奇妙な姿をした少女が立っていた。
少し照れたように身をすくめて、少女は衣をしゅるりと肩へ落とす。
燐光を宿した涼やかな目が、柔らかな微笑みを浮かべた。
「如何に御座いましょう。先生」
その男とも女ともつかない姿は、組み合わせこそ違えど、麗人のそれとよく似ている。
「……それ、我の真似かい? 鏡椛」
「少しだけ」
若衆姿からすっかり姿を変えた教え子に苦笑すれば、小さな笑いが返された。
それにしても、と樹鶴は息をつく。
「よかったのかい? 生まれた時の性に戻る絶好の機会だったろう?」
鏡椛の性が女に属することには、気づいていた。
いかに男の姿をしていようと骨格自体が女のそれであったし、魂も食い違うことなくそちらの性質を示していたのだ。鬼道ならば誰であってもそれと悟るのは容易い。
家の事情を知ってからは、片割れと取り替えられて育てられたのだろうと予想もついた。
その姿自体に魂が軋む様子はなかったが、三つ子にかんざしや紅をつけられて遊んでいるときにはいつもより目を輝かせていたので、女姿に抵抗があるというわけでもないだろう。てっきり百が男姿に戻ると同時に鏡椛の方も女姿に戻るとばかり思っていたが、予想が外れたらしい。
「ええ。それも考えはしましたが、女の一人旅というのも不用心だと百が。それに今さらどちらに寄った姿をしても落ち着かぬ心地になりそうで……」
「慣れちまうとそんなもんだよなあ」
年中性が定まらず両性の装束を纏っている麗人に頷かれ、ふふんと鏡椛は胸を張った。
「ええ。然らば、男女折衷がよいかなと」
「マ、お前さんがそれでいいなら構いやしないさ。どっちの方へ行くんだい。元服祝いに占ってやってもいいが」
滅多に使わない卜占の道具を引き寄せようとした樹鶴を制するように、かぶりが揺れる。
「いいえ。風に聞きます。卜占はまた、次の機会にお願いを」
「そうかい」
「……先生。一つだけ、我儘を申し上げても?」
「今さらだ。なんだい」
涼やかな目元の娘が、瞳の燐を燃やして静かに微笑んだ。
「――いつか、わたくしが彼岸へ往くとき。わたくしも亀櫻殿たちのようにあなたの夜で看取られとう御座います」
小さく目を瞠り、麗人は口元に苦笑を刷いた。
「……旅立つ前からそんな気の早いことをいう子があるかい。だいたいあんなの、忘れた方がいい」
「ふふ、最後が決まっているというのは気楽ではないかな、と。もちろん、無理にとは申しません」
約束していなくても最後にはまた願い出る気が満々であると見え透いた顔で、少女が笑う。
なるほど、中々押しが強い。絵島への道中に見た姫君を彷彿とさせる。
「はあ……相分かった。そのときはどこにいようが送ってやるよ。我が弟子」
意趣返しとばかりに口角をにっと上げてやれば、鏡椛の目が瞬いた。
「あれ? 先生、今わたくしのことを弟子とお認めに?」
「ここまで来て意固地になっても仕方ねえだろ。最後の最後まで面倒見る子を弟子以外になんて呼べってんだ。でも、いくらでも忘れていいんだからね。こんな約束に縋って生きるんじゃないよ」
「――ありがとうございます! お師さま!」
忘れろと念押ししたのが聞こえていないかのように、最も新しき鬼道の少女は心底嬉しそうに笑った。
――――
――
緩やかに、金無垢の目が瞬いた。
懐かしい夢を、見ていたようだ。
星と月が鮮やかな夜の中、紅葉がひとひら流れていく。
大気すっと撫でて彷徨い、風に浮きあがり、また沈む。
ゆらりゆらりと気ままに落ちて、土と草履とに挟まれ朽ちていくだけだったはずのそれを、麗人はひょいと白い指で捕まえた。
「ああ、もうそんな時節だったか」
見上げれば、夢の中よりもずいぶん大きくなった楓が頭上ではらはらと赤い葉を散らしている。
あの弟子がいたころには墨染だった着物は書生服へと姿を変え、打掛は紅い振袖になってはいるが、やはりその鬼道は男とも女ともつかない奇妙な恰好をしていた。
男にしてもひどく高い位置にある整い切った顔立ちは、国が海の外に開かれる前でも後でも価値観に揺るがされることなく美しい。
そんな麗人の、これまた滑らかな質感の白い喉が不意にくっと反り、金無垢の目が空へと向く。
水面のように凪ぎ、鏡のように細かな星の煌めきを映り込ませたその瞳に、ゆるりと感情が波立った。
――哀切と呼ばれる感情に近く、嘆きと呼ばれる想いに遠い。
――愛慕と呼ばれる感情と似て、憎悪と呼ばれる想いと違う。
まるで、稚い子供のちいさな悪戯を叱りたくても叱れないとでもいうように、柳眉がゆるりと八の字に歪んだ。
紅葉を眼前に持ち上げながらくるりと回して、薄い唇から息を零す。
「忘れてよいと、しかと教えただろうに」
麗人がそう言って瞼をおろせば、それに応える清流の如き声がした。
「忘れるはずがありませんよ、お師さま」
緩やかに目を開き、旅立った時と同じ男女折衷の装束を纏って微笑む鏡椛の顔が向こうを透かすのをみとめて、樹鶴は小さく眉をひそめた。
「――忘れられないくらい辛い生だったかい」
「いいえ。この三百年あまり、とても楽しゅうございました。だからといって、恩師のことを忘れるはずがないでしょう?」
晴れやかな笑みに、嘘はない。
片割れを失っても、この弟子は楽しく生きてきたのだと、安堵と共に息をつく。
「忘れてくれて構わなかったんだけどね」
「お師さまは、いかがお過ごしでしたか?」
「我は変わんねえよ。強いていやあ、弟子をまた取り始めたくらいだ」
「おや、わたくしが最後ではなくなってしまったのですね。残念」
「なに言ってんだい。お前さんが弟子を取る面白さを思い出させたんだろうよ、鏡椛」
寂しげだが憂いのないその白皙の貌を見上げ、少女姿のまま三百年を生きた鬼道は、泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「――わたくしは、お師さまの人生の、楽しみになれたでしょうか」
樹鶴は、その言葉に苦笑した。
まったく、健気な弟子どもだ。
「どいつもこいつも、人がつまんねえ生き方してるみたいな言い方しやがって……。マア、お前さんがいなけりゃ、もうちっとだけあの人を待つのに苦労してたかもしれねえな」
「左様に御座いますか。ならば、わたくしも満足です」
心底安堵したように、鏡椛は胸をなでおろした。
「で、お前さんも亀櫻みたいになんか仕掛けていくつもりかい」
「いいえ。今のお師様にそれは必要御座いませぬゆえ、致しません。――さあ、どうぞ、杯をお受けくださいな」
黒漆の杯になみなみと酒を注ぎ、自身の力で織った紅葉をひとひら泳がせて差し出せば、大きな手は一滴も零すことなくそれを受け取った。
「ああ、いただくよ」
その唇に杯が触れ、白い喉が露わになるのを見ながら、椛を冠した少女は薄く透けた体で呵々と笑った。
「これにて、御前を失礼いたします。またいつかお会いできましたら、そのときに」
どれだけ生きてもまっすぐであり続けた背筋を丸めるように――その弟子は、一礼した。
「左様なら、先生。お元気で」
紅葉が舞う。
漆のような夜闇に、赤々と。
嵐よりも優しい風が、大きくなった楓の葉を幾重にも舞い上げる。
「誰もかれも本当に、義理堅くて嫌になっちまうねえ」
黒髪の麗人はそう眉を寄せながら笑う。
そして残った酒をぐいと煽れば、紅い楓がそっと唇に触れた。
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