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鬼道ものの樹鶴
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瞼の裏で、桜の雨が降っている。
月の光に白く浮き上がって、砕けた玻璃の如く突き刺さる。
――「なあ、先生。アンタの愛した女はさ、アンタに墓守して待てなんて――そんな、無粋なことを言うような奴だったのか?」
その声に、心臓を抉られるのはきっと、それがあまりに的を射ていたからだ。
暗闇の中、その反響する言葉と降りしきる花弁の雨を甘んじて受けていれば、どこからからまた新たな声がした。
清流に似た清い声だ。
「……んせい」
呼ばれている。
自覚すると同時に、自分が黒の中にあるのだと唐突に気づいた。肩の上から泥のような黒が、足元には沼のような黒があって、ずぶずぶとこの体を飲み込んでいるのだ。
「起きてください、先生!」
頭から清水をかぶせられるように、清涼な感覚が手足を拭う。
そして麗人は、目を開いた。
窓から強い日差しが射しこんだ見世の中に、子供がいる。
きゅっと後頭部で結ばれた髷はうなじのあたりで揺れていて、額の上で流れる前髪と合わせて稚い。
「――ああ、なんだ鏡椛か」
そう言えば、若衆姿の雛がふう、と大きなため息をついた。
「なんだ、じゃありません。もう皆帰ってしまいましたよ。見世を閉める刻限なのでは?」
「すまない。今日はお前さんも【塾】の日だからね、すこしぼうっとしていたみたいだ」
樹鶴はぼんやりと戸の向こうへと目をやり、意識の靄を払うように瞬いた。
どうやら、物思いにふけりすぎたらしい。
鏡椛は、亀櫻が彼岸へ渡り切ってからしばらくして、それまでの抵抗が嘘であったかのように【塾】に籍を移すことを受け入れた。
樹鶴の元で学ぶ機会を【塾】へ渡ることで失うのが勿体無い気がしたから戸惑っていた――というので、七日に一回だけ樹鶴が面倒をみると申し出たのが功を奏したのだろう。
どうにも一人の時間が戻ると考えることも多くなって、こうしてたまに時間を忘れてぼんやりとしてしまうようになったのは少しいただけないと思わなくもない。けれど、この子供がやってくる前はこうした日々を送っていたようにも思うから、元に戻っただけとも言える。
くるりと煙管を回せば、暖簾たちがそそくさと見世の中に帰還して、その身を指定の棚へ横たえていく。
「もう、気を付けてくださいませ」
「ああ。悪いね。助かったよ」
気づかわしげな鏡椛の様子にもぼんやりとした言葉しか返せない。
瞼の裏で、亀櫻の残していった玻璃の刃が降り続けている。
「……それでは、今日の所は失礼いたします」
その目の中の燐光が大きく明滅するのを隠すようにして、鏡椛が一礼する。
きっと、様子のおかしさにこの子も気づいているのだ。
「気を付けてお帰り」
いい加減何とかしなければ、周りに気を遣わせるばかりだ。
そうわかっていても、樹鶴は答えを導き出せずにいる。
蝶は、今日も現れなかった。
それからまた何日かして、鏡椛の手習いの日がやってきた。
といっても、もう特にこの雛に教えることは残っていない。
百の一件があってから成長に枷がなくなったらしいこの子供は、何を教えても乾いた土に水をやった時のようにすぐに吸収するようになった。
ほんの少ししか飛べなかった飛行の術式を現世で使っても風に流される心配はもはやないし、もともとの出力の都合で大きな術こそ苦手としてはいるものの得手不得手の範囲でしかない領域には達している。
もう、【塾】の指南役にしても、樹鶴にしても、教えて身につけられるようなことは抽斗の中に残ってはいないのだ。
そのため今では、鏡椛から術や現象についていくつか自分の見解を告げられては、それに対して大人たちがわかっていることいないことを照らし合わせていく、という質疑応答を繰り返すのが主となっている。
「先生、一つお尋ねしても?」
「なんだい。我に答えられるようなことならいいけど」
いつも通りに切り出した鏡椛にそう返せば「先生でなければ答えられぬことに御座います」と言って、さらに言葉は続く。
「つがい殿はどのようなお人に御座いましたか」
金の目が、仄かに見開いた。
「――、そういうのに興味あったのかい。お前さん」
今まさに悩みの中核にあるつがいのことに触れられたという衝撃は、もちろんある。だが同時に、「まさか鏡椛から話が出るとは」という意外さもあった。
なにせこれまで、三つ子たちがきゃらきゃらと巷の色恋の話を持ち出しても傍でただ微笑みながら相槌を打つだけに留め、自ら掘り下げる様子は微塵も見せなかったのだ。
苦手とは言わなくとも、話題に上げるほどの興味関心の対象にはない、と思っていたのだが、違うのだろうか。
問えば、鏡椛はわずかに視線を上にあげて、それからこてん、と首を傾げた。
「自分にそういったことが起こるとは思えませぬが、百と許婚殿の話を聞くのは楽しゅうございます。人と人の関わりを知るのは、面白きこと故」
「そうかい」
なるほど、と頷いて、樹鶴は緩く腕を組んだ。
こうしてつがいのことを聞かれるのは珍しく、必定言葉として形を持たせるのも滅多にないことのように思えた。
はぐらかすこともないが、問われてみれば少し難しい。
少しの間をおいて、樹鶴が口を開く。
「そうだね、しいて言えば……眩しい人かな」
「眩しい?」
「うん。見てくれも綺麗で、金糸の髪をしていたからよく光を弾く人だったけれどね。なにより、在り方が眩かった」
それは決して、惚れた欲目ではないだろう。
いつだって彼女の周りにはその輝きを頼る人が溢れていたし、いなくなってしまった今でも当時を知る神々がすぐに思い起こして語るほどだ。
「在り方が……それは、とても立派な方に御座いましょうな」
素直にそう頷いてくれたことに安堵しながら、樹鶴は彼方へと目線と想いを手向ける。
「立派だったよ。相手が神だろうと過ちには毅然と立ち向かって、弱いもんを決して見捨てず、強いものを孤独にさせるのを疎んだ。英傑ってのはああいうのの事を言うんだろう……本当、なんで我を受け入れてくれたんだか」
苦笑が声に滲んだ。
自分が彼女に惹かれたのは、そうしないのは嘘だろうというほどの奇跡めいた出会いであったからだ。
しかし、言葉にすればするほど、彼女が自分に真名を預けてくれた理由がわからなくなっていく。
真心と愛をよこしてくれた確信はあるくせに、情けない話だ。
「先生のほうが惚れたので?」
「百の影響なのか知らねえが、随分押しが強くなったね……目ェ輝かせちゃってさ」
わくわくとした様子で身を乗り出したその頭を軽く小突けば、照れたように鏡椛は姿勢を正す。
「申し訳ございません。先生が珍しいお顔をされていたので、つい」
「珍しい? そうかい?」
「ええ。とても人らしいお顔をしておられますよ」
人らしい。とはどのような顔だろうか。
出生自体があやふやである自身を形容するにはどうにもしっくりこない言葉だが、この煩悶にはそうしたしっくりこない言葉こそが必要であるようにも思えた。
人らしいねえ、とその言葉を口の中で転がしながら、樹鶴は首を傾げる。
「普段の我はどう見えてんだ。で? この位で満足かい?」
普段のあやかしだのなんだのへの興味関心とはまるで違う、雑談に近い内容だ。そう掘り下げるないだろう。
そう思って逃げるように会話を切り上げようとした樹鶴を、さっと鏡椛が制す。
「いえ。できれば――どうして今、つがい殿が傍におられないのか、お聞かせください」
それこそが核心である、というのが見え見えの、強張った声だった。
すっと、金無垢の目が冷える。
誰の指金かは、すぐに察しがついた。
「…………、亀櫻の奴の入れ知恵かい」
随分遠回りではあるが、あの日鏡椛が考え込んでいたのは共犯にされたからであろう。
あんな棘のような言葉を残すくらいなら自分で聞け、と眉間に深い皺を刻んだ樹鶴を前に、鏡椛は燐光強きその目を微塵も揺るがすことなく凛として言葉を切り返した。
「提案はされました。けれど選んだのはわたくしに御座います」
――――
――
時は遡り、桜降る幽世にて。
「なあ、鏡椛。俺たちの末っ子――ひとつ、頼まれてくれないか」
「? 何で御座いましょう」
透け始めた顔で意地の悪い笑みを浮かべた桜のような男はぬっと手を伸ばしたかと思うと、桜の花弁に紛れていた二枚の花弁をひょいと掴んだ。
それは、桜よりも随分大振りな、純白と黄金の花弁。
「ここに入れてもらってわかったが、この幽世のどこにもあの人の好い人はいねえ」
「墓ならば、当然では?」
「只人ならまだしも、鬼道が作った墓だぜ? こんな絶技を使っておきながら、微塵も思念が混ざらねえなんてあるかよ。たとえ欠片も残らず逝っちまったとしても、傾けた想いの分、あの人の魂に滲み付いた思念は濃いはずだ」
掴んだ花弁を見下ろして、亀櫻は苦々しく言い募る。
「でけえ桜は付き合いの長い俺で、そこの楓は一番暦の短い手前。他の花木は種類から見るに兄さんや姉さんに対応しているし、他のも知り合いどもと照らし合わせた心象の具現だ。気配で分かる。――なら、一番奥から流れてきているこの梔子と山吹は、あの人の好い人の具現である。と最初俺は思った」
「その花が、先生の……? え、でも」
「さすがに分かるよなぁ」
戸惑ったような鏡椛に、男は頷いた。
傍らで、鏡椛の戸惑いに呼応するように楓が光を明滅させる。
「花木には俺らの想いも流れ込んでいる。たぶん、俺らが死んだところで、それが霧散することはねえ。だからこうもこの幽世の花木は美しい。この二つ以外は」
握りしめていた花弁二つは、虚ろだった。
現世に花咲くものであっても、もう少しなにかの想いは宿るだろうと思うほどに、形だけなのだ。
「あんな顔して語る相手の具現が、こんな虚ろであるはずがねえ。なら、この幽世で一番でけえあの月こそがあの人のつがいの具現だ。じゃあ、その根元に咲いてるらしいこいつらはなんだ?」
「……先生、自身?」
思わず鏡椛の口から漏れたその言葉に、否はなかった。
「きっと、本人は弔いだとかなんだとか思ってるんだろうけどな――これは、そんな綺麗なもんじゃねえよ」
麗人に最も長く寄り添った桜色の弟子は、手のひらの中でその花弁たちをぐしゃりと握りつぶした。
「あの人は、自分の想いを殺している」
己の魂を殺す行為は、魂の生き物である鬼道ものにとって、最悪の毒である。
鬼道ものならば誰もが知っている、一番してはいけないことだ。
折り合いをつけるでもなく、晴らすこともなく、ただ誤魔化して目を逸らして想いを殺し続けるなんてことは――鬼道の在り方に反することだ。
だからな。と膝を折って目線を合わせるようにして、亀櫻は愕然としている小さな雛鳥に、その願いを差し出した。
「俺たちの師匠に――こんな空しいことを、あんな綺麗な月になるような女が望んでるはずがねえって、気づかせろ」
その影を、美しい月光だけが見守っていた。
――
――――
美しい月光を受けてキラキラ輝く金銀妖眼の眼差しは、強くも優しく、受け取ることを強制はしなかった。
だから――燐光おびる鬼道の雛は、たしかに自分の意思をもってその願いを受け継いだのだ。
「先生。どうか、お話しください――不足に御座いましょうが、わたくしめもまた、鬼道に御座います。あなたに学んだ、あなたの背を見る者に御座います」
恩師の惑いからその本当を汲み取った兄弟子の姿に、鏡椛は本物の師弟を見た。
恋もあっただろうが、それ以上にかの人は目の前の麗人の弟子であることをとったのだ。
ならば。と鏡椛は思う。
たとえこの人に認められずとも、自分はこの人の弟子であると胸を張れる行いから始めよう。
鬼道は魂の生き物だ。
ならば、本質からそう在らねば実がついてくるはずもない。
「落とされたものを、拾いましょう。先生がわたくしに、そうしてくださったように」
夜の中、彷徨っているのだろうその人の大きな手を掬い上げる。
師の手を弟子が引いて悪いことはない。もう、この身は大きくなったのだから――向かい風を切る役は、自分が引き受けよう。
「恩返しを、させていただきたい」
その目の形は涼やかなれど――奥に輝く燐光は、何よりも熱く燃えていた。
戸惑うような、沈黙があった。
とうに戸の向こうは暗くなっていてもおかしくないほど、長い沈黙だった。
「……あの人は、立派な人だった」
ぽつりと、言葉が落ちた。
「いつだって全力で周囲を助けて、きらきら笑う人だった」
遠く、懐かしむように、愛しさばかりが滲む声が――ふいに、軋んだ。
「――だからこそ、我が……、我が、燃え尽きる前に引き留めてやんなきゃ、いけなかった」
美しい形をした唇が、わなわなと震えた。
恐ろしいものを目の当たりにしたような、そんな声だった。
「お前さんと似たようなもんだよ。鏡椛。あの人は……自分で砕けてしまったんだ」
金無垢の目が、繋がれた手へと落ちる。
そこには小さな手があるばかりで――失った影などどこにもないというのに、見ずにはいられないとでも言うように、その顔は俯いていく。
「……約束一つ残して、この腕の中で伽藍洞になって、千々になって――逝ってしまった」
その顔は蒼白だ。
血の気が引いてなお凄絶な美貌が、幽鬼のように嘆きに歪む。
「魂まで握り合った仲だ。連れて行っておくれとも言ったさ。それでも、待て、と」
ぐしゃりと歪んだその目から、涙が零れることはない。
「いつか、戻るから、待っていてくれと」
泣き方すら忘れてしまったとでも言うように、震える声とともに、樹鶴は眉を歪ませて笑った。
「そう言われたら、もう、そうするしかないだろう?」
それは――悲哀と愛情に狂った、あまりにも人間らしい笑みだった。
深く、細く、鏡椛は息を吐き出す。
腹に力を籠めて、まっすぐに師を見つめた。
「――いいえ。先生。それは、きっと違います」
その言葉には、確かな力があった。
「つがい殿は、約束を遺していかれた。そんなの、あなたに生きていてほしいから以外に……理由が、ありましょうか」
北辰の如く、道を示すような、力があった。
月よりも弱く、太陽よりも劣るけれど、確かな星だ。それが無性に恐ろしくて――目を背けるように、金無垢の目がさっと自身の膝へと落ちる。
「聞いて下さいませ、先生」
いつになく頼りない師の姿に、それでも敬慕に揺ぎ無く。鏡椛は言葉を紡ぐ。
「恋情を知りはしない身では御座います。けれど、魂分かつ相手がいるこの身から……あなたの門弟、その末子として、申し上げましょう」
どうか、と二人分の――いいや、三人分の願いを込めて、強くその手を握りしめる。
「顔を上げなされ。鬼道ものの樹鶴殿」
叱られても、失望されてもいい。理不尽に破門されようとかまわない。それだけこの人の柔らかい心に刃を突き立てていることはわかっている。
この人は、自分が独りにしてしまったころの百に似ているのだろう。周囲の望むまま明るく振舞っては、その裏で涙流し方すら忘れて血反吐を吐いて、苦しんでいる。
そんな人のその傷口に、無遠慮に掴みかかるような真似をしている。
「前を向き、生きて、生きて、生き果ててくださいませ。――その先にこそ、つがい殿が望んだあなたが在りまする」
それでも――愛したものを孤独に叩き落してしまったものとして、これを告げることから、逃げるわけにはいかなかった。
「これは、鬼道としての勘なれば」
小さく息をのむ音が、冷たい空気の満ちた土間に落ちる。
次いで、仄かな笑いが白皙の貌に浮かんだ。
「……は、一丁前の口を利く」
「じきに元服する身ゆえ」
金の目が驚いたように見開いて、何かを勘定するように瞬く。
そして、ふっと憑き物が落ちたように、相好を崩した。
「――――ああ、そうか。もう、そんなに大きくなったのか」
その頬を、つう、と雫が伝う。
ぽろりぽろりと、金無垢の瞳が雨夜の月のようにぼやけながら涙を落とした。そのたびに視界が濡れて、あの桜吹雪を押し流す。
刃のようだと思っていた花びらが自分の心の虚を埋めようとしていたことに、小さい子供だと思っていた鏡椛の顔がもう随分と稚さの抜けたものへと成長していたことに、樹鶴はその時はじめて気が付いた。
「たしかに、目の前の雛一匹まともに見てねえんじゃあ……いくらあの人が帰ってきたところで、離縁されちまうわな」
涙に濡れて、とても立派とは言えないが――それでも格別に美しい笑みを浮かべ、麗人は花のように笑った。
「ありがとう、鏡椛。少しまどろみが過ぎたみてえだ」
「いいえ。お役に立てたのならば、何よりに御座います」
青い蝶がふらりと窓にとまって満足そうに翅を揺らしたことに気づいたものは、誰もいなかった。
月の光に白く浮き上がって、砕けた玻璃の如く突き刺さる。
――「なあ、先生。アンタの愛した女はさ、アンタに墓守して待てなんて――そんな、無粋なことを言うような奴だったのか?」
その声に、心臓を抉られるのはきっと、それがあまりに的を射ていたからだ。
暗闇の中、その反響する言葉と降りしきる花弁の雨を甘んじて受けていれば、どこからからまた新たな声がした。
清流に似た清い声だ。
「……んせい」
呼ばれている。
自覚すると同時に、自分が黒の中にあるのだと唐突に気づいた。肩の上から泥のような黒が、足元には沼のような黒があって、ずぶずぶとこの体を飲み込んでいるのだ。
「起きてください、先生!」
頭から清水をかぶせられるように、清涼な感覚が手足を拭う。
そして麗人は、目を開いた。
窓から強い日差しが射しこんだ見世の中に、子供がいる。
きゅっと後頭部で結ばれた髷はうなじのあたりで揺れていて、額の上で流れる前髪と合わせて稚い。
「――ああ、なんだ鏡椛か」
そう言えば、若衆姿の雛がふう、と大きなため息をついた。
「なんだ、じゃありません。もう皆帰ってしまいましたよ。見世を閉める刻限なのでは?」
「すまない。今日はお前さんも【塾】の日だからね、すこしぼうっとしていたみたいだ」
樹鶴はぼんやりと戸の向こうへと目をやり、意識の靄を払うように瞬いた。
どうやら、物思いにふけりすぎたらしい。
鏡椛は、亀櫻が彼岸へ渡り切ってからしばらくして、それまでの抵抗が嘘であったかのように【塾】に籍を移すことを受け入れた。
樹鶴の元で学ぶ機会を【塾】へ渡ることで失うのが勿体無い気がしたから戸惑っていた――というので、七日に一回だけ樹鶴が面倒をみると申し出たのが功を奏したのだろう。
どうにも一人の時間が戻ると考えることも多くなって、こうしてたまに時間を忘れてぼんやりとしてしまうようになったのは少しいただけないと思わなくもない。けれど、この子供がやってくる前はこうした日々を送っていたようにも思うから、元に戻っただけとも言える。
くるりと煙管を回せば、暖簾たちがそそくさと見世の中に帰還して、その身を指定の棚へ横たえていく。
「もう、気を付けてくださいませ」
「ああ。悪いね。助かったよ」
気づかわしげな鏡椛の様子にもぼんやりとした言葉しか返せない。
瞼の裏で、亀櫻の残していった玻璃の刃が降り続けている。
「……それでは、今日の所は失礼いたします」
その目の中の燐光が大きく明滅するのを隠すようにして、鏡椛が一礼する。
きっと、様子のおかしさにこの子も気づいているのだ。
「気を付けてお帰り」
いい加減何とかしなければ、周りに気を遣わせるばかりだ。
そうわかっていても、樹鶴は答えを導き出せずにいる。
蝶は、今日も現れなかった。
それからまた何日かして、鏡椛の手習いの日がやってきた。
といっても、もう特にこの雛に教えることは残っていない。
百の一件があってから成長に枷がなくなったらしいこの子供は、何を教えても乾いた土に水をやった時のようにすぐに吸収するようになった。
ほんの少ししか飛べなかった飛行の術式を現世で使っても風に流される心配はもはやないし、もともとの出力の都合で大きな術こそ苦手としてはいるものの得手不得手の範囲でしかない領域には達している。
もう、【塾】の指南役にしても、樹鶴にしても、教えて身につけられるようなことは抽斗の中に残ってはいないのだ。
そのため今では、鏡椛から術や現象についていくつか自分の見解を告げられては、それに対して大人たちがわかっていることいないことを照らし合わせていく、という質疑応答を繰り返すのが主となっている。
「先生、一つお尋ねしても?」
「なんだい。我に答えられるようなことならいいけど」
いつも通りに切り出した鏡椛にそう返せば「先生でなければ答えられぬことに御座います」と言って、さらに言葉は続く。
「つがい殿はどのようなお人に御座いましたか」
金の目が、仄かに見開いた。
「――、そういうのに興味あったのかい。お前さん」
今まさに悩みの中核にあるつがいのことに触れられたという衝撃は、もちろんある。だが同時に、「まさか鏡椛から話が出るとは」という意外さもあった。
なにせこれまで、三つ子たちがきゃらきゃらと巷の色恋の話を持ち出しても傍でただ微笑みながら相槌を打つだけに留め、自ら掘り下げる様子は微塵も見せなかったのだ。
苦手とは言わなくとも、話題に上げるほどの興味関心の対象にはない、と思っていたのだが、違うのだろうか。
問えば、鏡椛はわずかに視線を上にあげて、それからこてん、と首を傾げた。
「自分にそういったことが起こるとは思えませぬが、百と許婚殿の話を聞くのは楽しゅうございます。人と人の関わりを知るのは、面白きこと故」
「そうかい」
なるほど、と頷いて、樹鶴は緩く腕を組んだ。
こうしてつがいのことを聞かれるのは珍しく、必定言葉として形を持たせるのも滅多にないことのように思えた。
はぐらかすこともないが、問われてみれば少し難しい。
少しの間をおいて、樹鶴が口を開く。
「そうだね、しいて言えば……眩しい人かな」
「眩しい?」
「うん。見てくれも綺麗で、金糸の髪をしていたからよく光を弾く人だったけれどね。なにより、在り方が眩かった」
それは決して、惚れた欲目ではないだろう。
いつだって彼女の周りにはその輝きを頼る人が溢れていたし、いなくなってしまった今でも当時を知る神々がすぐに思い起こして語るほどだ。
「在り方が……それは、とても立派な方に御座いましょうな」
素直にそう頷いてくれたことに安堵しながら、樹鶴は彼方へと目線と想いを手向ける。
「立派だったよ。相手が神だろうと過ちには毅然と立ち向かって、弱いもんを決して見捨てず、強いものを孤独にさせるのを疎んだ。英傑ってのはああいうのの事を言うんだろう……本当、なんで我を受け入れてくれたんだか」
苦笑が声に滲んだ。
自分が彼女に惹かれたのは、そうしないのは嘘だろうというほどの奇跡めいた出会いであったからだ。
しかし、言葉にすればするほど、彼女が自分に真名を預けてくれた理由がわからなくなっていく。
真心と愛をよこしてくれた確信はあるくせに、情けない話だ。
「先生のほうが惚れたので?」
「百の影響なのか知らねえが、随分押しが強くなったね……目ェ輝かせちゃってさ」
わくわくとした様子で身を乗り出したその頭を軽く小突けば、照れたように鏡椛は姿勢を正す。
「申し訳ございません。先生が珍しいお顔をされていたので、つい」
「珍しい? そうかい?」
「ええ。とても人らしいお顔をしておられますよ」
人らしい。とはどのような顔だろうか。
出生自体があやふやである自身を形容するにはどうにもしっくりこない言葉だが、この煩悶にはそうしたしっくりこない言葉こそが必要であるようにも思えた。
人らしいねえ、とその言葉を口の中で転がしながら、樹鶴は首を傾げる。
「普段の我はどう見えてんだ。で? この位で満足かい?」
普段のあやかしだのなんだのへの興味関心とはまるで違う、雑談に近い内容だ。そう掘り下げるないだろう。
そう思って逃げるように会話を切り上げようとした樹鶴を、さっと鏡椛が制す。
「いえ。できれば――どうして今、つがい殿が傍におられないのか、お聞かせください」
それこそが核心である、というのが見え見えの、強張った声だった。
すっと、金無垢の目が冷える。
誰の指金かは、すぐに察しがついた。
「…………、亀櫻の奴の入れ知恵かい」
随分遠回りではあるが、あの日鏡椛が考え込んでいたのは共犯にされたからであろう。
あんな棘のような言葉を残すくらいなら自分で聞け、と眉間に深い皺を刻んだ樹鶴を前に、鏡椛は燐光強きその目を微塵も揺るがすことなく凛として言葉を切り返した。
「提案はされました。けれど選んだのはわたくしに御座います」
――――
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時は遡り、桜降る幽世にて。
「なあ、鏡椛。俺たちの末っ子――ひとつ、頼まれてくれないか」
「? 何で御座いましょう」
透け始めた顔で意地の悪い笑みを浮かべた桜のような男はぬっと手を伸ばしたかと思うと、桜の花弁に紛れていた二枚の花弁をひょいと掴んだ。
それは、桜よりも随分大振りな、純白と黄金の花弁。
「ここに入れてもらってわかったが、この幽世のどこにもあの人の好い人はいねえ」
「墓ならば、当然では?」
「只人ならまだしも、鬼道が作った墓だぜ? こんな絶技を使っておきながら、微塵も思念が混ざらねえなんてあるかよ。たとえ欠片も残らず逝っちまったとしても、傾けた想いの分、あの人の魂に滲み付いた思念は濃いはずだ」
掴んだ花弁を見下ろして、亀櫻は苦々しく言い募る。
「でけえ桜は付き合いの長い俺で、そこの楓は一番暦の短い手前。他の花木は種類から見るに兄さんや姉さんに対応しているし、他のも知り合いどもと照らし合わせた心象の具現だ。気配で分かる。――なら、一番奥から流れてきているこの梔子と山吹は、あの人の好い人の具現である。と最初俺は思った」
「その花が、先生の……? え、でも」
「さすがに分かるよなぁ」
戸惑ったような鏡椛に、男は頷いた。
傍らで、鏡椛の戸惑いに呼応するように楓が光を明滅させる。
「花木には俺らの想いも流れ込んでいる。たぶん、俺らが死んだところで、それが霧散することはねえ。だからこうもこの幽世の花木は美しい。この二つ以外は」
握りしめていた花弁二つは、虚ろだった。
現世に花咲くものであっても、もう少しなにかの想いは宿るだろうと思うほどに、形だけなのだ。
「あんな顔して語る相手の具現が、こんな虚ろであるはずがねえ。なら、この幽世で一番でけえあの月こそがあの人のつがいの具現だ。じゃあ、その根元に咲いてるらしいこいつらはなんだ?」
「……先生、自身?」
思わず鏡椛の口から漏れたその言葉に、否はなかった。
「きっと、本人は弔いだとかなんだとか思ってるんだろうけどな――これは、そんな綺麗なもんじゃねえよ」
麗人に最も長く寄り添った桜色の弟子は、手のひらの中でその花弁たちをぐしゃりと握りつぶした。
「あの人は、自分の想いを殺している」
己の魂を殺す行為は、魂の生き物である鬼道ものにとって、最悪の毒である。
鬼道ものならば誰もが知っている、一番してはいけないことだ。
折り合いをつけるでもなく、晴らすこともなく、ただ誤魔化して目を逸らして想いを殺し続けるなんてことは――鬼道の在り方に反することだ。
だからな。と膝を折って目線を合わせるようにして、亀櫻は愕然としている小さな雛鳥に、その願いを差し出した。
「俺たちの師匠に――こんな空しいことを、あんな綺麗な月になるような女が望んでるはずがねえって、気づかせろ」
その影を、美しい月光だけが見守っていた。
――
――――
美しい月光を受けてキラキラ輝く金銀妖眼の眼差しは、強くも優しく、受け取ることを強制はしなかった。
だから――燐光おびる鬼道の雛は、たしかに自分の意思をもってその願いを受け継いだのだ。
「先生。どうか、お話しください――不足に御座いましょうが、わたくしめもまた、鬼道に御座います。あなたに学んだ、あなたの背を見る者に御座います」
恩師の惑いからその本当を汲み取った兄弟子の姿に、鏡椛は本物の師弟を見た。
恋もあっただろうが、それ以上にかの人は目の前の麗人の弟子であることをとったのだ。
ならば。と鏡椛は思う。
たとえこの人に認められずとも、自分はこの人の弟子であると胸を張れる行いから始めよう。
鬼道は魂の生き物だ。
ならば、本質からそう在らねば実がついてくるはずもない。
「落とされたものを、拾いましょう。先生がわたくしに、そうしてくださったように」
夜の中、彷徨っているのだろうその人の大きな手を掬い上げる。
師の手を弟子が引いて悪いことはない。もう、この身は大きくなったのだから――向かい風を切る役は、自分が引き受けよう。
「恩返しを、させていただきたい」
その目の形は涼やかなれど――奥に輝く燐光は、何よりも熱く燃えていた。
戸惑うような、沈黙があった。
とうに戸の向こうは暗くなっていてもおかしくないほど、長い沈黙だった。
「……あの人は、立派な人だった」
ぽつりと、言葉が落ちた。
「いつだって全力で周囲を助けて、きらきら笑う人だった」
遠く、懐かしむように、愛しさばかりが滲む声が――ふいに、軋んだ。
「――だからこそ、我が……、我が、燃え尽きる前に引き留めてやんなきゃ、いけなかった」
美しい形をした唇が、わなわなと震えた。
恐ろしいものを目の当たりにしたような、そんな声だった。
「お前さんと似たようなもんだよ。鏡椛。あの人は……自分で砕けてしまったんだ」
金無垢の目が、繋がれた手へと落ちる。
そこには小さな手があるばかりで――失った影などどこにもないというのに、見ずにはいられないとでも言うように、その顔は俯いていく。
「……約束一つ残して、この腕の中で伽藍洞になって、千々になって――逝ってしまった」
その顔は蒼白だ。
血の気が引いてなお凄絶な美貌が、幽鬼のように嘆きに歪む。
「魂まで握り合った仲だ。連れて行っておくれとも言ったさ。それでも、待て、と」
ぐしゃりと歪んだその目から、涙が零れることはない。
「いつか、戻るから、待っていてくれと」
泣き方すら忘れてしまったとでも言うように、震える声とともに、樹鶴は眉を歪ませて笑った。
「そう言われたら、もう、そうするしかないだろう?」
それは――悲哀と愛情に狂った、あまりにも人間らしい笑みだった。
深く、細く、鏡椛は息を吐き出す。
腹に力を籠めて、まっすぐに師を見つめた。
「――いいえ。先生。それは、きっと違います」
その言葉には、確かな力があった。
「つがい殿は、約束を遺していかれた。そんなの、あなたに生きていてほしいから以外に……理由が、ありましょうか」
北辰の如く、道を示すような、力があった。
月よりも弱く、太陽よりも劣るけれど、確かな星だ。それが無性に恐ろしくて――目を背けるように、金無垢の目がさっと自身の膝へと落ちる。
「聞いて下さいませ、先生」
いつになく頼りない師の姿に、それでも敬慕に揺ぎ無く。鏡椛は言葉を紡ぐ。
「恋情を知りはしない身では御座います。けれど、魂分かつ相手がいるこの身から……あなたの門弟、その末子として、申し上げましょう」
どうか、と二人分の――いいや、三人分の願いを込めて、強くその手を握りしめる。
「顔を上げなされ。鬼道ものの樹鶴殿」
叱られても、失望されてもいい。理不尽に破門されようとかまわない。それだけこの人の柔らかい心に刃を突き立てていることはわかっている。
この人は、自分が独りにしてしまったころの百に似ているのだろう。周囲の望むまま明るく振舞っては、その裏で涙流し方すら忘れて血反吐を吐いて、苦しんでいる。
そんな人のその傷口に、無遠慮に掴みかかるような真似をしている。
「前を向き、生きて、生きて、生き果ててくださいませ。――その先にこそ、つがい殿が望んだあなたが在りまする」
それでも――愛したものを孤独に叩き落してしまったものとして、これを告げることから、逃げるわけにはいかなかった。
「これは、鬼道としての勘なれば」
小さく息をのむ音が、冷たい空気の満ちた土間に落ちる。
次いで、仄かな笑いが白皙の貌に浮かんだ。
「……は、一丁前の口を利く」
「じきに元服する身ゆえ」
金の目が驚いたように見開いて、何かを勘定するように瞬く。
そして、ふっと憑き物が落ちたように、相好を崩した。
「――――ああ、そうか。もう、そんなに大きくなったのか」
その頬を、つう、と雫が伝う。
ぽろりぽろりと、金無垢の瞳が雨夜の月のようにぼやけながら涙を落とした。そのたびに視界が濡れて、あの桜吹雪を押し流す。
刃のようだと思っていた花びらが自分の心の虚を埋めようとしていたことに、小さい子供だと思っていた鏡椛の顔がもう随分と稚さの抜けたものへと成長していたことに、樹鶴はその時はじめて気が付いた。
「たしかに、目の前の雛一匹まともに見てねえんじゃあ……いくらあの人が帰ってきたところで、離縁されちまうわな」
涙に濡れて、とても立派とは言えないが――それでも格別に美しい笑みを浮かべ、麗人は花のように笑った。
「ありがとう、鏡椛。少しまどろみが過ぎたみてえだ」
「いいえ。お役に立てたのならば、何よりに御座います」
青い蝶がふらりと窓にとまって満足そうに翅を揺らしたことに気づいたものは、誰もいなかった。
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