鬼道ものはひとり、杯を傾ける

冴西

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花の下にて恋死なん

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 蔦暖簾を潜ったそこは、夜の姿をしていた。
 かつておしろが作り出した影取池の幻影にも似ているが、比べ物にならぬほどその空気は澄んでいて、まるで人の息を知らぬようですらある。
 漆を流し込んだような艶のある夜闇は、手を伸ばせばたちまち爪の先も見えなくなってしまいそうだ。

 そんな黒を美しく彩っているのは、淡く光る無数の花木だった。
 戸のすぐそばに植わっている背の低い楓の木までもが、ぼんやりと薄赤く光って足元を照らしている。
 連れ立って歩を進めれば、現世の冷たさ残るものとはまるで違う、心地よい風が三人の髪を揺らした。

 楓に桃の木、菊の花。木蓮、あじさい、藤の花。進むほどにその数と種類を増していく花々はどれも美しく、まるで桃源郷のようだ。

「これはまた、見事な」
「おうい。立ってないでこっちへおいで」

 感嘆をこぼした鏡椛を、いつのまにやら遠ざかっていた樹鶴が手招いた。

 そちらを向けば――まず、桜が目に入った。

 夜を睥睨するように、限りなく白に近い薄紅色の花枝を天へと広げて咲き誇る姿は、思わず見上げずにはいられないほどの迫力がある。
 手前に佇む樹鶴の長身も悠々と越えるほどにその梢は高い。見渡した限りこの夜の中でも一、二を争うほどの巨木だ。樹齢は確実に三桁を超えているだろう。

 桜の下に座せば正気を保ってはいられない。そう只人の間で語られる噂話を想起するほど異様なすごみを帯びた、美しい桜花だ。
 鏡椛は勿論、亀櫻までもが思わず息をのむ。

 けれど主たる樹鶴はその威容に臆することもなくさくさくと近寄り、ざっと羽織の裾を払って腰を下ろした。悠然とその桜雨に身を晒すように心地よさそうに背を桜に預け、どこから持ち出したのか酒樽をかたわらへと置く。

「なんだ。座らないのかい?」

 不思議なものを見るように首を傾げた麗人は辺りを見回して、ああ。とでもいうように柏手を打った。
 清い音を合図に、ばさりと真紅の敷物が地面に落ちる。それをひょいと一振りした煙管で綺麗に整えて、「これでいいだろう」と金無垢の目が満足げに笑った。それを待っていたかのように吹いた夜風に流れて、黒髪が桜の花とともに舞う。
 小さく、亀櫻たちは再び息をのんだ。

 ――この不可思議で美しい夜の世界に収まった樹鶴の姿が、あまりにも完成されていたからだ。

 背にした桜が霞むほどに、際限なく麗人の美は風が吹き花びらが舞うごとに冴えを増していく。まるでこの夜の空気そのものが、樹鶴という生き物を研ぎ澄ましているようだ。
 あるいは、夜そのものが樹鶴自身であるならば――これこそが、本来の樹鶴が持つ異様なのではないか。
 そう思わずにはいられないほどの、異形の美しさがそこにはあった。


 蛇に睨まれた蛙の如く身じろぎもしなくなった二人を見据え、樹鶴は息をついた。

「亀櫻。鏡椛。赦す・・。座りな」

 がくりと、ふたりの膝から力が抜ける。
 それまで硬直していた体が自由を取り戻したのだ。

「い、まのは」
「――っ、ああ、助かった」
「悪いね。加減を忘れていたみたいだ」

 月光へと花蜜の靄を吹きかけて、樹鶴は苦笑する。

 この幽世は樹鶴の腹の中も同然だ。当然、物のたとえであって入ったものを問答無用で溶かしたりなどはしないが、空間全体が樹鶴の支配領域であることに変わりはない。
 神代に生まれ落ちた樹鶴と人代の生まれである彼らでは、根本的な力の出力に違いがあるのだ。それを目的としていないとしても、呼吸の権利すら容易に握れてしまうほどに。

違う・・と、忘れちゃいけねえな)

 この特別製の幽世を作ったのこそ独りになってからではあるが、幽世を作ること自体は神代の者なら誰だってできることだった。
 気楽に幽世を作って人を招くことなどよくあったし、このような事故が起こることはなかった。

 他にも細かな違和感はそこら中に散らばっていて、それを見つけるたびに樹鶴はどうしようもなく切ない気持ちになる。
 自分がヒトでないかもしれない、なんていうのはどうでもいいことだけれど――神代の彼らと同じように戯れられる同胞がもうこの現世のどこにも残っていないというのは、少し寂しい。

「も、もう大丈夫に御座います」
「あんまり無理をするんじゃないよ。ほれ、茶を淹れたからゆっくりお飲み」
「はい……かたじけのう御座います」

 小鹿のように震えている鏡椛の手に薬花を混ぜた茶をしかと持たせ、樹鶴は亀櫻の方へ向き直った。

「亀櫻は――うん、さすがに平気そうだね」
「おう。油断してた」

 指南役を務めて長いだけあって不測の事態には慣れているのだろう。
 赦しを与えたとはいえすっかりいつも通りの調子を取り戻し、ぐるりと首の関節をほぐしている。
 桜色の癖毛にいくつか花びらが乗っているが、頭を回すたびにはらはらと落ちるので、まるで亀櫻自身が桜雨を降らしているようだ。

 なんだかおかしくなってくすくすと笑えば、にやりと亀櫻の口角が上がった。
 なるほど、神妙な顔をしたのがバレていたようだ。

「ふふ……まずは一献、やるかい?」
「そうだなあ。このままはいサヨナラじゃ、無粋だもんな」

 そう言うと、ふたりは茶をすする鏡椛をよそに、ぱかぱかと樽を空け始めた。次から次へと手酌で掬っていくが、空になりかけるたびにどちらかがコンッと軽く樽を叩いて中身を足すため、ちっとも終わりは見えない。
 酒を飲んだことがない鏡椛でもわかる。あれはどちらも蟒蛇だ。
 父母や郎党が宴会で酒を飲む様を見たことがあるが、只人があんなに飲んだらまず途中でひっくり返るか吐くかして、酒宴どころではなくなってしまうだろう。

 まるで競うかのように酒を干し続けていた亀櫻の手が百回目の樽を叩こうとして、不意に止まった。
 まだまだ素面と言った様子の樹鶴に対して、亀櫻の顔は髪よりもずっと濃い紅色に染まっている。どこか熱を帯びた金銀妖眼が、うっとりと蕩けた。

「――なあ、樹鶴」
「なんだい」

「俺はさあ、アンタのことを好いてるよ」

 言葉と同時に男の大きな手がするりと伸びて、向かいに座っていた麗人の白い頬にあてがわれる。
 妙に、熱い手だった。

「おや、やっと言ったね」

 くつくつと、樹鶴が喉を鳴らすようにして笑う。
 亀櫻の眉が不服そうに歪んだ。

「茶化さないでくれ。本当に、好きなんだ」

 震える手も、潤んだ眼差しも、頬を滑り落ちる汗も。
 酔いに感情を溶かしながらも、これまで遠回しな秋波に少しずつ混ぜていた時よりはずっとまっすぐに、その真剣さは伝わってきた。

 だから、樹鶴は笑ったのだ。
 この男の、こんなに真剣な顔はひょっとしたら、初めて見たかもしれなかったから。

「茶化してない。確かに聞いた。そのうえで返事をするよ」

 熱い手の甲に、美しい手をあてがって――そしてそのまま、ぐい、と自身の頬からその体温を引きはがす。
 金無垢の目が、勝気に笑った。


「とうの昔にあのヒトに操を立ててんだ。他をあたりな、色男」


 この上ないほどきっぱりと。かねてからの思いのままに。
 可愛い弟子が玉のように大切にしていた慕情を、麗人は容赦なく打ち砕いた。




 どすん、と鈍い音を立てて、亀櫻が尻もちをつく。
 その顔には、涙も悔しさもない。

「は、ははは……なぁんだ。こんなもんか!」

 そう口から零れだした笑いと共に、どこかすっきりしたような笑みが咲いた。
 樹鶴は頬杖をついて、呆れたようにため息をつく。

「わかってたから玉砕しに来たんだろ。まったく、臆病だねお前は」

 きっと、この男は自分につがいがいることを知らなければ、こうして彼岸へ渡るための期限が迫る頃になっても、想いを告げようとはしなかっただろう。
 それが正答だというかの如く、桜色の髪の下の笑みがへらりとしたものに変わる。

「そこも、お見通し?」
「これでも親代わりのつもりだったんだが?」
「そりゃそうだ。――はーあ、彼岸で恋が見つかると思う? 師匠せんせ
「見つけようと思えばどうにかなんだろ。独り身であっちに渡った奴なんてごまんと居るしね。それに、見つからねえでも死ぬわけじゃねえんだ。気楽にやんな」
「ははは、こんなに説得力ないアンタ、はじめてだな」

 呵々と笑う色男の頬に、桜の花びらがぺたりとはりつく。
 まるで、涙のようだ。

「――ありがとな。餓鬼の妄言だって切って捨てねえでくれてよ」
「そこまで野暮じゃないよ。それより、鏡椛に話があるんじゃなかったのかい? ちょいと待たせ過ぎたから早くしねえと寝ちまうよ、あの子」
「おっとそうだった。なんだ、随分向こうに行ってんなアイツ」

 桜色の大男は、酔い崩れていた姿が嘘のようにすっくと立つと、夜の隅にある楓をぼんやり眺めている鏡椛の方へと歩きだした。
 すたすたと歩くその足取りに、怪しさはまるでない。

「まったく、酔ったふりもしなきゃ勢いがつけらんねえなんて……誰に似たんだか」

 なあ、と風が寄越した山吹の花面影草を杯に浮かべる樹鶴のその口元には、甘く苦い笑みが刷かれていた。
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