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亀櫻の頼み
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いくばくかの月日が流れ、追儺が終わったころの事。
まだ鏡椛の手習いも終わらぬ昼下がりだというのに、見世には亀櫻の姿があった。
突然姿見からその姿を現した桜色の大男は、どっかりと腰を下ろした後はピクリとも反応せず、むっつりと黙りこくったまま樹鶴の前に陣取っている。
「おうい。そろそろ喋らないか」
無言が返ってくる。
これではまるで山で拾ったばかりの頃に戻ったようなものだ。
どうしたものかと樹鶴が思案していると、鏡椛が「もう一度摘んでまいります」と言って席を立った。どうやら、最初に指示した薬草と良く似た毒草を間違って摘んでいたことに気づいたらしい。
日々目覚ましい成長をこちらの雛は遂げているというのに、この大きな図体の子供はどうしてくれようか。
(いい加減たたき出すか)
よいせと腰を上げかけ――そこでようやく、亀櫻は口を開いた。
「なあ、此岸の」
「なんだい。彼岸の」
呆れを滲ませながら返せば、金銀妖眼が珍しく至極真面目な色を帯びて樹鶴を真正面から見据えた。
「ひとつ、頼みを聞いてくれねえか」
「言ってみな」
聞ける願いかどうか判断もさせない気か、と続きを促す。
すると、いよいよ腹をくくったようにぐっと両手を床につけて、男はその言葉を告げた。
「アンタの『夜』……いいや。『墓』に、俺を加えてくれ」
一瞬、息が止まった。
瘡蓋に爪を立てられたような緊張と、誰もいない夕暮れの道に取り残されるようなよく見知った寂しさが、同時に心臓に触れたのがわかった。
細く、息を吐く。
「――わかった」
小さく、痛みを堪えるように、樹鶴は微笑んで頷いた。
ほう、と花蜜の靄を吐き出す。
了承したものの、鏡椛が戻ってこないうちにコトを進めるわけにもいかない。
山場を一つ越えたことで先ほどまでの緊張はどこかに消えて、二人はいつものように雑談を始めた。
「いつから気づいていたんだい」
屋敷の奥に置いた幽世のことである。
弟子たちには樹鶴にとっての回復場所であり、自分が消耗しきって倒れるようなことがあれば迷わず放りこめとだけ伝えていたから、存在を知っていること自体は驚きではない。あの場所を彼らが『夜』と呼んでいることも知っているし――亀櫻と同じように幽世の一部になることを選んだ弟子も何人かいた。
だが、つがいの『墓』であることを見抜かれているとは、思っていなかったのだ。
誰にも言ったことはないし、そもそもつがいのこと自体聞かれなければい言いふらす趣味もないため、それを結びつけることができる人間が存在するという発想自体がなかった、と言ってもいい。
問われた亀櫻は、茶で潤したばかりの唇を小さく歪めた。
「最近だな。アンタに嫁がいるって聞いてから、見てるつもりで見えてなかったアンタの色んな意味が分かるようになった」
喜ばしくも悔しいと言わんばかりの口ぶりだ。
けして嬉しいばかりではなかっただろう事実から目を逸らさなかったのは、矜持か――あるいは、覚悟を決めたからだろうか。
樹鶴はそっと目を伏せ、気恥ずかしさと苦々しさを茶と共に飲み干した。そして、吐息と共に言葉を吐き出す。
「……で。そんなことを頼むってことは、近いのか」
「ああ。もう【塾】のほうは配置換えは済んでる。あとは俺次第ってところだな。なんなら今日だって構わねえよ」
「――早いもんだね」
「長かったよ。さすがの俺も、もう無理だ」
ほら、と言って目の前に突き出された大きな手のひらが、樹鶴の視界を塞ぐことはなかった。
――手が、向こうを透かしていたからだ。
夏に着る紗のように、うすらぼんやりとその向こうにある亀櫻の顔の輪郭を見せている。
それは、鬼道にとっての一つの終わりの合図だった。
ぐっと伸びをして、桜色の髪をだらりと下げた頭がぼんやりと天井を見上げた。
「あーあ、俺だけはアンタより長く現世と関わり続けてやるつもりだったのになー。結局兄さんたちと同じかよ」
「随分もったほうだよ。あの乱世をはじまりから終わりまで超えられた鬼道はそう多くない」
「ずっとこっちに居続けたひとに言われてもなあ、慰めにしか聞こえねえや」
訥々と交わされる言葉の調子は、棺桶の中で白く光る打ち覆いのように、軽くも重い。
何度も体験してきた空気ではあるが、けして慣れるものではないと、この時が来るたびに樹鶴は実感する。
だからこそ、こうしてかける言葉はこれまでの何よりも柔らかくなるように、心から願うのだ。
「我だから言うのさ。よく頑張ったよ。安心して逝きな」
ああ、と応えようとした亀櫻の声を、ばさりと何かが落ちる音が遮った。
「え」
「鏡椛」
戸の方を見れば、足の周りに採って来たばかりの薬草を取り落とし、鏡椛が立ちすくんでいるのが見えた。
「亀櫻殿は、――病を、抱えておいでで?」
ふるふると青ざめながら唇と瞳を揺らす姿は、誰がどう見てもこれまでの会話を聞いていたのだろうとわかるそれだ。
誤魔化しようもない。
けれど、亀櫻はひらひらと右手を振ってみせた。
爛漫の桜に等しい笑みが、パッと咲く。
「ははは、違う違う。彼岸に定住するってだけだ。会おうと思えばいつでも会える。指南役を降りるわけでもねえ」
「狐の薬師殿がいただろ。あの人の嫁さんと似たようなもんさ。只人ならともかく我らにとってはちょいと遠くに住まいを移すくらいだよ」
どちらも、嘘は言っていない。
別に死ぬわけではないし、活動出来なくなるわけではない。
鬼道ものであるならば誰にだって訪れる、生涯の折り返しが亀櫻にも訪れた。ただそれだけのことなのだから。
けれど、大人たちの言葉に、雛はゆるく首を横に振った。
「ただ、それだけならば……、斯様に寂しき顔を、されましょうか」
鏡椛の顔は、泣きだす寸前で涙を忘れたかのように、切なく歪んでいた。
それは、正しく大人たちの表情を鏡の如く映した、痛みの顔だった。
――長い鬼道の生と言えど、友が遠のくのは寂しいことだ。
そんな図星を突かれた二人のうち、先に息を取り戻したのは樹鶴の方だった。
「……亀櫻。この子も同席させていいかい」
問えば、参ったとばかりに亀櫻も肩を揺らす。
「いーよ。俺もこのチビに伝えなきゃいけねえことがあるしな」
「ありがとう。――それじゃ、こっちだよ」
茶器を置き、煙管を振り、まだ日も高いというのに店仕舞いを始めた樹鶴に、鏡椛の目が瞬く。
「えっと、先生……?」
「ついておいで。我の大切な場所へ、お前さんたちを招いてやる」
そう言って立ち上がった樹鶴に、二人は慌ててその背を追った。
きいきいと鳴く廊下を渡り、奥へ奥へと進んでいく。
生きているかの如く絵柄の動く襖や、誰もいないのに人の影を映す障子などを容赦なく開け、樹鶴の足は真っ黒な壁の前で止まった。行き止まりのそこには、燭台が一つちょこんと置かれている。
「ここが、大切な場所に御座いますか?」
「マア、見てろ」
首を傾げた鏡椛と、低く呟いた亀櫻の前で、無言のまま樹鶴はその燭台にそっと青い火を灯す。
ぼう、っと光が薄暗かったその場に滲んだ。――そして、ただ黒かった壁が、蔦と花で出来た暖簾へと姿を変える。
「火が消える前に入りな」
こんな仕組みだったのか、としげしげと見つめる亀櫻と、何が何だか分からないと言わんばかりに目を白黒させる鏡椛を促して、樹鶴はするりと数日ぶりに幽世へと足を踏み入れた。
主の帰還を言祝ぐように花の香りで満ちた風が、柔らかく頬を撫でた。
まだ鏡椛の手習いも終わらぬ昼下がりだというのに、見世には亀櫻の姿があった。
突然姿見からその姿を現した桜色の大男は、どっかりと腰を下ろした後はピクリとも反応せず、むっつりと黙りこくったまま樹鶴の前に陣取っている。
「おうい。そろそろ喋らないか」
無言が返ってくる。
これではまるで山で拾ったばかりの頃に戻ったようなものだ。
どうしたものかと樹鶴が思案していると、鏡椛が「もう一度摘んでまいります」と言って席を立った。どうやら、最初に指示した薬草と良く似た毒草を間違って摘んでいたことに気づいたらしい。
日々目覚ましい成長をこちらの雛は遂げているというのに、この大きな図体の子供はどうしてくれようか。
(いい加減たたき出すか)
よいせと腰を上げかけ――そこでようやく、亀櫻は口を開いた。
「なあ、此岸の」
「なんだい。彼岸の」
呆れを滲ませながら返せば、金銀妖眼が珍しく至極真面目な色を帯びて樹鶴を真正面から見据えた。
「ひとつ、頼みを聞いてくれねえか」
「言ってみな」
聞ける願いかどうか判断もさせない気か、と続きを促す。
すると、いよいよ腹をくくったようにぐっと両手を床につけて、男はその言葉を告げた。
「アンタの『夜』……いいや。『墓』に、俺を加えてくれ」
一瞬、息が止まった。
瘡蓋に爪を立てられたような緊張と、誰もいない夕暮れの道に取り残されるようなよく見知った寂しさが、同時に心臓に触れたのがわかった。
細く、息を吐く。
「――わかった」
小さく、痛みを堪えるように、樹鶴は微笑んで頷いた。
ほう、と花蜜の靄を吐き出す。
了承したものの、鏡椛が戻ってこないうちにコトを進めるわけにもいかない。
山場を一つ越えたことで先ほどまでの緊張はどこかに消えて、二人はいつものように雑談を始めた。
「いつから気づいていたんだい」
屋敷の奥に置いた幽世のことである。
弟子たちには樹鶴にとっての回復場所であり、自分が消耗しきって倒れるようなことがあれば迷わず放りこめとだけ伝えていたから、存在を知っていること自体は驚きではない。あの場所を彼らが『夜』と呼んでいることも知っているし――亀櫻と同じように幽世の一部になることを選んだ弟子も何人かいた。
だが、つがいの『墓』であることを見抜かれているとは、思っていなかったのだ。
誰にも言ったことはないし、そもそもつがいのこと自体聞かれなければい言いふらす趣味もないため、それを結びつけることができる人間が存在するという発想自体がなかった、と言ってもいい。
問われた亀櫻は、茶で潤したばかりの唇を小さく歪めた。
「最近だな。アンタに嫁がいるって聞いてから、見てるつもりで見えてなかったアンタの色んな意味が分かるようになった」
喜ばしくも悔しいと言わんばかりの口ぶりだ。
けして嬉しいばかりではなかっただろう事実から目を逸らさなかったのは、矜持か――あるいは、覚悟を決めたからだろうか。
樹鶴はそっと目を伏せ、気恥ずかしさと苦々しさを茶と共に飲み干した。そして、吐息と共に言葉を吐き出す。
「……で。そんなことを頼むってことは、近いのか」
「ああ。もう【塾】のほうは配置換えは済んでる。あとは俺次第ってところだな。なんなら今日だって構わねえよ」
「――早いもんだね」
「長かったよ。さすがの俺も、もう無理だ」
ほら、と言って目の前に突き出された大きな手のひらが、樹鶴の視界を塞ぐことはなかった。
――手が、向こうを透かしていたからだ。
夏に着る紗のように、うすらぼんやりとその向こうにある亀櫻の顔の輪郭を見せている。
それは、鬼道にとっての一つの終わりの合図だった。
ぐっと伸びをして、桜色の髪をだらりと下げた頭がぼんやりと天井を見上げた。
「あーあ、俺だけはアンタより長く現世と関わり続けてやるつもりだったのになー。結局兄さんたちと同じかよ」
「随分もったほうだよ。あの乱世をはじまりから終わりまで超えられた鬼道はそう多くない」
「ずっとこっちに居続けたひとに言われてもなあ、慰めにしか聞こえねえや」
訥々と交わされる言葉の調子は、棺桶の中で白く光る打ち覆いのように、軽くも重い。
何度も体験してきた空気ではあるが、けして慣れるものではないと、この時が来るたびに樹鶴は実感する。
だからこそ、こうしてかける言葉はこれまでの何よりも柔らかくなるように、心から願うのだ。
「我だから言うのさ。よく頑張ったよ。安心して逝きな」
ああ、と応えようとした亀櫻の声を、ばさりと何かが落ちる音が遮った。
「え」
「鏡椛」
戸の方を見れば、足の周りに採って来たばかりの薬草を取り落とし、鏡椛が立ちすくんでいるのが見えた。
「亀櫻殿は、――病を、抱えておいでで?」
ふるふると青ざめながら唇と瞳を揺らす姿は、誰がどう見てもこれまでの会話を聞いていたのだろうとわかるそれだ。
誤魔化しようもない。
けれど、亀櫻はひらひらと右手を振ってみせた。
爛漫の桜に等しい笑みが、パッと咲く。
「ははは、違う違う。彼岸に定住するってだけだ。会おうと思えばいつでも会える。指南役を降りるわけでもねえ」
「狐の薬師殿がいただろ。あの人の嫁さんと似たようなもんさ。只人ならともかく我らにとってはちょいと遠くに住まいを移すくらいだよ」
どちらも、嘘は言っていない。
別に死ぬわけではないし、活動出来なくなるわけではない。
鬼道ものであるならば誰にだって訪れる、生涯の折り返しが亀櫻にも訪れた。ただそれだけのことなのだから。
けれど、大人たちの言葉に、雛はゆるく首を横に振った。
「ただ、それだけならば……、斯様に寂しき顔を、されましょうか」
鏡椛の顔は、泣きだす寸前で涙を忘れたかのように、切なく歪んでいた。
それは、正しく大人たちの表情を鏡の如く映した、痛みの顔だった。
――長い鬼道の生と言えど、友が遠のくのは寂しいことだ。
そんな図星を突かれた二人のうち、先に息を取り戻したのは樹鶴の方だった。
「……亀櫻。この子も同席させていいかい」
問えば、参ったとばかりに亀櫻も肩を揺らす。
「いーよ。俺もこのチビに伝えなきゃいけねえことがあるしな」
「ありがとう。――それじゃ、こっちだよ」
茶器を置き、煙管を振り、まだ日も高いというのに店仕舞いを始めた樹鶴に、鏡椛の目が瞬く。
「えっと、先生……?」
「ついておいで。我の大切な場所へ、お前さんたちを招いてやる」
そう言って立ち上がった樹鶴に、二人は慌ててその背を追った。
きいきいと鳴く廊下を渡り、奥へ奥へと進んでいく。
生きているかの如く絵柄の動く襖や、誰もいないのに人の影を映す障子などを容赦なく開け、樹鶴の足は真っ黒な壁の前で止まった。行き止まりのそこには、燭台が一つちょこんと置かれている。
「ここが、大切な場所に御座いますか?」
「マア、見てろ」
首を傾げた鏡椛と、低く呟いた亀櫻の前で、無言のまま樹鶴はその燭台にそっと青い火を灯す。
ぼう、っと光が薄暗かったその場に滲んだ。――そして、ただ黒かった壁が、蔦と花で出来た暖簾へと姿を変える。
「火が消える前に入りな」
こんな仕組みだったのか、としげしげと見つめる亀櫻と、何が何だか分からないと言わんばかりに目を白黒させる鏡椛を促して、樹鶴はするりと数日ぶりに幽世へと足を踏み入れた。
主の帰還を言祝ぐように花の香りで満ちた風が、柔らかく頬を撫でた。
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