鬼道ものはひとり、杯を傾ける

冴西

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番外:夫婦喧嘩は鬼も食わない 前

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 これは、美貌の鬼道が一人奮闘した記録である。

 時は、双子が涙ながらの再会を果たしていた時まで遡る。
 

「さてさて、姫君はうまくやれるかねえ……。マ、思っていたよりは大器のようだし、大丈夫か」

 そう言って歩き出した樹鶴は、もはや嵐の様相を呈している夜の海の目の前までやってきていた。
 黒くうねり白い泡を吐き出す様はもはや、波自体が龍の首のようだ。術で体の周りを取り巻く空気に膜を作っているとはいえ、世界自体をずらしているわけではない。風の猛烈な張り手を食らいながらも、麗人はやはりいつもの調子を崩さず腰に下げた煙管を銜えた。
 ほう、と花蜜の靄を吐き出せば、体から離れたそれは一瞬のうちに砕かれ消えていく。

「荒れてるねえ……。おーい! 旦那ぁ、何があったんだい?」

 黒い波の間に見えた大きな鱗に声をあげてみるも、返答はない。
 ただ、ひときわ大きな波が岩をあと少しで砕いてしまいそうなほどの勢いで大きく叩くのが見えた。

「……こりゃ姐さんのほうに聞いた方が早いか? しかし、こういう時に近づくと後が怖いんだよなあ」

 自分の気が立っているとき、それも喧嘩しているときにつがいに近づく輩がいるなんて、火に油を注がれるも同然だ。
 その気持ちは充分理解できる。たまたまここは雌雄でつがいになっているが、神なんてものは男も女も関係なく契りを結ぶものだ。樹鶴のように瞬きごとに性別が移り変わる体だろうが、無性無機物だろうが、そんなものは関係なく悋気の対象になる。

「明日を逃がすとしばらく潮の引きが甘いから、できりゃあ明日には終わらせえんだが……さて、どうしたもんかね」
「ん? その声は樹鶴かにゃ?」

 腕を組んで思案を巡らせていた樹鶴の耳を、にゃおんとくすぐる声があった。
 視線を落とせば、風をしのぐように物陰にその身をおさめながらこちらを伺っている黒猫がいる。漁師に魚をよく恵んでもらっているのか狩りが上手いのか、そこそこにふくよかだ。
 その姿自体には見覚えはない。しかし、その魂にはよくよく見覚えがある。

「……クロかい? 前は三毛だった」

 十年ほど前に最後に見かけたきり会っていない、小生意気なオスの三毛猫の名前だ。
 その前は白猫でさらに前はぶちだったその猫は、「名前通りの黒猫に生まれたいもんだ」と毎度嘆いていた変わり者だった。野良なのだから好きに名乗ればよいと言えば、「わかってねえなあ」とにやりと笑われたのを覚えている。

 黒猫は、そんな変わり者と同じ笑みを浮かべてにゃんと鳴いた。

「おう。今度こそ黒猫に生まれたおいらだ。なにしてんだよ、そんにゃところで。旦那の癇癪に巻き込まれちってもしらにゃーぜ?」
「お前さん、もしかして今回の喧嘩の理由知っているのかい」

 しゃっと跳びあがって泥だらけの体で肩に乗ってきた黒猫を清めながら問えば、こくりとその頭が縦に揺れた。

「知ってる知ってる。今回もくだらにゃーよ。龍の旦那が天女の姐さんに贈りものだって花を根こそぎにして渡したんだにゃ。しっかしそいつが姐さんの妹分が大事に育てていた花木だったもんでにゃ、姐さんが怒っちまったんだよ」
「旦那、謝らなかったのかい」

 樹鶴はクロの言葉に目を丸くした。
 絵島のそもそもの主である五頭龍はその昔、生贄をばかすか食っては土地を好き勝手沈めて回っていたような輩だったが、天女に一目惚れして好かれるために改心した――というのは有名な話だ。惚れた弱みという言葉がすっかり当てはまる夫婦であるので、喧嘩をしては龍が謝り倒して許してもらうのがお決まりと言っていい。
 だから狼の翁も早々に仲直りするだろうと踏んでいたわけで、それが謝らなかったというのは、いっそ珍しい話だ。
 その驚愕が理解できるのだろう。クロの口からも呆れたようなため息が漏れた。

「最初はおろおろしてたんだがにゃ、だんだん昔の怒りんぼが顔を出しちまったもんだから素直に謝れにゃーでいんの。もうおいらたちもみぃんな高台に逃げたぜ。明日の朝にはここらは大体海の底じゃねえかにゃ」
「そりゃ困る。アタシが依頼を受けた子が傍にいるんだ。沈められちゃたまらないよ」

 眉根を寄せた樹鶴に、クロの目が三日月のように笑った。

「それじゃ、宥める役は樹鶴に決まりだにゃ。よかったよかった。おいらたちも気ままな猫暮らしとはいえど、ここらの漁師がとる魚が暫く食えにゃくにゃるのは惜しかったんだ」
「……お前さん、最初からそれが目当てだね」
「対価には充分にゃ情報だったろ?」
「計算高い猫だね本当に」
「にゃんだ。足りにゃかったか?」

 樹鶴の姿をたまたま見つけたように声をかけてきたが、この分だとこの町に着いた時から様子をうかがっていたのではないだろうか。
 じっとりとした樹鶴の視線にも、猫は動じた様子はない。
 それどころか、一層笑みを深めて、こんなことを言った。

「んじゃ、一押ししてやるよ。――おーい! 龍のダンナ! ここに姐さんの間男がいるぜ!!!!」

 黒い波が、岩を砕いた。
 空に雷鳴が迸る。
 樹鶴は怒声を上げた。

「てめえ本当にふざけんなよこの猫助!」

 頭上に降ってきたそこらの丸太よりもずっと太い龍の尾を間一髪で躱せば、切り裂かれた空気が刃のように地面を抉り取る。
 殺す気満点だ。

「げっ、ちょ。――龍の旦那! 五頭龍の! アタシだよ! 樹鶴だ!」

 ぐおんぐおんと降りかかる尾を避け、うねる風に流されないように必死で体をさばき、合間合間に声を張る。
 けれど怒りに呑まれているらしい龍にはとどかない。ただでさえ硬い鱗が逆立ち、振り回されるたびに世界を削る。

「にゃははっはは、聞いてねえなあ。まあ頑張れよー。応援だけはしててやるからにゃ」
「あとで三味線にしてやるからな!!」

 いつのまにやら樹鶴の肩から退いて、すたこらさっさとクロが逃げていく。
 にゃはー、と風を縫って遠くへ走り去っていく背に毒を吐き、どうにか意識から追い出して――目の前の災害へと集中する。

 うねる波は雷鳴に光りながらも黒く、ずるりずるりと現れた長い体は天地を縫う。
 黒光りする鱗は鋭く、その一枚一枚が刃としての殺傷力を有していることを隠さない。
 雲と海の中から、火口に似た色の目が五対揃ってこちらを見ている。

 そのすべてが、樹鶴という命を摘むことに費やされようとしている。

「荒事は得意じゃないんだがね……。精一杯、抵抗するとしようか」

 深く、細く、麗人の薄い唇が息をする。
 丹田に力を入れて、力を全身に巡らせる。

 金無垢の目が、燃えるように輝く。

 ――罰を下さんと、雷鳴が轟いた。


 駆ける。
 足を薙ごうとした尾を跳んで躱し、踏みつけ、足場として空まで一気に駆け上がる。
 当然、その小さな羽虫を叩き落さんと蛇体はうねる。しなりを利用し、さらに跳ね上がる。
 獅子の牙を持つ頭ふたつがぐわとその顎を開いて挟撃する。しかし、大きすぎる竜頭だ。その間は長身痩躯と言えど縫うに易い。

 駆ける。
 駆ける。
 駆ける。

 飛べぬ身なれど、跳ぶことはできる。見せつけるように、野山を走り抜ける獣の如き足がしなやかに動く。

 乗られぬようにと激しくうねる鱗まみれの体に見切りをつけ、白い手が無造作に蓮華を宙に放る。
 ひ、ふ、み、よ――無数の蓮華が宙に咲き、踏みつけられては黒い海へと落ちていく。

 絡まった己の首を見放して、残りみっつが襲い来る。

「――なんだ、鈍いな」

 血が滾る。
 カミを相手取るなんぞ幾つ命があっても足りないが、鬼ごとならば遊びも遊び。
 人を久しく食っていない龍は、思っていたよりもずいぶん遅い。

 また一歩、宙に散らした蓮華を踏みつけ、射干玉の鬼が嵐の夜を舞う。

「鬼さん此方――って、鬼道が龍に言うんじゃしまらねえなアッ! と」

 冷や汗ものの鉄火場で、熱に侵され体が熱い。
 吠えれば、尾が袖をもぎ取った。
 頬を鱗にそがれ、血が一瞬遅れて噴き出す。

 ぬるりとした鉄のにおいに、麗人が凶暴な笑みを宿した。
 闘争を愉しむように犬歯を剥き出しにして、爛々と目を光らせる。

 命が散るかの瀬戸際でこそ咲けよと、紅い血化粧が理性を狂わす。
 鬼道にとって、血と鉄は毒だ。
 弱らせ腐らせ、死を招く。そんな赤い毒。

 そして――弱った獣ほど暴れるものだ。
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