鬼道ものはひとり、杯を傾ける

冴西

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絵島詣でと縁の糸 (8)

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 夜の暗い緞帳が上がり、太陽が海面を煌めかせる朝が来る。
 地面に残った水たまりには雨に洗われて一層澄んだ秋晴れが映り、快晴の一日の始まりを告げる。
 そんな透き通るような空気の中、引き潮により島と本土との間に白い道が一本すうっと現れているのを見て、樹鶴は満足げに頷いた。

「うん、この分なら龍窟へ入るのにも難儀しなさそうだね」
「絶好の絵島詣で日和というやつじゃの」

 鏡椛と話すための名目であったとはいえ、ここまで来て絵島に参詣しない手はない。
 森がぽつんと海の上に浮かんでいるような絵島には人の手による三つの宮が点在しており、参道を通されたことによって下ノ宮のみ詣でる人間も増えたが、どうせならとももの希望もあって一行は絵島信仰の本宮たる龍窟を目指すこととなっていた。
 龍窟は最も陸地から遠く海に面した岸壁にぽっかりと空いた洞窟、すなわち岩屋である。季節や時刻によっては海水が満ちる龍の巣とも語られるが、住んでいるほんにんは昨晩の内に他の宮に天女と共に入れておいたので害はない。
 他の参拝客がえっちらおっちら宮へ通じる参道を上っていくのを尻目に、樹鶴はひょいと子供二人をその腕に抱え上げると、草の一本もない岩礁へと続く脇道へと進んでいく。
 きらきらと目を輝かせた子らから時折、「おお」と歓声が上がるのを聞きつつ、樹鶴はごつごつとしたその岩場を何食わぬ顔で歩いていく。
 本来は社の主たる神らに挨拶の一つでもするのが鬼道であっても道理ではあるのだが、昨夜のうちに入島する了承も得ているし、仲直りをしたばかりで甘ったるい空気の漂う社の傍を通るのは自分にとってはいささか辛いものがある。なによりおそらく視えてしまうだろう鏡椛が気の毒だ。
 毎度の事とはいえ、刺激が強い。

 色々憧れを抱いているらしい只人の百には到底言えないことではあるが。
 
 そんなことを考えているうちに岩屋の前にたどり着いた樹鶴は、「手早く済ませましょうね。他の人間が来て厄介ごとになってもいけない」などと言って懐から蝋燭を取り出すと、ぽっと無手から炎を出して火を灯した。
 鬼道ものに旅の案内や護衛を頼むのは少なくない事ではあるが、修行場の一面を持つようなところに連れてくるのは、実のところあまり好まれてはいない。
 難所を難所と思わぬ鬼道に手引きを頼むというのが怠惰に見える、というのが主な理由である。それ自体はもっともであるが故に鬼道側も何とも思ってはいないのだが、わざわざ旅先で場を乱すのも忍びない。
 それを承知しているのだろう百も素直に一つ頷いて、渡された手燭をきゅっと握りしめた。

「この先は、ひとりじゃったな」
「ええ。一本道になってるんで、ぐるりと龍の腹の中を巡ってきて下さい。それで願掛けは終わりになります」
「わかった。行ってくる」

 未だ姫姿なれど勇ましく頷いて、さっと歩き出した百の背中を若武者姿の鏡椛が不安げに見送るというなんとも奇妙な光景に、樹鶴は小さく笑いを零した。


 そう時間を置かず、百は洞窟からその姿を現した。
 日の光がちかっと目に入ったのをきっかけにして、緊張していた面持ちが小さく緩む。

「戻ったぞ」
「お疲れ様でございました。舟の準備は出来てるんで、行きましょうか」

 ひょいと樹鶴が指を振ると、木陰岩礁のくぼみに隠してあったらしい小舟がひとりでに動いて三人のすぐそばにその身を寄せた。
 へりに足をかけた樹鶴の手を取り、百がぴょんと舟へと移る。次いで鏡椛も足を舟におろそうとして――ぴたりと止まった。

「……あれ? 龍窟以外の宮には参詣なされないので?」
「……そういえば、そうじゃな?」

 龍窟以外の宮は修行場というよりも参詣する場であることに気づいてしまったらしい。
 どう言ったものかと曖昧に美貌で微笑みの形を作って見るも、不思議そうな二人の目は言い逃れを許してくれそうにない。

 仕方ない、と腹をくくった樹鶴の耳に、にゃぁんと鳴く声が聞こえた。
 ふい、と燐光を持たない目がずれ、樹鶴の足元へと向く。

「おや、猫じゃ」
「……猫?」

 鏡椛はどこか不思議そうに首を傾げる。
 胸を撫で下ろしながら、樹鶴は救い主になったその猫へと視線をおろした。

 見覚えのある黒い毛並みに、ぎゅっと眉に力が入る。

「げ」
「随分な反応をしてくれるじゃにゃいか、樹鶴。昨日はあんなに一緒に頑張ったってのにさ」

 黄色い目がにんまりと笑って、まあまあ肥えてはいるがしなやかさを失ってはいないその体がぴょんと跳びあがり樹鶴の肩へと着地する。
 秋の海の冷える風にちょうどいい体温ではあるが、ずっしりとした重みが肉に食い込んだ。

「喋ったぞ!」

 興奮した様子でがたんと舟を揺らした百を支えるように、鏡椛の薄い体もその中に納まる。
 しかたなしに舟をこぎ出せば、耳元でごろごろと猫の喉が鳴った。

「あれ、百にも聞こえているの?」
「む? ……そういえばそうじゃな?」

 にゃあと鳴く音と重なって声が聞こえていることに今回は気づけたらしい鏡椛が首を傾げれば、同じ大きさの頭を同じ角度で百も傾げる。
 実は自分は只人ではないのだろうかとさえ言いたげなまなざしに、樹鶴は苦笑した。

「ああ……お前さんたちは魂の波がよく似てるからね。一緒にいるとお前さんが見聞きしたものを伝えることができるんだろ」
「昔はそのようなことは……」
「お前さんの鬼道としての力が研がれたからだろうよ。もっと研ぎ澄ませれば伝わるものを選べるようにもなるかもね。三つ子あたりが似たようなことをしていたはずだから、今度聞いてみな」
「! はい!」

 本人にどれほど自覚があるのかは知らないが、呪いを呪いとして見ない本来の持ち主の元に縁が返ったことで、鏡椛の力は夜が明ける前とは比較にならないほど澄んでいる。話を聞いた限り、記憶を閉ざす前は百への執着を覗けば割と鬼道らしい奔放な子供であったらしいから、本来の勘を取り戻した、と言うべきだろうか。
 問題が一つ片付いたことに小唄でもうたいたい気分になったが――今は肩の猫をどうにかしなければならない。

 べろべろと、ざらついた舌で頬と首とを舐めてくる。
 潮風で変に冷えるからやめてほしい。

「おい、樹鶴。おいらのことを無視すんにゃ」
「……はあ。何の用だいクロ。昨日の対価は昨日の働きで充分だと思うが?」

 フシャアと鳴くそいつ――クロに視線を向ければ、立てようとしていたらしい爪が引っ込められる。
 黄色い目が、三日月のように細く弧を描いた。
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