鬼道ものはひとり、杯を傾ける

冴西

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影取の池(3)

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 真っ赤に泣きはらした目元を、蛇の舌があやすようにちろりと舐める。
 自分を丸ごと飲んでしまいかねない大きさのあぎとが、自分に食って掛かることはないと知っているとでもいうように、おしろは蛇体に頬を摺り寄せた。その姿は、種族を超えた母娘のようですらある。

「おはんさんとは、おっかさんが死ぬ少し前に、初めて会ったんだ」

 雨の降っている日だったという。
 冷えた空気に震えながら身を寄せ合う家族に少しでも暖を取ってもらおうと、お代は枯れ葉を集めて回っていた。
 もうお代は多少濡れているくらいならば水遊び・・・の応用で水気を飛ばしてやることはできるようになっていたし、小さな火花くらいならば何もなくても熾せる。あとはつけた火を保つものさえ揃えば、そう裕福でもないお代たちであってもあたたかく過ごすことができるだろうと思っての事だった。
 何枚目かの枯れ葉を拾い上げた時、そこに半透明の尾が見えた。
 お代の手でようやく握れるかどうかというほどに太いが、どこからどう見ても蛇の尾だ。
 好奇心に駆られたお代は、その尾をたどっていった。――その先で、ぐったりと倒れているおはんと出会ったのだ。
 
「おはんさんは優しかった。でっかい体におっかなびっくり接してたおらを許してくれて、うまく術が使えなかった日はここにつれてきて慰めてくれた。おっかさんが死んだ日には、ずっとそばにいてくれるって約束してくれた」

 おはんは、人の言葉を発することはできないけれど、思念を伝えることはできるし、仕草でも出来る限り人に伝わるように工夫してくれるのだという。元々思念を受信しやすい鬼道であれば、交流を持つのに十分すぎるほどだ。

「せんせい、樹鶴さま……おらは、おはんさんとずっとずっと一緒にいたい。それは、いけねえことか?」

 人蛇一体とでも言わんばかりにおはんの体にひしと抱き着いたお代の目は、絶対に譲らないとばかりに爛々と輝いていた。

「まいったね……」
「どうしたもんかなぁ」

 魅入られているは魅入られているのだが、予想していた方向とは違う――お代の方から依存していったと思われるその言動に、親鳥たちは揃って頭を抱えた。
 あやかしの甘言に流されているならば説得のしようもあるが、どうにもお代が滔々と語っている間に困ったように揺れていたおはんの尾っぽからするに、あの大蛇は本当に親切心から優しくしただけなのだろう。たぶらかすつもりもなく、どちらかと言えば泣く子供をあやすつもりで伝えた思念がお代の胸に空いていた穴にぴったりはまってしまったように見える。
 つくづく、優しさによって事件を引き寄せてしまう性質をおはんは持っているらしい。

 こめかみを揉みほぐしながら静止した師の横顔に、鏡椛が不思議そうに疑問を呈した。

「このまま、おしろさんとおはんさんを一緒に居させてあげることはできませぬか?」

 鏡椛の目から見ても、お代とおはんは仲睦まじく、けしてお代に害をなすようなことはしないだろうというのはよくわかった。ならば、べつにあやかしだろうと一緒に暮らしていけばいいではないか。といった調子である。
 それこそ、ばけもの屋敷で暮らしている樹鶴のような鬼道ものもいるし、あやかしを使役にしているものもいる。ならば共にあることは決して不可能ではないはずだ。けれど、樹鶴の浮かない顔は晴れない。

「できなくはねぇが、難しいね」
「なにゆえ?」
「おはん殿の方がモノとして強いからね。望む望まぬに関わらず、このまま放置しちまうとお代がおはんの傀儡になるか、死に至るか……。よくてあやかしになるか、だね」
「あやかしになったとしても眷属扱いだろうからなぁ……おはん殿があやかしの類としてはそこまで強くねえから、その下となると常世で無事に生き抜くのは難しいだろうよ」

 あやかしに堕ちて生きるものもいないわけではないが、大体の場合は嫁入り、あるいは単独での零落である。前者であれば伴侶のあやかしが持つ領域に囲われることで保護されるし、後者になるものはそもそも負けない自信があるから常世まで堕ちることが選択肢に入るような輩だ。どちらも眷属として手足となって働くなんていう無防備な状態とはワケが違う。
 もう少しだけ成長していればお代がおはんを従える道もあったかもしれないが、現状ではどう誓約をしたとしても、逆転してしまうのが関の山だろう。

「そんな……」
「おら、それでも構わねえよ」

 静かな声で言い放ったお代の言葉に滲む、鏡椛が小さく息をのんだ。その声に滲む、異様な迫力を感じ取ったらしい。
 びくりと震えた腕の中の小さな体を撫でながら、樹鶴は目の前で強がるようにこちらを見据えているもう一人の幼子へと視線を落とした。震える小さな肩を蛇の尾が心配そうに撫でているのにも気づかない様子で、お代は言葉を喉からせり上げている。

「置いて逝かれるくらいなら! 人形だろうがあやかしだろうが……し、死のうが、構わねえんだ」
「そんなことを言うもんじゃないよ。お代」

 樹鶴は一歩、蓮の花から足を踏み出した。その爪先が水面に落ちることはない。その足を汚さぬようにと新たな花がぽっと開いては一歩進むごとに散華する。
 風もないのに揺れる黒髪が月光を受けて艶やかに輝いて、動くたびに華が舞う。そんな神仏の化身のように侵し難い姿に、お代はたじろいだ。
 それでも、容赦なく樹鶴の歩みはお代とおはんの元へと向かう。

「置いて逝かれたくないからって、別の怖いことに縋って自分の心を捻じ曲げるなんざ、アタシたちには毒だ」

 叱るような響きはなく、ただ事実を淡々と突きつけるようなその声は、それゆえに幼子の胸を抉った。こうと決め、自分は間違っていても貫くのだと頑なであった心に、小さな穴が開く。

「でも、でも……。じゃあ、どうしたら、おらは」

 迷子の声だった。
 助けて、と言わんばかりに伸びた小さな手を、樹鶴の手が取ろうとする。

 それを、止めるものがあった。

「俺も樹鶴も、呑み込んできた奴だから、示せる道を持ってるわけじゃあねえけどさ。なあ、お代よ。――手前、さっきから自分の事ばっかだなァ」

 桜色の髪の下、金銀妖瞳がぎらりと光る。
 かつて鬼と呼ばれ京のお山を騒がせていた男が、犬歯を見せつけるようにして言い放てば、樹鶴はぎゅっと眉を寄せて振り返った。

「亀櫻。およし」
「いいや。伝えるぜ先生。コレは癖になると厄介だろ」

 そしてそれは、自分の役割だ。そう言わんばかりにそれまで動かずにいた中空からふわりと飛び上がり、樹鶴と入れ替わるようにして自らの教え子の前に立ちふさがった。
 柳のような痩身長躯の樹鶴とは違い、亀櫻は厚みのある体をしている。その分威圧感があるのだろう。ぬっと自分たちを頭から覆ったその影にお代はぴぅ、と奇妙な息を漏らした。

 そんな師弟の様子を見て、樹鶴はそっと息をつく。

「……好きにしな。その子の師匠はアンタだからね」
「ありがと、先生」

 にっと笑うその顔は人懐っこい。その切り替えの早さに呆れていれば、桜色の頭がぐっと位置を下げた。いつだか鏡椛の顔を覗き込んだ時にもした、蹲踞に似た柄の悪い大股開きの姿勢だ。周囲が森であるから、今回は狒々や猩々の類にも見える。
 さすがに見慣れているのか、それがただ視線を合そうとしているだけであるのを知っているらしいお代は、気まずげではあるがゆっくりとその目と視線を絡ませた。

「お代。自分のことでいっぱいいっぱいなのはわかるけどよ、おはん殿の気持ち、考えたか?」
「おはんさんの、きもち……?」
「応。手前が最初に言ったように、おはん殿が不憫だのなんだのと思いながらやってんなら、マァいいさ。あんまりそればっかなのはどうかとは思うが。まだおはん殿に添ってる。だから俺らは一回見逃してやろうかとも思った――でもよ。本音が今の『置いて逝かれるのが嫌』ってだけなら、見逃すわけにゃあいかねえ」
「そ、それは」

 荒っぽい口調とは裏腹に、言い聞かすように紡がれる言葉が、苗木に水をやるようにお代に注がれていく。
 睫毛羽で囲われた目が、大きく揺れた。

「なあお代。もうわかってんだろ」

 促すようなその声に、小さな頭がこくん、とゆれた。

「……うん」

 ぽたりぽたりと、涙が落ちる。
 寂しいからでも、苦しいからでもない――新しい涙が、女童の頬を濡らした。

「おら、おはんさんをまた寂しくしちまうことを、しようとしてた」

 ぐっと息がつまったその背を、戸惑うように揺れるおはんの尾が撫でる。その優しさが、さらにお代の罪悪感を煽った。

「自分が怖いと思ってることを、おはんさんに味わわせようとしちまってた!」

 ごめんなさい。と、叫ぶ大きな泣き声が、静かな森に反響した。




「どういうことに御座いますか?」

 泣きじゃくる子供と、それをわしゃわしゃと撫でて下手なんだか上手いんだかわからない慰め方をしている色男を眺めていると、隣で事態を掴めていないらしい鏡椛が小首をかしげた。

「ああ……まだ鏡椛には教えていなかったか。簡単に言えばね、あやかしの影響を受けてその下で常世に与するモノに変性すると、『親』にあたるあやかし以上には生きられない体になるんだよ。傀儡になるのも眷属としてあやかしになるのもこれにあたる」
「つまり、このままだと……必ず、おはんさんよりも先にお代さんが死んでしまう、ということであっていますか?

 くるりと宙に図を描けば、確認するように言葉が返ってくる。こういったことへの理解は早い。

「あっているよ」
「なるほど。だから亀櫻殿は叱っておられると」
「んー……マ、そんなところかね」

 それ以外にも個人的な感情があってのことだろうが、それを樹鶴が掘り下げるのは藪蛇というものだ。

「さて、気づかせたのはいいが……どうしようかねえ、これ……って、ん?」

 なんだか解決した風になっているが、お代とおはんの縁は切れていない。ともにこんな領域を作れるほどに魂が絡んでしまっているのだ。このまま切っても、お互いが無意識のままに同化していくようなことが起きてしまうというのは充分に有り得る話だろう。
 そんなことを思っていれば、しゅるりと何かが這う音がした。

「先生?」
「鏡椛。少し静かに待っていておくれ」

 いつのまにやらお代から離れてこちらに寄ってきていたらしい、おはんの楚々とした姿が、そこにはあった。

 おはんの黒々とした目が樹鶴の金の目を見据え、思念を伝えてくる。お代相手には仕草も必要だったようだが、より自然に近い古きものである樹鶴にはそれだけで十分だった。

「……いいのかい。おはん殿」

 樹鶴達からしてみれば、願ったりかなったりの申し出だ。
 けれど、おはんにしてみれば何の得もない。

 痛ましいものを見るように目を細めた樹鶴に、しゅるりとまた一つ、おはんの思念が届く。

 ――きにしないで。だいじょうぶだから。

 そう語り掛ける思念には、小さな微笑みが一匙まぎれているようにも思えた。
 これ以上は無粋であるし、侮辱になろう。あらためて、樹鶴は深く頭を下げた。――礼であり、謝罪として。

「ありがとう。心優しい我らが友よ。恩に着る。それと……あの時は助けてやれねえで、すまなかったね」

 ――べつにいいのに。だって、あのときおとうさまをよんでくださったの、あなたでしょう?

 謝罪を意外そうに受け取って朗らかに笑う、満足げなその声には、恨みも悲しみも、一匙だってありはしなかった。
 無垢に、無邪気に、稚く。美しい大蛇はあの日、青空の下で懐かしい顔を見て逝けたことだけを胸に、前を向いていた。


 その姿に、樹鶴は感嘆したようにほう、と息を漏らした。
 なるほど、元は神の眷属であるというのも納得がいく。神仏のようだのなんだのともてはやされてきたものの、こういったことは自分にはないところだ。

(やはりモノが違うよなぁ、こういうのとは)

 一人頷いていれば、ひぅく、ひっくと散々泣いて、しゃくりあげるようになってきた声が聞こえてきた。どうやら大泣きは終わったらしい。
 しんみりとした空気が散って、樹鶴はひとつ微笑む。

「亀櫻。お代。そのくらいにしてこっちにおいで」

 桜色の大男と子供を手招いて、促すように麗しい鱗を月光に輝かせる大蛇を示した。

「おはん殿が、ふたりに話があるってよ」

 
――――
――

 翌日の夕方。
 いつも通り一通りの手習いを終えて帰っていく子供たちの背中を眺めながら、亀櫻はぽつりとつぶやいた。

「まさか、こうなるとはなあ」

 視線の先には、お代がいる。そしてその着物の肩には、小さな――お代の首元を一周巻ける程度の大きさの――白蛇がちょこんと頭を乗せていた。
 あの時おはんが提案したのは、自身の体を極限まで縮めて、お代が自分を上回るその時まで力を封印するというものだった。
 なるほどそうすれば、おはんにお代を引きずるほどの力は無くなる。いわば通常の鬼道とあやかしが結ぶ使役の宣誓とそう違いはない。

「あやかし側がおはん殿だったから出来た芸当だね。他の奴なら、わざわざ雛のために自分の力をごっそり削るなんて真似、まず考えもしないだろ」
「……俺たちも、考えもしなかったしなぁ」

 どこか悔やむような響きを持っているその言葉に、樹鶴は苦笑した。

「力を削る、ってのはアタシらにとっては死にに行くのと同義だったからね。あやかしの愛が、こっちと同じ保障なんざありもしないし」

 悔しがることではないのだ。自分たちはそうしなければ死んでしまう、という経験が幾年月もかけて降り積もっていたから、そう判断したに過ぎないのだから。
 そもそも、出生から育ちまですべてが徳に満ちていて、無知以外に責めるところのないおはんに優しさで敵おう、なんていうのはそれこそ千年かけたって自分たちにはできないことだろう。

「なあ。甘いと思うか? 見逃すなんて」
「いいや。古い、淀んだ空気なんぞサッサと吐き出すのが吉なんだ。いい風が吹いてきたってことだろ。共存・共生ができることに越したことはねえよ。それに――もしもの気配がありゃ、それこそアタシらの出番だ」
「ん、そっか。そうだよな」

 これまで幾度も苦しんで、傷つけあった時代が終わるならば、こんなにいい日はない。
 せっかく戦続きの世が終わったのだから――自分たちだって、太平の世を楽しんだって罰は当たるまい。

「願わくは、あの心優しい子供たちに少しでもあたたかな明日があらんことを」
「願わくは、大蛇退治なんてことをする日など永劫訪れないさいわいを、あの子らに」

 花が舞う、風が踊る、光がほのかに歌い、子らを取り巻く。

 いつものように呵々と笑って、親鳥たちは夕景に駆けていく子供たちを言祝いだ。
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