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影取の池(1)
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「で、どこにいた?」
「常世と現世の隙間を縫って移動してる。常世に沈もうって動きには見えねえから、現世で落ち着ける場所を探してるってとこだろ」
亀櫻に問われ、樹鶴は髪についた花びらを消しながら答える。
常世――あやかしの世界にお代を連れて引っ込もうとするならば急がなくてはならなかったが、現世に向かっているならば話は別だ。こと現世においてならば、この世界に適合した肉体を持って生まれた鬼道のほうが優位である。
「じゃあ現世からだな。こいつ姿見には入れねえし」
「そうだね。そろそろ介添えがありゃいけるかもしれねえがここで博打を打つ必要はねえよ。――鏡椛。これ指に嵌めな」
ひょい、と幼い手に投げて渡されたのは、小さな革製の環だ。ちょうど、鏡椛の人差し指にぴったりの大きさに見える。
「これは?」
「お守りと目印。いや、命綱か。ちょっと荒く跳ぶから我と繋ぐためのもんだよ」
「えー、師匠。俺もそれほしい」
「お前さんは自力で合わせな。そんなこともできねえ奴に育てた覚えはないし、雛たちを預けた覚えもない」
甘えるようにすり寄った大きな体をぐいと押しのけ、樹鶴はスタスタと見世の中を闊歩し、こんっと壁を叩く。すると、何もなかったそこが瞬きのうちに障子張りの戸へと姿を変えた。
悪戯好きの――けれども、すべての距離を無とする件の障子だ。
歯牙にもかけられていないものの、の弟子として最大限の親愛を受け取ったことに満足したらしい亀櫻もすっと樹鶴の横に並んだ。遅れて、鏡椛がぱたぱたと打掛の傍に近寄ってその裾を掴む。
準備はできた。
「――じゃ、行くか」
亀櫻の声を合図に、樹鶴が障子の引手に手をかけた。
「影取の池へ繋げ」
からりと開かれたその先には、鬱蒼とした森が夕闇に照らされて黒くざわめいていた。
とん、と地面に降り、鏡椛を抱き上げる。ここからどう動くにしろ、鏡椛の身の丈では背の低い木や長い草で行く先を阻まれる可能性が高い。
時々山に薬草を見に行くときなどに同じようなことをしているからだろう、特に抵抗することもなく鏡椛は落ちないようにきゅっと樹鶴の墨染の衣を握りしめた。
空自体はまだ太陽の名残も満天で明るいが、夕暮れ時特有の薄暗さが木々の影と呼応してひときわ暗く感じる。
「ん? なんだ、障子の奴少しずれたね。いや。池の方か」
水のにおいの遠さに眉を顰めれば、肩のあたりがくんっと引かれた。
「先生。不勉強で申し訳ございませぬ。その、影取の……とは?」
「ああそうか。お前さんは知らねえか」
おずおずと尋ねた鏡椛に、樹鶴は一つ頷いた。
噂の話を聞いたときのことを思うに、若くても鏡椛の祖父母くらいの年代でなければ知らない者がいてもおかしくない年数が経っているのだ。
「ちィと前の、昔話だな。一匹の思慮深い蛇が起こした……まあ、俺にいわせりゃ、あれは事件ってより事故だが」
「コトが起こっちまった事には変わりはないよ」
「えっと……?」
首を傾げた鏡椛の頭をぽふぽふと撫でて、桜色の男が少しだけ悲しそうな顔で笑った。
「今はもう、どこにもいなくなってしまったはずの蛇の話だよ」
そう言って、亀櫻は一つの昔話を始めた。
――――――
――――
――
今は昔、東国の片隅にあるその村には、それはそれは裕福な名主がいた。
気前もよく、周囲によくよく好かれたその家では、一匹の蛇を飼っていた。
その蛇はたいそうな大喰らいで、日に樽いっぱいの鼠と卵を三杯も四杯も平らげた。そのためその体は丸太のように太く長く成長し、とぐろを巻けば小柄な人間ならばすっぽりと覆ってしまえるだろうほどになっていた。
そんなに大きな蛇ならばさぞ恐ろしかろうと思うだろうが、見た目に反してこの蛇は大人しい気性をしていた。加えて賢く、そこら一体の米俵を荒らす鼠を自分から率先して喰ってまわっては、また名主の屋敷にある自分の檻へと帰っていったというから、これを嫌うものの方が少なかった。
そんな蛇は名主の一家にたいそう可愛がられ、ついには『おはん』という名前を貰うほどであった。
さて、この蛇がいたと言われる時代は、群雄割拠のもののふ達こそが主役とされる血華に彩られし戦国の世であったという。
そして同時に、戦の多かったこの時代は庶民にとっては、飢饉を繰り返した時代でもあった。
おはんを飼う名主は多少の飢饉ではびくともせず、おはんを養うのにも困ったためしはなかったのだが、その年の中ごろに起こった飢饉はいつもよりも少しばかり大きく長いものだった。
もとより人のいい名主は、自分たちのたくわえを周りの百姓らにも配って回った。けれど、それも次第にできなくなっていった。
おはんは、次第に窮していく飼い主たちの様子を見て、家を出ることに決めた。
仮に、名主たちが自分の大きな体を食おうとしたならばこれまでの恩もあると差し出す覚悟であったが、彼らは自分たちがどれほど餓えてもそう言ったそぶりは見せなかった。それどころか「おはんが不憫だ」と自分たちの食い扶持さえわけようとしたのだ。
それゆえ、おはんは恩を仇で返す前にと野生に戻ることとした。
――けれど、飢饉はそんな種族を超えた彼らの想いなど嘲笑うように、中々終わらなかった。
おはんは餓えた。野鼠も鳥も、みなバタバタ死んでいく。死肉を漁り、本来食べない魚や木の実、泥だって口にした。それでも、大きな体には間に合わない。
困りに困ったおはんは、とある池にたどり着いた。池の中で飢饉が終わるのを待とう。そう思って、静かに眠りについた。
あくる日、その池のそばをふいに旅人が通りかかった。
旅人は息をひそめたおはんに気づくことなく、池を覗き込んだ。
おはんの前に旅人の影がぬっとあらわれた。
――影ならば、食べても大丈夫なのではないか。
餓えに餓えた蛇は、がぱりと口を開けてその影を飲み干した。
旅人は影が食われたことに気づかず、その場を立ち去って行った。
それから蛇は影で空腹を満たした。
ぱくり、ぱくり、ぱくり。
池を覗き込んだものの影だけを、つつましやかに。
そんな日々を過ごしていた。
それからどれほど経ったであろうか。飢饉も落ち着き、徐々に野山に小動物が戻り始めたころになって、にわかに池の周りが騒がしくなった。
警戒したおはんは深いところに潜ってやり過ごしていたが、その日はどうにも聞き覚えのある声が聞こえた。
飼い主であった名主の声だ。
――おはん、おはんやーい
呼ばれている。
大蛇は嬉しくなって、水面からそっと顔を出した。ああ、懐かしい顔が見え、
――ダァンッ
想いを断ち切るように、高く青い空と思考を貫く音がして、おはんは火薬と血の匂いの中に倒れ伏した。
逆さになって光をなくしたおはんの目には、細く煙を吐く筒を持って向こう岸で歓声をあげる人間の群れの姿が、映っていた。
――
――――
――――――
「ど、どうしておはんさんは討たれたので!?」
「影を食っちまったからなあ。噂が立ったんだよ――あの池には何やら影を取る恐ろしい怪物がいるぞ、ってな」
「それだけで。なんと、むごいことを」
ざくざくと歩を進めながら語った亀櫻の言葉があまりにも名調子だったせいだろう。すっかりその時の様子を大蛇の視点で想像できてしまったらしい鏡椛が、義憤や悲哀たっぷりの表情で涙目になった。
それに楽しそうにする亀櫻に白けた目線を流しつつ、樹鶴はぽつりと呟いた。
「むごいかねえ……。ああ、着いたよ」
すべての輪郭が曖昧になりそうな霧の只中に足を踏み入れていた彼らの前に、ぽっかりとそこだけがくりぬかれたように鮮明な景色が広がっていた。
それは――森の合間に広がる、静かな池だった。向こう岸はそこそこ遠く、泳ぎの達者なものでなければ溺れる者もいるだろう。
「……うん、影取の池だね。あの頃のまんまだ」
おはんが影を食っていた影響で、影取池と呼ばれるようになったその池は、おはんがいなくなったしばらくあとに紆余曲折あって埋め立てられてしまい、今はもうない。
けれど、目の前にあるのは間違いなく、在りし日に蛇が住んでいた池そのものである。
(随分はっきり作ったもんだ)
あと少し遅れていれば只人を招き入れていたかもしれないと思うと、背筋に冷たいものが伝うほどの鮮明さである。末恐ろしい限りだ。
そんなことを考えていれば、ふっ、と体が浮く感覚があった。足元の地面が掻き消える。代わりに、池の水面――その最も暗い水面が三人の足元へと移動した。
(ズラして落とそうってか)
ぽっかりと口を開けたようなその水に触れる間際、大人二人はひょいっと足を折り曲げその場から浮き上がった。
樹鶴は大きな蓮の花を出してその上に鏡椛ともども飛び乗り、亀櫻はふわりと風に乗って浮き上がったという差こそあれど、その程度の術の使い方に手古摺ることはない。 わずかに水面から浮いて、凪いだそこを微塵も揺らすことのない蓮の花の上で、鏡椛は目を瞬かせた。
何が起こったのかよくわかってはいないが、ここが目的地であろうことは理解したようで、きょろりと周囲を小さな頭が見渡した。
「ここに、お代さんが……?」
突然現れた以外は、いたって普通の森の合間にひっそりと顔を覗かせているような池である。その疑問も無理はない。
「気配はあるから、間違いないだろうよ。どうする? 亀櫻」
お代の指南役は亀櫻の方だ。それゆえ任せようと目配せすれば、少しばかり気だるい仕草で桜色の髪が揺れた。
すうっと大きく肺に空気が含まれるのを見るや否や、樹鶴は防音の術を自分たちにさっと施した。
「お代! 居るんだろ出てこい!」
ぐわんと大声が森の中に響いた。怒りこそ滲んでいないものの、純粋に音の圧がいただけない。
普通の森であれば鳥の一匹や二匹飛び去ってもおかしくはないほどの音量だが、やはりただの森ではないらしく、鳥はおろか虫の一匹もこの声に逃げ出すことはない。
「単刀直入に申されますね」
「根本が単純だからね。でもま、そういう奴だから筆子たちには好かれてるんだろ――ほら、出てきた」
ぴょこんっと小さな顔が木陰から覗いた。
「あ、亀櫻せんせい」
まるで、町中で出会っただけのような自然な仕草で、探し人たる女童は愛らしく笑った。
「常世と現世の隙間を縫って移動してる。常世に沈もうって動きには見えねえから、現世で落ち着ける場所を探してるってとこだろ」
亀櫻に問われ、樹鶴は髪についた花びらを消しながら答える。
常世――あやかしの世界にお代を連れて引っ込もうとするならば急がなくてはならなかったが、現世に向かっているならば話は別だ。こと現世においてならば、この世界に適合した肉体を持って生まれた鬼道のほうが優位である。
「じゃあ現世からだな。こいつ姿見には入れねえし」
「そうだね。そろそろ介添えがありゃいけるかもしれねえがここで博打を打つ必要はねえよ。――鏡椛。これ指に嵌めな」
ひょい、と幼い手に投げて渡されたのは、小さな革製の環だ。ちょうど、鏡椛の人差し指にぴったりの大きさに見える。
「これは?」
「お守りと目印。いや、命綱か。ちょっと荒く跳ぶから我と繋ぐためのもんだよ」
「えー、師匠。俺もそれほしい」
「お前さんは自力で合わせな。そんなこともできねえ奴に育てた覚えはないし、雛たちを預けた覚えもない」
甘えるようにすり寄った大きな体をぐいと押しのけ、樹鶴はスタスタと見世の中を闊歩し、こんっと壁を叩く。すると、何もなかったそこが瞬きのうちに障子張りの戸へと姿を変えた。
悪戯好きの――けれども、すべての距離を無とする件の障子だ。
歯牙にもかけられていないものの、の弟子として最大限の親愛を受け取ったことに満足したらしい亀櫻もすっと樹鶴の横に並んだ。遅れて、鏡椛がぱたぱたと打掛の傍に近寄ってその裾を掴む。
準備はできた。
「――じゃ、行くか」
亀櫻の声を合図に、樹鶴が障子の引手に手をかけた。
「影取の池へ繋げ」
からりと開かれたその先には、鬱蒼とした森が夕闇に照らされて黒くざわめいていた。
とん、と地面に降り、鏡椛を抱き上げる。ここからどう動くにしろ、鏡椛の身の丈では背の低い木や長い草で行く先を阻まれる可能性が高い。
時々山に薬草を見に行くときなどに同じようなことをしているからだろう、特に抵抗することもなく鏡椛は落ちないようにきゅっと樹鶴の墨染の衣を握りしめた。
空自体はまだ太陽の名残も満天で明るいが、夕暮れ時特有の薄暗さが木々の影と呼応してひときわ暗く感じる。
「ん? なんだ、障子の奴少しずれたね。いや。池の方か」
水のにおいの遠さに眉を顰めれば、肩のあたりがくんっと引かれた。
「先生。不勉強で申し訳ございませぬ。その、影取の……とは?」
「ああそうか。お前さんは知らねえか」
おずおずと尋ねた鏡椛に、樹鶴は一つ頷いた。
噂の話を聞いたときのことを思うに、若くても鏡椛の祖父母くらいの年代でなければ知らない者がいてもおかしくない年数が経っているのだ。
「ちィと前の、昔話だな。一匹の思慮深い蛇が起こした……まあ、俺にいわせりゃ、あれは事件ってより事故だが」
「コトが起こっちまった事には変わりはないよ」
「えっと……?」
首を傾げた鏡椛の頭をぽふぽふと撫でて、桜色の男が少しだけ悲しそうな顔で笑った。
「今はもう、どこにもいなくなってしまったはずの蛇の話だよ」
そう言って、亀櫻は一つの昔話を始めた。
――――――
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今は昔、東国の片隅にあるその村には、それはそれは裕福な名主がいた。
気前もよく、周囲によくよく好かれたその家では、一匹の蛇を飼っていた。
その蛇はたいそうな大喰らいで、日に樽いっぱいの鼠と卵を三杯も四杯も平らげた。そのためその体は丸太のように太く長く成長し、とぐろを巻けば小柄な人間ならばすっぽりと覆ってしまえるだろうほどになっていた。
そんなに大きな蛇ならばさぞ恐ろしかろうと思うだろうが、見た目に反してこの蛇は大人しい気性をしていた。加えて賢く、そこら一体の米俵を荒らす鼠を自分から率先して喰ってまわっては、また名主の屋敷にある自分の檻へと帰っていったというから、これを嫌うものの方が少なかった。
そんな蛇は名主の一家にたいそう可愛がられ、ついには『おはん』という名前を貰うほどであった。
さて、この蛇がいたと言われる時代は、群雄割拠のもののふ達こそが主役とされる血華に彩られし戦国の世であったという。
そして同時に、戦の多かったこの時代は庶民にとっては、飢饉を繰り返した時代でもあった。
おはんを飼う名主は多少の飢饉ではびくともせず、おはんを養うのにも困ったためしはなかったのだが、その年の中ごろに起こった飢饉はいつもよりも少しばかり大きく長いものだった。
もとより人のいい名主は、自分たちのたくわえを周りの百姓らにも配って回った。けれど、それも次第にできなくなっていった。
おはんは、次第に窮していく飼い主たちの様子を見て、家を出ることに決めた。
仮に、名主たちが自分の大きな体を食おうとしたならばこれまでの恩もあると差し出す覚悟であったが、彼らは自分たちがどれほど餓えてもそう言ったそぶりは見せなかった。それどころか「おはんが不憫だ」と自分たちの食い扶持さえわけようとしたのだ。
それゆえ、おはんは恩を仇で返す前にと野生に戻ることとした。
――けれど、飢饉はそんな種族を超えた彼らの想いなど嘲笑うように、中々終わらなかった。
おはんは餓えた。野鼠も鳥も、みなバタバタ死んでいく。死肉を漁り、本来食べない魚や木の実、泥だって口にした。それでも、大きな体には間に合わない。
困りに困ったおはんは、とある池にたどり着いた。池の中で飢饉が終わるのを待とう。そう思って、静かに眠りについた。
あくる日、その池のそばをふいに旅人が通りかかった。
旅人は息をひそめたおはんに気づくことなく、池を覗き込んだ。
おはんの前に旅人の影がぬっとあらわれた。
――影ならば、食べても大丈夫なのではないか。
餓えに餓えた蛇は、がぱりと口を開けてその影を飲み干した。
旅人は影が食われたことに気づかず、その場を立ち去って行った。
それから蛇は影で空腹を満たした。
ぱくり、ぱくり、ぱくり。
池を覗き込んだものの影だけを、つつましやかに。
そんな日々を過ごしていた。
それからどれほど経ったであろうか。飢饉も落ち着き、徐々に野山に小動物が戻り始めたころになって、にわかに池の周りが騒がしくなった。
警戒したおはんは深いところに潜ってやり過ごしていたが、その日はどうにも聞き覚えのある声が聞こえた。
飼い主であった名主の声だ。
――おはん、おはんやーい
呼ばれている。
大蛇は嬉しくなって、水面からそっと顔を出した。ああ、懐かしい顔が見え、
――ダァンッ
想いを断ち切るように、高く青い空と思考を貫く音がして、おはんは火薬と血の匂いの中に倒れ伏した。
逆さになって光をなくしたおはんの目には、細く煙を吐く筒を持って向こう岸で歓声をあげる人間の群れの姿が、映っていた。
――
――――
――――――
「ど、どうしておはんさんは討たれたので!?」
「影を食っちまったからなあ。噂が立ったんだよ――あの池には何やら影を取る恐ろしい怪物がいるぞ、ってな」
「それだけで。なんと、むごいことを」
ざくざくと歩を進めながら語った亀櫻の言葉があまりにも名調子だったせいだろう。すっかりその時の様子を大蛇の視点で想像できてしまったらしい鏡椛が、義憤や悲哀たっぷりの表情で涙目になった。
それに楽しそうにする亀櫻に白けた目線を流しつつ、樹鶴はぽつりと呟いた。
「むごいかねえ……。ああ、着いたよ」
すべての輪郭が曖昧になりそうな霧の只中に足を踏み入れていた彼らの前に、ぽっかりとそこだけがくりぬかれたように鮮明な景色が広がっていた。
それは――森の合間に広がる、静かな池だった。向こう岸はそこそこ遠く、泳ぎの達者なものでなければ溺れる者もいるだろう。
「……うん、影取の池だね。あの頃のまんまだ」
おはんが影を食っていた影響で、影取池と呼ばれるようになったその池は、おはんがいなくなったしばらくあとに紆余曲折あって埋め立てられてしまい、今はもうない。
けれど、目の前にあるのは間違いなく、在りし日に蛇が住んでいた池そのものである。
(随分はっきり作ったもんだ)
あと少し遅れていれば只人を招き入れていたかもしれないと思うと、背筋に冷たいものが伝うほどの鮮明さである。末恐ろしい限りだ。
そんなことを考えていれば、ふっ、と体が浮く感覚があった。足元の地面が掻き消える。代わりに、池の水面――その最も暗い水面が三人の足元へと移動した。
(ズラして落とそうってか)
ぽっかりと口を開けたようなその水に触れる間際、大人二人はひょいっと足を折り曲げその場から浮き上がった。
樹鶴は大きな蓮の花を出してその上に鏡椛ともども飛び乗り、亀櫻はふわりと風に乗って浮き上がったという差こそあれど、その程度の術の使い方に手古摺ることはない。 わずかに水面から浮いて、凪いだそこを微塵も揺らすことのない蓮の花の上で、鏡椛は目を瞬かせた。
何が起こったのかよくわかってはいないが、ここが目的地であろうことは理解したようで、きょろりと周囲を小さな頭が見渡した。
「ここに、お代さんが……?」
突然現れた以外は、いたって普通の森の合間にひっそりと顔を覗かせているような池である。その疑問も無理はない。
「気配はあるから、間違いないだろうよ。どうする? 亀櫻」
お代の指南役は亀櫻の方だ。それゆえ任せようと目配せすれば、少しばかり気だるい仕草で桜色の髪が揺れた。
すうっと大きく肺に空気が含まれるのを見るや否や、樹鶴は防音の術を自分たちにさっと施した。
「お代! 居るんだろ出てこい!」
ぐわんと大声が森の中に響いた。怒りこそ滲んでいないものの、純粋に音の圧がいただけない。
普通の森であれば鳥の一匹や二匹飛び去ってもおかしくはないほどの音量だが、やはりただの森ではないらしく、鳥はおろか虫の一匹もこの声に逃げ出すことはない。
「単刀直入に申されますね」
「根本が単純だからね。でもま、そういう奴だから筆子たちには好かれてるんだろ――ほら、出てきた」
ぴょこんっと小さな顔が木陰から覗いた。
「あ、亀櫻せんせい」
まるで、町中で出会っただけのような自然な仕草で、探し人たる女童は愛らしく笑った。
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