23 / 45
影取の池(1)
しおりを挟む
「で、どこにいた?」
「常世と現世の隙間を縫って移動してる。常世に沈もうって動きには見えねえから、現世で落ち着ける場所を探してるってとこだろ」
亀櫻に問われ、樹鶴は髪についた花びらを消しながら答える。
常世――あやかしの世界にお代を連れて引っ込もうとするならば急がなくてはならなかったが、現世に向かっているならば話は別だ。こと現世においてならば、この世界に適合した肉体を持って生まれた鬼道のほうが優位である。
「じゃあ現世からだな。こいつ姿見には入れねえし」
「そうだね。そろそろ介添えがありゃいけるかもしれねえがここで博打を打つ必要はねえよ。――鏡椛。これ指に嵌めな」
ひょい、と幼い手に投げて渡されたのは、小さな革製の環だ。ちょうど、鏡椛の人差し指にぴったりの大きさに見える。
「これは?」
「お守りと目印。いや、命綱か。ちょっと荒く跳ぶから我と繋ぐためのもんだよ」
「えー、師匠。俺もそれほしい」
「お前さんは自力で合わせな。そんなこともできねえ奴に育てた覚えはないし、雛たちを預けた覚えもない」
甘えるようにすり寄った大きな体をぐいと押しのけ、樹鶴はスタスタと見世の中を闊歩し、こんっと壁を叩く。すると、何もなかったそこが瞬きのうちに障子張りの戸へと姿を変えた。
悪戯好きの――けれども、すべての距離を無とする件の障子だ。
歯牙にもかけられていないものの、の弟子として最大限の親愛を受け取ったことに満足したらしい亀櫻もすっと樹鶴の横に並んだ。遅れて、鏡椛がぱたぱたと打掛の傍に近寄ってその裾を掴む。
準備はできた。
「――じゃ、行くか」
亀櫻の声を合図に、樹鶴が障子の引手に手をかけた。
「影取の池へ繋げ」
からりと開かれたその先には、鬱蒼とした森が夕闇に照らされて黒くざわめいていた。
とん、と地面に降り、鏡椛を抱き上げる。ここからどう動くにしろ、鏡椛の身の丈では背の低い木や長い草で行く先を阻まれる可能性が高い。
時々山に薬草を見に行くときなどに同じようなことをしているからだろう、特に抵抗することもなく鏡椛は落ちないようにきゅっと樹鶴の墨染の衣を握りしめた。
空自体はまだ太陽の名残も満天で明るいが、夕暮れ時特有の薄暗さが木々の影と呼応してひときわ暗く感じる。
「ん? なんだ、障子の奴少しずれたね。いや。池の方か」
水のにおいの遠さに眉を顰めれば、肩のあたりがくんっと引かれた。
「先生。不勉強で申し訳ございませぬ。その、影取の……とは?」
「ああそうか。お前さんは知らねえか」
おずおずと尋ねた鏡椛に、樹鶴は一つ頷いた。
噂の話を聞いたときのことを思うに、若くても鏡椛の祖父母くらいの年代でなければ知らない者がいてもおかしくない年数が経っているのだ。
「ちィと前の、昔話だな。一匹の思慮深い蛇が起こした……まあ、俺にいわせりゃ、あれは事件ってより事故だが」
「コトが起こっちまった事には変わりはないよ」
「えっと……?」
首を傾げた鏡椛の頭をぽふぽふと撫でて、桜色の男が少しだけ悲しそうな顔で笑った。
「今はもう、どこにもいなくなってしまったはずの蛇の話だよ」
そう言って、亀櫻は一つの昔話を始めた。
――――――
――――
――
今は昔、東国の片隅にあるその村には、それはそれは裕福な名主がいた。
気前もよく、周囲によくよく好かれたその家では、一匹の蛇を飼っていた。
その蛇はたいそうな大喰らいで、日に樽いっぱいの鼠と卵を三杯も四杯も平らげた。そのためその体は丸太のように太く長く成長し、とぐろを巻けば小柄な人間ならばすっぽりと覆ってしまえるだろうほどになっていた。
そんなに大きな蛇ならばさぞ恐ろしかろうと思うだろうが、見た目に反してこの蛇は大人しい気性をしていた。加えて賢く、そこら一体の米俵を荒らす鼠を自分から率先して喰ってまわっては、また名主の屋敷にある自分の檻へと帰っていったというから、これを嫌うものの方が少なかった。
そんな蛇は名主の一家にたいそう可愛がられ、ついには『おはん』という名前を貰うほどであった。
さて、この蛇がいたと言われる時代は、群雄割拠のもののふ達こそが主役とされる血華に彩られし戦国の世であったという。
そして同時に、戦の多かったこの時代は庶民にとっては、飢饉を繰り返した時代でもあった。
おはんを飼う名主は多少の飢饉ではびくともせず、おはんを養うのにも困ったためしはなかったのだが、その年の中ごろに起こった飢饉はいつもよりも少しばかり大きく長いものだった。
もとより人のいい名主は、自分たちのたくわえを周りの百姓らにも配って回った。けれど、それも次第にできなくなっていった。
おはんは、次第に窮していく飼い主たちの様子を見て、家を出ることに決めた。
仮に、名主たちが自分の大きな体を食おうとしたならばこれまでの恩もあると差し出す覚悟であったが、彼らは自分たちがどれほど餓えてもそう言ったそぶりは見せなかった。それどころか「おはんが不憫だ」と自分たちの食い扶持さえわけようとしたのだ。
それゆえ、おはんは恩を仇で返す前にと野生に戻ることとした。
――けれど、飢饉はそんな種族を超えた彼らの想いなど嘲笑うように、中々終わらなかった。
おはんは餓えた。野鼠も鳥も、みなバタバタ死んでいく。死肉を漁り、本来食べない魚や木の実、泥だって口にした。それでも、大きな体には間に合わない。
困りに困ったおはんは、とある池にたどり着いた。池の中で飢饉が終わるのを待とう。そう思って、静かに眠りについた。
あくる日、その池のそばをふいに旅人が通りかかった。
旅人は息をひそめたおはんに気づくことなく、池を覗き込んだ。
おはんの前に旅人の影がぬっとあらわれた。
――影ならば、食べても大丈夫なのではないか。
餓えに餓えた蛇は、がぱりと口を開けてその影を飲み干した。
旅人は影が食われたことに気づかず、その場を立ち去って行った。
それから蛇は影で空腹を満たした。
ぱくり、ぱくり、ぱくり。
池を覗き込んだものの影だけを、つつましやかに。
そんな日々を過ごしていた。
それからどれほど経ったであろうか。飢饉も落ち着き、徐々に野山に小動物が戻り始めたころになって、にわかに池の周りが騒がしくなった。
警戒したおはんは深いところに潜ってやり過ごしていたが、その日はどうにも聞き覚えのある声が聞こえた。
飼い主であった名主の声だ。
――おはん、おはんやーい
呼ばれている。
大蛇は嬉しくなって、水面からそっと顔を出した。ああ、懐かしい顔が見え、
――ダァンッ
想いを断ち切るように、高く青い空と思考を貫く音がして、おはんは火薬と血の匂いの中に倒れ伏した。
逆さになって光をなくしたおはんの目には、細く煙を吐く筒を持って向こう岸で歓声をあげる人間の群れの姿が、映っていた。
――
――――
――――――
「ど、どうしておはんさんは討たれたので!?」
「影を食っちまったからなあ。噂が立ったんだよ――あの池には何やら影を取る恐ろしい怪物がいるぞ、ってな」
「それだけで。なんと、むごいことを」
ざくざくと歩を進めながら語った亀櫻の言葉があまりにも名調子だったせいだろう。すっかりその時の様子を大蛇の視点で想像できてしまったらしい鏡椛が、義憤や悲哀たっぷりの表情で涙目になった。
それに楽しそうにする亀櫻に白けた目線を流しつつ、樹鶴はぽつりと呟いた。
「むごいかねえ……。ああ、着いたよ」
すべての輪郭が曖昧になりそうな霧の只中に足を踏み入れていた彼らの前に、ぽっかりとそこだけがくりぬかれたように鮮明な景色が広がっていた。
それは――森の合間に広がる、静かな池だった。向こう岸はそこそこ遠く、泳ぎの達者なものでなければ溺れる者もいるだろう。
「……うん、影取の池だね。あの頃のまんまだ」
おはんが影を食っていた影響で、影取池と呼ばれるようになったその池は、おはんがいなくなったしばらくあとに紆余曲折あって埋め立てられてしまい、今はもうない。
けれど、目の前にあるのは間違いなく、在りし日に蛇が住んでいた池そのものである。
(随分はっきり作ったもんだ)
あと少し遅れていれば只人を招き入れていたかもしれないと思うと、背筋に冷たいものが伝うほどの鮮明さである。末恐ろしい限りだ。
そんなことを考えていれば、ふっ、と体が浮く感覚があった。足元の地面が掻き消える。代わりに、池の水面――その最も暗い水面が三人の足元へと移動した。
(ズラして落とそうってか)
ぽっかりと口を開けたようなその水に触れる間際、大人二人はひょいっと足を折り曲げその場から浮き上がった。
樹鶴は大きな蓮の花を出してその上に鏡椛ともども飛び乗り、亀櫻はふわりと風に乗って浮き上がったという差こそあれど、その程度の術の使い方に手古摺ることはない。 わずかに水面から浮いて、凪いだそこを微塵も揺らすことのない蓮の花の上で、鏡椛は目を瞬かせた。
何が起こったのかよくわかってはいないが、ここが目的地であろうことは理解したようで、きょろりと周囲を小さな頭が見渡した。
「ここに、お代さんが……?」
突然現れた以外は、いたって普通の森の合間にひっそりと顔を覗かせているような池である。その疑問も無理はない。
「気配はあるから、間違いないだろうよ。どうする? 亀櫻」
お代の指南役は亀櫻の方だ。それゆえ任せようと目配せすれば、少しばかり気だるい仕草で桜色の髪が揺れた。
すうっと大きく肺に空気が含まれるのを見るや否や、樹鶴は防音の術を自分たちにさっと施した。
「お代! 居るんだろ出てこい!」
ぐわんと大声が森の中に響いた。怒りこそ滲んでいないものの、純粋に音の圧がいただけない。
普通の森であれば鳥の一匹や二匹飛び去ってもおかしくはないほどの音量だが、やはりただの森ではないらしく、鳥はおろか虫の一匹もこの声に逃げ出すことはない。
「単刀直入に申されますね」
「根本が単純だからね。でもま、そういう奴だから筆子たちには好かれてるんだろ――ほら、出てきた」
ぴょこんっと小さな顔が木陰から覗いた。
「あ、亀櫻せんせい」
まるで、町中で出会っただけのような自然な仕草で、探し人たる女童は愛らしく笑った。
「常世と現世の隙間を縫って移動してる。常世に沈もうって動きには見えねえから、現世で落ち着ける場所を探してるってとこだろ」
亀櫻に問われ、樹鶴は髪についた花びらを消しながら答える。
常世――あやかしの世界にお代を連れて引っ込もうとするならば急がなくてはならなかったが、現世に向かっているならば話は別だ。こと現世においてならば、この世界に適合した肉体を持って生まれた鬼道のほうが優位である。
「じゃあ現世からだな。こいつ姿見には入れねえし」
「そうだね。そろそろ介添えがありゃいけるかもしれねえがここで博打を打つ必要はねえよ。――鏡椛。これ指に嵌めな」
ひょい、と幼い手に投げて渡されたのは、小さな革製の環だ。ちょうど、鏡椛の人差し指にぴったりの大きさに見える。
「これは?」
「お守りと目印。いや、命綱か。ちょっと荒く跳ぶから我と繋ぐためのもんだよ」
「えー、師匠。俺もそれほしい」
「お前さんは自力で合わせな。そんなこともできねえ奴に育てた覚えはないし、雛たちを預けた覚えもない」
甘えるようにすり寄った大きな体をぐいと押しのけ、樹鶴はスタスタと見世の中を闊歩し、こんっと壁を叩く。すると、何もなかったそこが瞬きのうちに障子張りの戸へと姿を変えた。
悪戯好きの――けれども、すべての距離を無とする件の障子だ。
歯牙にもかけられていないものの、の弟子として最大限の親愛を受け取ったことに満足したらしい亀櫻もすっと樹鶴の横に並んだ。遅れて、鏡椛がぱたぱたと打掛の傍に近寄ってその裾を掴む。
準備はできた。
「――じゃ、行くか」
亀櫻の声を合図に、樹鶴が障子の引手に手をかけた。
「影取の池へ繋げ」
からりと開かれたその先には、鬱蒼とした森が夕闇に照らされて黒くざわめいていた。
とん、と地面に降り、鏡椛を抱き上げる。ここからどう動くにしろ、鏡椛の身の丈では背の低い木や長い草で行く先を阻まれる可能性が高い。
時々山に薬草を見に行くときなどに同じようなことをしているからだろう、特に抵抗することもなく鏡椛は落ちないようにきゅっと樹鶴の墨染の衣を握りしめた。
空自体はまだ太陽の名残も満天で明るいが、夕暮れ時特有の薄暗さが木々の影と呼応してひときわ暗く感じる。
「ん? なんだ、障子の奴少しずれたね。いや。池の方か」
水のにおいの遠さに眉を顰めれば、肩のあたりがくんっと引かれた。
「先生。不勉強で申し訳ございませぬ。その、影取の……とは?」
「ああそうか。お前さんは知らねえか」
おずおずと尋ねた鏡椛に、樹鶴は一つ頷いた。
噂の話を聞いたときのことを思うに、若くても鏡椛の祖父母くらいの年代でなければ知らない者がいてもおかしくない年数が経っているのだ。
「ちィと前の、昔話だな。一匹の思慮深い蛇が起こした……まあ、俺にいわせりゃ、あれは事件ってより事故だが」
「コトが起こっちまった事には変わりはないよ」
「えっと……?」
首を傾げた鏡椛の頭をぽふぽふと撫でて、桜色の男が少しだけ悲しそうな顔で笑った。
「今はもう、どこにもいなくなってしまったはずの蛇の話だよ」
そう言って、亀櫻は一つの昔話を始めた。
――――――
――――
――
今は昔、東国の片隅にあるその村には、それはそれは裕福な名主がいた。
気前もよく、周囲によくよく好かれたその家では、一匹の蛇を飼っていた。
その蛇はたいそうな大喰らいで、日に樽いっぱいの鼠と卵を三杯も四杯も平らげた。そのためその体は丸太のように太く長く成長し、とぐろを巻けば小柄な人間ならばすっぽりと覆ってしまえるだろうほどになっていた。
そんなに大きな蛇ならばさぞ恐ろしかろうと思うだろうが、見た目に反してこの蛇は大人しい気性をしていた。加えて賢く、そこら一体の米俵を荒らす鼠を自分から率先して喰ってまわっては、また名主の屋敷にある自分の檻へと帰っていったというから、これを嫌うものの方が少なかった。
そんな蛇は名主の一家にたいそう可愛がられ、ついには『おはん』という名前を貰うほどであった。
さて、この蛇がいたと言われる時代は、群雄割拠のもののふ達こそが主役とされる血華に彩られし戦国の世であったという。
そして同時に、戦の多かったこの時代は庶民にとっては、飢饉を繰り返した時代でもあった。
おはんを飼う名主は多少の飢饉ではびくともせず、おはんを養うのにも困ったためしはなかったのだが、その年の中ごろに起こった飢饉はいつもよりも少しばかり大きく長いものだった。
もとより人のいい名主は、自分たちのたくわえを周りの百姓らにも配って回った。けれど、それも次第にできなくなっていった。
おはんは、次第に窮していく飼い主たちの様子を見て、家を出ることに決めた。
仮に、名主たちが自分の大きな体を食おうとしたならばこれまでの恩もあると差し出す覚悟であったが、彼らは自分たちがどれほど餓えてもそう言ったそぶりは見せなかった。それどころか「おはんが不憫だ」と自分たちの食い扶持さえわけようとしたのだ。
それゆえ、おはんは恩を仇で返す前にと野生に戻ることとした。
――けれど、飢饉はそんな種族を超えた彼らの想いなど嘲笑うように、中々終わらなかった。
おはんは餓えた。野鼠も鳥も、みなバタバタ死んでいく。死肉を漁り、本来食べない魚や木の実、泥だって口にした。それでも、大きな体には間に合わない。
困りに困ったおはんは、とある池にたどり着いた。池の中で飢饉が終わるのを待とう。そう思って、静かに眠りについた。
あくる日、その池のそばをふいに旅人が通りかかった。
旅人は息をひそめたおはんに気づくことなく、池を覗き込んだ。
おはんの前に旅人の影がぬっとあらわれた。
――影ならば、食べても大丈夫なのではないか。
餓えに餓えた蛇は、がぱりと口を開けてその影を飲み干した。
旅人は影が食われたことに気づかず、その場を立ち去って行った。
それから蛇は影で空腹を満たした。
ぱくり、ぱくり、ぱくり。
池を覗き込んだものの影だけを、つつましやかに。
そんな日々を過ごしていた。
それからどれほど経ったであろうか。飢饉も落ち着き、徐々に野山に小動物が戻り始めたころになって、にわかに池の周りが騒がしくなった。
警戒したおはんは深いところに潜ってやり過ごしていたが、その日はどうにも聞き覚えのある声が聞こえた。
飼い主であった名主の声だ。
――おはん、おはんやーい
呼ばれている。
大蛇は嬉しくなって、水面からそっと顔を出した。ああ、懐かしい顔が見え、
――ダァンッ
想いを断ち切るように、高く青い空と思考を貫く音がして、おはんは火薬と血の匂いの中に倒れ伏した。
逆さになって光をなくしたおはんの目には、細く煙を吐く筒を持って向こう岸で歓声をあげる人間の群れの姿が、映っていた。
――
――――
――――――
「ど、どうしておはんさんは討たれたので!?」
「影を食っちまったからなあ。噂が立ったんだよ――あの池には何やら影を取る恐ろしい怪物がいるぞ、ってな」
「それだけで。なんと、むごいことを」
ざくざくと歩を進めながら語った亀櫻の言葉があまりにも名調子だったせいだろう。すっかりその時の様子を大蛇の視点で想像できてしまったらしい鏡椛が、義憤や悲哀たっぷりの表情で涙目になった。
それに楽しそうにする亀櫻に白けた目線を流しつつ、樹鶴はぽつりと呟いた。
「むごいかねえ……。ああ、着いたよ」
すべての輪郭が曖昧になりそうな霧の只中に足を踏み入れていた彼らの前に、ぽっかりとそこだけがくりぬかれたように鮮明な景色が広がっていた。
それは――森の合間に広がる、静かな池だった。向こう岸はそこそこ遠く、泳ぎの達者なものでなければ溺れる者もいるだろう。
「……うん、影取の池だね。あの頃のまんまだ」
おはんが影を食っていた影響で、影取池と呼ばれるようになったその池は、おはんがいなくなったしばらくあとに紆余曲折あって埋め立てられてしまい、今はもうない。
けれど、目の前にあるのは間違いなく、在りし日に蛇が住んでいた池そのものである。
(随分はっきり作ったもんだ)
あと少し遅れていれば只人を招き入れていたかもしれないと思うと、背筋に冷たいものが伝うほどの鮮明さである。末恐ろしい限りだ。
そんなことを考えていれば、ふっ、と体が浮く感覚があった。足元の地面が掻き消える。代わりに、池の水面――その最も暗い水面が三人の足元へと移動した。
(ズラして落とそうってか)
ぽっかりと口を開けたようなその水に触れる間際、大人二人はひょいっと足を折り曲げその場から浮き上がった。
樹鶴は大きな蓮の花を出してその上に鏡椛ともども飛び乗り、亀櫻はふわりと風に乗って浮き上がったという差こそあれど、その程度の術の使い方に手古摺ることはない。 わずかに水面から浮いて、凪いだそこを微塵も揺らすことのない蓮の花の上で、鏡椛は目を瞬かせた。
何が起こったのかよくわかってはいないが、ここが目的地であろうことは理解したようで、きょろりと周囲を小さな頭が見渡した。
「ここに、お代さんが……?」
突然現れた以外は、いたって普通の森の合間にひっそりと顔を覗かせているような池である。その疑問も無理はない。
「気配はあるから、間違いないだろうよ。どうする? 亀櫻」
お代の指南役は亀櫻の方だ。それゆえ任せようと目配せすれば、少しばかり気だるい仕草で桜色の髪が揺れた。
すうっと大きく肺に空気が含まれるのを見るや否や、樹鶴は防音の術を自分たちにさっと施した。
「お代! 居るんだろ出てこい!」
ぐわんと大声が森の中に響いた。怒りこそ滲んでいないものの、純粋に音の圧がいただけない。
普通の森であれば鳥の一匹や二匹飛び去ってもおかしくはないほどの音量だが、やはりただの森ではないらしく、鳥はおろか虫の一匹もこの声に逃げ出すことはない。
「単刀直入に申されますね」
「根本が単純だからね。でもま、そういう奴だから筆子たちには好かれてるんだろ――ほら、出てきた」
ぴょこんっと小さな顔が木陰から覗いた。
「あ、亀櫻せんせい」
まるで、町中で出会っただけのような自然な仕草で、探し人たる女童は愛らしく笑った。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
ナマズの器
螢宮よう
キャラ文芸
時は、多種多様な文化が溶け合いはじめた時代の赤い髪の少女の物語。
不遇な赤い髪の女の子が過去、神様、因縁に巻き込まれながらも前向きに頑張り大好きな人たちを守ろうと奔走する和風ファンタジー。
鬼の御宿の嫁入り狐
梅野小吹
キャラ文芸
▼2025.2月 書籍 第2巻発売中!
【第6回キャラ文芸大賞/あやかし賞 受賞作】
鬼の一族が棲まう隠れ里には、三つの尾を持つ妖狐の少女が暮らしている。
彼女──縁(より)は、腹部に火傷を負った状態で倒れているところを旅籠屋の次男・琥珀(こはく)によって助けられ、彼が縁を「自分の嫁にする」と宣言したことがきっかけで、羅刹と呼ばれる鬼の一家と共に暮らすようになった。
優しい一家に愛されてすくすくと大きくなった彼女は、天真爛漫な愛らしい乙女へと成長したものの、年頃になるにつれて共に育った琥珀や家族との種族差に疎外感を覚えるようになっていく。
「私だけ、どうして、鬼じゃないんだろう……」
劣等感を抱き、自分が鬼の家族にとって本当に必要な存在なのかと不安を覚える縁。
そんな憂いを抱える中、彼女の元に現れたのは、縁を〝花嫁〟と呼ぶ美しい妖狐の青年で……?
育ててくれた鬼の家族。
自分と同じ妖狐の一族。
腹部に残る火傷痕。
人々が語る『狐の嫁入り』──。
空の隙間から雨が降る時、小さな体に傷を宿して、鬼に嫁入りした少女の話。
後宮の裏絵師〜しんねりの美術師〜
あきゅう
キャラ文芸
【女絵師×理系官吏が、後宮に隠された謎を解く!】
姫棋(キキ)は、小さな頃から絵師になることを夢みてきた。彼女は絵さえ描けるなら、たとえ後宮だろうと地獄だろうとどこへだって行くし、友人も恋人もいらないと、ずっとそう思って生きてきた。
だが人生とは、まったくもって何が起こるか分からないものである。
夏后国の後宮へ来たことで、姫棋の運命は百八十度変わってしまったのだった。
オレは視えてるだけですが⁉~訳ありバーテンダーは霊感パティシエを飼い慣らしたい
凍星
キャラ文芸
幽霊が視えてしまうパティシエ、葉室尊。できるだけ周りに迷惑をかけずに静かに生きていきたい……そんな風に思っていたのに⁉ バーテンダーの霊能者、久我蒼真に出逢ったことで、どういう訳か、霊能力のある人達に色々絡まれる日常に突入⁉「オレは視えてるだけだって言ってるのに、なんでこうなるの??」霊感のある主人公と、彼の秘密を暴きたい男の駆け引きと絆を描きます。BL要素あり。
千里香の護身符〜わたしの夫は土地神様〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
キャラ文芸
ある日、多田羅町から土地神が消えた。
天候不良、自然災害の度重なる発生により作物に影響が出始めた。人口の流出も止まらない。
日照不足は死活問題である。
賢木朱実《さかきあけみ》は神社を営む賢木柊二《さかきしゅうじ》の一人娘だ。幼い頃に母を病死で亡くした。母の遺志を継ぐように、町のためにと巫女として神社で働きながらこの土地の繁栄を願ってきた。
ときどき隣町の神社に舞を奉納するほど、朱実の舞は評判が良かった。
ある日、隣町の神事で舞を奉納したその帰り道。日暮れも迫ったその時刻に、ストーカーに襲われた。
命の危険を感じた朱実は思わず神様に助けを求める。
まさか本当に神様が現れて、その危機から救ってくれるなんて。そしてそのまま神様の住処でおもてなしを受けるなんて思いもしなかった。
長らく不在にしていた土地神が、多田羅町にやってきた。それが朱実を助けた泰然《たいぜん》と名乗る神であり、朱実に求婚をした超本人。
父と母のとの間に起きた事件。
神がいなくなった理由。
「誰か本当のことを教えて!」
神社の存続と五穀豊穣を願う物語。
☆表紙は、なかむ楽様に依頼して描いていただきました。
※小説家になろう、カクヨムにも公開しています。
皇太后(おかあ)様におまかせ!〜皇帝陛下の純愛探し〜
菰野るり
キャラ文芸
皇帝陛下はお年頃。
まわりは縁談を持ってくるが、どんな美人にもなびかない。
なんでも、3年前に一度だけ出逢った忘れられない女性がいるのだとか。手がかりはなし。そんな中、皇太后は自ら街に出て息子の嫁探しをすることに!
この物語の皇太后の名は雲泪(ユンレイ)、皇帝の名は堯舜(ヤオシュン)です。つまり【後宮物語〜身代わり宮女は皇帝陛下に溺愛されます⁉︎〜】の続編です。しかし、こちらから読んでも楽しめます‼︎どちらから読んでも違う感覚で楽しめる⁉︎こちらはポジティブなラブコメです。
里帰りした猫又は錬金術師の弟子になる。
音喜多子平
キャラ文芸
【第六回キャラ文芸大賞 奨励賞】
人の世とは異なる妖怪の世界で生まれた猫又・鍋島環は、幼い頃に家庭の事情で人間の世界へと送られてきていた。
それから十余年。心優しい主人に拾われ、平穏無事な飼い猫ライフを送っていた環であったが突然、本家がある異世界「天獄屋(てんごくや)」に呼び戻されることになる。
主人との別れを惜しみつつ、環はしぶしぶ実家へと里帰りをする...しかし、待ち受けていたのは今までの暮らしが極楽に思えるほどの怒涛の日々であった。
本家の勝手な指図に翻弄されるまま、まともな記憶さえたどたどしい異世界で丁稚奉公をさせられる羽目に…その上ひょんなことから錬金術師に拾われ、錬金術の手習いまですることになってしまう。
狼神様と生贄の唄巫女 虐げられた盲目の少女は、獣の神に愛される
茶柱まちこ
キャラ文芸
雪深い農村で育った少女・すずは、赤子のころにかけられた呪いによって盲目となり、姉や村人たちに虐いたげられる日々を送っていた。
ある日、すずは村人たちに騙されて生贄にされ、雪山の神社に閉じ込められてしまう。失意の中、絶命寸前の彼女を救ったのは、狼と人間を掛け合わせたような姿の男──村人たちが崇める守護神・大神だった。
呪いを解く代わりに大神のもとで働くことになったすずは、大神やあやかしたちの優しさに触れ、幸せを知っていく──。
神様と盲目少女が紡ぐ、和風恋愛幻想譚。
(旧題:『大神様のお気に入り』)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる