鬼道ものはひとり、杯を傾ける

冴西

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鬼道の師弟

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 それから、樹鶴はさきほどの女童にしたように約束事と手形の引き渡しをさっくりと終わらせ、子供を姿見の前へと連れて行った。
 さきほどの漣はとうに失せ、鏡面はしんと凪いだ銀色の顔に戻っている。

「さ、やってみな。……ああ、やり方は好きにして構わないよ。さっきの雛はさっきの雛の勘を使っただけだからね」
「勘、に御座いますね」

 ごくりと子供の喉が鳴る。ぎゅっと握りしめていた手形を懐にしまい、鏡面にそっと指をあてる。そこから一拍置いて、こつんと形のいい額が銀色にぶつかった。
 ぱちん、と目が瞬く。

「あれ?」
「どうしたんだい」

 子供がいかにも不思議そうな顔で首をかしげた。問いかければ、大きな目が困惑を滲ませて樹鶴の顔をぐっと見上げる。

「そ、その……額を当てればよいと思い試してみましたが、うんともすんとも応えがなく」

 姿見が見えなくて憶測でものを言った時とは違い、どうやらしっかり勘を用いて挑んでみたらしい。
 ――鬼道ものの勘というのはほとんどの場合、只人のそれよりもずっと優れている。
 獣が地揺るぎなどの天変地異を事前に察知するようなもので、五感の鋭さが集積した情報をその形で発揮しているのだとか、あるいはもっと魂に根付いたものだとか様々なことが言われているが、本当のところはわかっていない。けれど、鬼道においては目で見たことよりも耳で聞いたことよりもまず勘を信じることが鉄則だ。少なくとも、それを一瞬でも疑ってしまったものが三桁の年を生きている姿を、鬼道の誰も知りはしない。

「ふむ? 試しに手や……そうだね、踏んづける子もいるから足でもやってみな」
「はい!」

 樹鶴の言葉にきりりとした目つきで子供が威勢よく返事をする。
 そしてそのまま両足を肩幅に開き、腰を入れ、まるで相撲でも取るように鏡面へと突進した。

 水鏡の通り方は千差万別だ。慣れれば決まった仕草などはなくとも潜れるようになるものだが、雛においてはどうにも境界を突き破るのが難しいらしく、それぞれが勘に従って自分の一番得意な姿勢で潜る子が多かった。それでもたまにうまくかみ合わずに潜れない子もいる。
 なので、額でだめなら手、手でだめなら足、足でだめなら……と手を変え品を変え挑戦する雛は珍しくもない。
 この子供も状態こそ特殊と言えどそういったことだろう、と思っての事であったが――様子がおかしい。

 顔を真っ赤にして、全身のさまざまなところを鏡面に押し当ててはうんともすんとも言わないそれの前で奮闘し続けるその姿は、まるで水鏡に拒絶されているようですらあった。

「ふぬ! むむむむ」
「ああもういいよ。おやめ。体も鏡も壊れちまう」
「で、ですが!」

 なおも食い下がる子供をなだめすかして、樹鶴はしげしげと姿見を視る。
 かかっている術にほつれは見つけられず、試しに指先で突いてみれば、ゆらゆらと大きく鏡面が波打った。
 どうやら、姿見の問題ではないらしい。
 樹鶴はいくつか原因を浮かべながら、淡い笑みを浮かべた。

「珍しいこともあったが、まあこういうこともあるからそう落ち込むんじゃないよ。今、通いか現世こっちにいる師匠筋をあたってみるとするから」

 そう、珍しいが皆無ではない。樹鶴ですら片手で数えられるほどしか見たことはないものの、水鏡との波長が合わずこの入り口が使えない鬼道は雛も大人もたまに現れる。
 けれど、子供は好機とばかりにきりりとした表情に切り替わった。

「いいえ、店主殿。これは天の采配では御座いませぬか?」
「違うと思うねえ」

 息を吹き込んで煙管の空の火皿から出した淡い色の花びらをちょいちょいっと鳥の形に仕立て直せば、それらはするりと空気に溶ける。連絡用の簡易使役だ。師匠役ができる鬼道のところに龍脈を通って瞬時に移動するよう仕向けたから、そう間を置かず返事があるだろう。
 出来る限り早く答えが来てくれれば、この嫌に目をキラキラさせた子供も収まるはずなのだが。
 そう思ううちに、子供はさらに熱を増していく。指示を仰げるものの存在に安心したいのだろうか。

「通いとの相性も悪く、姿見にも嫌われたとあらば、もはやこちらにてお世話になれ、と!」
「言ってない言ってない。あいつら大体適当なんだから言ってても信じるもんじゃないよ。……おやなんだ、珍しい。ここらに寄れそうな奴がいないね」

 しゅるんと再び姿を現した使役に触れ、かき集めてきた返答を一気に頭に流し込んだものの、色よい答えはなかった。大体一つの地域にニ、三はいるはずの通いや放浪者たちが珍しくこの辺りから離れた場所にばかりいるらしい。唯一返ってきた通いは子供を紹介してきた者であったから、本末転倒という奴だろう。
 鬼道は寿命故に気が長い。待っていたら10年は軽く過ぎてしまうこともあるが、まだ只人に近い成長速度だろうこの子供にそれを待てとはいえない。

「では!」
「ちぃと【塾】から人連れて来るからここでこの子と待ってな」
 
 樹鶴のつぶやきを拾い、またもや晴れやかな顔をした子供が、その言葉にきゅっと口を引き結ぶ。
 さすがに一人にはできないと、先ほど女童の相手をさせていたのに近い小人の使役を出して寄り添わせれば、こくんと子供の頭が縦に揺れた。

「……はい」
「よし。すぐに戻るからね」

 頭をひと撫でして、とぷんと鏡の中に消えた樹鶴を見送り、子供は隣にぴったりとくっついた小人へと目をやった。
 桜色の淡い光と、どこかほわほわとした炎のような輪郭だけでできた、子供の腰辺りまでしか身の丈のない小人だ。顔はなく、けれどあちらこちらの揺らめく場所が時折嬉しそうにほわほわと動くのが愛らしい。

「撫でてもよいか?」

 そう聞けば、小人はちょこんと子供の正座した足の上に飛び乗った。重さはなく、ぬくもりだけが布越しにじんわりと広がっていく。
 思わず、子供はその小さな炎の友を抱きしめた。

「……おぬし、あたたかいな」

 遠い記憶以来の、あたたかさだった。

――――――
――――
――

「戻ったよ」
「おかえりなさいま、せ」

 言葉と共に小人がふわりと空気に帰り、少しの名残惜しさを覚えながら子供は顔を上げ――ぴしりと固まった。

 満開の桜が化身したような、爛漫の色男が樹鶴の横に立っていた。
 樹鶴の柳のような体と並んでも見劣りしない身の丈に、筋肉質な厚みのある体は古い桜の木の幹にも似ている。しかしなにより、桜を連想させるのはその頭髪だった。
 艶やかだがたっぷりと波打つ癖のあるその髪が、実に見事な桜色なのだ。よく晴れた陽光をたっぷり吸いこんで内から光るような、あの薄紅色。さらには眠たげな垂れ目は銀色をしていて、これもまた夜桜のあの暗闇に浮かび上がるような白さを思わせる。

 見たことも聞いたこともないほど異色の広いそのヒトは、きっと樹鶴が連れてきたのでなければ桜色の鬼に見えただろう。

「オウオウ、なんだコイツ。随分としみったれたツラの餓鬼じゃねえか。此岸しがんの」
「お前さんはもう少し言葉を選びな、亀櫻きおう

 桜の散る前で時間を閉じ込めたような男の姿に相応しい、荒っぽい言葉遣いがその唇から飛び出し、慣れた調子で樹鶴が釘を刺す。まるで長年連れ添った夫婦のようであり、またいたずらな子供に手を焼く親と子のようなやりとりだ。

「亀櫻……殿」

 見るからに危うい色気を放つ男に声をかけていいのか惑いながら子供が口を開けば、ニッと男が口角を吊り上げ歯を見せ笑った。

「アア。俺が【塾】の師匠役その壱。名を亀櫻ってもんだよ。で? 鏡から渡れねえって? 他の隙間いりぐちは試したのかよ」
「こんな雛にそこまで危ない真似させられるかい。この阿呆」

 ぐりんとほとんど同じ高さにある頭を掴んで、「よく見ろ」と言わんばかりに子供へ顔を向けさせれば、しげしげと観察を始める。瞬きもせず見つめたおかげか、数拍のうちに事態を掴んだらしい。直接視せた方がわかりやすいだろうと道中の説明を軽くしかしなかった樹鶴の思惑通りであった。

「ん? んんん……あー、なるほどな。どうすんの?」
「遠方のほうで連絡つく相性よさそうなのはいないかね」
「やめておいた方がいいだろ。こいつ武家の子だろォ? 今の今まで出奔してねえってことはしばらくは家にいるつもりなんだろうし、あんまり親と離すとまずいだろ」
「そりゃあそうだけどねえ。かといって通いも【塾】もなしってんじゃ、この子にもよかないだろうよ」
「むっずかしいな……おい餓鬼。手前はどうしてえんだよ」

 ガリガリと頭を掻き、亀櫻がガッと大股開きの状態で腰を落とし、にらみつけるように子供を見る。蹲踞そんきょに似た姿勢のはずだが、妙に柄が悪い。
 樹鶴に頭をはたかれながらも体勢を変えようとしない圧に、びくりと小さな肩が震えた。もう一つ桜色の頭に平手が入る。

「えっ、わたくしは……わたくし、は、その、店主殿に稽古をつけていただきたく、存じます」
「……ふうん。そういうこと」

 すっと、眠たげな目と声の温度が下がった。「おやめ!」と強めの制止をかけられ、ようやく亀櫻の体勢がもとの位置に戻る。

「で、亀櫻。どう見る?」
「アー……あれだろ、ふたつ合わさってるせいだろこれ」

 ふたつ。言わずもがな、魂に入れられた罅、そして鬼道の体調を侵す血と鉄――争いに近しい武家という環境のことだ。
 本来魂に入った罅は自己治癒力の及ぶ範囲であれば時間をかけて回復し得るが、それを阻むものがあれば話は別である。

「悪循環ってのは、マァ、見当がついていたけどね。それが原因で入れなくなるなんてあるかい?」
「俺たちは大概限界になると彼岸あっちに落ちるようにできてるんだから、それ以外考えらんねえだろ。そうじゃなきゃ余程、呪縛が強いかだっての。」
「それ以外、やはりないもんかね……。マ、今はそういうことにしておこう。理由がわからねえことなんざこの世にはいくらでもある。足踏みはいつまでもしていられない。……問題は、この子をどうするか、だからね」

 雲行きが怪しくなってきたのを察したのか、子供が青い顔をする。その頭を亀櫻の大きな手がわしゃくちゃと撫でた。

「そりゃあ、此岸にいるアンタが面倒みるのが一番大過ねえだろ。な、大先生ししょう?」
「おやめ。もう直弟子も筆子もは取らねえっての」

 また話が戻ってきた、とばかりに樹鶴の顔が歪む。
 だが、その言葉に対して、まるで絶対の自信があると言わんばかりに亀櫻がにんまりと笑った。

「そう言って前もとったじゃん」
「それは親無しだったからだよ。その上大暴れして回って、散々鬼だのなんだのと騒がれていたんだから……。だいたい、アタシが師匠にならなきゃあのまま山の一つでも壊しつくすつもりだった、とかぬかしたのはどこのどいつだっただろうね?」
「サァテ、どこのどいつだろうね」

 しれっと桜色の鬼子がさらに笑いを重ねる。まるで悪びれずに山で童子の名をほしいままにした少年時代のおもかげは、まだまだ色濃いようだ。

「でもまあ、本当にさ。俺は今でもアンタが一等こういうのへの対応が上手いって思ってるぜ? アンタはなんでか知らねえけど向いてねえ向いてねえって言うけどさ」
「向いてねえよ」
「それならアンタに育てられた俺も、そういうのに向いてねえってことになるが」
「……亀櫻」

 自分への侮辱はどうでもいいが教え子のことになるとまるでヤマアラシのようになる師の人睨みに、かつての悪童は肩を揺らした。

「ハハ、冗談冗談。マ、これに関しちゃ譲る気はねえよ。他の奴を見つけたとしても、今現世にいる奴でこいつのお守りを充分以上にできるのはアンタくらいだろうよ。なあ、そんなに止まり木は嫌か? それとも、見送り疲れたか――樹鶴」

 そう問いかける亀櫻の顔にはどこか切なげくせに期待が滲む、陰りを帯びた真剣さがあった。
 ふい、と金無垢の視線がその眼差しから逸れた。
 深く、大きなため息が見世に響く。

「……お前さんも手伝いなよ。もう前の巣立ちから云百年指南なんぞしてないんだ。もう筆の持たせ方すら忘れちまったからね」
「そりゃもちろん。折角アンタに会えるんだからいつでも力になるさ」

 にっこりと笑った男の顔に、先ほどまでの陰りはなかった。

「え、えっと……」

 流れがつかめなかったのか、子供の視線が二人の顔の間を行き来する。困らせてしまったようだ、と大人ふたりはさっと腰を下ろし、再び子供と目線をあわした。

「よかったな餓鬼。お望み通りここに居るやさしーい店主殿が手前の指南役やってくれるとさ」
「! ま、まことにござりまするか!」
「……マ、仕方ねえだろ。お前さんを見捨てるわけにもいかねえ――ただし! あくまで一時預かりだ。直弟子扱いはしないし、彼岸あっちに渡れるようになったらすぐに【塾】へ籍を移す事」
「はい! それでも構いませぬ」
「それともうひとつ」

 こぉん、と雁首がいつかのように音を立てた。集中してよく聴け、という合図だと子供にもすぐに知れた。
 きゅっと気を引き締め、子供が前のめりになっていた姿勢を整える。

「はい」
「お前さんはここに居る間に自分の頭で考えて、諦めるのをやめることを覚えな。それが出来なきゃアタシが無理にでも彼岸に引っ張り込んでやる。そのあとの事なんざ知らねえよ」

 よく晴れた冬の朝に似た、白く薄青い声だった。
 すっと頭が冴えていくような、穢れの一切を拭い去るような、冷たくも突き放されてはいないことを信じられる音の一粒一粒が、朝露のように子供の心に滴った。

 言葉を噛みしめる子供の横で、亀櫻が弾けるように笑いだす。

「アハハハ! 此岸のってば、それ死ねって言ってるようなものだろう」
「そうだよ。こんな基本のきの字もできねえ鬼道は死んだほうがマシってもんだ。アタシらは只人と共生することを選んだんであって、利用されることを良しとした覚えはないからね」

  ヒトであってヒトでなき者。そんなものがこれまで利用されずに済んでいたのは、なにもヒトの善性によるものではないのだ。
 そこには苦悩と悲嘆の墓が山のように積み重なっている。今は苔むして花に覆われ見えないとしても、樹鶴はそれを一度だって忘れたことはない。

「マ、そりゃそうだ。どうする? 今の手前じゃあ、できずにこの綺麗な顔の鬼に始末されちまうだろうが」
「……それを守れば、わたくしは鬼道になれますか」

「なれる」

 まるで纏う空気の異なるふたりの声が、今この時だけは同じ生き物であるかのように重なった。
 ――それが、ひとりでも充分生きられる鬼道ものが同種を愛する理由そのものであるように。


「では、ご指導ご鞭撻のほど――よろしくお願いいたします」


 子供はそう言って、まっすぐに二人の目を見据えた。
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