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28.赤い糸は匂い立つ
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かくれんぼがお上手だこと。
日が沈みゆく森の中、鋭い斜陽にちらちら目を焼かれながら痕跡をたどる。空の端は木々に隠れて見えないが、赤みを帯びた影を見るにもうじき夜の帳が降りるのは間違いない。
狼人とダークエルフ。双方森に住む夜の眷属とはいえ、夜目という点ではほんのわずかではあるが狼人の方に利がある。
罠を使う手もあるけれど、自分の腕で一切怪我をさせずに捕まえるのは難しい。できれば避けたいところだ。
(日が落ち切る前に捕まえたいわね。あの人、野営の経験とか無いでしょうし)
本能があるとはいえ人は人だ。野生に帰る前に精神が一度やられるだろう。
そんなことを思いながら周囲を見渡していると、不意に風向きが変わった。
そう強い風ではない。けれど、それを運ぶには十分すぎる。
「――見つけた」
嗅ぎ慣れたシトラスに手招かれ、少女は地を蹴った。
***
アレクシスが逃げたいと思うならば逃がしてあげようと思っていた。
本能で惹かれてしまっただけの間柄だ。距離を置いて理性が働けば、後悔することもあるだろう。
ヒトは、本能だけでは生きていけないのだから。
けれど――アレクシスは自ら去りながらも名残を残していった。まるでアリアドネの糸のような、その香りを。
「レクシア」
「サラ……」
「よくここがわかったな」
「わたくし、狩人ですもの。獲物を見失うことなどありません」
「逃げた獲物を執拗に追うのはマナー違反ではないか?」
「あら。逃げたんですか?」
「逃げただろう。だからこんなところにいる」
「おかしいですわね。わたくしをここまで導いたのはわたくしが贈った香りですのに」
「――、気に入っているだけだ」
「ふふ、そこまで見くびられていたのかしら――なんて、格好つけても仕方ないわね。わたくしだって、つい先ほどひいおばあさまに聞いて知ったのだから」
「あなた、香なんてお嫌いでしょう」
「部屋に満ちるほど香を焚くのも、ましてや自分の肌につけるのも。作り物の香りはどんなものでも、狼人の嗅覚には強すぎるのでしょう?」
無言は、肯定の証だった。
「――ごめんなさい。わたくし、あなたに随分と甘えていたのね」
監禁されている最中に焚かれ続けた甘ったるい香は、無防備なつがいに理性を焼かれかねない自分の嗅覚を殺すため。
常日頃から――それこそ、離縁を決意した今でさえ手放せずにいるシトラスの香りは、つがいが贈ってくれたものだから。
極めて発達した嗅覚を持つ狼人にとって自傷行為にも等しいそれらはどれもこれも、サラージュを守り慈しんだが故の行動以外の何物でもない。
少し考えればわかる事だったが、おそらく当時確認しようと動いていても誤魔化されていただろう。
「……甘えてなどいないだろう。そなたはいつだって自分の足で立っていた」
当時どころか今もってなお、シラを切るつもりらしい。いい度胸をしている。
もっとも、サラージュが本当に問いたいことは香りのことなどではないので、この問答は望むところなのだが。
「いいえ。あなたが想うような甘え方ではなかったかもしれないけれど、たくさん甘えていたわ。だって、レクシアはとうに気づいていたのでしょう――わたくしが、あなたに恋などしていなかったことに」
「――それでも、その無自覚につけこんだのは、ぼくのほうだ」
力を入れ過ぎてぷつりと血の玉が浮かんだ唇が、罪でも告白するように震えた。
「きみの愛が欲しかった。愛の芽すら芽吹かないならば、せめてその存在がほしかった。故に、そなたが『初恋』だと、婚約者であるのだから好意的に見るのは当然だと嘯くたびに――それを否定もせずに甘受した」
ハニーブロンドをくしゃりと握りつぶしていた手が、だらんと垂れた。
生気を失くした肌に、赤い斜陽が突き刺さる。
「サラ。愛しききみ。ぼくは、きみの無垢を喰らい、穢した。それは許されてはいけないことだ」
なるほど。と頷いて、それからサラージュは数度瞬いた。すう、はあ。早鐘を打つ心臓を宥めるように、大きく息をする。
――うん。落ち着いた。これなら、うっかり怒鳴ってしまうことはなさそうだ。
そんな風に思いながら、少女はこてんと首を傾げた。『殿下』と、わざとらしく甘ったるい猫なで声で呼ぶ。
「わたくしを物言わず棘も持たぬ花かなにかと勘違いしておられて?」
日が沈みゆく森の中、鋭い斜陽にちらちら目を焼かれながら痕跡をたどる。空の端は木々に隠れて見えないが、赤みを帯びた影を見るにもうじき夜の帳が降りるのは間違いない。
狼人とダークエルフ。双方森に住む夜の眷属とはいえ、夜目という点ではほんのわずかではあるが狼人の方に利がある。
罠を使う手もあるけれど、自分の腕で一切怪我をさせずに捕まえるのは難しい。できれば避けたいところだ。
(日が落ち切る前に捕まえたいわね。あの人、野営の経験とか無いでしょうし)
本能があるとはいえ人は人だ。野生に帰る前に精神が一度やられるだろう。
そんなことを思いながら周囲を見渡していると、不意に風向きが変わった。
そう強い風ではない。けれど、それを運ぶには十分すぎる。
「――見つけた」
嗅ぎ慣れたシトラスに手招かれ、少女は地を蹴った。
***
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ヒトは、本能だけでは生きていけないのだから。
けれど――アレクシスは自ら去りながらも名残を残していった。まるでアリアドネの糸のような、その香りを。
「レクシア」
「サラ……」
「よくここがわかったな」
「わたくし、狩人ですもの。獲物を見失うことなどありません」
「逃げた獲物を執拗に追うのはマナー違反ではないか?」
「あら。逃げたんですか?」
「逃げただろう。だからこんなところにいる」
「おかしいですわね。わたくしをここまで導いたのはわたくしが贈った香りですのに」
「――、気に入っているだけだ」
「ふふ、そこまで見くびられていたのかしら――なんて、格好つけても仕方ないわね。わたくしだって、つい先ほどひいおばあさまに聞いて知ったのだから」
「あなた、香なんてお嫌いでしょう」
「部屋に満ちるほど香を焚くのも、ましてや自分の肌につけるのも。作り物の香りはどんなものでも、狼人の嗅覚には強すぎるのでしょう?」
無言は、肯定の証だった。
「――ごめんなさい。わたくし、あなたに随分と甘えていたのね」
監禁されている最中に焚かれ続けた甘ったるい香は、無防備なつがいに理性を焼かれかねない自分の嗅覚を殺すため。
常日頃から――それこそ、離縁を決意した今でさえ手放せずにいるシトラスの香りは、つがいが贈ってくれたものだから。
極めて発達した嗅覚を持つ狼人にとって自傷行為にも等しいそれらはどれもこれも、サラージュを守り慈しんだが故の行動以外の何物でもない。
少し考えればわかる事だったが、おそらく当時確認しようと動いていても誤魔化されていただろう。
「……甘えてなどいないだろう。そなたはいつだって自分の足で立っていた」
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もっとも、サラージュが本当に問いたいことは香りのことなどではないので、この問答は望むところなのだが。
「いいえ。あなたが想うような甘え方ではなかったかもしれないけれど、たくさん甘えていたわ。だって、レクシアはとうに気づいていたのでしょう――わたくしが、あなたに恋などしていなかったことに」
「――それでも、その無自覚につけこんだのは、ぼくのほうだ」
力を入れ過ぎてぷつりと血の玉が浮かんだ唇が、罪でも告白するように震えた。
「きみの愛が欲しかった。愛の芽すら芽吹かないならば、せめてその存在がほしかった。故に、そなたが『初恋』だと、婚約者であるのだから好意的に見るのは当然だと嘯くたびに――それを否定もせずに甘受した」
ハニーブロンドをくしゃりと握りつぶしていた手が、だらんと垂れた。
生気を失くした肌に、赤い斜陽が突き刺さる。
「サラ。愛しききみ。ぼくは、きみの無垢を喰らい、穢した。それは許されてはいけないことだ」
なるほど。と頷いて、それからサラージュは数度瞬いた。すう、はあ。早鐘を打つ心臓を宥めるように、大きく息をする。
――うん。落ち着いた。これなら、うっかり怒鳴ってしまうことはなさそうだ。
そんな風に思いながら、少女はこてんと首を傾げた。『殿下』と、わざとらしく甘ったるい猫なで声で呼ぶ。
「わたくしを物言わず棘も持たぬ花かなにかと勘違いしておられて?」
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