28 / 43
28.赤い糸は匂い立つ
しおりを挟む
かくれんぼがお上手だこと。
日が沈みゆく森の中、鋭い斜陽にちらちら目を焼かれながら痕跡をたどる。空の端は木々に隠れて見えないが、赤みを帯びた影を見るにもうじき夜の帳が降りるのは間違いない。
狼人とダークエルフ。双方森に住む夜の眷属とはいえ、夜目という点ではほんのわずかではあるが狼人の方に利がある。
罠を使う手もあるけれど、自分の腕で一切怪我をさせずに捕まえるのは難しい。できれば避けたいところだ。
(日が落ち切る前に捕まえたいわね。あの人、野営の経験とか無いでしょうし)
本能があるとはいえ人は人だ。野生に帰る前に精神が一度やられるだろう。
そんなことを思いながら周囲を見渡していると、不意に風向きが変わった。
そう強い風ではない。けれど、それを運ぶには十分すぎる。
「――見つけた」
嗅ぎ慣れたシトラスに手招かれ、少女は地を蹴った。
***
アレクシスが逃げたいと思うならば逃がしてあげようと思っていた。
本能で惹かれてしまっただけの間柄だ。距離を置いて理性が働けば、後悔することもあるだろう。
ヒトは、本能だけでは生きていけないのだから。
けれど――アレクシスは自ら去りながらも名残を残していった。まるでアリアドネの糸のような、その香りを。
「レクシア」
「サラ……」
「よくここがわかったな」
「わたくし、狩人ですもの。獲物を見失うことなどありません」
「逃げた獲物を執拗に追うのはマナー違反ではないか?」
「あら。逃げたんですか?」
「逃げただろう。だからこんなところにいる」
「おかしいですわね。わたくしをここまで導いたのはわたくしが贈った香りですのに」
「――、気に入っているだけだ」
「ふふ、そこまで見くびられていたのかしら――なんて、格好つけても仕方ないわね。わたくしだって、つい先ほどひいおばあさまに聞いて知ったのだから」
「あなた、香なんてお嫌いでしょう」
「部屋に満ちるほど香を焚くのも、ましてや自分の肌につけるのも。作り物の香りはどんなものでも、狼人の嗅覚には強すぎるのでしょう?」
無言は、肯定の証だった。
「――ごめんなさい。わたくし、あなたに随分と甘えていたのね」
監禁されている最中に焚かれ続けた甘ったるい香は、無防備なつがいに理性を焼かれかねない自分の嗅覚を殺すため。
常日頃から――それこそ、離縁を決意した今でさえ手放せずにいるシトラスの香りは、つがいが贈ってくれたものだから。
極めて発達した嗅覚を持つ狼人にとって自傷行為にも等しいそれらはどれもこれも、サラージュを守り慈しんだが故の行動以外の何物でもない。
少し考えればわかる事だったが、おそらく当時確認しようと動いていても誤魔化されていただろう。
「……甘えてなどいないだろう。そなたはいつだって自分の足で立っていた」
当時どころか今もってなお、シラを切るつもりらしい。いい度胸をしている。
もっとも、サラージュが本当に問いたいことは香りのことなどではないので、この問答は望むところなのだが。
「いいえ。あなたが想うような甘え方ではなかったかもしれないけれど、たくさん甘えていたわ。だって、レクシアはとうに気づいていたのでしょう――わたくしが、あなたに恋などしていなかったことに」
「――それでも、その無自覚につけこんだのは、ぼくのほうだ」
力を入れ過ぎてぷつりと血の玉が浮かんだ唇が、罪でも告白するように震えた。
「きみの愛が欲しかった。愛の芽すら芽吹かないならば、せめてその存在がほしかった。故に、そなたが『初恋』だと、婚約者であるのだから好意的に見るのは当然だと嘯くたびに――それを否定もせずに甘受した」
ハニーブロンドをくしゃりと握りつぶしていた手が、だらんと垂れた。
生気を失くした肌に、赤い斜陽が突き刺さる。
「サラ。愛しききみ。ぼくは、きみの無垢を喰らい、穢した。それは許されてはいけないことだ」
なるほど。と頷いて、それからサラージュは数度瞬いた。すう、はあ。早鐘を打つ心臓を宥めるように、大きく息をする。
――うん。落ち着いた。これなら、うっかり怒鳴ってしまうことはなさそうだ。
そんな風に思いながら、少女はこてんと首を傾げた。『殿下』と、わざとらしく甘ったるい猫なで声で呼ぶ。
「わたくしを物言わず棘も持たぬ花かなにかと勘違いしておられて?」
日が沈みゆく森の中、鋭い斜陽にちらちら目を焼かれながら痕跡をたどる。空の端は木々に隠れて見えないが、赤みを帯びた影を見るにもうじき夜の帳が降りるのは間違いない。
狼人とダークエルフ。双方森に住む夜の眷属とはいえ、夜目という点ではほんのわずかではあるが狼人の方に利がある。
罠を使う手もあるけれど、自分の腕で一切怪我をさせずに捕まえるのは難しい。できれば避けたいところだ。
(日が落ち切る前に捕まえたいわね。あの人、野営の経験とか無いでしょうし)
本能があるとはいえ人は人だ。野生に帰る前に精神が一度やられるだろう。
そんなことを思いながら周囲を見渡していると、不意に風向きが変わった。
そう強い風ではない。けれど、それを運ぶには十分すぎる。
「――見つけた」
嗅ぎ慣れたシトラスに手招かれ、少女は地を蹴った。
***
アレクシスが逃げたいと思うならば逃がしてあげようと思っていた。
本能で惹かれてしまっただけの間柄だ。距離を置いて理性が働けば、後悔することもあるだろう。
ヒトは、本能だけでは生きていけないのだから。
けれど――アレクシスは自ら去りながらも名残を残していった。まるでアリアドネの糸のような、その香りを。
「レクシア」
「サラ……」
「よくここがわかったな」
「わたくし、狩人ですもの。獲物を見失うことなどありません」
「逃げた獲物を執拗に追うのはマナー違反ではないか?」
「あら。逃げたんですか?」
「逃げただろう。だからこんなところにいる」
「おかしいですわね。わたくしをここまで導いたのはわたくしが贈った香りですのに」
「――、気に入っているだけだ」
「ふふ、そこまで見くびられていたのかしら――なんて、格好つけても仕方ないわね。わたくしだって、つい先ほどひいおばあさまに聞いて知ったのだから」
「あなた、香なんてお嫌いでしょう」
「部屋に満ちるほど香を焚くのも、ましてや自分の肌につけるのも。作り物の香りはどんなものでも、狼人の嗅覚には強すぎるのでしょう?」
無言は、肯定の証だった。
「――ごめんなさい。わたくし、あなたに随分と甘えていたのね」
監禁されている最中に焚かれ続けた甘ったるい香は、無防備なつがいに理性を焼かれかねない自分の嗅覚を殺すため。
常日頃から――それこそ、離縁を決意した今でさえ手放せずにいるシトラスの香りは、つがいが贈ってくれたものだから。
極めて発達した嗅覚を持つ狼人にとって自傷行為にも等しいそれらはどれもこれも、サラージュを守り慈しんだが故の行動以外の何物でもない。
少し考えればわかる事だったが、おそらく当時確認しようと動いていても誤魔化されていただろう。
「……甘えてなどいないだろう。そなたはいつだって自分の足で立っていた」
当時どころか今もってなお、シラを切るつもりらしい。いい度胸をしている。
もっとも、サラージュが本当に問いたいことは香りのことなどではないので、この問答は望むところなのだが。
「いいえ。あなたが想うような甘え方ではなかったかもしれないけれど、たくさん甘えていたわ。だって、レクシアはとうに気づいていたのでしょう――わたくしが、あなたに恋などしていなかったことに」
「――それでも、その無自覚につけこんだのは、ぼくのほうだ」
力を入れ過ぎてぷつりと血の玉が浮かんだ唇が、罪でも告白するように震えた。
「きみの愛が欲しかった。愛の芽すら芽吹かないならば、せめてその存在がほしかった。故に、そなたが『初恋』だと、婚約者であるのだから好意的に見るのは当然だと嘯くたびに――それを否定もせずに甘受した」
ハニーブロンドをくしゃりと握りつぶしていた手が、だらんと垂れた。
生気を失くした肌に、赤い斜陽が突き刺さる。
「サラ。愛しききみ。ぼくは、きみの無垢を喰らい、穢した。それは許されてはいけないことだ」
なるほど。と頷いて、それからサラージュは数度瞬いた。すう、はあ。早鐘を打つ心臓を宥めるように、大きく息をする。
――うん。落ち着いた。これなら、うっかり怒鳴ってしまうことはなさそうだ。
そんな風に思いながら、少女はこてんと首を傾げた。『殿下』と、わざとらしく甘ったるい猫なで声で呼ぶ。
「わたくしを物言わず棘も持たぬ花かなにかと勘違いしておられて?」
0
お気に入りに追加
333
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

悪役令嬢カテリーナでございます。
くみたろう
恋愛
………………まあ、私、悪役令嬢だわ……
気付いたのはワインを頭からかけられた時だった。
どうやら私、ゲームの中の悪役令嬢に生まれ変わったらしい。
40歳未婚の喪女だった私は今や立派な公爵令嬢。ただ、痩せすぎて骨ばっている体がチャームポイントなだけ。
ぶつかるだけでアタックをかます強靭な骨の持ち主、それが私。
40歳喪女を舐めてくれては困りますよ? 私は没落などしませんからね。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

忌むべき番
藍田ひびき
恋愛
「メルヴィ・ハハリ。お前との婚姻は無効とし、国外追放に処す。その忌まわしい姿を、二度と俺に見せるな」
メルヴィはザブァヒワ皇国の皇太子ヴァルラムの番だと告げられ、強引に彼の後宮へ入れられた。しかしヴァルラムは他の妃のもとへ通うばかり。さらに、真の番が見つかったからとメルヴィへ追放を言い渡す。
彼は知らなかった。それこそがメルヴィの望みだということを――。
※ 8/4 誤字修正しました。
※ なろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる