25 / 43
25.目覚め
しおりを挟む
意識が浮上する。ほの淡い消えかけのシトラスに拭われ、ぼやけた視界が像を結ぶ。見慣れた天井を認識する。自室だ。
認識と同時に、うなじに鈍痛。神経を裂くような鋭さはなく、どこか布一枚挟んだようにおぼろげ。この感覚には覚えがある。
(軽微な麻痺呪文? ……ああ、首だから)
気だるさに満ちた指先で首元を触れば、包帯の感触が指にはっきり伝わった。呪文がかかっているのは首だけらしい。
痛みは主観的な信号だ。それゆえ自分自身で取り除く魔術を使う分には易いが、他者の体にあるだろう痛みを本人の確認なしに取り除くとなると難しい。外傷にともなう痛みであれば傷の程度から推測して麻痺させることも出来るが、首のような急所においては強すぎる呪文は呼吸まで停止させかねない。戦場などにおける緊急措置であれば仮死呪文で代用する方がまだ安全と言われるほどだ。世界には麻痺呪文に特化した技術者もいるらしいが、少なくとも国内においてはその境地に達しているものは存在しない。
自分の体の輪郭を意識し、周囲を確認する。
――首以外に外傷なし。脳からの指示に末梢遅れなし。場所は王都の自室。室内に人影なし、扉のむこうに気配あり。来訪者の予兆、5分後と推定。感情パターンは心配と緊張はありつつも安定。意識を失ってから数日が経過している? 窓の外の景色に大幅なズレは見られない。月単位ではない。陽の角度からして現在時刻は正午過ぎ。
半ば癖になっている状況把握を重ねていれば、おもむろに扉が開いた。
ぱちり、大きなライトグリーンと目が合う。薄桃色の唇が震えた。
「――らーじぇ?」
空色のドレスの足元にバスケットがどしゃりと落ち、控えていたメイドが接地間一髪で受け止める。
相変わらず優秀だ。
感心しながら、サラージュはそこに佇む親友へと言葉を紡いだ。多少声が発しにくいが、水を飲めば改善するだろう。
「おはよう、イリス。今、何日かしら」
出来る限り柔らかく微笑めば、可愛らしい顔がくしゃりと歪んだ。
怒られることからは逃げられなかったらしい。
四十分と少しの後。
サラージュは膝の上でえぐえぐとしゃくりあげる親友を宥めていた。
当然、しこたま怒られた後だ。一応怪我を負っている以上世間的な被害者はこちらなのだが、この親友からすればサラージュがわざと逃げなかったことはお見通しだったらしい。「三日三晩目が覚めないくらいの深手になったの絶対そのせいだもの! 自罰的なのもいい加減にして!」とのことだ。ご名答。噛みついてきた獣の顎をかち割る技能はとうの昔に曾祖母から伝授されている。
「殿下の廃嫡は決定?」
涙の合間に聞き取れた情報からまとめたそれを、確認するように訊ねる。
鏡を見ていないのでわからないが、狼の咬合力で噛みつかれたうなじだ。ひどい有様なのだろう。サラージュ自身は気にしてはいないが。治癒魔術で治されているだけで戦場を駆けていたこの身が傷知らずなわけがない。
「……ええ。さすがにね。お父様が即決されたって」
周囲との温度差を感じていれば、少し沈んだ声が返ってきた。「おや」と、努めて柔らかな声で重ねて問う。
「廃嫡には、本当は反対?」
「いいえ、当然だと思うわ。サラージュにひどいことをしたんだもの」
「じゃあ、殿下のことが心配?」
小さく鋭い呼吸音。図星らしい。
しかし素直に答えるのは良心が咎めるのだろう。イリスの頭がゆるりと俯いた。
「――まさか。ラージェを傷つけた相手を、心配だなんて」
「わたくしのことなら気にしないでいいの。貴女も言ったじゃない。わたくしは避けられた災難を避けなかったのよ」
「でも」
「仮に……そうね、セルジェ兄様にしておこうかしら。あの人が殿下と同じようになにかやらかして、当家から追い出されたとしましょう」
「?」
あえて明るく、それでいて穏やかな声で語りかければ、ライトグリーンの瞳がぱちりと瞬いた。
唐突にサラージュが次兄をなじったように聞こえただろうか。だが長兄よりも次兄のほうがまだあり得そうなのだから仕方がない。
一人納得し、少女はするりと細く長い指を組んだ。意識がないうちにすこし伸びたらしい爪が食い込みそうになったが、あくまで寝物語のように柔らかな口調を維持する。
「きっとその時わたくしは馬鹿だなあって思うし、それでいて当然だなあとも思うわ。でも同時に、『兄様が心配』だとも思うでしょうね」
「ラージェ……」
「これまで過ごしてきた時間がある分、庇いたくなるのは当然よ。だいたい、一応被害者らしいわたくしが『いい』と言っているのだから、外野が口をはさむ余地はないと思わなくって?」
「それは……さすがに違うでしょ?」
「あら、そう?」
「そうだよ。だってそれでどうにかなるなら王様も法も要らないじゃない」
「そこはほら、嘘吐き対策」
「ふふ。なぁにそれ」
つらつらと顔色も変えずに嘯いたのが効果的だったのか、イリスの顔に血色が戻る。
勝手に憤りを拭ってしまうのも勝手かと思わなくもないが、実質的な被害者がとうに許しているものを罪悪感として抱え続けることの呪わしさは実体験として知っている。実際にどうするべきかは自身で決めるものだが、どうしようもなくなる前に堰き止めるのも先人の務めというものだろう。
アレクシスと同じライトグリーンの瞳が、初めて見る相手を観察するように瞬いた。
「変わったね。ラージェ」
「……ふふ、ならきっと、殿下のおかげよ」
うなじに今も残っているであろう咬傷を包帯の上から撫でる。鈍い痛みがびりりと走る。
自分自身にかけていた首輪を噛み砕かれたような衝撃を瞼の裏に思い描き、美貌の少女は甘く微笑んだ。
認識と同時に、うなじに鈍痛。神経を裂くような鋭さはなく、どこか布一枚挟んだようにおぼろげ。この感覚には覚えがある。
(軽微な麻痺呪文? ……ああ、首だから)
気だるさに満ちた指先で首元を触れば、包帯の感触が指にはっきり伝わった。呪文がかかっているのは首だけらしい。
痛みは主観的な信号だ。それゆえ自分自身で取り除く魔術を使う分には易いが、他者の体にあるだろう痛みを本人の確認なしに取り除くとなると難しい。外傷にともなう痛みであれば傷の程度から推測して麻痺させることも出来るが、首のような急所においては強すぎる呪文は呼吸まで停止させかねない。戦場などにおける緊急措置であれば仮死呪文で代用する方がまだ安全と言われるほどだ。世界には麻痺呪文に特化した技術者もいるらしいが、少なくとも国内においてはその境地に達しているものは存在しない。
自分の体の輪郭を意識し、周囲を確認する。
――首以外に外傷なし。脳からの指示に末梢遅れなし。場所は王都の自室。室内に人影なし、扉のむこうに気配あり。来訪者の予兆、5分後と推定。感情パターンは心配と緊張はありつつも安定。意識を失ってから数日が経過している? 窓の外の景色に大幅なズレは見られない。月単位ではない。陽の角度からして現在時刻は正午過ぎ。
半ば癖になっている状況把握を重ねていれば、おもむろに扉が開いた。
ぱちり、大きなライトグリーンと目が合う。薄桃色の唇が震えた。
「――らーじぇ?」
空色のドレスの足元にバスケットがどしゃりと落ち、控えていたメイドが接地間一髪で受け止める。
相変わらず優秀だ。
感心しながら、サラージュはそこに佇む親友へと言葉を紡いだ。多少声が発しにくいが、水を飲めば改善するだろう。
「おはよう、イリス。今、何日かしら」
出来る限り柔らかく微笑めば、可愛らしい顔がくしゃりと歪んだ。
怒られることからは逃げられなかったらしい。
四十分と少しの後。
サラージュは膝の上でえぐえぐとしゃくりあげる親友を宥めていた。
当然、しこたま怒られた後だ。一応怪我を負っている以上世間的な被害者はこちらなのだが、この親友からすればサラージュがわざと逃げなかったことはお見通しだったらしい。「三日三晩目が覚めないくらいの深手になったの絶対そのせいだもの! 自罰的なのもいい加減にして!」とのことだ。ご名答。噛みついてきた獣の顎をかち割る技能はとうの昔に曾祖母から伝授されている。
「殿下の廃嫡は決定?」
涙の合間に聞き取れた情報からまとめたそれを、確認するように訊ねる。
鏡を見ていないのでわからないが、狼の咬合力で噛みつかれたうなじだ。ひどい有様なのだろう。サラージュ自身は気にしてはいないが。治癒魔術で治されているだけで戦場を駆けていたこの身が傷知らずなわけがない。
「……ええ。さすがにね。お父様が即決されたって」
周囲との温度差を感じていれば、少し沈んだ声が返ってきた。「おや」と、努めて柔らかな声で重ねて問う。
「廃嫡には、本当は反対?」
「いいえ、当然だと思うわ。サラージュにひどいことをしたんだもの」
「じゃあ、殿下のことが心配?」
小さく鋭い呼吸音。図星らしい。
しかし素直に答えるのは良心が咎めるのだろう。イリスの頭がゆるりと俯いた。
「――まさか。ラージェを傷つけた相手を、心配だなんて」
「わたくしのことなら気にしないでいいの。貴女も言ったじゃない。わたくしは避けられた災難を避けなかったのよ」
「でも」
「仮に……そうね、セルジェ兄様にしておこうかしら。あの人が殿下と同じようになにかやらかして、当家から追い出されたとしましょう」
「?」
あえて明るく、それでいて穏やかな声で語りかければ、ライトグリーンの瞳がぱちりと瞬いた。
唐突にサラージュが次兄をなじったように聞こえただろうか。だが長兄よりも次兄のほうがまだあり得そうなのだから仕方がない。
一人納得し、少女はするりと細く長い指を組んだ。意識がないうちにすこし伸びたらしい爪が食い込みそうになったが、あくまで寝物語のように柔らかな口調を維持する。
「きっとその時わたくしは馬鹿だなあって思うし、それでいて当然だなあとも思うわ。でも同時に、『兄様が心配』だとも思うでしょうね」
「ラージェ……」
「これまで過ごしてきた時間がある分、庇いたくなるのは当然よ。だいたい、一応被害者らしいわたくしが『いい』と言っているのだから、外野が口をはさむ余地はないと思わなくって?」
「それは……さすがに違うでしょ?」
「あら、そう?」
「そうだよ。だってそれでどうにかなるなら王様も法も要らないじゃない」
「そこはほら、嘘吐き対策」
「ふふ。なぁにそれ」
つらつらと顔色も変えずに嘯いたのが効果的だったのか、イリスの顔に血色が戻る。
勝手に憤りを拭ってしまうのも勝手かと思わなくもないが、実質的な被害者がとうに許しているものを罪悪感として抱え続けることの呪わしさは実体験として知っている。実際にどうするべきかは自身で決めるものだが、どうしようもなくなる前に堰き止めるのも先人の務めというものだろう。
アレクシスと同じライトグリーンの瞳が、初めて見る相手を観察するように瞬いた。
「変わったね。ラージェ」
「……ふふ、ならきっと、殿下のおかげよ」
うなじに今も残っているであろう咬傷を包帯の上から撫でる。鈍い痛みがびりりと走る。
自分自身にかけていた首輪を噛み砕かれたような衝撃を瞼の裏に思い描き、美貌の少女は甘く微笑んだ。
0
お気に入りに追加
333
あなたにおすすめの小説

骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。

悪役令嬢カテリーナでございます。
くみたろう
恋愛
………………まあ、私、悪役令嬢だわ……
気付いたのはワインを頭からかけられた時だった。
どうやら私、ゲームの中の悪役令嬢に生まれ変わったらしい。
40歳未婚の喪女だった私は今や立派な公爵令嬢。ただ、痩せすぎて骨ばっている体がチャームポイントなだけ。
ぶつかるだけでアタックをかます強靭な骨の持ち主、それが私。
40歳喪女を舐めてくれては困りますよ? 私は没落などしませんからね。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

追放された悪役令嬢はシングルマザー
ララ
恋愛
神様の手違いで死んでしまった主人公。第二の人生を幸せに生きてほしいと言われ転生するも何と転生先は悪役令嬢。
断罪回避に奮闘するも失敗。
国外追放先で国王の子を孕んでいることに気がつく。
この子は私の子よ!守ってみせるわ。
1人、子を育てる決心をする。
そんな彼女を暖かく見守る人たち。彼女を愛するもの。
さまざまな思惑が蠢く中彼女の掴み取る未来はいかに‥‥
ーーーー
完結確約 9話完結です。
短編のくくりですが10000字ちょっとで少し短いです。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。

見捨てられたのは私
梅雨の人
恋愛
急に振り出した雨の中、目の前のお二人は急ぎ足でこちらを振り返ることもなくどんどん私から離れていきます。
ただ三人で、いいえ、二人と一人で歩いていただけでございました。
ぽつぽつと振り出した雨は勢いを増してきましたのに、あなたの妻である私は一人取り残されてもそこからしばらく動くことができないのはどうしてなのでしょうか。いつものこと、いつものことなのに、いつまでたっても惨めで悲しくなるのです。
何度悲しい思いをしても、それでもあなたをお慕いしてまいりましたが、さすがにもうあきらめようかと思っております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる