わんこ系王太子に婚約破棄を匂わせたら監禁されたので躾けます

冴西

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1.監禁現場からお送りします

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 脳髄を蕩かすような甘い香りの満ちた暗闇で、少女は目を覚ました。
 そこは夜を煮詰めたように暗い。横たわる寝具の柔らかさと停滞した空気によってかろうじて室内であることがわかる。
 慣れない香り、自室のそれとは違う感触の寝具、身動きが取れないほどに暗い部屋。
 どれも、望んだわけではない。
 気づいたときにはこの部屋にいたのだから。
 ほう、と少女はため息をついた。

「いま、何日目かしら」

 呟く少女の顔は静謐で、この状況下ならばあってしかるべき狼狽えも怯えも存在しなかった。別に、閉じ込められて時間が経ったから平静を取り戻しているわけではない。この部屋で最初に目覚めた時からその姿勢は何一つ変わらないまま、その面差しは常に静まり返った冬の朝のように冴え冴えとした色を保ち続けている。

 豪胆とも虚無に満ちているとも取れる表情のまま、少女はゆっくりと上半身を起こした。月白色の長く艶やかな髪が陶器のような肌の上を滑る。暗夜で利かぬ視界の中、長い睫毛がひどく緩慢な仕草で瞬いて、髪と同色のそれが蝶のように光った。
 上質ながらも頼りないナイトドレスに身を包んだ姿はしどけないが、その浮世離れした美貌のせいか不思議と濡れた硝子のように硬質な印象を見る者に与える。
 いかにも寝起きという風体だと言うのに、絵画の如き完成度を誇る美少女だ。

 彼女の名は、サラージュ・ネクタル。
 国境を守護する辺境伯家に生まれ落ち、その名に恥じぬ貴人となるよう手塩にかけて育てられた、麗しくも気高きご令嬢である。

 ――もっとも、その麗しい姿を見ることができるものは今、ただ一人しか存在しないのだが。

 この美しい少女をありとあらゆる視線から隠すように、分厚いカーテンが部屋中の窓を閉ざしている。日光は遮断され昼も夜もわかりはしない。室内に設置されていた照明器具や時計はすべて目の前で壊されてしまった。
 時間感覚も視界も徐々に狂っていくような、閉鎖的な暗闇がこの部屋の中には満ちている。
 とはいえ、この部屋に雨戸がないことをサラージュは知っている。窓辺に寄ってカーテンを引けば容易く光が室内に差し込むだろう。
 それが許されれば、の話ではあるが。

 暗い室内でなお星のように煌めく滑らかな繊手が、そっと足の延長線上にあるモノに触れた。
 体温を奪い去るように冷たい、彼の心境そのもののようなそれ。
「……こんな鎖、いつ用意したのかしら」
 華奢な足首をがっちりと噛む金属製の重い枷をぴん、と指先ではじく。ご丁寧にピッキングを試みることができないように鍵穴を蝋で塞いでいるらしい。この枷をつけた本人が満面の笑みで教えてくれた。暗闇で視認することこそできないものの、指先で探ってみた感触からしても本当だろう。
「愛されすぎて困るって、こういうことを言うのね」
 ため息が花に変じかねない傾国の美少女の口から零れた言葉であるからまだいいが、そこらの人間が唱えれば思い上がりと笑われそうな言葉だ。しかし、彼女はこれ以上に今の心境を示す語彙を持たない。
 少なくとも、サラージュは今の状況に困ってはいても嫌悪は抱いていないので。

 喉が渇いたな、と軽く喉をさする。そのタイミングを見計らっていたかのように、重たく軋んだ音を立てて唯一の扉が開いた。強い光が一瞬射して、また視界が暗闇に舞い戻る。
 暗闇をかき分けるように近寄ってきた大きな体から、部屋の甘い香とは毛色の違う清涼感に満ちたシトラスが香った。
 かつて、幼いころにサラージュが贈ったものだ。
(まだ使っておられるのね。……本当に、マメな方)
「サラ、起きたのか」
 眠りに落ちる前も散々聞いた、こちらを真綿で包み込むような柔らかな声が耳朶をくすぐる。
「ええ」
 気づかわし気な声の主の表情もまた暗闇に塗りこめられてよくは見えないが、想像はできる。狼獣人とは名ばかりでほとんど犬のような性質をしている彼のことだ、尻尾も耳もぺたんと力なく垂れているような、そんな情けない顔をしているのだろう。
 やわらかい衣擦れの音と共に、ベッドのスプリングが傾ぐ。そっと大きく熱い手が頬に添えられた。体温を分けてもらおうと頬を摺り寄せようとすれば、つう、と滑らかな指が移動して顎を掬い上げる。どうやら顔色を見ているらしい。自分は夜目が効くのをいいことに、しげしげと眺めているのだろう。
(見えずとも、視線は感じるって教えて差し上げようかしら)
 観察、劣情、憐憫、哀切、怯え、熱情、懇願、心配、陶酔、興奮――様々な感情が肌に突き刺さって忙しない。
「髪を梳こうか」
「あら、寝ぐせでもついておりましたか? お恥ずかしい」
「いいや。今日も絹糸のように美しいよ。ただ我がそなたに触れたいだけだ」
「まあ。それでは、お願いしましょうか」

 腰まである髪を丁寧にくしけずる青年。無防備に背を向け体の一部を託す少女。
 甲斐甲斐しく恋人の世話を焼きたがる姿は、いっそ微笑ましさすらある。
 ――彼がサラージュをここに留めている張本人でなければ。

「何か要望はあるか?」
「足枷を外していただけます? 虜囚のようでいい気持ちがしませんの」
「そうか。では我が抱き上げて運んでやらねばならんな」
 そういう問題ではない。
 弾んだ声と愛でるように髪をなでる手つきからして、おそらく太陽のような笑みを浮かべているのだろう。彼は嫌味が通じないタイプというわけではない。散々社交の場で嫌味を言われてしょぼくれた彼を宥めたことがあるので、それは知っているのだ。
 そう、よくよく知っている。
「なにかほしいものはないか? ああ、サラは星蜜入りの花茶が好きだったな。声が少し掠れているし、それがいいか」
 顎から首元へと指先が移る。
 枷の話はなかったことにされたらしい。
 本当に、話が通じない。
「お茶をいただけるのはありがたいですけれど、この部屋から出していただけるのが一番の幸いでしてよ」
「ああ、サラは今日もきれいだなあ。我の夜。我だけの妃。可愛らしいそなたもよかったが、最近はとみに美しさがましているな」
 どろりと、声に甘さが増す。濃度の高い蜜に似た、窒息してしまいそうな圧が肌にのしかかった。
 熱い手がするりするりと薄いナイトドレスだけを纏った体を這う。鎖骨、肩、胸元、腹部、太腿、臀部、脇腹、肩甲骨、項。上半身すべてをなぞるようなその動きは、体温とは正反対だ。ただただ、そこにあることを確認しているようで――艶も色もない。
 まるで、鑑賞されるだけの美術品にでもなったようだ。
「……レクシア、此方をご覧になって」
「見ているぞ。サラ。我がそなたを見失うなんて有り得ぬからな」
「見えていませんよ、貴方は、なにも」
 答えはない。
 抱きしめる腕の力がわずかに増しはしたけれど、それだけ。一層強く香るシトラスに眉をひそめながら、サラージュは唇を噛んだ。
 近くにいるのに声が届かない。そのもどかしさが少女の心臓を焦がした。
「――これ以上、こんなこと監禁を続けるならば、婚約破棄のお話、本気で」
「サラ」
 呼びかけと同時に、告げようとした言葉ごと唇が食べられた。
 虚ろなライトグリーンで視界が満ちて、口腔内から響く粘膜を絡めさせる水音が聴覚を髄から犯す。いつの間にか後頭部に回った右手と掻き抱くような左腕がサラージュの細い体を閉じ込める。
 部屋に押し込めただけでは、外界の視線を遮断しただけでは、どこにも行けないように鎖でつないだだけでは――まだまだ足りないとでもいうように。

「愛している。愛しているぞ、サラ」

 ぬっとりと互いの唾液に濡れた舌を小さな口から引き抜いて、息も絶え絶えになった一つ年下の少女の体を掻き抱いた青年は幼げな笑みと共に囁く。腕の中の宝物に言い聞かせるようなその声は、紅潮した頬とも蕩けるような翠眼とも不釣り合いに淀んでいた。

「我だけの花嫁。そなたを手放すくらいならば、国など滅んでも構わん」

 サラージュ・ネクタル。辺境伯令嬢。
 彼女は今、婚約者である王太子アレクシス・ガイナシウス・ファーレンに監禁されている。
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