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特別編・玉の天意紀行(一)増上寺
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とりあえず年末年始はあまりにも退屈なので、この「玉の天意」という物語の番外編として、物語に関係のある神社仏閣の紀行文みたいなものを書いてみたいと思います。
まず最初は芝にある増上寺です。ちなみに筆者は、七年ほど前事情があり一月ほどですが、この増上寺から徒歩十分ほどの場所に住んでいました。
それはともかくとして、徳川家の菩提寺は二つあり、一つ目が上野の寛永寺、そしてこの増上寺、まあ日光東照宮を含めれば三つです。場所的には山手線JR浜松町駅から徒歩十分ほどの場所です。
徳川幕府の二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の霊廟があります。また将軍の正室と側室の墓もあり、桂昌院の墓もまたこの地にあります。
(増上寺)
現在の芝公園は、東京タワーを背にして、敷地面積はおよそ十二万平方メートル。江戸時代にはこの広大なエリアは、ことごとくが増上寺の敷地でした。しかし明治期に規模が縮小され、さらに太平洋戦争によって、建造物の多くが灰燼に帰してしまいました。それでも当時の名残を残す建造物を紹介してみたいと思います。
まず旧台徳院霊廟惣門です。台徳院とはすなわち、徳川家光の父で二代将軍秀忠のことです。かってはこの門の背後に秀忠の霊廟があったはずですが、今は門しか残されていません。
芝公園内、ザ・プリンスパークタワー東京の入口に建っており、建立当初は現在地より西寄りにあったといいます。入母屋造八脚門で、全体を朱塗とし、装飾的要素のない簡素な門ですね。門内に安置する金剛力士(仁王)像はもと埼玉県川口市の西福寺にあったもので一九四八年に浅草寺に譲渡され、さらに一九五八年頃に現在の惣門に移されたということです。
(台徳院霊廟惣門)
秀忠に関しては、関ケ原での遅参などにより、父家康に比べ凡庸との評価があります。しかし徳川の歴史を語るとき、決して無視して通れない存在であると考えてます。
徳川家康は、信長や秀吉が自らの力で天下を取ったのと比べ、どちらかというと、たまたま回ってきた天下人というカードを、例えどんなことがあろうと離さなかった人物と筆者は考えています。
家康は武将としても確かに優れていました。しかし最も評価されるべきは、徳川三百年の盤石の支配体制を築いたその政治力でしょう。これは家康だけではなく、秀忠の功績も大きかったと考えています。本当に秀忠が暗愚で、幕府が家康死後に瓦解していたら、後世の家康の評価は全く違ったものになっていたでしょう。
昭和三十三年八月、増上寺に眠る徳川歴代将軍の遺骨発掘調査が行われました。その結果秀忠に関しては、背は低いが骨が太く、やはり乱世を父の家康と共に過ごした武人の姿をかいま見ることができます。副葬品として紋章のついた槍と火縄銃も見つかったといいます。
他に江戸期の面影を残すものとして、三解脱門というものがあります。一六一一年の建立で、東京都内でも有数の古い建造物であり、また東日本最大級の規模を誇る門であるといいます。三解脱門というのは、怒り、貪り、愚かさという三つの煩悩からの解放を意味しているということです。全体が朱塗りで、内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されているということです。
(三解脱門)
いま一つ当時の忍ばせるものとして、水盤舎というものがあります。これは参拝者が手を清める場所で、もともと徳川綱重公の霊廟にあったものだそうです。
徳川綱重すなわち、この物語にも登場した幼名長松が、元服した後の名が綱重です。いわばあのお夏の息子です。この方は、兄である四代将軍家綱に先立つこと二年前に世を去っています。もし長命なら、徳川幕府のその後もだいぶ違っていたでしょう。
その子供が後の六代将軍家宣です。すなわちお夏の孫です。この人もまた数奇な運命をたどった人でした。
母は天樹院すなわちかっての千姫の侍女をしていた女性だったといいます。母の身分が低いため、家臣の子として育てられました。しかし綱重が男児に恵まれなかったため、呼び戻され元服して綱豊と名を改め、正式に甲府藩主となります。
五代将軍綱吉が世を去り、六代将軍に就任する頃には、綱豊改め家宣は四十八になっていました。悪名高い生類憐みの令の廃止、宝永令の発布、琉球や李氏朝鮮との交易など、中々に政治的手腕を発揮しました。徳川将軍はあらゆる面で問題のある人物が多いですが、その中で数少ないまともな人物であったでしょう。在位三年で世を去ったことが惜しまれます。
家宣の遺体もまた、発掘され調査されています。家宣は、秀忠などと比べても骨格は華奢だったということです。やはり天下泰平の世で、戦などもなかったせいでしょう。面長で典雅な風貌をしており、現代的な美男だったと推測されます。
七代将軍家継は、家宣の息子でお夏のひ孫なわけですが、遺体は棺内に水が入っていたため保存状態が極めて悪く、骨格も残っていなかったそうです。
この家継はわずか八年の生涯でした。他に家宣には何人か子ができましたが、流産まで含めると合計八人もの子供が、二歳までに亡くなっています。当時の乳幼児死亡率の高さを考慮しても、これは少し異常です。もしやしたらお夏の血を憎む桂昌院の祟りではと勘ぐってしまいます。
結局この家継をもって、徳川の直系は絶えてしまいます。
(遺骨から復元された徳川家宣の姿)
以下はあまり関係のない余談です。筆者の記憶にある限り、ちょうど他サイトでこの小説の第一話目をあげた翌日、増上寺ではある人物の一度目の葬儀が行われました。位階は従一位というから桂昌院と同じです。日本国の第九十代、九十六代、九十七代、九十八代総理大臣安倍晋三氏です。
ちなみに氏の父も祖父も増上寺で葬儀を行ったということです。何故徳川将軍家の菩提寺で、しかも幕府を滅ぼした長州の血が流れている人が葬儀を行うのかそのあたりはよくわかりません。
しかし国葬とは、いかになんでもやりすぎな気がします。供回りわずか十数人で葬儀を行った徳川秀忠公を少しは見習ってほしいものです。
以上で第一回を終わりたいと思います。
まず最初は芝にある増上寺です。ちなみに筆者は、七年ほど前事情があり一月ほどですが、この増上寺から徒歩十分ほどの場所に住んでいました。
それはともかくとして、徳川家の菩提寺は二つあり、一つ目が上野の寛永寺、そしてこの増上寺、まあ日光東照宮を含めれば三つです。場所的には山手線JR浜松町駅から徒歩十分ほどの場所です。
徳川幕府の二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の霊廟があります。また将軍の正室と側室の墓もあり、桂昌院の墓もまたこの地にあります。
(増上寺)
現在の芝公園は、東京タワーを背にして、敷地面積はおよそ十二万平方メートル。江戸時代にはこの広大なエリアは、ことごとくが増上寺の敷地でした。しかし明治期に規模が縮小され、さらに太平洋戦争によって、建造物の多くが灰燼に帰してしまいました。それでも当時の名残を残す建造物を紹介してみたいと思います。
まず旧台徳院霊廟惣門です。台徳院とはすなわち、徳川家光の父で二代将軍秀忠のことです。かってはこの門の背後に秀忠の霊廟があったはずですが、今は門しか残されていません。
芝公園内、ザ・プリンスパークタワー東京の入口に建っており、建立当初は現在地より西寄りにあったといいます。入母屋造八脚門で、全体を朱塗とし、装飾的要素のない簡素な門ですね。門内に安置する金剛力士(仁王)像はもと埼玉県川口市の西福寺にあったもので一九四八年に浅草寺に譲渡され、さらに一九五八年頃に現在の惣門に移されたということです。
(台徳院霊廟惣門)
秀忠に関しては、関ケ原での遅参などにより、父家康に比べ凡庸との評価があります。しかし徳川の歴史を語るとき、決して無視して通れない存在であると考えてます。
徳川家康は、信長や秀吉が自らの力で天下を取ったのと比べ、どちらかというと、たまたま回ってきた天下人というカードを、例えどんなことがあろうと離さなかった人物と筆者は考えています。
家康は武将としても確かに優れていました。しかし最も評価されるべきは、徳川三百年の盤石の支配体制を築いたその政治力でしょう。これは家康だけではなく、秀忠の功績も大きかったと考えています。本当に秀忠が暗愚で、幕府が家康死後に瓦解していたら、後世の家康の評価は全く違ったものになっていたでしょう。
昭和三十三年八月、増上寺に眠る徳川歴代将軍の遺骨発掘調査が行われました。その結果秀忠に関しては、背は低いが骨が太く、やはり乱世を父の家康と共に過ごした武人の姿をかいま見ることができます。副葬品として紋章のついた槍と火縄銃も見つかったといいます。
他に江戸期の面影を残すものとして、三解脱門というものがあります。一六一一年の建立で、東京都内でも有数の古い建造物であり、また東日本最大級の規模を誇る門であるといいます。三解脱門というのは、怒り、貪り、愚かさという三つの煩悩からの解放を意味しているということです。全体が朱塗りで、内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されているということです。
(三解脱門)
いま一つ当時の忍ばせるものとして、水盤舎というものがあります。これは参拝者が手を清める場所で、もともと徳川綱重公の霊廟にあったものだそうです。
徳川綱重すなわち、この物語にも登場した幼名長松が、元服した後の名が綱重です。いわばあのお夏の息子です。この方は、兄である四代将軍家綱に先立つこと二年前に世を去っています。もし長命なら、徳川幕府のその後もだいぶ違っていたでしょう。
その子供が後の六代将軍家宣です。すなわちお夏の孫です。この人もまた数奇な運命をたどった人でした。
母は天樹院すなわちかっての千姫の侍女をしていた女性だったといいます。母の身分が低いため、家臣の子として育てられました。しかし綱重が男児に恵まれなかったため、呼び戻され元服して綱豊と名を改め、正式に甲府藩主となります。
五代将軍綱吉が世を去り、六代将軍に就任する頃には、綱豊改め家宣は四十八になっていました。悪名高い生類憐みの令の廃止、宝永令の発布、琉球や李氏朝鮮との交易など、中々に政治的手腕を発揮しました。徳川将軍はあらゆる面で問題のある人物が多いですが、その中で数少ないまともな人物であったでしょう。在位三年で世を去ったことが惜しまれます。
家宣の遺体もまた、発掘され調査されています。家宣は、秀忠などと比べても骨格は華奢だったということです。やはり天下泰平の世で、戦などもなかったせいでしょう。面長で典雅な風貌をしており、現代的な美男だったと推測されます。
七代将軍家継は、家宣の息子でお夏のひ孫なわけですが、遺体は棺内に水が入っていたため保存状態が極めて悪く、骨格も残っていなかったそうです。
この家継はわずか八年の生涯でした。他に家宣には何人か子ができましたが、流産まで含めると合計八人もの子供が、二歳までに亡くなっています。当時の乳幼児死亡率の高さを考慮しても、これは少し異常です。もしやしたらお夏の血を憎む桂昌院の祟りではと勘ぐってしまいます。
結局この家継をもって、徳川の直系は絶えてしまいます。
(遺骨から復元された徳川家宣の姿)
以下はあまり関係のない余談です。筆者の記憶にある限り、ちょうど他サイトでこの小説の第一話目をあげた翌日、増上寺ではある人物の一度目の葬儀が行われました。位階は従一位というから桂昌院と同じです。日本国の第九十代、九十六代、九十七代、九十八代総理大臣安倍晋三氏です。
ちなみに氏の父も祖父も増上寺で葬儀を行ったということです。何故徳川将軍家の菩提寺で、しかも幕府を滅ぼした長州の血が流れている人が葬儀を行うのかそのあたりはよくわかりません。
しかし国葬とは、いかになんでもやりすぎな気がします。供回りわずか十数人で葬儀を行った徳川秀忠公を少しは見習ってほしいものです。
以上で第一回を終わりたいと思います。
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