玉の天意・大奥大乱の巻

仮面の雪影

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【第二章】祈り(二)

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「春日局様、私を尼寺に帰してくだされ。私には将軍の側室などつとまりませぬ」
 と周恵は、春日局に必死の懇願をした。
「戻ってなんとするつもりじゃ?」
「尼として、天下万民の幸福をひたすら祈りながら、日々を過ごしたいと思っておりまする。私が伊勢からここに来るまでの間にも、多くの人々が路上に倒れている姿を目にしました。かってお釈迦様は、王子として何不自由なき日々を過ごし、それゆえやがて人が老いて死ぬことすら知らなかったと聞きまする。私もまた六條の家に生まれ、籠の鳥であったことを思いしらされました。私は僧侶として、私にできることをやりとげたいと思っておるのです」
 と十六の周恵は、自らの胸のうちをあかした。
「ほほほ、その年にして殊勝な言葉でござりますなあ。なれど、そなたはまだ若い。まこと祈るのみで、天下万民に幸福になると思っておるのか?」
「と申しますると?」
「もしかしたら、そなたも存じておるかもしれぬが、私はかの織田信長公に謀反した明智光秀の重臣の娘じゃ。あれからすぐに太閤秀吉様により、明智光秀もろとも我が父も討滅された。そして死体は晒しものにされたのじゃ。私ははっきりと、変わりはてた父の姿を見た。あれは私がまだ四つの時のことであった。だが昨日のことのように、今でもはっきりと覚えておる」
 春日局は、かすかに声をつまらせながらいった。
「実を申すとな、そなたは上様の実の母君であらせられるお江の方様に、どこかにておるのじゃ」
「私がでござりますか?」
 周恵は不思議そうな顔をした。
「恐らく、上様がそなたをお気にめしたのは、そなたが亡き母君様の面影を宿しておるからなのかもしれぬ。あの方には、私もずいぶんと手ひどい目にあわされた……。お江様のことはそなた存じておるか?」
「いいえ、なにも存じておりませぬ」
 
 それから春日局は、家光の生母お江の出自について語りはじめた。この話しは有名である。まだお江が幼子の頃、父である近江の大名浅井長政は、江からしたら叔父にあたる織田信長と戦った。浅井長政は敗北し自害してはてる。母であるお市の方は織田家重臣柴田勝家と再婚するが、勝家もまた羽柴秀吉によって滅ぼされ、勝家とお市はまたしても自害する。
 姉である淀君すなわち茶々は、母と二人目の父の仇である秀吉の妾にされる。さらにその淀君もまた、江にしてみてば夫である二代将軍秀忠と、義理の父にあたる徳川家康によって滅ぼされてしまった。
 そこまでいうと春日局は一つため息をついた。
「あの方は臨終の間際、私になんと申したと思う。上様には弟が一人おったのじゃ。忠長様という二つ違いの弟がのう。そなたとは今まで散々いがみあってきたが、共に戦国の世を生きぬいてきた女として頼みたい。忠長を殺さないでくれと、そうおっしゃられた」
「それでも殺したのですか?」
「殺した! もっともこれはもちろん私一人で決めたことではない。忠長様は半ば乱心されており、幕閣の面々も家光様も万事やむをえずということだった。なれど私は上様を守るため、例えこの身を地獄の業火で焼かれようとかまわぬ」
 と春日局は恐ろしい顔でいった。
「よいか周恵殿、この世はかように修羅の世界なのじゃ。そなたが万民を救いたくば祈っていてもらちがあかぬ。まずそなた自身が力を持つことじゃ。上様の寵愛をえて、力を持ち、初めてそなたは天下万民を救うことができるのじゃ」
 春日局の言葉は、周恵の人生観を大きく変えることとなった。結局、周恵はその身を将軍に委ねることを決意するに至るのだった。

 それから数カ月、周恵は田安屋敷にとどめおかれる。玉以外の供をしてきた尼たちは伊勢に帰された。名もお万の方と半ば無理やり変えられ、髪がのびるまでの間、窮屈な生活を強いられる。
 やがて年の瀬が近づいてくる。周恵いやお万の方は、格子越しにかすかにさしこんでくる月の光に導かれ、天を仰ぎ見た。季節は冬である。冷気も同時に差しこんでくる。
「玉、そなたはいつか申したのう。人が見るから月は月だと、そして今の私は、まさに籠の中の鈴虫や。なれどやはり月は月にしか見えん」
 それからお万の方は、春日局から贈られた小袖に袖を通してみた。赤と白の牡丹が、紫の地に艶やかに描かれている。さらに、ようやく首筋あたりまでのびはじめた髪に、菊揚羽蝶簪をさしてみた。
 玉は改めて驚愕した。尼僧姿も凛々しく、そして妖艶といっていいほどの色香だったが、こうして姫君の装いになると、万はまた違った美をかもしだしていた。将軍が手許に置いておきたいと思うのも仕方ないことだと思った。いつか蛇の精霊がいったとおり、やはりこの方は高貴な人物、すなわち将軍のもとで一生を過ごす定めなのだろう。
 玉が見ほれていると、万はくるりと背を向けた。そして、もう一度月の方角を見た。
「よもや私を迎えにくる彦星様が、将軍様であろうとはのう」
「尼君様、よもや泣いておられるのですか?」
「玉よ、今はそんなだけが頼りじゃ。これからもわらわと共にいてくるな」
 お万は思わず玉を強く抱きしめた。こうして、ついこの間まで幼かった少女二人は否応なしに、歴史の渦の中に巻きこまれてゆくのだった。

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