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第二章 悪魔退治
58:証明 sideジェフリー
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首都の屋敷の手前でミュリエルは急に体調を崩した。
呼吸は浅くなり、体温は急激に上昇した。
馬車が屋敷に着くと、俺は意識が朦朧とする彼女を抱き上げてすぐさま中に入った。
ミュリエルの姿を見た母上とシルヴィアは泣きながら駆け寄ってきて、使用人たちも心配そうにしながら、彼女のケアに必要なものをすぐにかき集めた。
みんな、ミュリエルのことを本当に心配していて、ミュリエルのことを本当に大事に思ってくれている。
ミュリエルはオーレンドルフ家でとても大切にされていて、愛されている。
けれどきっともう、彼女にはそれが伝わらない。そんな気がした。
*
それからミュリエルは5日ほど寝込んだ。医師によると過度なストレスが原因とのことだ。体に異常はないが、しばらくは安静にするようにと言われた。
俺はその間、今回の事件の後処理に追われていた。
警備隊の聴取に応じ、印章のレプリカについてバートン侯爵家へ説明に行き、ヴァレリアで騒ぎを起こしたことについて王宮から説明を要求されたため城へ行き……。
それが全部終わったと思ったら、今度はブラッドレイ家との裁判の準備。それから社交界への根回しだ。
「疲れた……」
俺は作業をひと段落させ、ベッドにダイブした。このまま動かなければ3秒で眠れそうだ。眠らないけど。
父上も母上も手伝ってはくれるが、この忙しい社交シーズンに二人もやることが山ほどあるわけで。それに加えて母上はミュリエルの看病、父上はお祖母様のことで色々と動いている。
だから一番暇で責任ある仕事のない俺が後処理を引き受けたのだが、正直、面倒臭いことこの上ない。
悪者を退治して、はい終わり!とはいかないのが現実世界だ。物語のように綺麗には終われない。
「ミュリエルに会いに行こう」
少しだけでいいから、顔が見たい。
俺はベッドから起き上がり、最低限の身だしなみを整えて部屋を出た。
そして隣にある彼女の部屋に行く。
続き部屋になっているのだが、部屋の中にある扉の鍵はまだもらえていない。その鍵はお祖母様が持っているらしく、彼女は頑なにミュリエルを認めようとしないので渡してくれないのだ。
本当に面倒臭い祖母である。もう高齢なのだからいつまで息子家族のことに首を突っ込んでいないで、ぜひ領地の隅の方で穏やかな余生を過ごしていただきたい。
「ミュリエル、入るぞ」
ノックをしたが返事がないので、そーっと扉を開けた。
中を確認すると、ミュリエルは眠っていた。
俺はドアの開閉音に気をつけながら室内に入り、静かに扉を閉める。
そして彼女の眠るベッドの横に椅子を移動させて、そこに座った。
耳をすませば、スースーと寝息が聞こえる。
昨日はまだ呼吸が荒かったのに、今日は随分と落ち着いている。
「そういえば、今朝には熱が下がっていたと言っていたな。良かった」
俺は体温を確認したくてミュリエルの額に手を当てた。
すると、フッとミュリエルが目を開けた。
「悪い、起こしたか?」
寝ぼけ眼のミュリエルは俺の方を見て、ニコッと笑った。
その笑みがとても儚くて、今にも消えてしまいそうで。
俺は咄嗟に彼女の手を掴んだ。
「……どうしたんですか?」
「飛んでいきそうな気がしたから。抑えとかないと」
「私、風船じゃないです」
「知ってる」
「ふふっ。変なジェ……、あ、えーっと、兄さ……」
「呼ぶな!」
「きゃっ!?」
俺はみっともなく声を荒げた。ミュリエルはギュッと目を閉じて、びくりと体をこわばらせた。
雑に切られた髪に腫れた頬。どう見ても今の彼女には優しくしないといけないのに、怖がらせたりなんかして。俺は何をやっているんだろう。
もう兄様なんて呼ばれたくなくて、つい大きな声を出してしまった。
本当に俺はどうしようもない男だ。守れなかったくせに、兄様と呼ぶことすら許容してやれない。
「……悪い。大きな声を出して」
「い、いえ……。少し驚いただけなので。あの……、ごめんなさい」
「謝らないでくれ。君は悪くないんだ」
そう、ミュリエルは何も悪くない。
何も悪くないのに。長い間ずっと、こうやって謝ってきたのだろう。
俯いて小さくなるミュリエルを見て俺はようやく、彼女が何故いつもすぐに謝るのかを理解した。
「……ミュリエル」
「は、はい」
「お願いがあるんだ。聞いてくれるか?」
「何でしょう」
「名前で呼んでほしい」
「え?」
「俺は君に、兄様とは呼ばれたくない。だからちゃんと、名前で呼んでほしい」
「……いいのですか?」
「何故悪いと思うんだ?」
「だって、あなたの心はもう私にはないのでしょう?」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、間抜けな声が出た。
何故そんなことを思うんだ。
「姉様と一夜を共にしたと聞きました」
「……誰から?」
「ルイーゼと姉様……。奥様にも、お前はもう捨てられたと。誰もお前を必要としてないと言われました」
「君はそれを信じたのか?」
「……違うのですか?」
ミュリエルはゆっくりと体を起こすと、俺の方を見てキョトンと首を傾げた。
彼女の過去と今の精神状態を考えれば、その戯言を信じてもおかしくはない。
そう理解はしているのに、何故こんなにも腹立たしいのか。
「……俺の言葉はそんな簡単に否定できてしまうほど軽く聞こえていたのか?」
「……え?」
「違うよ、ミュリエル。俺が好きなのはヘレナじゃないよ。ヘレナと一夜を共にしたと言うのも全部嘘だ。彼女らのついた嘘。そんな事実は一切ない」
「……はい」
「その顔は信じていないだろう」
「そんなことないです」
「そんなことあるよ。わかる。何年……、いや、何でもない」
何年一緒にいると思っているんだ、と言いそうになったがやめた。
何年も一緒にいたのに、ずっと見てきたのに。俺はミュリエルの苦悩に気づいてやれなかった。
そんなやつが何を言ってんだって話だ。
「俺がヘレナのことを何とも思ってないのは、この屋敷にいるみんなが知ってることだ。不安に思うならメイドなりコックなりに聞いてみるといい。『ジェフリーは姉様のことが好きなのか』って。そうしたらみんな、『そんなわけない』と言って笑うだろう。もし仮に肯定する奴がいたならそいつはスパイだ。オーレンドルフの使用人じゃない」
「そんなことしませんよ。大丈夫です。ちゃんと信じてます」
「本当か?」
「はい」
俺はミュリエルのコバルトブルーの瞳をジッと覗き込んだ。
すると、ミュリエルはわずかに視線を逸らせた。
ほら。やっぱり信じていない。嘘つき。
俺はスクッと立ち上がり、ベッドに腰掛けた。そして彼女の短くなってしまった髪に触れ、指で梳いた。
「……ミュリエル、好きだよ」
俺がそう言うと、ミュリエルの表情はこわばった。
ああ、胸が痛い。
「俺には君以上に大切にしたい人なんていない」
「……あ、あの」
「君の他に大切にしたいモノもない。君だけだ」
「あの、ジェフリー……」
「本当だよ。嘘じゃない。信じて。俺は君が世界で一番大切だよ」
「や、やめて」
「好きだよ」
「やだ……」
「大好き」
「やめてってば」
「愛してるよ、ミュリエル」
「やだ!!」
ミュリエルは耳を塞いで完全に拒絶した。
自分を守るように小さくなる彼女を見て、俺は激しい後悔に襲われた。
俺がヘレナを信じなければ、ミュリエルの心はこんなにも傷つかずに済んだのに。
ヘレナを信じ、彼女に監視をつけることさえしなかった自分を殺してやりたい。
「お願い。好きとか言わないで」
「……どうして?」
「こわいの」
信じたくない。何も、誰も信じたくない。
優しくしないで。私の心に安らぎと温もりを与えようとしないで。
愛情なんていらない。そんなものを信じて、また傷つきたくない。
「雑に扱われるくらいがちょうどいいわ」
その方が気が楽だ、とミュリエルは力なく呟いた。
「……私ね、信じていたのよ。姉様のこと。姉様だけは私の味方だって信じてた」
「……うん」
「大好きだったの。姉様も私のこと大好きだと言ってくれたのよ」
大切だと言ってくれた。大好きだと言ってくれた。
抱きしめてくれて、傷の手当てをしてくれて、いろんなことを教えてくれた。
だから勘違いしていた。自分が姉にとって特別な存在であると。
「馬鹿だよね。もっと早く気づけよって話だよね。今考えるとおかしいとこなんて沢山あったのに」
「……」
「姉様ね、私に言ったの。『私のために我慢してくれ』って。いつもみたいに耐えてればすぐ終わるからって」
二人の男に穢されてくれ、と。
彼女は確かにそう言った。申し訳なさそうにしながらも、さもそうすることが当たり前みたいに。
「冷静になるとダメね。あの時は頭に血が昇っていたからなんとかなったけど、冷静になるとどうしても理解してしまう。私の勘違いだったんだなって。私は姉様にとって踏み台にしてしまえるような、その程度の存在だったんだなって理解してしまう」
「ミュリエル……」
「私はもう、勘違いしたくない。自分は愛されているのだと勘違いして、実はそうじゃなかったなんて、そんなのもう嫌」
傷つきたくない。もう疲れた。しんどい。これ以上は無理。頑張れない。傷ついた心を隠して笑うなんて、多分もうできない。
「だからお願い。優しくしないで。期待させないで」
ミュリエルはそう言いながらポロポロと涙を流した。
泣き喚くでもなく、怒り狂うわけでもなく。無機質な表情のまま、ただただ静かに涙を流すミュリエルのその姿はまるで壊れた機械人形のようだった。
たった一人の裏切りで粉々に砕けてしまうほど、ミュリエルの中のヘレナという存在は大き過ぎた。
「ごめん、ミュリエル」
俺はミュリエルの耳に当てられた手をそっと下におろした。
そして彼女のコバルトブルーの瞳をもう一度見据えた。
「好きだよ」
そう言うと、ミュリエルは不快そうにグッと眉根を寄せる。
「……言わないでって言った!」
「悪いが、そのお願いは聞いてやれない」
「どうしてよ。ひどいわ」
「酷くていい。酷くていいから、ちゃんと聞いて」
「好きだよ、ミュリエル」
「嘘よ」
「大好きだよ」
「信じない」
「信じなくていい。今は信じなくてもいいから、聞いて。耳を塞がずにちゃんと聞いてくれ」
「……」
「ミュリエル、愛してる」
今は届かなくてもいい。でも俺は君にもう一度、愛される喜びを感じてほしい。
もう一度心から笑ってほしい。
「俺は君を裏切らない。今も、これから先もずっと俺の一番はミュリエルだよ。俺は君に変わらない愛を誓うよ」
「嘘よ。信じられないわ」
「ならば、嘘ではないと証明してみせよう。俺のこれから先の人生の全てをかけて」
君が俺の心に空いた穴を埋めてくれたように、今度は俺が君の心に空いた穴を埋めるから。
「愛してるよ。世界中の誰よりも君を一番、愛してる」
俺は跪いて、ミュリエルの手の甲に唇を落とした。
呼吸は浅くなり、体温は急激に上昇した。
馬車が屋敷に着くと、俺は意識が朦朧とする彼女を抱き上げてすぐさま中に入った。
ミュリエルの姿を見た母上とシルヴィアは泣きながら駆け寄ってきて、使用人たちも心配そうにしながら、彼女のケアに必要なものをすぐにかき集めた。
みんな、ミュリエルのことを本当に心配していて、ミュリエルのことを本当に大事に思ってくれている。
ミュリエルはオーレンドルフ家でとても大切にされていて、愛されている。
けれどきっともう、彼女にはそれが伝わらない。そんな気がした。
*
それからミュリエルは5日ほど寝込んだ。医師によると過度なストレスが原因とのことだ。体に異常はないが、しばらくは安静にするようにと言われた。
俺はその間、今回の事件の後処理に追われていた。
警備隊の聴取に応じ、印章のレプリカについてバートン侯爵家へ説明に行き、ヴァレリアで騒ぎを起こしたことについて王宮から説明を要求されたため城へ行き……。
それが全部終わったと思ったら、今度はブラッドレイ家との裁判の準備。それから社交界への根回しだ。
「疲れた……」
俺は作業をひと段落させ、ベッドにダイブした。このまま動かなければ3秒で眠れそうだ。眠らないけど。
父上も母上も手伝ってはくれるが、この忙しい社交シーズンに二人もやることが山ほどあるわけで。それに加えて母上はミュリエルの看病、父上はお祖母様のことで色々と動いている。
だから一番暇で責任ある仕事のない俺が後処理を引き受けたのだが、正直、面倒臭いことこの上ない。
悪者を退治して、はい終わり!とはいかないのが現実世界だ。物語のように綺麗には終われない。
「ミュリエルに会いに行こう」
少しだけでいいから、顔が見たい。
俺はベッドから起き上がり、最低限の身だしなみを整えて部屋を出た。
そして隣にある彼女の部屋に行く。
続き部屋になっているのだが、部屋の中にある扉の鍵はまだもらえていない。その鍵はお祖母様が持っているらしく、彼女は頑なにミュリエルを認めようとしないので渡してくれないのだ。
本当に面倒臭い祖母である。もう高齢なのだからいつまで息子家族のことに首を突っ込んでいないで、ぜひ領地の隅の方で穏やかな余生を過ごしていただきたい。
「ミュリエル、入るぞ」
ノックをしたが返事がないので、そーっと扉を開けた。
中を確認すると、ミュリエルは眠っていた。
俺はドアの開閉音に気をつけながら室内に入り、静かに扉を閉める。
そして彼女の眠るベッドの横に椅子を移動させて、そこに座った。
耳をすませば、スースーと寝息が聞こえる。
昨日はまだ呼吸が荒かったのに、今日は随分と落ち着いている。
「そういえば、今朝には熱が下がっていたと言っていたな。良かった」
俺は体温を確認したくてミュリエルの額に手を当てた。
すると、フッとミュリエルが目を開けた。
「悪い、起こしたか?」
寝ぼけ眼のミュリエルは俺の方を見て、ニコッと笑った。
その笑みがとても儚くて、今にも消えてしまいそうで。
俺は咄嗟に彼女の手を掴んだ。
「……どうしたんですか?」
「飛んでいきそうな気がしたから。抑えとかないと」
「私、風船じゃないです」
「知ってる」
「ふふっ。変なジェ……、あ、えーっと、兄さ……」
「呼ぶな!」
「きゃっ!?」
俺はみっともなく声を荒げた。ミュリエルはギュッと目を閉じて、びくりと体をこわばらせた。
雑に切られた髪に腫れた頬。どう見ても今の彼女には優しくしないといけないのに、怖がらせたりなんかして。俺は何をやっているんだろう。
もう兄様なんて呼ばれたくなくて、つい大きな声を出してしまった。
本当に俺はどうしようもない男だ。守れなかったくせに、兄様と呼ぶことすら許容してやれない。
「……悪い。大きな声を出して」
「い、いえ……。少し驚いただけなので。あの……、ごめんなさい」
「謝らないでくれ。君は悪くないんだ」
そう、ミュリエルは何も悪くない。
何も悪くないのに。長い間ずっと、こうやって謝ってきたのだろう。
俯いて小さくなるミュリエルを見て俺はようやく、彼女が何故いつもすぐに謝るのかを理解した。
「……ミュリエル」
「は、はい」
「お願いがあるんだ。聞いてくれるか?」
「何でしょう」
「名前で呼んでほしい」
「え?」
「俺は君に、兄様とは呼ばれたくない。だからちゃんと、名前で呼んでほしい」
「……いいのですか?」
「何故悪いと思うんだ?」
「だって、あなたの心はもう私にはないのでしょう?」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、間抜けな声が出た。
何故そんなことを思うんだ。
「姉様と一夜を共にしたと聞きました」
「……誰から?」
「ルイーゼと姉様……。奥様にも、お前はもう捨てられたと。誰もお前を必要としてないと言われました」
「君はそれを信じたのか?」
「……違うのですか?」
ミュリエルはゆっくりと体を起こすと、俺の方を見てキョトンと首を傾げた。
彼女の過去と今の精神状態を考えれば、その戯言を信じてもおかしくはない。
そう理解はしているのに、何故こんなにも腹立たしいのか。
「……俺の言葉はそんな簡単に否定できてしまうほど軽く聞こえていたのか?」
「……え?」
「違うよ、ミュリエル。俺が好きなのはヘレナじゃないよ。ヘレナと一夜を共にしたと言うのも全部嘘だ。彼女らのついた嘘。そんな事実は一切ない」
「……はい」
「その顔は信じていないだろう」
「そんなことないです」
「そんなことあるよ。わかる。何年……、いや、何でもない」
何年一緒にいると思っているんだ、と言いそうになったがやめた。
何年も一緒にいたのに、ずっと見てきたのに。俺はミュリエルの苦悩に気づいてやれなかった。
そんなやつが何を言ってんだって話だ。
「俺がヘレナのことを何とも思ってないのは、この屋敷にいるみんなが知ってることだ。不安に思うならメイドなりコックなりに聞いてみるといい。『ジェフリーは姉様のことが好きなのか』って。そうしたらみんな、『そんなわけない』と言って笑うだろう。もし仮に肯定する奴がいたならそいつはスパイだ。オーレンドルフの使用人じゃない」
「そんなことしませんよ。大丈夫です。ちゃんと信じてます」
「本当か?」
「はい」
俺はミュリエルのコバルトブルーの瞳をジッと覗き込んだ。
すると、ミュリエルはわずかに視線を逸らせた。
ほら。やっぱり信じていない。嘘つき。
俺はスクッと立ち上がり、ベッドに腰掛けた。そして彼女の短くなってしまった髪に触れ、指で梳いた。
「……ミュリエル、好きだよ」
俺がそう言うと、ミュリエルの表情はこわばった。
ああ、胸が痛い。
「俺には君以上に大切にしたい人なんていない」
「……あ、あの」
「君の他に大切にしたいモノもない。君だけだ」
「あの、ジェフリー……」
「本当だよ。嘘じゃない。信じて。俺は君が世界で一番大切だよ」
「や、やめて」
「好きだよ」
「やだ……」
「大好き」
「やめてってば」
「愛してるよ、ミュリエル」
「やだ!!」
ミュリエルは耳を塞いで完全に拒絶した。
自分を守るように小さくなる彼女を見て、俺は激しい後悔に襲われた。
俺がヘレナを信じなければ、ミュリエルの心はこんなにも傷つかずに済んだのに。
ヘレナを信じ、彼女に監視をつけることさえしなかった自分を殺してやりたい。
「お願い。好きとか言わないで」
「……どうして?」
「こわいの」
信じたくない。何も、誰も信じたくない。
優しくしないで。私の心に安らぎと温もりを与えようとしないで。
愛情なんていらない。そんなものを信じて、また傷つきたくない。
「雑に扱われるくらいがちょうどいいわ」
その方が気が楽だ、とミュリエルは力なく呟いた。
「……私ね、信じていたのよ。姉様のこと。姉様だけは私の味方だって信じてた」
「……うん」
「大好きだったの。姉様も私のこと大好きだと言ってくれたのよ」
大切だと言ってくれた。大好きだと言ってくれた。
抱きしめてくれて、傷の手当てをしてくれて、いろんなことを教えてくれた。
だから勘違いしていた。自分が姉にとって特別な存在であると。
「馬鹿だよね。もっと早く気づけよって話だよね。今考えるとおかしいとこなんて沢山あったのに」
「……」
「姉様ね、私に言ったの。『私のために我慢してくれ』って。いつもみたいに耐えてればすぐ終わるからって」
二人の男に穢されてくれ、と。
彼女は確かにそう言った。申し訳なさそうにしながらも、さもそうすることが当たり前みたいに。
「冷静になるとダメね。あの時は頭に血が昇っていたからなんとかなったけど、冷静になるとどうしても理解してしまう。私の勘違いだったんだなって。私は姉様にとって踏み台にしてしまえるような、その程度の存在だったんだなって理解してしまう」
「ミュリエル……」
「私はもう、勘違いしたくない。自分は愛されているのだと勘違いして、実はそうじゃなかったなんて、そんなのもう嫌」
傷つきたくない。もう疲れた。しんどい。これ以上は無理。頑張れない。傷ついた心を隠して笑うなんて、多分もうできない。
「だからお願い。優しくしないで。期待させないで」
ミュリエルはそう言いながらポロポロと涙を流した。
泣き喚くでもなく、怒り狂うわけでもなく。無機質な表情のまま、ただただ静かに涙を流すミュリエルのその姿はまるで壊れた機械人形のようだった。
たった一人の裏切りで粉々に砕けてしまうほど、ミュリエルの中のヘレナという存在は大き過ぎた。
「ごめん、ミュリエル」
俺はミュリエルの耳に当てられた手をそっと下におろした。
そして彼女のコバルトブルーの瞳をもう一度見据えた。
「好きだよ」
そう言うと、ミュリエルは不快そうにグッと眉根を寄せる。
「……言わないでって言った!」
「悪いが、そのお願いは聞いてやれない」
「どうしてよ。ひどいわ」
「酷くていい。酷くていいから、ちゃんと聞いて」
「好きだよ、ミュリエル」
「嘘よ」
「大好きだよ」
「信じない」
「信じなくていい。今は信じなくてもいいから、聞いて。耳を塞がずにちゃんと聞いてくれ」
「……」
「ミュリエル、愛してる」
今は届かなくてもいい。でも俺は君にもう一度、愛される喜びを感じてほしい。
もう一度心から笑ってほしい。
「俺は君を裏切らない。今も、これから先もずっと俺の一番はミュリエルだよ。俺は君に変わらない愛を誓うよ」
「嘘よ。信じられないわ」
「ならば、嘘ではないと証明してみせよう。俺のこれから先の人生の全てをかけて」
君が俺の心に空いた穴を埋めてくれたように、今度は俺が君の心に空いた穴を埋めるから。
「愛してるよ。世界中の誰よりも君を一番、愛してる」
俺は跪いて、ミュリエルの手の甲に唇を落とした。
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